10/27/2009

ロシア - 新・共産主義民主主義

タタルスタン共和国(イスラム)

イスラムの文化を認めながら、融合を図っている。

タタール人とロシア人の融合


イスラムのムスクと、ロシア正教の教会が軒を並べている。


タタルスタンは原油が出て、共産主義経済との利害が一致して、うまくいっているようだ。


逆に、チェチェン共和国はうまくいっていない。


イスラム原理主義 -> 新・イスラム主義民主主義への移行がカギ?


新・共産主義民主主義 = 新・イスラム主義民主主義

対立ではなく、強硬ではなく、融和を図る。

これは、ロシア側、チェチェン側両方が歩み寄らなければならない。妥協点を見出す。


タタルスタン共和国はイスラムでも穏健派?


---Wiki

タタールスタン共和国(タタルスタン、タタルスターン;タタール語キリル文字: Татарстан Республикасы, ラテン文字: Tatarstan Respublikası;ロシア語: Республика Татарстан リスプーブリカ・タタルスターン)は、ロシア連邦地域管轄区分のひとつ沿ヴォルガ連邦管区の中央に位置する共和国である。公用語はロシア語とタタール語。ソ連時代に自治共和国であったものが、ロシア連邦成立に伴い共和国に格上げされた。1992年には独立宣言を行ったが、1994年には撤回している。

民族構成(タタールスタン)
タタール人 53%
ロシア人 40%
その他     7%

面積 - 68,000平方キロメートル
首都 - カザン(人口110万人)
人口 - 3,779,265人(内約50%強がタタール人)
管区 - 沿ヴォルガ連邦管区
公用語 - ロシア語とタタール語

---Wiki

チェチェン共和国(チェチェンきょうわこく)は、北カフカース地方の北東部に位置するロシア連邦・南部連邦管区に属する共和国。設立は1991年。北カフカースの先住民族のひとつ、チェチェン人が住民の多数を占める。

近況

ロシアの憲法上ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつである。しかしソビエト連邦解体後、チェチェンの独立を求める武装勢力(チェチェン・イチケリア共和国を呼称)と、ロシア政府及びロシアへの残留を主張するチェチェン人勢力との間で現在も紛争が続いている。

劣勢の独立派はテロリズムに走っているといわれており、独立派の関与したとされる事件は、犯行声明が出されているものだけでも2002年10月のモスクワにおけるドゥブロフカ劇場占拠事件、12月のグロズヌイの行政府ビル爆破事件、2003年6月のモスクワ野外コンサート会場爆破事件、2004年5月のカディロフ大統領暗殺事件、8月の旅客機同時ハイジャック事件、モスクワ地下鉄駅付近爆破事件、9月の北オセチア共和国ベスランにおけるベスラン学校占拠事件などがあり、枚挙に暇がない。

プーチン政権もただ手をこまぬいていただけではなく、2005年11月には共和国議会選挙が行われ、ロシア政府は「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」としてこの結果を評価した。これに対しては正常化に向けた前進と評価する意見が存在する一方、独立派はロシアによる一種の「翼賛選挙」と強く反発している。

また2006年10月には、ロシア政府のチェチェン政策を批判して来たロシアのジャーナリストであるアンナ・ポリトコフスカヤが何者かに暗殺された。ロシアでは近年、著名人やジャーナリストなどの暗殺・暗殺未遂事件が相次いでいる。

国名

ロシア語による正式名称は、Чеченская Республика Российской Федерации(ラテン文字転写 : Chechenskaja Respublika Rossijskoj Federatsii; チェチェンスカヤ・リスプーブリカ・ラッスィースカイ・フェジェラーツィィ)で、ロシア連邦チェチェン共和国と訳される。

チェチェンスカヤはロシア語による民族名チェチェン(チェチェニエツ)の形容詞形で、国名は直訳すれば、「ロシア連邦のチェチェン人の共和国」となる。ただし、チェチェンは他称で、チェチェン語による自称はノフチー(Нохчий)である。

歴史

(詳細は"チェチェンの歴史"を参照。)
18世紀にロシア帝国がカフカースへの南下を進めると、チェチェン人はロシアの支配に対して激しく抵抗を繰り広げたが、1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合された。

