富士山(霊峰) - 高尾山(天狗) - 秋葉(天国か地獄) - 涸沼(龍神)
涸沼の龍神を祭っているのは、厳島神社のようだ・・・
涸沼の龍神が祭ってある厳島神社は、安産の神さまでもあるようだ・・・
住所が子生877
だって・・・
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---Wikipedia
涸沼(ひぬま)は、茨城県中部の鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町にまたがる那珂川水系の湖沼。
地理 [編集]
涸沼は、東茨城台地、鹿島台地に囲まれた所に位置し、上流から笠間市を水源とする涸沼川や大谷川などが流れ込む。下流側では涸沼川[1]那珂川に合流し、そのすぐ先で海と通じており、満潮時には海水が涸沼川を逆流し、淡水と海水が混ざりあう汽水湖となっている。また、那珂川の氾濫時には淡水が涸沼に流れ込み、地形的に遊水地ともいえる。なお国や県では涸沼川の一部分という見解が一般的である。
流域面積:439km²、湖面積:9.35km²、流域人口約161,000人。
利用 [編集]
漁業 [編集]
シジミの生産が盛んであり(1999年全国第4位)、涸沼沿岸では直売営業所も見られる。また、マハゼなどの魚の漁も盛んである。
農業用水 [編集]
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その他 [編集]
涸沼北部に涸沼自然公園などの公園施設がある。また、釣りやキャンプ、ウィンドサーフィンなどのレジャーなどに利用される。
生物相 [編集]
植物 [編集]
涸沼では、398種の植物が確認されている。
昭和40年代までは、ヨシやマコモなどの水生植物が群生していた。しかし、下記に示す湿地の干拓やコンクリート護岸工事などによって、群生地が減少、ミズアオイ、ミズワラビ、タコノアシが絶滅の危機に瀕している。
鳥類 [編集]
涸沼では、86種の鳥類が確認されている。
涸沼では、シジミや小魚が豊富であり、鴨や雁などの水鳥が多くみられる。また、シギやチドリなどの渡り鳥が湿地などによくみられる。さらに、冬場には猛禽類であるオオワシやオジロワシも見られる時がある。
魚類 [編集]
涸沼では、105種の魚類が確認されている。
涸沼は、全国的に珍しい汽水湖であるため、フナ、ナマズなどの淡水魚やハゼ、ボラなどの回遊魚など多種多様な魚を見ることができる。
昆虫類 [編集]
涸沼では珍しいヒヌマイトトンボといわれるイトトンボの一種が確認されている。
貝類 [編集]
涸沼ではヤマトシジミの全国的な産地となっている。しかし、護岸工事などで年々漁獲高が低下している。
河川 [編集]
流入河川 [編集]
涸沼川
若宮川
///
(出典)
http://business2.plala.or.jp/ibarakit/hinuma/
涸沼の名称
『常陸国風土記』香島郡条の香島郡の範囲を記した部分に、
北は那賀と香島との堺なる阿多可奈湖
とみえる。「阿多可奈湖」は「アタカナコ」とは訓(よ)まず、「アタカナノミナト」と訓むのが通説である。
「阿多可奈湖」の位置については、涸沼にあてる説(『新編常陸国誌』など)と那珂湊の古名とする説(『大日本地名辞書』)などがあり、たとえば、『新編常陸国誌』は、「阿多可奈湖」とは「暖湖」といぅ意味で、涸沼が「水勢疾カラズ、水留滞シテ清冷ナラズ」という状態であるところからこう名付けられたとしている。
ただし、涸沼説にせよ、那珂湊説にせよ、一長一短があり、いずれにしても、古代の地形が、現在の地形とそっくりそのまま同じであったとは、とうてい考えられず、おそらくは現在よりは入海化していたものと思われるから、「ミナト」は「水門を」の意で河川の河口を指し、「阿多可奈湖」とは、「古の那珂川の河口で涸沼はおそらくは其跡であらう」(松岡静雄『常陸風土記物語』)と考えるのがよい。涸沼を含む古の那珂川の河口を「阿多加奈湖」といったのである。
