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東西ベルリン境界の橋で式典 ゴルバチェフ元ソ連大統領に歓声
ベルリンの壁崩壊から20周年。かつての東西ベルリン境界のボルンホルマー橋で式典。
ペレストロイカ
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ペレストロイカ(ロシア語:Перестройка〔ペレ-ストロイカ〕、ラテン文字転写:Perestroika)とは、1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。ロシア語で「再構築(改革)」を意味する(“пере”〔ペレ〕は「再び」を意味する接頭辞、“стройка”〔ストロイカ〕は「構築」「建設」を意味する単語)。
ソビエト連邦共産党による一党独裁政権が続いたために腐敗が進んでいた政権を立て直すため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソ連の政権を民主的な方向に改善していった。
英語圏の国では「リストラクチャリング」(restructuring)や「リコンストラクション」(reconstruction)と訳され、1980年代後半の英国のサッチャー政権や米国のレーガン政権で行われた行財政改革・産業構造の転換政策あるいは民間企業の組織再編成などを指して使われた。これは、日本で1990年代後半頃から使用されている「リストラ」の語源となった単語である。
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(出典)
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/post_194.html
ロシア通貨危機 1998年
ロシアは、冷戦以後、何度もハイパーインフレを経験するなど、経済的にたいへん苦しい時期がありましたが、プーチン大統領の時代になった2000年以降、石油価格が高騰を受け、資源大国として復活し、過去の借金も返済しました。しかし、国民は一部のスーパーリッチと大多数の貧しい人たちに二極分化されてしまいました。
ソ連の凋落
1917年、二月革命によりロシア帝国が崩壊し、ニコライ2世は退位した。同年11月、十月革命により、ソヴィエト政権が樹立。内戦と列強の干渉(シベリア出兵)に勝利し、1922年、ロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカースの4ヶ国による連合として、ソヴィエト社会主義共和国連合(ソ連)が成立した。

工業を始め多くの産業を国有化し、農業も集団化を強制した。スターリンの時代になると、経済が計画経済として、国家(共産党)の指示の下で動かされるようになった。五ヵ年計画によりソ連は生産力を高めていた。ちょうど大恐慌の時代である。貧困に苦しむアメリカと、豊かなソ連を比べるプロパガンダ映像がこの時代の記録として残っている。第二次大戦をアメリカからの援助で物資不足を補い、2700万人もの犠牲を払いながらも、ナチスドイツと大日本帝国に勝利した。戦勝国となったソ連は、冷戦の中、朝鮮半島から東欧諸国を東側陣営(社会主義陣営)のリーダーであった。・・・時代は流れて1970年代、ブレジネフ書記長の時代、ソ連社会は人口が拡大から停滞期を迎え、生産力の量的拡大が望めなくなっていた。腐敗と停滞、労働規律の痴漢、経済の失速が現れてきた。だが、石油危機によって石油価格が高騰していたため、経済を問題なく回すことができた。転機は1979年のアフガニスタン侵攻であった。1988年に撤退するまで10年間軍隊を出したことによる巨額の出費は、ソ連経済に大きなダメージを与えることになった。

1981年から8年間、米国大統領を務めた レーガン大統領 は、就任時に世界情勢の説明を受けた際、ソ連経済が低迷しているから、軍拡競争に巻き込めば、相手の経済は破綻を来たし、冷戦に勝利することができることを直感したようだ。就任直後、レーガノミックスによる経済政策と軍事支出の増大を行い、巨額の財政赤字と引き換えに、米国経済の立ち直りと、ソ連経済を大いに圧迫させた。1984年にブレジネフ書記長が亡くなり、KGB長官のアンドロポフが書記長に就任したものの、綱紀粛正をした後、病死し、チェルネンコも翌年亡くなった。

