5/08/2009

忍者の里

忍者とは?

スパイ、諜報員、工作員


葉隠れは?

武士道


伊賀、甲賀、佐賀?


伊賀 「隠し国」

山を1つ隔てた場所に存在する甲賀流と異なる点は甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすのに対し、伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない点であるとされる。

「抜忍成敗」 -> カムイ外伝


甲賀流 

普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。

佐賀 葉隠 「死ぐるい(無我夢中)」

葉隠」(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。


追伸)

あまり良い商売ではないな。やはり、水呑み百姓がいいのかな?

元来、日本人の9割は、水呑み百姓である・・・


---Wikipedia

伊賀国 (いがのくに) は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、東海道に位置する。三重県西部の上野盆地一帯の地域であり、現在の行政区分では三重県伊賀市と名張市に当たる。伊州(いしゅう)と呼ぶこともある[1]。

延喜式での格は下国、近国。四方を山に囲まれ、「隠し国」とも呼ばれていた。

歴史

律令時代

680年(天武天皇9年)に、伊勢国から分立した。当初は2郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の4郡になった。

室町時代

おおむね仁木氏が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩かった。徳川家康が当時としてはかなり無謀な(道が整備されていなかった)「神君伊賀越え」を実行したことでも知られる。

江戸時代

江戸時代には藤堂家の領国の一部となり、伊賀国一帯は伊勢津藩の領土となった。

近現代

1876年4月18日:現在の三重県が成立。
1998年9月22日:台風7号(室生寺の塔が壊れた台風)が伊賀地方で最大風速56.4m/sを記録。被害甚大。
2004年11月1日:伊賀市誕生。旧の上野市、伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、青山町が合併して成立。
律令時代の行政機関 [編集]

(国府、守護所、一宮、総社、国分寺)
国府は阿拝郡にあり、現在の伊賀市坂之下国町にあたる。1990年(平成2年)、1991年(平成3年)の調査で政庁跡が確認された。

守護所は「府中(こふ)」と呼ばれていた現在の伊賀市の東条・西条あたりだと想定されている。
延喜式神名帳には大社1座1社、小社24座24社の計25座25社が記載されている。唯一の大社は伊賀市の敢國神社(南宮明神)で、伊賀国一宮とされている(名神大社ではない)。敢国神社を一宮とする初見の史料は『源平盛衰記』である。源範頼、源義経入京の際に当国の一宮南宮大菩薩に拝したとある。

ただし、それより以前の1165年の史料に、伊賀国の神社の筆頭として南宮社が挙げられている。二宮は、伊賀市の小宮神社であるが、中世に当社が二宮を称した記録はなく近世以後の比定である。ただし、伊賀国に二宮があったことは確かのようである。三宮は伊賀市の波多岐神社。『伊賀記』(伝北畠親房著)に「里人称之三宮。又号波太伎社之宇都可明神説見于上」とあるのが初見。四宮以下はないようである。

総社は不詳。伊賀市府中の府中神社は若宮八幡宮が明治以後に他神社と合祀されて改称したもので、総社ではない。

国分寺の僧寺は、伊賀市西明寺字長者屋敷にあり、尼寺は伊賀市西明寺字長楽寺にあった。どのようなものであったかは不詳。


伊賀流(いがりゅう)とは甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の1つである。

今の三重県伊賀市と名張市にあった。普段は農業をしたり行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き工作活動に励んだ。

特徴

山を1つ隔てた場所に存在する甲賀流と異なる点は甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすのに対し、伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない点であるとされる。

また伊賀流の訓練法は独特さをもって知られており、例えば顔の半分を紙で覆い紙を顔から落とす事なく一里以上を走りぬく等、幼少の頃から厳しい訓練のもと優れた忍者を育てる事を伝統としてきた。伊賀郷士はしばしば雇い主が敵同士の場合でも、依頼があれば双方に忍者を派遣する実例をも持つ。そのため他の郷の忍者よりも一層、例え仲間であろうと即座に処断できるような厳酷な精神も求められた。「抜忍成敗」はその極みとも言うべき物で、裏切りや脱走はいかなる事があっても認めないという物である。

