5/04/2009

温家宝首相(CCTV)

日本の国会での40分間にわたる演説は素晴らしかった。

精華大学での学生に対する講演をちらりとやっていたが、首相の温厚な人柄、文学などへの造詣の深さなど、教養の高さを感じる。感心するな・・・


専攻が地質学。地味なサイエンス・・・ なるほどな・・・

面白い人物が、中国の上層部にいることが興味深い・・・


2008年3月18日の国内外の記者に向けた記者会見の場では、「ダライ・ラマが『チベット独立』を放棄し、『台湾を中国不可分の領土と認める』なら対話してもいい」と発言した。なお、ダライ・ラマ14世が要求しているのは独立ではなく、チベット民族による自治権である。温はダライ・ラマ14世と対話をする気はないことを暗に示したのである。

地質学と、仏教哲学では、話がかみ合わないかもしれない・・・

仏教哲学と、理論物理学なら、話が合うと思うが。

ただ、サイエンスの原点は、ギリシャ哲学だと思っている・・・

サイエンスの基本的な考え方と、仏教哲学は、必ずしも、相性は悪くないはず。

話の接点があるとしたら、ここいら辺りなのでは?


あるいは、老荘思想であれば、話の接点はあるはず・・・


---Wikipedia

老荘思想(ろうそうしそう)は中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。
老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。
『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。

歴史

老荘思想は老子から始まるが、老子はその生涯があまり良く解っておらず、実在しなかったという説もある。
老荘の名以前に黄老(こうろう)があり、戦国時代から漢初に流行した。

老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは、前漢の紀元前139年に成書された百科的思想書の『淮南子』(えなんじ)に初めて見え、魏晋南北朝時代のころの玄学において『易経』『老子』『荘子』があわせて学ばれるようになってからであろう。 老荘思想は道家思想とほぼ同義に用いられるが、これは前漢のころには信頼できる道家の書物が、老子と荘子くらいしか残っていなかったためである。

儒教が国教となってからも老荘思想は中国の人々の精神の影に潜み、儒教のモラルに疲れた時、人々は老荘を思い出した。特に魏晋南北朝時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難であった。このため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられた。加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行した。清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹林の七賢(嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)が有名である。ただし、竹林の七賢が集団として活動した記録はない。

老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた。

道教との関係

フランスの中国学者アンリ・マスペロ(東洋文庫『道教』の著者)によれば、老荘思想と道教は連続的な性質を持っているとする。しかし日本の研究者の間では、哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がないという説が一般的である。

道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。一般に老荘思想はものの生滅について「生死は表層的変化の一つに過ぎない」と言う立場を取るとされる。不老長寿の仙人が道教において理想とされることは、老荘思想と矛盾しているように見える。しかし、道教の思想において両者は矛盾するものではないとされている。
日本に於いてだけでも、時代に依って道教と老荘思想の意味・関係は変化しつづけたが、それは道教研究のここ百年での深まりと、老子・荘子各々を把握解釈する者の営為に依存している。


---Wikipedia

温 家宝(おん かほう、ウェン・チアパオ 簡体字:温家宝、繁体字:溫家寶、拼音: Wēn Jiābǎo )は、中華人民共和国の政治家。中国共産党中央政治局常務委員会委員。政治局の序列は第3位。2003年より、第6代国務院総理(首相に相当)を務める。中国共産党の第四世代では重要な位置を占める。

温家宝は、一般的なイメージとして国民からはパワーエリートから剥離した人物と見られており、「人民の総理」と呼ばれる[1]。

長男の温雲松((温云松))は北京Unihub公司総裁。

生年月日 1942年9月15日(66歳)
天津市
国籍 中華人民共和国
政党 中国共産党
配偶者 張培莉(Zhang Peili)
子供 温雲松(温云松)
出身校 中国地質大学
専門 地質学