『将門記』に「吉田郡蒜間之江辺」とみえる「蒜間之江」が涸沼を指すことは異論がない。この蒜間について中山信名は「亦日中ヲ比留麻ト伝ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤタシカナラズ」(『新編常陸国誌』)と述べている。その他、涸沼の名称を近世文書等から拾うと、「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまである。中山信名も「粉々弁ジ難シ、タダコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人伝ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ笠間、長岡ノ辺、伝ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ伝ヘタルモノナリ」(『新編常陸国誌』)と記しているから、「ヒルマ」の名は古代から近世までよく伝承されていたのであろう。
◆涸沼の位置・面積
茨城町の東部に位置し、中央境界をもって茨城町、大洗町、旭村に属している。湖盆の中心の位置は北緯36度16分30秒、東経140度30分である。
湖水面積9.35k㎡ 、湖岸延長20km、最大水深6.5m、平均水深2.1m、流入河川は大谷川・石川川・涸沼川など7。湖盆形態は、湖を親沢鼻と弁天鼻とを結ぶ線を境として西側、湖前部の副湖盆、沼の大部分を占める主湖盆、それに北東端の湖尾部の三部分に分ける説と主湖盆に湖尾部を含んでしまい二大別して主湖盆と副湖盆とにする考えとがある。いわゆる湖尾部の「みお」は水深が深く、6mにも達する。
◆涸沼の魚
富栄養湖の涸沼の魚類相は、海産魚と淡水産魚の混棲という特徴をみせる。とくに、昭和30代までは、北方系のニシン漁で賑わったが、近年、コイやウナギの漁獲量も減少の傾向にある。魚類相の変化の原因については、干拓工事による生息場所や産卵場所の減少も一因といわれるが、沼全域の水質の汚れも見逃せない。
湖にひろく分布する魚は、ハゼ、ボラ、カムルチー、ウナギ、ドジョウ、フナ類、ナマズ、シラウオ、ワカサギ、サケなどで、沼の東部に限られて記録された魚は、ヒラメ、トラフグ、クロダイ、コショウダイ、ダツ、スソウミヘビ、ハダカイワシ、カタクチイワシなど。
記録として価値ある魚は、南方系のユゴイ、カライワシ、北方系のニシンなどで、コバンザメやニシンを追って南下してきたオットセイの記録もある。
◆涸沼の鳥
野鳥研究家山口万寿美氏によれば涸沼で記録された鳥は、18目42 科169種であり、河川や水田等では、春秋に渡りをするシギ、チドリ類が36種、冬季にくるガン、カモ類が24種、ワシ、タカ類が11種など鳥相は豊かである。
日本列島に占める本州の位置、さらには涸沼が海岸線に近い水と緑とに恵まれた静寂な土地柄か、珍迷鳥の出現も多く、コウノトリ、レンカク、ツメナガセキレイ、サバンナシトド、オオワシ、ユキホオジロ、オオホシハジロ、オジロワシ、シマアオジ、アネハヅルなどはせ著名な種類である。
とくに、昭和34年11月23日、コウノトリ一羽、63年10月30日、アネハヅル幼鳥一羽が飛来した駒場の水田は、記録的な土地と評価は高い。
厳冬の涸沼には、高く飛ぶオジロワシ、オオワシ、水面に休むオオハクチョウとともにヨシガモ、スズガモ、キンクロハジロといったカモ類がみられる。海が荒れるとウミネコやセグロカモメなどの海鳥が涸沼に避難してくる。初夏、岸のヨシ原に巣を造るオオヨシキリの声がけたたましく、静かな岸辺をバンが泳ぐ。干拓地周辺ではシギ、チドリ類をみる。
秋、十月半ば、年によって数は変動するが刈り取りの済んだ田にタシギがいる。
◆涸沼の植物
近年、ヘドロ化した脂質の堆積、護岸工事、シジミ取りによる影響かヒロハ、エビモ、ササバモ、イトモ、オモダカ、フサモなどの水中植物群落の貧弱化の傾向を加速している。
沿岸の群落構成種は、ヨシ、マコモ、カサスゲ、シロバナサクラタデ、ミゾソバ、コシロネ、ゴキズル、アメリカセンダングサ、ホソイ、クサヨシ、アカバナ、チゴザサ、カキドオシ、サンカクイ、セリ、スゲの一種、ヒメアシボソ、ウキシバ、ウキクサなど。岸から20mまではヨシ群落、20~45mまではマコモ群落で、これ以上岸から離れると、クサヨシ、セイタカアワダチソウ、ススキなどの群落。
昭和40年代まで、水生植物の宝庫として、沼では、サンショウモ、オオアカウキクサなどのシダ類、ヒルムシロ、エビモなど18科42種の植物が記録されているが、広浦のセキショウモ、イトモ、なぎさの小石に着生する緑藻類カワアオノリ、海水の浸入する場所に育つカワツルモなどの涸沼を特徴付けた植物の消息を聞いていない。