歴史

伊賀は伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていた。だが伊賀の場合、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く合議を開いても彼らの意見に従うことが多かった。逆に甲賀は「惣」と呼ばれる自治共同体を形成していたが各々が対等な立場にあった為に多数決の原理を重んじ、「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的であった。一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあるがこれは誤解であり、1つ山を挟んだ言わば隣人同士で争いあっても何の得も無い。むしろ伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していた。

天正伊賀の乱

天正7年(1579年)、伊賀忍者の1人・下山甲斐は仲間を裏切り織田信長の次男・信雄に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し侵略を進言した。下山の言葉に乗った信雄は直ちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにした。だが信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまう。これが第一次伊賀の乱である。

この結果に激怒した信長は勝手に軍を動かした信雄に激怒し絶縁すると脅して諫める一方、2年後の天正9年(1581年)には自らおよそ4万の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。これを第二次天正伊賀の乱という。驚いた伊賀の人々はすぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意する。だがかねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の1人・多羅尾光俊の手引きにより伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。これにより伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。 (漫画や小説では皆殺しにされた事にされているものが多いが、実際には織田軍と伊賀勢の間で和議が成立し、柏原城は開城さた。当然、 伊賀勢の命は保証された。)

乱後

その後も生き残った伊賀忍者は徹底的に探し出され、処刑された。刎ねられた首の数は一日に300から500ともいわれ、合計すると数千ともいう。それでもなお伊賀の忍者達全員を殺すことはできず、捜索の手から逃れた忍者達は全国に散った。 (と漫画や小説では描かれているものが多いが、実際は織田軍と和議が成立している。) やがて本能寺の変で信長の死を知った伊賀忍者たちが一斉蜂起し、各地で争いを繰り広げた。
たとえば本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康が服部正成らに護衛されながら三河国へ逃げ戻ったことなどは有名である。これを伊賀越えと呼ぶ。

江戸時代

江戸時代には上述の「伊賀越え」の功績を認められ、一般に服部半蔵として知られる正成のもとに伊賀組同心として幕府に召し抱えられている。なおこのことから正成自身も忍者であったかのように言われることがあるが、正成自身はむしろ普通の戦働きでならした侍であったらしい。詳しくは服部正成の項目を参照のこと。
伊賀を藤堂家が統治して以後は、無足という士族階級を保障され、扶持米を支給され、支配階級に組み込まれていった。 このため、天草の乱の討伐戦をはじめ、全国の多くの一揆鎮圧に伊賀衆が派遣され、大いに活躍している。 (郷土の研究10 石川正知著 翠楊社出版 参照)

因みに、甲賀の地が信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると甲賀忍者達は家康の監視活動を主な任務に命じられる。その結果、伊賀忍者が甲賀忍者追討の任にあてがわれた。この事は江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材となった。が、実際にはこれは徳川と豊臣との代理戦争に他ならなかったのである。

有名な伊賀忍者

服部半蔵
百地丹波
藤林長門守
伊賀崎道順

---Wikipedia

甲賀市(こうかし)は、滋賀県の南部に位置する市。2004年10月1日に甲賀郡の水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町が合併して誕生した。西部・南部は京都府、三重県と境を接する。

地理

東部の山々から中央北部の水口丘陵南沿の谷を野洲川が、南部甲賀丘陵沿の杣谷を杣川が流れ、川筋に沿う形で平地が開けており、東端は鈴鹿山脈南嶺が北東から南西方向に走っている。南西部の信楽地区は信楽盆地の中を大戸川が流れている。甲賀市は滋賀県南西部を占め、気候帯は瀬戸内気候帯に分類されるが、滋賀県自体が微妙な位置にあり、季節によって多少の変動があるので明確な線引きはできない。
山: 鈴鹿山脈の山々、笹ヶ岳、飯道山 等々
河川: 野洲川、杣川、大戸川