1985年3月、ゴルバチョフ がソ連最後の書記長に就任した。ゴルバチョフ時代の1986年4月、チェルノブイリ原発事故による広範囲の放射能汚染も発生した。1988年12月にはアルメニア地震が発生し、2万5千人の死者を出すなど天災人災にも悩まされた。この頃には、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになっていた。流通も停滞し、ある地域では農作物が腐り、都市部では食糧不足に苦しみ、行列に並ばないと配給が得られない状況であった。
ソ連の崩壊(ハイパーインフレ第1波)
ゴルバチョフ書記長は、経済立て直し(ペレストロイカ)を提唱し、ソ連の改革に乗り出した。チェルノブイリ原発事故をきっかけに情報公開(グラスノスチ)を進めた。1987年6月、企業の自主管理と独立採算制が決められ、1988年1月に国営企業法を制定した。これにより、国営企業がソ連経済の基本単位として自主裁量権が大幅に拡大した。しかし国の管理機構による締め付けが継続したため、混乱がおきてしまった。輸送は混乱し、生産はSTOPした。物不足によるインフレが進んでいった。1990年3月のリトアニア共和国の独立宣言以降、連邦は分解しつつあった。6月にはロシア共和国が主権を宣言し、モスクワに二重権力が発生した。8月、ゴルバチョフはエリツィンと組み、市場経済への全面移行のための500日計画を準備したが、経済の混乱と物資の不足は深刻度を増していた。地下経済での物価はどんどん高騰していった。1991年8月、クーデターが起き。ゴルバチョフ大統領はクリミア半島の別荘に拘束されるに至った。クーデターは失敗に終わったが、ロシア政府が力を持ち、連邦政府が求心力を失った。その後、バルト三国がど独立、12月にはロシア、ウクライナ、ベラルーシが独立し、独立国家共同体(CIS)を創設したことによって、ソヴィエト連邦が崩壊した。
ロシアに市場経済導入(ハイパーインフレ第1波)

エリツィンは、経済危機の打開をガイダール首相に委ねた。1992年1月2日、ガイダール首相は、価格自由化を宣言した。すると物価は急激に高騰した。(1年に7000%)これにより公務員、教師、年金生活者、軍人など生活できない人たちが続出した。1992年12月、ガイダールにかわって、石油産業をバックにするチェルノムイルジンが首相に就任したものの経済の混乱は続いた。国営企業の民主化にあたって、国民に国有財産の権利を証券にしたバウチャーが配布されたが、旧エリート層がバウチャーを二束三文で買い集め、国有財産を安く手に入れ、市場経済時代の事業家となった。資本主義の象徴として、モスクワにシティバンクとマクドナルドが出店したのもこの時期である。
1994年の突然のデノミ(ハイパーインフレ第2波)
ロシア政府は1994年突然通過勝ちを1000分の1に切り下げるデノミを強行した。これにより、誰もルーブルを欲しがらず、ドルを求めた。この時期、自国通貨(ルーブル)しか持っていない大多数の国民は生活水準を落とす一方で、裕福なロシア人が出現した。彼らはドルを持っていたのである。海外口座にドルを持っていた人は、数千倍の価値を持ったドルを国内に持ち込み、不動産を買いあさり、スーパーリッチと呼ばれるようになった。ロシアは新興国のひとつとして、外国から資金を得るために高金利である一方、国内の資金需要をロシア国債で賄ったが、経済基盤の復興が追いつかず、税収が全然足りなかった。1998年のロシア危機が到来するまで、一種のバブル経済になっていた。日本からも高金利につられて多くの金融機関がロシア国債を買っていた。
ロシア通貨危機、LTCM破綻(ハイパーインフレ第3波)