生い立ち・初期の活動

1942年9月、中華民国の天津郊外の教員の家に生まれる。天津南開中学卒業後、1960年北京地質学院(現・中国地質大学)に入る。1965年4月に中国共産党に入党し、1967年に研究生課程を卒業、地質関係の技術者として働き始める。北京で地力学を学び、甘粛省の地質学局にて活動に従事する。1968年から1978年まで、甘粛省地質学局での政治部門の長のもとで、地力学の調査チームを統轄する。甘粛省地質局副局長、地質鉱山部副部長を歴任し、1980年代および1990年代には共産党中央委員会および政治局員に昇進した。温が甘粛省から北京へ移るあいだに、当時の共産党書記長であった胡耀邦は、有能な人物の探索を指揮していた。温は党本部にて代理として務めるよう任命され、8年間在職する。胡錦濤と同様に、当時の甘粛省委員会書記だった宋平に抜擢されている。

地質部長の孫大光の賞賛を受けた温家宝は政界へ進出し、胡耀邦、趙紫陽、江沢民の3人のもとで中央弁公庁主任を務める。温家宝は、この3人の総書記に仕えた唯一の人物である[2]。

1989年、天安門広場にて示威運動をしていた学生たちのもとへ向かった趙紫陽に同伴する(天安門事件を参照)。趙は「重大な反抗」として党から追放され、2005年1月の死まで自宅軟禁に置かれた。温は当時の立場や自己批判が考慮されたことで、示威運動の余波を受けて失脚することもなく政治的に生き残った。

1965年の政治活動に遡ると、温は自身の後援者のネットワークを構築している。温は、具体的な結果に焦点を置いて几帳面という評価を得る。1998年の朱鎔基の首相退陣により、朱に委任された温は経済、農業、財政、環境政策を監督し、中国が重要と考えてきた世界貿易機関への加入の準備をする。温は1998年から2002年まで中央金融工作委員会(Central Financial Work Commission)の書記を務めた。

国務院総理



ホワイトハウスにて、ジョージ・W・ブッシュ(右)と(2003年12月9日)

第1期

2002年11月より、温は共産党中央政治局で序列は第3位の委員であった。2003年3月に国家主席になると見られていた胡錦濤に権力が移譲するあいだに、99%以上の代表者の投票により、全国人民代表大会での温家宝の国務院総理への指名は確実なものとなった。

2003年、温家宝は胡錦濤によって首相に指名され、就任した。共産党員や官僚の腐敗に対しては厳しい態度で臨んでいる。

首相となった温は改革開放を監督し、国家目標を、ほかの社会的目標(公衆衛生や教育など)とともに平等主義の富を重視した成長から何としてでも中国経済を成長させようという目標に転換した。加えて、中国政府は温の指導のもとで、環境や労働者の健康への被害を含む経済発展の社会的費用に焦点を合わせ始めた。この、より包括的な定義は「小康社会」(xiaokang society)に要約された。温の広範な経験と専門知識は、改革による過去20年間で除外された地方の経済を活性化させようという朱鎔基の農業政策のもとで議長を務めるあいだに培われた。当初寡黙で出しゃばらないと思われていた温は、「良き伝達者」、そして「人民の味方」として知られた。温は20年間の経済成長(とくに地方や中国の西方)で除外されたかに見えた人々に手を差し伸べるために多大な努力をしたと思われている。温家宝と胡錦濤の両者は、江沢民および中央政治局常務委員会で彼の保護下にある者、いわゆる「上海幇」を結成していた者たちとは異なり、広漠な中国国内での政治的基盤を強化した。人々は、「人民の味方」こと温家宝と胡錦濤、対する江沢民との対比に注意した。控えめな胡錦濤や温家宝とは異なり、江沢民は古代中国、西洋哲学の格言を引き合いに出して多言語で詩を暗誦することで知られている。

2003年3月、普段は控えめな温が『「私の脳はコンピューターのようだ」「実に多くの統計を私は記憶できる」と述べた』と、前駐中大使のスイス人が伝えた[3]。

頑健で直接的にものを言う前任の朱鎔基と比較して、穏やかで融和的な温の合意に基づく経営方式は大きな信用を得たが、より厳しい政策決定を支持する一部の反対者も作った。温は中央政府の方針と一致しない上海市党委員会書記(当時)の陳良宇と衝突していたことが知られている[4]。