歴史

2004年(平成16年)10月1日 合併・市制施行。
市花:ササユリ
市木:スギ
市鳥:カワセミ

甲賀流(こうかりゅう、こうがりゅう)とは、伊賀流と並んで最も有名な流派の忍術であるが、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称で「甲賀流」という名称の流派が存在したのではない。甲賀は本来「こうか」と読み、地名に因る名称であるが、忍術に関してのみ「こうが」との誤読が一般的となっている。

山を一つ隔てた場所に伊賀流が存在する。


特徴

今の滋賀県甲賀市(こうかし)、湖南市にあった。普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。

甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」(そう)を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定(合議制)・運営するなどしていた。これはこの時期では全国的に見てもきわめて珍しいことである。
また、甲賀忍者には、上忍はなく、最高位は中忍である。
歴史 [編集]

室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、足利幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた。これを「鈎の陣」という。 
義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角久頼・高頼父子は直接対決を避けて甲賀城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。甲賀武士達は山中でその地の利を生かしてさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざん幕府軍を苦しめたという。

そのためなかなか決着はつかず、1489年には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。この時の神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力の印象が、甲賀武士達を全国に知らしめることになったのである。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び(さらに五十三家の中で六角氏より感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称した)、甲賀の地が織田信長に席巻されるまでの間、六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍していった。

その後、甲賀の地が織田信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると、甲賀武士達は徳川家康の監視活動を主な任務に命じられる。このことは江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材となった。実際には徳川と豊臣との代理戦争だったわけであるが、今日でもよく、「伊賀対甲賀」という構図が小説や忍者漫画に出てくるのもこのためと言えよう。

忍術屋敷

甲賀市甲南町竜法師2331番地に、甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る(「甲賀の里忍術村」とは別)。元禄年間建造の屋敷は、一見普通の農家だが、内部には縄梯子・落とし穴・回転戸・地下道などが仕掛けられている。また、当時の小道具も展示されている

---Wikipedia

「葉隠」(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。

概要

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、当時の大和魂など精神主義の風潮が高まると再評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。二人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳の事という。

浮世から何里あらうか山桜    常朝
白雲やただ今花に尋ね合ひ    陣基

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と曲解されあるいは解釈されている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をする者が認められる。

しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の中には嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、近代人が勝手に想像している『武士道』とはかけ離れた内容もある。 戦後、軍国主義的書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。

なお、戦後も葉隠を愛好した文学者に純文学の三島由紀夫、大衆文学の隆慶一郎がおり、二人ともそれに取材した作品を書いている。三島の『葉隠入門』、隆の『死ぬことと見つけたり』(いずれも新潮文庫)である。両作品は葉隠の入門書としても知られている(ただ、三島の葉隠に対する捉え方には問題があるという葉隠研究家[誰が?]からの指摘もある)。

刊本

徳間書店 全2巻 ISBN 4192421445 ISBN 4192424886
角川文庫 ISBN 4043216017
岩波文庫 全3巻 ISBN 4003300815 ISBN 4003300823 ISBN 4003300831
参考文献 [編集]

小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』(講談社学術文庫、1999年) ISBN 4061593862
山本博文『『葉隠』の武士道 誤解された「死狂い」の思想』(PHP新書、2001年) ISBN 4569619401
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫、1983年)(初刊は1967年)ISBN 4101050333 ISBN 978-4101050331
黒鉄ヒロシ『葉隠 マンガ日本の古典 (26)』(中央公論社、1995年) ISBN 4124033044 ISBN 978-4124033045 (中公文庫、2001年)ISBN 4122038340 ISBN 978-4122038349
ジョージ秋山『武士道とは死ぬことと見つけたり』(幻冬舎)

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