10/29/2009

ホメイニ師とハメネイ師

ホメイニ師


ハメネイ師



ふたりの人相がイスラムが変わりつつあることを示している。



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アーヤトッラー・ルーホッラー・
ホメイニー
آیت‌الله روح‌الله خمینی

イラン・イスラム共和国
初代最高指導者
任期: 1979年12月3日 – 1989年6月3日
出生: 1902年9月24日
ペルシア、マルキャズィー州
ホメイン
死去: 1989年6月3日(満86歳没)
イラン、テヘラン
配偶: ハディージェ・サカフィー

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیت‌الله روح‌الله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī, 1902年9月24日 - 1989年6月3日)は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者(師)として、同国を精神面から指導した。

「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法。日本では本人存命中から今日に至るまで、外務省[1]や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、現在でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。

経歴

ホメイニーは、1902年頃にイラン中部のホメインの町でシーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイドの家系に生まれ、当初の名をルーホッラー・ムーサーヴィーと言った。のちに「ホメイン出身の者」を意味するホメイニーを名乗る。
ホメイニーが幼い頃に亡くなった父はイスラム法学者で、彼もイランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得た。一方、1941年以来、皇帝の西欧化政策に対する不満を表明する。
1963年、皇帝が宣言した白色革命に対する抵抗運動を指導し、逮捕される。このときは釈放されるものの、政府批判を続け、翌年ついに国外追放処分を受けた。イラクのシーア派の聖地ナジャフに入ったホメイニーは、ここで「法学者の統治論」を唱え、シーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとする理論を構築した。

1978年にイラクを離れ、フランスに亡命するが、一貫して国外から皇帝への抵抗を呼びかけ続づけた。
1979年1月16日に反体制運動の高まりに耐えかねた皇帝が亡命したのを受けて、ホメイニーは2月1日にフランスから15年ぶりの帰国を果たしてイスラム革命評議会を組織した。2月11日、評議会は皇帝政府から権力を奪取し、唯一の公式政府となると、イスラム共和国への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーはイラン・イスラム共和国の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。

新政権は、その発足直後からイランアメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の対立など、さまざまな危機的状況にもまれたが、革命イランの最高指導者としてホメイニーは、政治・司法・文化のすべてをイスラム原理主義に染め上げることに専心し、そうした政策に強い影響力を行使した。
ホメイニーは、革命中はかつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者(モスタズアフィーン)」の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主義の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によって彼は元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け革命を達成した。しかし革命達成後は一転して世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧した[2]。

1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職はアリー・ハーメネイーが継承した。葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いてホメイニの遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの参会者は師の衣服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。

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セイイェド・アリー・ホセイニー・
ハーメネイー
علی حسینی خامنه‌ای

イラン・イスラム共和国
第2代最高指導者
任期: 1989年6月3日 – 現職
イラン・イスラム共和国
第3代大統領
任期: 1981年10月2日 – 1989年8月2日
元首: ルーホッラー・ホメイニー師
アリー・ハーメネイー師
出生: 1939年7月15日(70歳)
イラン
ラザヴィー・ホラーサーン州
マシュハド
配偶: バヌー・ホジャステー
1979年のイラン・イスラム革命後、革命会議議員、国防次官、イスラム革命防衛隊司令官、大統領、最高国防会議議長を歴任した。1989年6月3日、イランの最高指導者に選出された。

セイイェド・アリー・ホセイニー・ハーメネイー(ヘルプ・ファイル)( علی حسینی خامنه‌ای Āyatollāh Seyyed `Alī Ḥoseynī Khāmene'ī、1939年7月15日 - )は、イラン・イスラム共和国の第2代最高指導者。第3代イラン・イスラム共和国大統領。日本ではハメネイ師と表記されることが多い。

宗教指導者

小学校卒業後、父に秘密で中学校に通った。その後の勉学は、まずマシュハドの神学校でイスラーム諸学、特にアラビア語に向けられた。1958年にイラクのナジャフに赴き、2年間神学を学んだ。その後、コム市に赴き、ホメイニー師のもとで1964年までイスラーム法学を学んだ。

ハーメネイーは、ルーホッラー・ホメイニーの弟子であったにもかかわらず、他の宗教指導者のような権威を享受していない。ハーメネイーは、イスラーム法の広い知識を有しているが、コム市の活動家は、彼の権威を認めていない。この事実は、現政権の指導者の多くがコム市の宗教学校出身であるのに対して、ハーメネイーはマシュハドで宗教教育を受けたことで説明される。

