だから、平気なんだよ、荒野でも、何にもないところでも・・・
プロローグ
イルカにであう
私は浅い眠りについていた。パーカッションの音のような、
「プフー」
という大きな音で目が覚めた。
私は横になったままで、目を開いて、耳を傾けていた。イルカの声に違いない。また聞こえた、イルカは近くにいる。約十二メートルの長さがある、カタマラン(双胴船)・ノートレック号のドアは、塩でべとついていた。私は、そのドアを開いて、デッキにのぼった。南東方向から、そよ風が絶え間なく吹いてきて、涼しかった。星がきらきら輝いている。大きくて明るいアーチが、頭上にかかっているような気がした。細長い月の影が、ゆらゆらと光って、波間を漂っている。ほかに、光はなく、水面は穏やかだ。潮が、停泊中のノートレック号を、緩やかに引いていた。潮は、双胴の船体に沿って、後方へ流れていく。イルカが、水面をローリングする。イルカの銀色の背が、月明かりの下に見えた。イルカは、流れるように動いて、呼吸をし、ふたたび水中に潜る。流れ星のようにきらきら光を発して、しぶきを上げながら魚を追って、呼吸をするために、ふたたび水面に現れる。
イルカの背ビレがかろうじて見えた。背びれの上端に切れ目があるので、ニッキーだと分かった。ニッキーは、波間に映る筋状の月をくぐりぬけた。ニッキーが、水中でロールバックするたびに、銀色の滑らかな肌が輝いて、それは流れ星のように見える。呼吸の仕方や獲物の追い方を見ると、ニッキーだと分かる。
私は目覚めたばかりなので、頭がうまく働かない。デッキに腰を下ろして、その光景に魅入った。頭上には天の川、眼下には輝くイルカの流れ星。この壮麗な光景を見ていると、気が遠くなり、我を忘れてしまいそうだ。シャーク湾は、インド洋に突き出している。湾の広がりは大きく、都市の光源からは、遠く離れている。上空をながめると、星座がゆっくりと回っている。色とりどりの惑星や、星団や、薄気味悪い星雲などが、ちらちらと脈打っている。ときおり通過する人工衛星と流星だけが、異質の物体だ。しかし、ほかは見慣れた夜空の風情である。ちょうど今、オリオン座が水平線近くにある。おそらく、午前三時ころだろう。
今夜のようなときには、海は生き物でごったがえしている。
「ピシャピチャ、バシャバシャ、ザブン、ザブン、スイスイ、ドボン、ドボン」
と騒がしい。
水面下の世界が、少しだけ顔を見せる。その真上で、ノートレック号が座礁しているように思える。私はデッキに腰を下ろしたまま楽しむ。水面下の暗闇を動き回っているニッキーも、楽しんでいるのかなと思う。ニッキーにはエコロケーション(反響定位)の能力がある。頭から鋭い音を出して、物体を反響音で「見分ける」。ニッキーの周りを泳いでいる生き物たちは、ニッキーに食われるかもしれない。しかし、ここはシャーク湾だ。ニッキーにも、同じように危険が迫ってくる。危害をくわえないサメもいるが、タイガー・シャークのようなサメは、イルカを食べる。毒とげを持つ派手な色のカサゴや、擬態をする気味悪いオコゼや、ウミヘビなども生息している。暗い海を泳ぎまわるイルカにとって、これらの生き物は悩みのタネである。
離れた地点から、別の呼吸音が聞こえた。ニッキーの母ホーリフィンだろう。ホーリフィンの旧友のパックもいるようだ。しばらく呼吸音を聞いていると、ニッキーが母たちのところへ向かうのが分かる。ニッキーを待つ母たちの姿も目に浮かぶ。ニッキーは、ホーリフィンの横に滑り込んで、腹を傾けて、上手にあいさつする。
ニッキーとホーリフィンは、海へ潜って、魚が隠れている海草のすき間を探る。私はニッキーをよく知っている。ニッキーは、大げさな愛情は示さないが、賢くて、真面目である。あまり騒がずに、内省的にさえ見える。私はニッキーを見ると、自分自身に思いが及んで、ニッキーに強い絆を感じる。
レッド・クリフ湾(シャーク湾の中にある小さな湾)に生息するニッキー、その家族、他のイルカたちは、十五年にわたって、私の人生の核心になった。私は、イルカといっしょに暮らす特権を与えられた。そして、イルカたちと深い愛情を育んできた。外国を旅していて、思いもよらずに、エキゾティックな外国人と出会ったときのように、ニッキーに対して、熱烈な感情を抱くこともある。私は、どうにかこうにかして、イルカとコミュニケーションが取れるだけで、イルカの世界を少しだけ理解しているにすぎない。イルカと私の間には、共通点もあるが、異なる点もある。私は、イルカに親しみを感じると同時に、単なる観察者にすぎないという寂しさもある。イルカと関われば関わるほど、親しみは遠のいて、外からの観察者にすぎないという思いだけが強まる。
風にさらされる辺境の海岸で、錨につながれた壊れやすい貝殻ボートに腰をかけていると、漠とした広がりが、私を取り囲んでいると感じる。そして、それは確かな感覚でもある。西を向くと、インド洋、さらには、マダガスカル島と、アフリカの東海岸がある。はるか北方には、インドネシアがある。南方は、風と波と海だけであり、北極へと連なる。東方には、モンキー・マイアの小さな漁村があって、その先は、数百キロの砂漠、つまり、オーストラリアの未開の地だ。上空は、計り知れない宇宙の広がりだ。
この茫漠とした広がりが、ニッキーたちとの親近感を深める。十五年以上にもわたって、研究チームのメンバーといっしょになって、イルカを観察した。私たちは、シャーク湾のイルカのさまざまな生態を発見し、その輪郭を明らかにした。感覚や、経験や、可能性のすべてを、イルカと分かち合うことはムリだし、イルカのすべてを理解することもできない。だが、私たちの間には、単純だが、活き活きとした絆が芽生えた。


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