1998年8月、アジア通貨危機の余波がロシアに襲ってきた。ロシアは当時、ロシア国債に法外な利払いを保証して、外国に売り、国家財政の赤字を埋めていた。キリエンコ首相は8月17日に対外債務の90日間支払停止を宣言した。これによりルーブルは急落、ロシア国民はなけなしのお金を外国へ持ち出し、さらにルーブルは下落した。ロシア政府はこれ以上キャピタルフライトをさせないため、ロシアの銀行に対して預金封鎖を行い、貸し金庫の中に入っていたものも含めて政府に取り上げられた(外資系銀行のモスクワ支店を除く)。あまりに急激にロシア国債が暴落し、ルーブルが暴落したため、さすがのヘッジファンドの早足でも間に合わず、膨大な損失を出してしまった。LTCMの破綻による損失を拡大させないために、日米欧の大手金融機関が大勢集まって、奉加帳システムによる関係者全員痛みわけという、きわめて日本的なやり方で決着した。(当時、アメリカは奉加帳による日本の金融システム救済システムを激しく非難していた)ジョージソロスも逃げ切れず、数十億ドルの損失を出している。LTCMの破綻は、流動性のワナに落ちて、一旦下がったロシア国債を誰も買ってくれずに紙くずになってしまったため、対処できかったのである。ロシア国債は米国債とは市場規模が全く異なるのである。1995年の1ドル=80円から、1998年8月の1ドル=147円にまで円安に動かした大きな要因は、円キャリートレードであった。また、8月から10月の110円台にまで急激に円高に転換したのも、LTCM破綻に伴う円キャリートレードの解消であった。2007年2月の日銀による短期金利0・25%アップの後、世界中の株式市場ならびに先物市場、商品市場が暴落している原因の1つに円の金利アップによるリスクマネーの縮小と、円キャリートレードの巻き戻しが少し入ったのだろう。(本格的に巻き戻した場合、100円位になってもおかしくない)
ハイパーインフレを乗り越えたロシア国民
1998年当時、ロシア通貨危機を伝えるニュース映像で、年金暮らしをしている老婆と、アルコール中毒で病院でリハビリをしている中年男性の姿が対照的であったのを鮮明に覚えています。 老婆は、しきりに年金で食べていけないから、郊外の家庭菜園で採れたイモや野菜で食事を作っていた。郊外の彼女の別荘に行くと、お隣さんも同じように家庭菜園で野菜を作っていた。そしてお互い助け合っていた。彼女は共産党時代が懐かしいよと言っていたが、貧しいなりにそれなりに生活をしていた。ちなみに、とても太っていて、飢え死になるほど困っているようには見えなかった。一方、中年男は、かつて共産党員だったそうで、あまりの状況変化についていけず、アルコールに逃げてしまった。多くの仲間が貧困と未来に希望を見出すことができずに自殺したという。この話に関連した話で、連山のコラムに、「ロシアの人口減少」 西田知代: 2006/10/30 がある。女は強く、男は弱いということではなく、変化に強い人と弱い人がいるということである。ニュースでは出てこないが、国家破産した場合、治安の悪化は避けられない。
プーチン大統領の時代
2000年3月、大統領選挙に勝利したプーチンは、チェチェンに対して強硬路線を取ることで人気を得ていた。プーチン大統領 は、「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として愛国心に訴え、政府に対する国民求心力を強化している。いまのところ、経済的にはうまくいっているが、石油危機で潤った1970年代のソ連のように多くの矛盾が隠されている可能性は高い。
ロシアは約束を破る常習犯である(余談)
ロシアは外国と条約を結んでも、自国の都合で一方的に破る例が実に多い。国際社会の中では、国際条約など破るためにあるわけで、守るものではないと割り切らないと、うまく泳いでいけないとはいえ、他の欧米諸国と比べると多いため、肝心な時に約束を破る国だという認識でちょうど良いだろう。第二次大戦前の日ソ中立条約があったため、ソ連は東の日本から攻められる恐れがなくなり、安心して西のドイツと戦えたのですが、ドイツ敗北後、終戦間際の8月9日、満州や樺太を攻めて、多くの日本人(軍人や民間人)が犠牲となりました。日本のエネルギー問題で、サハリン1やサハリン2で騙されてもなお、ロシアに投資しよう、工場を作ろうとする連中のなんと多いことだろう。満蒙開拓団のように、みぐるみはがされるだけならまだましで、命を奪われることを考えた方が良いように思う。
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