7/26/2010

中野学校と731部隊

戦前はどうでも良いが、戦後まで、何らかの活動を行っていたようだ・・・

日中間の懸案事項

1.南京大虐殺

2.731部隊による人体実験

何でもいいが、

歴史認識・教科書問題の決着をつけるべき


過去は変えられない、できる限りの事実認定をするしかないのでは?



ドラゴンの天罰






中野学校


創立当初は東京九段愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に当時の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町疎開富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なパイ技術養成機関であったが、大東亜戦争太平洋戦争の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍特殊戦スクールに相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかったため、日本軍にとっては有意義であったが、遅きに失した観はある。

1945年1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学出身者が最も多く、次いで拓殖大学東京外国語大学、そして早稲田大学慶應義塾大学明治大学などが続いた。一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。職業軍人の場合、軍人としての規律や高度な軍事教育は受けているものの、その知識は偏っていることから判断を誤るおそれがあり、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや新聞社通信員などの民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなるから避けられたのである。



陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学(実施学校)。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。通称号東部第33部隊




二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である(一説に2,131名とされる)。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事田中徹雄大尉など)、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争[1](谷本喜久男少尉など)を始めとする戦後の東南アジア独立戦争に携わった卒業者も多くいた。

731部隊
731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。
満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3][4]や実戦テストまで行っていたとする説もある。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

人体実験 [編集]

生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする見解がある。森村誠一悪魔の飽食』などの本で、731部隊は捕らえた多くの朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人スパイ捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、生体実験に供したと言われている(ただし、『悪魔の飽食』は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している)。終戦後にソ連中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[14]とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[15]。終戦時には、生存していた40-50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたという[7]
こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員などの関係者の証言である[2][3]。その代表的な人物が陸軍病院の軍医であった湯浅謙である。湯浅は敗戦後に中国に抑留され、捕虜として2年、戦犯として撫順戦犯管理所で3年半過ごすことになったが、その後、彼は731部隊の軍医の教育の中で「中国人を生きたまま手術して殺す」という生体解剖を実施していたと主張している[16]。2007年に、湯浅と同じく元731部隊員で中帰連の篠塚良雄en:Yoshio Shinozuka)は、当時自身が「防免給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことをアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[17]。ただし、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定するに至った中国帰還者連絡会関係者などの証言については、その信憑性を疑問視する見方もある[18]
他方、部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は余り確認されていない。近年になり米国の公文書が機密解除されたため調査が行われたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[8]

1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[27]。この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

その後 [編集]

1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[28]


支部 [編集]

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