南岸部には、アゼスゲ、フトイ、サンカクイ、マコモ、ヨシ、ヒメガマ、オモダカ、アギナシが生育し、シャジクソウ類のカタシャジクモ、オトメフラスコモは少なくなった。沈水植物では、ホザキノフサモ、マツモ、ヒロハノエビモ、リユウノヒゲモ、セキショウモ、イトモが記録でき、涸沼大橋周辺では、ヨシ、マコモ、ヒメガマの群落、湿地内の浅い水域にササバモ、ヒロハノエビモ、セキショウモ、イバラモ、トリゲモ、それにミズアオイが育ち、浮葉植物のヒシ、ヒメビシ、トチカガミをみる。
◆ヒヌマイトトンボ
ヒヌマイトトンボは、1971年7月7日広瀬誠氏らによって発見された。このトンボは、宮前地区のヨシ原で発見され、発見地の涸沼にちなみヒヌマイトトンボと命名された。このイトトンボは、潮の干満によりヨシ、マコモなどがほどよく水分を含み、また乾いたりする水生植物の群生地が生息に最適とされている。
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◆涸沼のヤマトシジミ
海に通じているために、潮の干満の影響をうける汽水湖、涸沼で漁獲される軟体動物斧足類シジミガイ科ヤマトシジミは全国的に有名である。 沼では水深1mより浅い底に分布の中心があり、1.5~2mより深いところにはほとんど分布しない。涸沼川では、水深が5mでも分布している。シジミが生育のために多量の酸素を必要としている事実から、分布は溶存酸素量と密接に関係しているようだ。底質では、砂や砂礫底に分布し、泥質にも住める。水中の塩素量の変化に対しては強い抵抗性を有し、涸沼においては、生息地において最大12%の塩素量を測定している。
卵巣の発達は、6月からはじまり、7月で最大となり、秋、10月には産卵を終える。浮游幼生は、8月上旬から9月中旬まで採取され、殻長が18mm以上に育つと底に着く。冬季はほとんど成長が認められず、春先から成長しても、1年では15mmには達しない。涸沼川では、冬季でも徐々に成長し、満1年で15mmに達するものもある。成熟した個体の殻長は、17~27mmである。
◆イトメの生殖群泳
イトメは汽水湖や河口などの泥土中に生息し、生殖時期には、生殖物質の充満する体の前方約3分の1が切れて水中に泳ぎ出し、多数が群泳する。涸沼ではこれらをウミコとよび、釣りの餌にしたり、肥料にも用いる。群泳の要因については、月齢、潮汐、塩分濃度、水圧、潮流などの複雑な組み合わせによるものと推測されている。昭和30年代には、涸沼の全域で群泳がみられ、とくに、10、11、12月の新月に続く数日間、夜間に大規模な群泳があり、話題をよんだが、近年、群泳がみられないことは残念である。
◆涸沼の自然利用
涸沼は町の東端に位置し、その美しい景観と豊富な自然・資源は、水産業、観光、そして町民の想いの場として、大きな役割を担ってきた。
涸沼の歴史をたどると、古くは江戸時代の舟運(『茨城町史・地誌編』涸沼の歴史参照)、コイ、ウナギ、シジミなど豊富な水産物を糧とした水産業の営み、昭和期に行われた数か所にわたる干拓事業、釣を主役とした観光資源としての活用など、涸沼と町民とのかかわりは脈々とつづいている。
水がきれいなときは、涸沼がプールがわりとなり、沿岸の子供達は涸沼を遊び場として育つうちに、誰もが水泳の達人となったものである。
涸沼の水産業の推移と現状をみると、涸沼は、多くの魚介類に恵まれて水産業もさかえてきた。とくにヤマトシジミは、全国的にも有名であり、涸沼沿岸の多くの人々が、シジミを生業としてきた長い歴史がある。また、春先にかけて産卵のため回遊してくる、ニシンは、漁民にとって大きな糧であった。さらに養殖が主流のウナギ、コイなどにしても、涸沼で水揚げされる天然のウナギ、コイは、その風味が独特で多くの人びとに珍重されてきた。そしてシジミやテナガエビ、ゴロなどを材料とした佃煮づくりも、涸沼の水産業の一角を占めていた。こうして、涸沼の水産物を生業とする人びとは、第一にシジミや魚を採る人、第二にそれを加工、または生のままその日のうちに、行商して歩く人との二グループに大別されていた。
◆水戸八景広浦の秋月
天保4年(1833)に、徳川斉昭は、領内景勝の8ヶ所を選んで「水戸八景」とした。「水戸八景」とは、「僊湖(せんこ)の暮雪(ぼせつ)」・「青柳(あおやぎ)の夜雨」(以上水戸市)・「山寺の晩鐘(ばんしょう)」・「太田の落雁(らくがん)」(以上常陸太田市)・「厳船(いわふね)の夕照(せきしょう)」(大洗町)・「広浦の秋月」(茨城町)・「村松の晴嵐(せいらん)」(東海村)・「水門(みなと)の帰帆(きはん)」(旧那珂湊市)の八つである。水戸八景は、藩内最高の詩境であり、中国の瀟湘(しょうしょう)八景になぞらえている。八景選定の目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然鑑賞と健脚鍛錬とを図ることにあったとされている。斉昭は、漢詩「水戸八景」をつくり、それぞれの地に、自ら揮毫して碑を建てた。
