6/04/2010

倭の五王

鎌倉の珍念さんを想いだした、笑い

倭の五王(讃・珍・済・興・武)


大理の陰陽大極のシンボルはハチである・・・

はね、はね、はに、はに、ハニーグラス - 愛ことば




鎌倉大仏

鎌倉大仏
鎌倉を語る上で欠かせないシンボル的存在。高徳院に木造の大仏が作られたのが歴仁元年(1238)。そこから津波や大風などでお堂が破壊され、現在のような露座するとなったのは、1495年のこと。高さ11.31メートル、体重121トンの巨大な仏像だ。奈良東大寺、富山県高岡とともに三大大仏といわれている。追加料金を支払えば、大仏の胎内の拝観が可能。
鎌倉大仏
神奈川県鎌倉市長谷4-2-28
拝観料:大人 200円

http://plaza.rakuten.co.jp/tyanmaru/3026本堂の中は写真はNGです。撮ると「こおうらっぁ」と怒られます。


長谷観音

 ガイドブックから頂いた写真です。長谷観音は日本最大の木造仏像です。初めて木造と知ったときはびっくりしました。それくらい大きいです。

 ちなみに、十一面観音さまです。 



説明


古代の天皇 [編集]

倭の五王 [編集]

より印綬されたとされる倭奴国王印
詳細は「倭の五王」を参照
中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代劉宋王朝に朝貢した「」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を仁徳天皇履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。
これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県埼玉県古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風号とする)、「治天下大王」または「大王が用いられていたと考えられている。
『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[12]が引用されている。
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」[13]
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。
また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。
しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。

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