ハーメネイーは、マシュハドおよびコム市の宗教学校の学生中に多くの支持者を有する。イスラム革命防衛隊、商人、聖職者の大多数も、彼の支持者である。

反帝政闘争

1962年、ホメイニー師の呼びかけにより、コム市が蜂起した。この蜂起において、ハーメネイーは、コム市に滞在しつつ、マシュハド市の宗教・政治活動家と連絡を取った。蜂起は鎮圧され、その後、ハーメネイーは数回投獄された。

その後、ハーシェミー・ラフサンジャーニー等の別組織と協力して、反帝政秘密組織の再建に取り組んだ。この秘密組織は、イラン・イスラム革命で大きな役割を果たし、革命後はイスラーム共和党に再編された。

イスラム革命

革命後、ハーメネイーは、革命会議議員、国防次官(法学者代表)、イスラム革命防衛隊司令官、テヘラン市の金曜礼拝導師、第1期マジュリス(議会)代議員、最高国防会議におけるホメイニーの顧問を歴任した。
1981年、モハンマド・アリー・ラジャーイー大統領の暗殺後、大統領に選出され、1985年に再選した。

最高指導者

1989年にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の闘う法学者協会'と改革派のハーシェミー・ラフサンジャーニーの利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそもホメイニーの後継者と指名されたホセイン=アリー・モンタゼリー師が失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。ホメイニーは法学者の最高位マルジャエ・タクリードであったが、ハーメネイーは長くホッジャトル・エスラームにすぎず、この時昇格してもなおアーヤトッラーであり、マルジャエ・タクリードには届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。

最高指導者となったハーメネイーは、1997年まで、政治の舞台では保守派の味方についた。ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。

1992年の議会選挙前日、闘う法学者協会の指導者、並びにラフサンジャーニーとの協議中、左派の勝利を許さないことが決定された。その結果、左派の活動家は、議席を得ることができなかった。議会の保守派は、強力な派閥を形成したが、ラフサンジャーニーの予想に反して、政府に協力しなかった。ハーメネイーは、保守派の圧力の下、サウジアラビアとの協力、対米関係の一部正常化、創作従事者党の創設等で、大統領を再三批判した。ハーメネイーとラフサンジャーニー間の不一致は、1997年の大統領選挙までに鮮明に現れた。ハーメネイーは、闘う法学者協会から立候補したアブドッラー・ナーテグ=ヌーリーの支持を明言し、ラフサンジャーニーは、モハンマド・ハータミーの勝利のため、闘う法学者協会の影響力低下に関するあらゆる措置を採った。

2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。

1999年後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。

ハータミー政権との妥協の結果、デモ鎮圧時に職権を濫用した法秩序警備軍将校が刑事起訴され、情報相、司法権の長、貧民財団総裁等が解任された。その一方で、1999年-2000年中、20紙以上の新聞紙が閉鎖に追い込まれ、若干のジャーナリスト及び社会・政治活動家が処罰された。

ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けたていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。
ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。

2009年6月13日にマフムード・アフマディーネジャードが大統領に再選されると、敗れたミール・ホセイン・ムーサヴィーが不正選挙を主張し、選挙のやり直しを求めると、支持者らによる大規模なデモ・暴動に発展した。ハーメネイーは2009年6月19日に金曜礼拝で「今、イランは冷静になることが必要だ」と演説し、イラン国民への自制の呼びかけと改革派のデモ終結を要求したが、それでも改革派市民によるデモ・騒乱は収まらず、「ハーメネイーに死を!」と市民たちは公然と叫ぶようになった。今回の騒乱により、イスラム共和制をとるイランの現体制およびハーメネイーの権威が危機にさらされ、大きく傷つくこととなった。

人物

マシュハド市出身。彼の父、セイイェド・ジャワードはマシュハド在住の大アーヤトッラー(高位ウラマー)で、東アーザルバーイジャーン州の出身でアゼルバイジャン人。母は、同じくマシュハドの著名なウラマーであるセイイェド・ハーシェム・ナジャファーバーディーの娘で、ヤズドの家系。
アラビア語とアゼルバイジャン語、トルコ語を話し、英語も理解する。ペルシア文学と伝統的な民族音楽を趣味とする。原稿の準備なしに長時間演説できる雄弁家である。1981年に爆弾テロにあった後遺症で、右手が不自由である。弟のハーッジ・ハーメネイーは、国会議員であり、改革派に属する。

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