温には公衆衛生を含む主要な2つの逸話がある。2003年の早期、彼は中国国内で発生したSARSの危機に対する中国当局の怠慢の終局に関わっていた。2003年11月、温はエイズによって一部が壊滅状態にあった雲南省と河南省に、そして中国発展にかかる大きな負担の恐れに公式に取り組む最初の中国高官となった。2004年5月より、温はエイズの被害に遭った地域を訪問し、その訪問の様子は全国のマスコミによって大きく報じられた。この行為を見せることで、温は多くの活動家が中国共産党の否定と怠慢の方針であると述べた年のときと逆の努力を見せた。さらに温は、薬物依存症歴がある人間の健康と安全について心配した。2004年3月より、温は中国南方にある複数の薬物依存治療施設を訪問し、入院患者たちの問題に取り組み、国内のエイズが、性交渉よりもむしろ薬物乱用と皮下注射器の再利用によって蔓延しやすいことを認めた。中国の田舎の比較的貧しい区域への温の多くの訪問は、当局をなだめる入念な準備を回避するためと、中国国内でしばしば行われる本当の現状を隠すために無作為に行われた。温は国務院の委員会会議で、地方の貧富の問題に取り組むことを明らかにした。国家主席の胡錦濤とともに、温は農業、農村地帯、農民のいわゆる三農問題について、研究と発展を要する分野であると強調した。胡温政権は、2005年に農業税を完全に廃止した。これは地方の経済モデルを大きく変えた大胆な手段であった。前任の朱鎔基のように、温は、通常は一般の中国国民から人気のある共産主義者の政府高官と見られている。彼の態度は一見誠実であり、温和であり、かつての周恩来と比較されることがある。2005年の旧正月、温は山西省の炭鉱で炭鉱作業員の一団と過ごした。多くの人にとっての温の印象は、「国民の総理」であり、「人民主義者」であり、そして「一般人の需要を知り、理解している普通の中国国民」と見られている[5]。中国作家協会の年次総会で、温はどんな原稿にも目を通すことなく、2時間以上にわたって話をした。

海外のメディアでは、温は無料の記者会見を開くために依然として中国政府が算出したもっとも高い数字のまま、台湾独立運動、チベット、そして中国の人権問題のような政治的に敏感な難題にしばしば直面する。2003年12月、温はアメリカ合衆国を初めて訪問した。この訪問のあいだに、温は中華民国総統の陳水扁(当時)に対する軽い非難として、ジョージ・W・ブッシュに問題を話すことができた。カナダとオーストラリアへの訪問も、ほとんどは経済問題であった。2005年3月15日、全国人民代表大会で2896の過半数(棄権2)であった反分裂国家法が可決されたあとに、温は「我々は外国からの干渉を望まないが、それを恐れない」と述べた。台湾問題に対するアメリカの姿勢を隠喩したものである。温は中国の標準にしては珍しく長い拍手を受けた。
2007年3月5日、温は軍事予算を増やすことを発表した。2007年末までの軍事予算は、前年の450億ドルと比較すると17.8%上昇している。これはアメリカ国内で緊張状態を生んだ[6]。

中国共産党第十七回全国代表大会前に、温が引退することと、陳良宇との衝突があったという噂が立った。一部の情報源では、温が疲労による引退を請うつもりであったことを示唆していたが、結局、温は首相の座にとどまり続けた。胡錦濤が中国の今後5年間の方向性についての要綱の重要な演説を行う際に、温はそれを草稿する責任を負った。
2008年1月、大雪による雪害が中国を襲った。温は南へ進んで長沙と広州の鉄道駅を訪れると、電車を長時間待っていた市民たちの怒りを鎮めるために演説した。
温は、著述業が知られていないソーシャル・ネットワーキング・サービスのFacebookにプロフィールを持っていた。このサイトでの温は、プロフィールが2008年6月16日ごろに削除されるまでは有名な政治家上位5人のうちの1人であった。
第2期 [編集]