下石崎字米津にはその八景のひとつ「広浦秋月」の碑がある。昭和9年11月30日には名勝として県指定文化財になっている。天保11年9月13日,斉昭は広浦の名月を観賞するため,側臣藤田東湖,会沢正志斎や彰考館員らとともに船で下石崎を訪れている。
このときの烈公の和歌に「浪の色も空にかよひてすめる夜の 月の光も広浦の月」「広浦の浪にやどして遠方の 山のあなたの月を見るかな」があり,藤田東湖に「仰いでも伏してもあかぬ眺めかな 水の底迄すめる月影」がある。
◆親沢の一つ松
涸沼に突出した砂嘴のひとつに親沢という景勝地があり、その突端は松の木が多い。
昔、一人の老人がここに住んでいたが、貧乏なうえ、子供がなかった。ここに一つ葉の松があって、この老人は子供がわりに、大事に育てていた。これを村の人々は「親沢の一つ松」と呼んでいたが、その後枯死してしまったので、野生の松を植えて後世に伝えていた。 のち、水戸光圀がこの地に立ち寄ったとき、この話をきいて次の歌を詠んだという。
◆子を思う涙ひぬまの一つ松 波にゆられて幾世へぬらむ 現在この歌碑が親沢にある。
渋川
桜川
才川
大谷川
かつては、寛政川も流入河川だった。
流出河川 [編集]
涸沼川[1]
歴史 [編集]
縄文時代、海水面が上昇し[2]涸沼周辺では入り江であった。その後、入り江の入り口が川の土砂によってふさがれ涸沼ができた。
江戸時代では、東北や那珂川流域から物資を運ぶルートとして利用され、「内川廻り」といわれるルートの一部であった。さらに水戸藩が松波勘十郎に涸沼西部の海老沢から巴川流域の紅葉まで約10kmを結ぶ「紅葉運河」や涸沼川から大貫までの約1kmを結ぶ「大貫運河」を掘らせたが失敗に終わった。
明治時代に入ってからも、大久保利通が大谷川から北浦の流入河川である鉾田川をむすぶ国家計画に着手したが、暗殺により頓挫した。いまでも旧旭村(現鉾田市)に切り通しの跡を見ることができる。
1927年(昭和2年)より、涸沼干拓が始まり、前谷(茨城町下石崎)、広浦(大洗町神山町)、船渡(茨城町上石崎)、馬割(茨城町海老沢)、東永寺(茨城町上石崎)、宮ヶ崎と干拓され、水田として利用された。
水質 [編集]
過去10年間の化学的酸素要求量(COD) の値の動き(測定場所は親沢、宮前、広浦の平均値、値は涸沼の水質データ による)
測定年 CODの値
1997 9.7
1998 6.6
1999 8.9
2000 9.5
2001 6.8
2002 7.8
2003 6.8
2004 5.5
2005 6.9
2006 6.4
参考 [編集]
^ a b 地元の人では下涸沼川とよぶ。
^ このことを縄文海進という。
関連項目 [編集]
日本の湖沼一覧
外部リンク [編集]
涸沼辞典(茨城町)
霞ヶ浦環境科学センター
クリーンアップひぬまネットワーク
///
(出典)
http://www.asahimura.net/town.htm
鉾田市旭地区(旧旭村)は、茨城県の南東部に位置し、東は鹿島灘、北は涸沼 に面する自然環境に恵まれた総面積53.80k㎡、人口約12,000人の純農村地域です。旧村名(旭村)には、その前途が朝日の昇るご とく発展してほしい、という願いが込められておりました。
開村以来、農業立村を基本に村づくりが進められ、昭和 40年代からは施設園芸を積極的に取り入れ、とくにメロ ン・甘藷は特産物として全国的に有名になりました。 ▼旧旭村地区
【人 口】 11,876人(平成15年12月1日現在)
【面 積】 53.80k㎡
【村の花】 きく
【村の木】 もちの木
【村の鳥】 ひばり
【名産品】 メロン、甘藷、いちご、トマト、スイカ等
【観光・
みどころ】 茨城勤労者いこいの村涸沼(夏期プール、テニスコート、野球場、ファミリーパットゴルフ、スクリーンゴルフ、温泉)、厳島神社(子生弁財天:社殿は元録の建築、安産の守護神県指定文化財)等。
【スローガン】 青い海と豊かな大地いきいきとした息吹がきこえる鉾田市旭地区
【旧村役場
所在地】 〒311-1492
