オーストラリアの例は?
オランダ人のダーク・ハートグが、初めてオーストラリアへ上陸した。一六一六年、現在のインスクリプション岬に、エンドラヒト号を接岸した。だが、島は不毛の地で、風が強かった。この島はシャーク湾の列島の中にあって、現在では、ハートグ島と呼ばれている。ハートグは、上陸地点にシロメ(錫と鉛などの合金)の飾り版を置いたが、その飾り版は安置されてはいなかった。
一六九七年に、別のオランダ人、ド・フラミン船長が、インスクリプション岬に立ち寄って、ハートグの飾り板を取り除き、自分の飾り板を据えつけた。だが、後年に、ハートグの飾り板に戻された。
一七二二年、フランソワ・ド・サン・アルワーンが、インスクリプション岬に上陸し、正式にフランス領土だと宣言した。フランスのコイン二枚と羊皮紙一枚を、びんに入れて埋め、乗組員一名の遺骸も埋葬した。この不毛の地で、所有権を巡って争いが起きたとは想像しがたい。
一六九九年、イギリス人ウイリアム・ダンピアーが、シャーク湾と命名した。一八〇〇年代初期、ジェオグラフ号のボーダン船長と、ナチュラリスト号のハメラン船長、ふたりのフランス人探検家が、シャーク湾、および、海域の海図を、初めて作った。
一八二七年、イギリス人が、西オーストラリアに、初めて入植地を作った。入植地は、シャーク湾からかなり南方の、キング・ジョージ・サウンド(現在のアルバニー)と、スワン・リバー(現在のパース)だった。オーストラリア全土は、最終的に、大英帝国の支配下に入った。
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