ダライ・ラマ14世

2008年3月16日、中国の二期目の首相として任期5年を命ぜられた温家宝は、急上昇するインフレーションを抑えるためと、北京オリンピックで世界の国々で中国を目立たせるために努力した。温は、共産主義政治体制でさえ首相職が敵を作りやすい兆候であった2003年の首相就任時よりも、賛成票を多く得た。アメリカに端を発した経済危機による影響が世界でますます大きくなるにつれて、温は深刻な経済問題に直面した。社会の安定と、2008年3月にチベットで発生した暴動では、政策面で大きな集中力が要求された[7]。2008年3月18日、第十一届全国人民代表大会一次全体会议のあとの記者会見の場で、温はチベットでの暴動を受けてダライ・ラマ14世とその支持者を非難し、チベットでの騒乱は中国の軍隊が制圧すると発言した[8]。このチベット騒乱のさなかの温は、「ダライ・ラマとその追随者が全ての分離独立活動を断念することを選ばない限り、彼らとの協議を拒否する」として、共産党政府の報道官として動いた。2008年3月18日の国内外の記者に向けた記者会見の場では、「ダライ・ラマが『チベット独立』を放棄し、『台湾を中国不可分の領土と認める』なら対話してもいい」と発言した。なお、ダライ・ラマ14世が要求しているのは独立ではなく、チベット民族による自治権である。温はダライ・ラマ14世と対話をする気はないことを暗に示したのである。

四川大地震への対応

2008年5月12日、四川大地震が発生した。地震発生からわずか数時間で地震の被災地に向かったことで、温の人気はさらに上昇した。彼は災害後、直ちに地震救援活動事務局長に指名された。温の被災地への訪問を受けて、その姿は全国のマスコミに映され、「人民の総理」と呼ばれた周恩来と温家宝とを比較した多数のビデオが中国国内のブログにアップロードされ、その人気は著しく高まった。中国の指導者たちが、堅く、じっと動かずに座っているように見える姿が国営テレビに映し出されると、温の現場での姿と率直な性格は、中国国民から大きな支持を得た[9]。海外メディアと同様にこの大地震の科学的予測の有効性がインターネットフォーラムにて考察された。温は科学的予測を発表しようとした唯一の中国の指導者として伝えられ、それを公表したが、強大な権限を持つ共産党常務委員会のほかの委員によって防がれた[10][11]。

ビデオ会議

2009年、第十一届全国人民代表大会二次全体会议に召集される前の2月28日、温家宝は、中国共産党政府の公式ウェブサイト『gov.cn』と『新華社ネット』が主催したビデオ会議でオンラインによる質問に答えた。温は政府の透明性と見解について公然と述べた。多数中国人ネットユーザーから広範囲に亘る質問を受けた温は、大きな経済問題(世界的な財政破綻など)についての質問を選び、それに答えた。大会で、温は中国の経済成長が2009年には8%を割ることはないという声明を伝えた。温は、新しい景気刺激策を導入せず、中央政府の支出額1兆1800億人民元の一部が財政出動に充てられなかったという考察を重視しなかった。温は中国が保有するアメリカの財務省の負債について懸念を表明した。温はより変わった身振りで台湾訪問への関心も示し、「歩けなければ這ってでも行く」と述べた[12]。

政治的見解



世界経済フォーラムにて(2008年)
中華人民共和国

中華人民共和国の歴史
組織集団
中国共産党 · 中国人民解放軍
主な出来事
抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 · 林彪事件
四五天安門事件
改革開放
六四天安門事件
人物
毛沢東 · 周恩来 · 朱徳
劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平
林彪· 江青· 胡耀邦
趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬
朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝
理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 · 鄧小平理論
4つの基本原則 · 3つの代表
統治機構
全国人民代表大会
中華人民共和国国務院
中央軍事委員会
地域
中国 · 華北 · 東北
華東 · 華中 · 華南
西南 · 西北
中華人民共和国の行政区分
表・話・編・歴

温家宝の政治的見解に関して、香港と台湾のジャーナリスト仲間内と同様に、中国国内でもいくつか論争がある。記者会見の場では胡錦濤よりも多く姿を見せるため、彼らの全てを評価することは困難だが、温の観点を識別するのは胡よりも容易である。通常、中国内外のメディアは、温を普通の人々の要求に触れる「人民主義者」と信じている。最大の社会問題には、温の政策の種類として、社会調和に基づく政権の主要なイデオロギーである科学発展観(Scientific Development Concept)を規定している。政治改革に関する温の見解が何なのかは明らかにされてはいない。温は「中国では今後100年、社会主義制度が続くでしょう」と述べた[13]にもかかわらず、のちに第十回全国人民代表大会2007 National People's Congressにて「民主主義は、社会主義制度の基本的な狙いの1つです」と述べた。