茨城県鉾田市造谷605-3 TEL:0291(37)1111
*旧旭村役場は、鉾田市旭総合支所となりました。
>>鉾田市のホームページへ
青い大海原、きらめく湖面、緑の大地と観光資源にも恵まれた鉾田市旭地区です。
どこまでも広がる青い大海原と絶え間なく打ち寄せる白い波の鹿島灘は太平洋のダイナミックな躍動にあふれています。きれいで真夏も冷たい海水は、波が荒くサーフィンにもってこい。年間を通して、若者たちがボードを操る姿みられます。砂浜が広いために、潮干狩りにも最適、季節になると親子連れの姿が浜辺を埋めつくし、大きな歓声とともに夏の訪れを教えてくれます。また、地引き網漁は夏の観光の目玉として注目を集めています。
広浦ともいわれる涸沼は淡水と海水の魚が混棲する関東一の釣り場として知られ、約50種類の魚がいるといわれています。しじみも涸沼の大切な宝でシーズンには、しじみ採りに精を出す人々が湖面を彩ります。
いこいの村涸沼
「茨城勤労者いこいの村涸沼」は誰でも利用できる公共の施設で、宿泊室他、会議や宴会に使える大ホール、涸沼の雄大な景色を眺めながら温泉を満喫できる大浴場があり、またテニスコート、パターゴルフ、プールなど総合レジャー施設として人気を集めています。
食事は、新鮮な海の幸を贅沢に使った磯料理。宿泊は一泊二食で8,200円から。テニスコート(全天候型)1日6,000円。プール1日800円(大人)。
交通:鹿島臨海鉄道大洗鹿島線涸沼駅から3Km
お問い合わせ:いこいの村涸沼 TEL:0291-37-1171
「いこいの村涸沼」の公式ホームページはこちらです。
涸沼ヨットハーバー
「涸沼ヨットハーバー」はセーリングを楽しむ人で利用が増え、白い帆をはらませたヨットがすべるように湖面をゆく美しい姿に思わず目を奪われてしまいます。
矢神神社
日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの神社。伝説によると、日本武尊が東征の際に鉾田市旭地区上釜に上陸し、涸沼南岸の高台であるこの地で休息。そのときそばに置いた大弓を残したため、村人がこれを奉じて祠を建て、日本武尊を祭ったのが矢神神社の始まりとされている。
貞観元年(859年)の創建。
交通:いこいの村涸沼から徒歩20分。
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国都神神社
和銅3年(710年)の創建。この地に疫病が流行り、長であった大碓時度が村人を救おうと天神に祈願。すると国都神が夢に現れ「祠を建てよ」とのお告げが。そしてお告げの通り疫病が退散したという伝説から国都神神社の名がついた。
神木の椎木は、このとき大碓時度が植えたものとされ、市の天然記念物になっている。ちなみに大碓時度は日本武尊の兄である大碓命の24世の孫。
交通:バス停「田崎」から5分
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鹿島神社
日本武尊ゆかりの神社。日本武尊が東征の際、大野村角折浜に上陸し、鹿島神宮の神に先勝を祈願したとされる。その伝説にちなみ和銅3年(710年)に祠を建てたのがこの神社の始まりとされる。
交通:パス停「薬師堂前」から徒歩8分。
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厳島神社
子生(こなじ)の弁天様の名で親しまれるこの神社は、承歴2年(1078年)、宮島の厳島神社から分霊を迎えたのが始まり。古くから安産の神様として村人から信仰されている。
また森に抱かれた池の中央部にたたずむ本殿は、県の文化財に指定され、柱には精巧な竜の彫刻が施されている。
交通:バス停「子生弁天」下車徒歩4分
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玉沢稲荷神社
冷水海岸は、鹿島灘を一望できる砂浜の美しい海岸で、玉沢稲荷神社の森とあわせて「茨城の自然100選」に選ばれた。玉沢稲荷神社は、源頼義が奥州追討の際にこの地で霊験を被ったとする伝承を持つ神社で、社殿は市の指定文化財となっている。
境内には樹齢800年とされるスダジイやタブノキの大木があり、周囲は森閑とした雰囲気が漂う。
交通:パス停「勝下新田」から徒歩25分
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