6/01/2010

味覚は? 醍醐味・・・

酸味、苦味、辛味、甘味

第五の味はうま味

解説は?

上記、四つの味は分析、単純系、還元論です

第五の味は総合、複雑系、全体論です・・・



6/07/2009


POCOバンド - どんぶり勘定

昨夜、バンドのチェックをした・・・

ほぼ問題なし・・・


8月に、少し広い場所で、ジャズ・パーティをやるんだとさ・・・


800円のラーメンの食い方・・・

スープに麺、具が2品に、薬味のクインテット



ボーカル、バンドリーダー POCO シナチク(愛媛産タケノコ使用)

ピアノ ミドリ 麺 (ヨーロッパ風小麦使用)

タイコ 浅井 焼き豚 (鹿児島産桜島黒豚使用)

ベース、サブリーダー つかさ スープ(埼玉産豚骨ミソ使用)

サックス 山本 薬味(鎌倉産コショー)



シナチク、麺、焼き豚、スープのそれぞれを賞味した。

そして、薬味も含んで、全体のハーモニーを楽しんだ・・・


山本じいさんは、第五の男、醍醐味を出すのに欠かせない・・・


映画、第三の男に、まさるともおとらじ・・・


醍醐の男


そして、お賽銭は? 投げ銭は? 定額チャージ 800円


6曲+6曲の2ステージ

らーめんドンブリ12杯で、800円は安いのでは?


パーティのときは、2~3倍のチャージになるのでは?


そんで、リーダーのPOCOがどんぶり勘定して、メンバーと山分けするんだとさ・・・


これが真の意味での「自由どんぶり勘定」である。「公正なシステム」である・・・



おもしれえな~~~

清水次郎長の役は、山本のじいさんにやってもらおう・・・


次郎長の本名は?

山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)

第五の男、醍醐の男にぴったりじゃ~~~ん、笑い


偶然が偶然を呼んで、必然となる・・・


こういう現象をセレンデピティと言うのではないの?

偶有性?

茂木健一郎さん?

どうでしょうか?


参考)

やっと、思い出した・・・ スジャータ・・・

(出典)

http://k.hatena.ne.jp/keywordblog/めいらくグループ


釈迦は6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャー川(尼連禅河)に沐浴をしたとき、たまたまスジャータが森の神に供物の乳糜(牛乳粥)を捧げるために付近を通りかかり、川から上がったもののまさに命尽きようとしていた釈迦にこの供物を捧げた。


【醍醐味】だいごみ
①[仏]醍醐のような最上の教え
②醍醐のような味
③深い味わい、ほんとうのおもしろさ。

【醍醐】だいご
五味の第5。乳を精製して得られる最も美味なるもの。仏教の最高真理にたとえる。



Creator Aoyagi YoSuKe



---Wikipedia

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。

生涯

生い立ち

文政3年(1820年)、駿河国有渡郡清水湊(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・三右衛門の三男に生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからも呼称されることになった。

天保14年(1843年)、甲田屋の主人となっていた次郎長は人を斬り清水を出奔、無宿渡世の門をくぐった。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治の初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい[1]。

幕末

慶応4年(1868年)3月、東征府判事の伏谷如水から街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。
同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないとして突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡・榎本と交際を持ったとされる。

維新後

博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためにはお茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。

ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。

明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。

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