2008年9月のインタビューにて、温は独立した司法制度の構築を通して、人々からの批判を受け入れる政府のために、「本当に人々に属した」権限のために、中国の民主主義制度は改善する必要があることを認めた[14]。

台湾に関しては、温は世評によれば段階的な交渉を信じている。新華社は2007年の早期に、温の名前で国家の発展についての記事をいくつか発表している。温は党の公式見解とは若干異なる視点を持っている徴候であると疑われた。
2007年9月、温は全国紙で詩を創作した。中国の将来についての彼の微妙に空想的な認識が紹介され、海外メディアで称賛された。
マスコミでの温の誠実な物腰にもかかわらず、指導者間の明快な分裂はない。知識人の一群は、温の人民主義的アプローチについて警告を発しており、中国の経済発展に影響を及ぼすと主張した[15]。

訪日

2007年4月11日、温家宝は日本を訪問した。温はこの訪日を「融氷之旅(日中の冷えきった政治的関係を氷に例え、その融解への旅)」と位置付け、「政冷経熱」の日中関係を打開する道筋をつけようとした[16]。4月12日の国会での演説では「日本の過去への謝罪」を評価する一方で「それを行動で示すように」とした(靖国神社参拝の自粛を求めている)。また、温が演説原稿にあった「戦後、日本が平和発展の道を歩んだことを中国人民は評価する」内容の一節を読み飛ばしたこと[17]について、日本の議員たちの間では「わざと抜いたのではないか」と憶測も飛んだ。中国外交部は後日「その直前にあまりに拍手が大きく沸き起こったので、うっかり読み飛ばしてしまった」と説明した[17]。

天皇との会談では「北京オリンピックの開会式に招待したい」と述べ、日本政府を困惑させた[17]。また、主要政党の首脳や創価学会の池田大作とも会談した[18]。最終日の4月13日には、日本で初めて孔子学院が開設された立命館大学を訪問し、「四庫全書」を寄贈した[19]。

ケンブリッジ大学での出来事

2009年1月末から2月初めにかけて、温はヨーロッパを訪問した。2月2日、イギリスのケンブリッジ大学にて講演していたところ、会場にいた男から靴を投げつけられる騒ぎがあった。男は「ここに独裁者がいるぞ。彼が語る嘘をよく聞いていられるな。反論もしていないじゃないか」[20]「どうして大学は独裁者に身を売ることができたのか?」[21]などと叫んでいた。講演は中断し、靴を投げた男は他の聴衆から非難され、会場から排除されたあとに地元警察に逮捕された[22]。講演再開後、温は「我々は平和にやっている。男の行為が中英の友好を妨げることはない。調和は武力によって妨害されないと歴史が証明している」と述べ[21]、講演の会場内の学生たちが拍手で応えた。拍手していたのは中国人留学生であった[20][21]。中国国内では事件に関する報道を抑制していたが、インターネット上では温家宝支持とイギリス批判の書き込みが盛んにおこなわれた[23]。2月3日、中国外交部は公式に批判声明を出した[24]。ケンブリッジ大学は事件について公式サイトで謝罪表明を行った[25]。

人物像

趣味はランニング。外遊に出た際も早朝のランニングは欠かさず行っている。また、以前は野球をやっていたとのことで2007年の来日の際に、立命館大学の学生と野球を楽しんでいた(ちなみに左投左打)[26]。汚職や賄賂に対して厳しく、商才があって手広く商売を始めたいという妻と離縁し、身内を優遇しない姿を自ら示す半面、事故などの災害時に現地視察の際には、よく泣く姿が映し出されるため、しばしば「泣きの温家宝」と評される。「宝宝(宝ちゃん)」の愛称で呼ばれることもある[23]。

引用

温は中国の早い経済成長、社会正義、そして公正さについて「艦隊の速さが測定されるのは、もっとも速い船ではなく、むしろもっとも遅い船であります」と述べている[27]。

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