ソビエト連邦の成立後、チェチェン・イングーシ自治共和国としてロシア・ソビエト社会主義連邦共和国の一部とされたが、第二次世界大戦中の1944年に、チェチェン人とイングーシ人約50万人は対独協力をおそれたヨシフ・スターリンによって、カザフスタンやシベリアへ強制移住させられた。彼らは1957年に母国への帰還を許され自治共和国が再建されるがモスクワの中央政府に対する不満は残り、ソ連邦崩壊後にチェチェン共和国がイングーシ共和国と分立すると、チェチェン大統領ジョハル・ドゥダエフは1991年11月にロシアからの「独立」を宣言した。

連邦政府はチェチェンの離脱を拒絶し、1994年12月にロシア大統領(当時)ボリス・エリツィンはチェチェン独立を阻止するため4万の軍隊を派遣し、10万人の死者を出した第一次チェチェン紛争に突入し、チェチェン紛争は泥沼化した。激しい戦いの後1995年2月にロシア軍はようやくチェチェンの首都グロズヌイを制圧。1996年8月にエリツィンとチェチェンの武装勢力のリーダーの間で停戦が合意された。そして1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され、五年間の停戦が定められた。

ところが、カフカース圏における「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン側武装勢力は1999年8月7日、和平協定を破り突如隣国のダゲスタン共和国へ侵攻。また、同時期にモスクワではアパート爆破などの大規模なテロが発生した。このため、連邦軍がチェチェンへ進撃し紛争は1999年9月に再開。1997年の和平協定は無効となった。

この第二次チェチェン紛争ではロシア側はアフマド・カディロフをチェチェンの大統領につけ、ロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ独立派を在野に追った。しかし以降もチェチェンの独立運動は続き、ロシア軍との内戦状態が続いている。ゲリラ化したチェチェン独立派はアルカイダ等国外のイスラム過激派勢力と結びついたとされ、モスクワ等で爆弾事件、占拠事件などを頻発に起こすようになって紛争はさらなる泥沼化に進んでいる。 2006年6月には、イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致し、チェチェン共和国からのロシア部隊撤退などを同国政府に要求。その後、要求が受け入れられなかったため、外交官を殺害するという事件も発生する。

ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われている。

長引くチェチェン紛争に対しては、ロシア国内からも様々な意見が出されている。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」とアメリカ下院で証言したエレーナ・ボンネル女史(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)のように、この紛争はエリツィン〜プーチン政権が作り出した戦争であるという見方をする人物も存在している。

政治

チェチェン人はロシアに併合された後も抵抗運動を繰り返し、ソ連時代から長きにわたって弾圧を受け続けて来た。そのこともあり、反露感情は極めて高いと言われる。しかし近年では長引く紛争に国民が疲れ果てており、ロシアによる統治を受け入れ、地域の安定化を実現させようという気運の高まりも指摘されている。

また現在では、独立派"大統領"であったアスラン・マスハドフや、その後任であったアブドル・ハリム、あるいは、モスクワ劇場占拠事件やベスラン学校占拠事件等、多くのテロ事件の犯行声明を出していた過激派指導者シャミル・バサエフ等、独立派の主要人物が軒並みロシア治安当局によって殺害されており、独立派の士気は相当低下しているとの見方も存在する。

第二次チェチェン紛争において、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は元独立派指導者のひとりであったチェチェン人、アフマド・カディロフらを指導者に立て、チェチェンのロシア連邦構成共和国としての既成事実化を目指している。2003年10月の大統領選挙で初当選したカディロフは、独立派を「テロ集団」とする連邦政府の方針を支持していたが、2004年5月9日、その独立派のテロにより暗殺された。2004年8月29日大統領選挙が行われ、アル・アルハノフ(47)が当選した。 ロシアがチェチェンの独立を強く拒絶するのは、チェチェンの独立によって多民族国家で多くの民族共和国を抱えるロシア連邦の求心力が低下し、解体に向かうことに対する懸念が大きいからだと考えられる。また、チェチェンがカスピ海のバクー油田から黒海沿岸のノヴォロシースクへと繋がる石油パイプラインの通り道にあることも、ロシアが独立派に対し強硬な態度を取る一因であると言われている。近年は、いわゆる「イスラム原理主義」のロシア連邦内への浸透を恐れ、「対テロ戦争」の名目のもとチェチェン独立派への弾圧を強めている。

