マシンの創造のキーパーソンのひとり。
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- ヘテロ現象学 (Heterophenomenology)
- 他者の内省報告を観察データとして認める「ヘテロ現象学」(Heterophenomenology)を掲げ、行動主義に陥ることなく、観察可能なデータから第三者の立場を通して主観的意識の問題を扱えるとする。デネットは、意識(心)と物理的・神経的なプロセス(身体、脳)を異なる次元のものとして考えてきた、心身二元論というデカルト以来の哲学的伝統を覆そうとしているのである。
- 多元的草稿モデル(Multiple Drafts Model)とカルテジアン劇場批判
- 意識をつかさどる中央処理装置「カルテジアン劇場」(Cartesian Theater)の存在を否定し、それに代わるものとして意識の「多元的草稿理論」(Multiple Drafts Theory)モデルを提唱している。意識とは「カルテジアン劇場」のような中央処理装置をもたない、空間的・時間的に並列した複数のプロセスから織り出され構成されるものだとデネットは論じる(意識のパンデモニアム・モデル)。以上のようなプロセスを経て構成される意識を、デネットは「物語的重力の中心」(Center of Narrative Grativity)と呼んでいる。
- デネットは、人間の思考プロセスはコンピュータ(ジョン・フォン・ノイマン・マシーン)によってシミュレートすることが原理的に可能なものだと考える。したがって彼はチューリング・テストの意義を認めている。
- クオリアのような、第一者によって主観的にしか接近できない概念を、意識の科学的な解明には障害となるものだとデネットは批判している。
- デネットは自身の方法論的立場を物理主義あるいは自然主義と呼んでいる。デネットの自然主義的アプローチに対しては、ジョン・サール、デイヴィッド・チャルマーズやトマス・ネーゲルらが、意識の本質的な主観性に迫ることができないと反論している。
『ダーウィンの危険な思想』 [編集]
スカイフックとクレーン [編集]
デネットによれば、進化とは自然淘汰を通して作用する一連の単純な算術的計算すなわち
アルゴリズムのプロセスである。したがって「スカイフック(天からの恩寵)」と呼ばれるような説明し得ない飛躍はそのプロセスには存在せず、進化の中途で起こりえたすべては「クレーン」、たとえば
ボールドウィン効果のような事例を通して説明が可能であるとされる。デネットによって標的とされている反ダーウィン主義の代表的なものには、進化には連続性が途切れる地点があるとする
スティーヴン・ジェイ・グールドの唱えた
断続平衡説が挙げられる。
ライフゲーム [編集]
ライフゲームの例。
このプログラム(の動画)は複数のマス目で構成されており、各マス目(= セル・オートマトン)は皆同一種で、どれも以下の3つの単純なルールだけで作動している。
- 誕生: 白いセルの周囲に3つの黒いセルがあれば、次の瞬間にそのセルは黒になる。
- 維持: 黒いセルの周囲に2つか3つの黒いセルがあれば、次の瞬間もそのセルは黒いまま残る。
- 死亡: 上二つの場合以外なら、次の瞬間にそのセルは白いセルになる。
アルゴリズムが進化の原理として働くことを例証する際には、
ライフゲームが持ち出される。ライフゲームとは数学者ジョン・コンウェーによって考案されたコンピュータプログラムのことで、非常に単純な規則によって生成する図形群が、繰り返しその規則にしたがって変化をすることで結果的に予測不可能なパターンを産み出すことを明らかにする、
セル・オートマトンの一種である。同様にして、進化というプロセスも単純なアルゴリズムにしたがって多様な生物種を作り出すことができるのだ、と。
デネットのこのような進化観には、彼の知的同盟者の一人である
リチャード・ドーキンスの影響を色濃く見てとることができる。
進化のなかで産み出された意識 [編集]
人間の意識や言語能力といった高度な現象もまた、進化のアルゴリズムによって産み出されたことに不思議はないとデネットは言う。この点で、人間の言語器官が進化の結果生み出されたということを受け入れることにためらう
