徳川家は、参勤交代
ようするに、皇帝や、武家に貢いだ
中国は、北朝鮮を支援する
大国が小国を支援する
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朝貢(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。
王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すこととされ、内外に向けて政権の正統性を示すことになるため歴代中国政権はコストを払ってでも朝貢を歓迎した。
また周辺異民族と敵対関係になって軍事支出を行うよりは、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になる。朝貢は中国政権にとって、優れた安全保障システムでもあった。
朝貢国から送ってきた貢物に対して回賜が数倍の価値となることが原則であり、朝貢国にとって利益となる事例が多かった。その場合、朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられた。その費用がかさむために朝貢の回数を制限するということも行われた。
冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。
元代においては朝貢と言った形式はとられなかったが、明になると再び朝貢形式が採られた。鄭和による大遠征はヨーロッパの大航海時代に先駆けたものであったが、これにより多数の国々からの朝貢を受けることになった。
清代においても、ヨーロッパとは朝貢形式と代わらない感覚で貿易を継続しようとした。その結果はアヘン戦争に始まる一連の進出を招き、中国がヨーロッパの半植民地化する事態を招いた。この結果、朝貢という形式での対外関係は終焉を迎えた。
日本 [編集]
古代 [編集]
後漢の代より倭国からの朝貢が記録に残る。倭の五王が冊封されていたと言われ、中国の南朝に対して断続的に朝貢を続けていた。これは朝鮮半島における勢力争いへの支援を引き出す目的だったと言われるが、南朝は北朝への対抗上高句麗との関係を重視したため倭国側の意図は果たせず、朝貢も途絶える。
遣唐使は朝貢形式で行われている。日本の側の君主は「天皇」を既に自称していたが、それでも中国の皇帝と対等の立場で貿易を行っていた。その廃止以降、中国の冊封体制に加わることはなかった。五代十国の呉越や、北宋・南宋とも交流があったが、藤原氏や平氏、その他民間の商人によるものであり、正式な国家交流ではなかった。
あるいは、隋書の倭国伝には「新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」との記述がある。
中世 [編集]
倭寇に悩まされる明は、日本側に有利な朝貢関係の設定と引き換えに倭寇を取り締まらせようとする。日本の南北朝期に九州に南朝派政権を構えていた懐良親王が「日本国王良懐」として明に朝貢を行う。その後室町幕府3代将軍の足利義満が明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封される。以後、外交文書に使用して日明貿易(勘合貿易)を開始。父の名目的対明臣従路線を嫌った4代将軍足利義持による一時的な停止はあったものの日本側に有利な取引による利益は捨てがたく、まもなく義持自身により再開され、以降室町時代を通じて行われた。足利義政は進貢すら省略し一方的な銅銭の賜与を求め、これは一度認められた。
近世 [編集]
室町幕府の弱体化により、大内氏などの大名により勘合貿易が継続される。安土桃山時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日明関係は断絶。江戸時代には一応関係は修復されるが、江戸幕府は朝鮮とは国交を結んだものの、明とは正式に国交を結ばず、いわゆる民間交流レベルの貿易となった。徳川将軍は朝鮮に対して「日本国大君」と称し(一時期「日本国王」と称す)、国交を結んだ。

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