独立派のリーダーは、穏健派で独立派政権の「大統領」アスラン・マスハドフや、強硬派で独立派の野戦司令官であるシャミル・バサエフが知られていた(マスハドフは2005年3月、バサエフは2006年7月に連邦軍特殊部隊によって殺害された)。チェチェン独立派が関わったとされる多くのテロ事件は、バサエフ派によるものとされる。

2006年8月、独立派の指導者ドク・ウマロフの弟アフマド・ウマロフがグデルメスにおいて政府軍に投降した。この件に関しては当初、「ドク・ウマロフが投降」と発表されていた、後に弟であった、と訂正された。

地理

黒海とカスピ海に挟まれた北カフカース地方に属し、カフカース山脈の北麓の斜面と平野に広がっている。
国土の東と北東はダゲスタン共和国に接し、西はイングーシ共和国および北オセチア共和国、北西はスタヴロポリ地方、南はグルジアに接する。

面積は17,300km²で日本の四国程の大きさ。国の北部をテレク川が東西に走り、テレク川から分岐したスンジャ川は首都グロズヌイを横切っている。南北を流れるアルグン川はグロズヌイの東部でスンジャ川に合流する。

経済

二度にわたる紛争により、チェチェン経済は崩壊状態となった。内戦の影響でチェチェン産業のおよそ80%が喪失されたとされる。首都グロズヌイにおいては、大手石油企業ロスネフチの子会社であるグロズネフトガスが本格的に進出するなど、経済活動が復活しつつあるが、その他の地域では依然として産業の復興すらおぼつかない地域が多い。

現在のところ、再建の見込みがある唯一の産業は石油産業である。2003年の石油生産は1980年代の400万トンから下降しておよそ150万トンと見積もられる。ロシアの石油生産合計のおよそ0.6%を占めた。失業率は76%。密輸および物々交換はいまだ国内の重要な経済活動となっている。

ロシア政府は、2000年以来20億ドル以上が様々な形でチェチェン経済の再生に費やされたとしている。
チェチェン経済に関する問題はロシア連邦の経済に影響を及ぼしている。1990年代に発生したロシアの多くの金融犯罪は、チェチェン人の金融組織が関与しているといわれる。彼らはロシアの米ドル金融政策に大きく関与し、偽ドル札が多く印刷された。

住民

1989年に行われたチェチェン・イングーシ共和国の統計では、チェチェン人が956,879人、イングーシ人が237,438人で、269,000人のロシア人は人口の約23%で比較的少数派であった。その後、西部がイングーシ共和国として分立したためイングーシ人人口が大幅に減少し、内戦と社会不安でほとんどのロシア人は国内から退去した。1990年代の終わりにチェチェン共和国に残っていたロシア人は、約60,000人である。

ほとんどのチェチェン人は、16世紀から18世紀に東のダゲスタンから伝わったイスラム教のスンナ派を信仰している。しかし、民衆の間では厳格なスンナ派よりもイスラム主義と結びつきやすいナクシュバンディー教団などのイスラム神秘主義(スーフィズム)の影響が強い。チェチェンへのイスラムの普及や、19世紀のロシアへの抵抗において重要な役割を果たしたのがこのような神秘主義教団であった。ただ、貧困や失業のために若者がワッハーブ派のような過激派組織と結びつく傾向もあるので、学校でイスラムの基礎を教えようという動きがある。

国内で使用される言語はチェチェン語とロシア語である。チェチェン語は、カフカース諸語のうちのナフ諸語、あるいは北東カフカース諸語と呼ばれるグループ(ナフ・バイナフ語族とも)に属し、イングーシ語と非常に近しい関係にある。
ロシア連邦は一般に老齢化した人口構成を持つが、チェチェン共和国は例外的に最も若年層が多い人口構成を持つ。また1990年代の初めにはいくつかの地方で自然人口増加がみられ、それ以降連邦構成主体の中では極めて高い人口増加率を維持している。

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