ノーム・チョムスキーのような論者が批判される。このような意識への見方は『解明される意識』から受け継がれているもので、
人工知能がいずれは意識を持つことも不可能ではないというのがデネットの主張だ。
『自由は進化する』 [編集]
- この著作においてデネットは、長年にわたって哲学上の問題であった、人間の自由意志と決定論世界観とをどのように調停するのかについての解答を提出しようとする。人間の行動を自由意志に基づくものだと考えるにあたっては、自由意志を支配するような決定論を排除しなければならないというわけではないということである。物理的な世界を支配する決定論的を完全に免れた純粋な自由意志なるものは、デネット自身の言葉を用いるならば、「カルテジアン劇場」あるいは「スカイフック」のように不必要な虚構なのだ。つまり自由意志とは、自然主義的な世界観のなかで決定論と共生するのが可能なものなのである。
- ある行為を判断するにあたって、どこまでが決定論的な因果関係から由来するもので、どこからが本人の自由意志によるものなのかを明確に境界付けること、そして決定論的世界観のなかに身をおくことのできないような純粋な自由意志というものを確保しようとすること(例えばリバータリアンが試みるように)は不可能であり、自然主義的な立場に立った上で決定論と自由意志は両立することを示したほうが整合的なのである。デネットによると、それらが共生しうることを示唆してくれるのが、ライフゲームの世界だ。この世界は単純なアルゴリズムによって生成するが、徐々に複雑で予測が難しいパターンの創発が生じていくのである。この世界はたしかに物理的な決定論にしたがって産み出されるものであるが、徐々に姿を現してくるそのパターンの十分な複雑さを考慮すると、そのなかに人間の自由意志を挿入する余地を見つけることができるということである。
- デネットによれば、人間の自由意志とは進化のプロセスによる産物であり、したがって人間の幸福を増幅させるのに寄与するものである。科学の発展を通して自由を自然主義的に理解することが人間の生活を向上させていくとデネットは結論する。
『スウィート・ドリームズ 』 [編集]
本書は90年代後半から2003年までに書かれたデネットの論文・講演を編纂し一冊にまとめたもので、心の科学と哲学に対する『解明される意識』以来のデネットの主張を見渡すことができるようになっている。
- デイヴィッド・チャーマーズをはじめとする心の哲学にたずさわる者たちの間で広く行われてきた哲学的ゾンビの思考実験に対して、デネットは一貫してそれを無意味なものだとしている。哲学的ゾンビとは、定義によれば、第三者にとっては意識をもつ普通の人間と行動的に区別することが出来ないにもかかわらず意識とクオリアを持たないものだとされている。しかし、ヘテロ現象学を掲げるデネットにとっては、行動的・客観的アプローチによって接近できない主観性といったものは意味を持たない。それでも哲学的ゾンビは論理的な存在可能性をもっているとする哲学者らの姿勢をさして、デネットはゾンビ的直感と名づけたのである。
- デネットが、それの持ち主である第一者によってのみ接近可能だとされるクオリアを心の科学において不必要なものだとする根拠は、認知科学者らによって行われた次のような実験の結果によっている。以下その概要を記す。
- 被験者らに2枚の写真を、それぞれきわめて短い時間(0.25秒〉、繰り返し見せる。それらは台所を写したもので、ただ一箇所の色の違い(キャビネットの扉が白から茶色に変わる)をのぞいては全く同じものである。被験者は普通20~30秒、数十回の反復を経なければ2枚の写真の差異に気づけない。そこでデネットは問いかける。その20~30秒のあいだ、被験者の色のクオリアは、彼らが白/茶/白/茶という色の変化に気づく前に変化していたのだろうか?可能な回答は次のようになる。(p.85)
- A.イエス
- B.ノー
- C.わからない
- なぜなら今となって、自分がクオリアという言葉で何を意味していたか分からなくなってしまったから
- 自分がクオリアという言葉で何を意味してきたかは分かっているが、この実験の場合では私自身のクオリアに第一人者的にアクセスできなかったから。(もちろん第三者にとってもこのクオリアに接近することは不可能だ!)
- いずれの回答においても、第一者の主観性(the first-person subjectivity)の下にクオリアを位置づける前提は失われており、それゆえヘテロ現象学がクオリアを扱えないと考える必要もないのだとデネットは言う。
- 色のない環境で育った色彩科学者マリーについての、1982年の論文 "Epiphenomenal Qualia"でフランク・ジャクソンが提唱した思考実験に対しては、『解明される意識』以来デネットは批判的であった。デネットにとって、マリーの部屋は哲学者たちを誤った結論(マリーがどれだけ色彩について知りえたとしても、実際に色を見るまでは「色を見るとはどのようなことか」を知ることはできない)に導く悪い思考実験なのである。
- デネットに従えば、色彩について知りうるすべてのデータを知っている科学者のマリーが、色を見るのはどのようなことかを、実際に色を見て経験する前に知ることは十分可能なのである。この結論をさらに強固にするためにデネットは、マリーをロボット(ロボマリー)に置きかえてみることを提案する。ロボマリーは、色彩について知りうるデータをすべて持ってはいるものの、彼女の目であるカメラは白黒である。このロボマリーが、カラーのカメラを取り付けられる前に、自前のデータを駆使して「色を見るとはどのようなことか」を推論し、経験することは可能だろうとデネットは言う。
- この著作では、意識の多元的草稿モデル(パンデモニアム・モデル)に対して、意識の評判モデルという新たなイメージが追加されている。人間の意識は、多数のニューロンが自己主張する錯綜した関係の中から生み出されるものであるが、この混乱した状況の中から、特定の内容が人間の意識の範囲内に現れ出るプロセスを、デネットは社会の中で特定の人物や事件が評判(fame)となって人々の目に付くようになるプロセスとなぞらえているのである。実際の社会において、そのように評判となった事柄は、他の事件の評判によって速やかに忘れられていくが、それと同様に意識の中に現れ出た内容も、他の多数のニューロンが自己主張する喧騒の中で、つねに忘却への淵に瀕している。以上のように、特定の内容が意識の注意を引こうとしてせめぎ合う状況を、デネットは「注意の引ったくり」(attention-grabbing)と名づけている。
『呪縛を解明する』(原題'Breaking the Spell', 邦訳未刊) [編集]
宗教と社会、生物学、進化論の関係を解明しようとするこの著作を始めるにあたって、デネットは、この本では
キリスト教とその
原理主義を中心としたアメリカの宗教環境が念頭におかれていると述べている(序文)。この問題について論じることは自分にとっては時期尚早だとデネット自身述べているが、現代のアメリカにおいてこのような考察をすることは緊急の課題であると感じたため筆をとったのだという。
- 他者の心、志向的対象(intentional object)と宗教
- デネットの考えでは、私たちが他者の心を了解することができるのは人間の志向姿勢(intentional stance)がうみだすユーザー・イリュージョンによるものである。進化のプロセスを経て形成されたこの志向姿勢は、しかし、意志を持たないランダムな対象に対しても、志向姿勢を投影することでそこに他者の心を読み取ってしまう(心理学者バラス・スキナーによる鳩の実験を参照)。志向的対象を形成するこの効果のおかげで私たちは、シャーロック・ホームズのように実在しない架空の人物に対してもあたかも彼が実在したように振舞うことができる。この志向姿勢が、制御不可能な対象である自然現象に対して投影されたときに発生する副産物が、神という概念なのではないだろうかとデネットは推論する。
- 信仰を信じること(belief in belief)
- ある宗教とその神を信じるという営み(礼拝などの宗教活動)は、行動レベルにまで還元すると、その宗教が真であってほしいと願う者の行動と区別することは出来ない。デネットの例にしたがって宗教を民主主義で置きかえて考えてみると、例えば私たちが選挙に行くとする場合、私たちは民主主義を信じているからそうするのか、それとも民主主義を信じることは正しいと信じてそうするのかを区別するのは難しいということである。「信仰を信じること」という概念を通してデネットは、信仰という行為のもつとらえがたさを指摘している。
- ドーキンスによって考案されたミーム(自己複製子)を用いてデネットは、おのおのの宗教はミーム選択のプロセスを経て形成・進化してきたのだろうと言う。しかし本書での宗教に対するデネットの姿勢は、ドーキンスの激烈な宗教批判(『神は幻想である』参照)と比べるとはるかに穏やかである。宗教も人間と文化の進化のなかで形成されてきたのだから、私たちはその生物学的起源、ニューロンの条件、宗教が人間に与える作用と副作用といった問題を科学的に解明していかねばならないとデネットは主張する。また、シャーマンによって始められた民間信仰(folk religion)がどのようにして組織化された宗教(organized religion)への発達をとげたのか、前者と後者を隔てる差異はどのようなものなのかを考察する必要も主張されている。
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