
韓国の国旗が、6か国協議に見えてきた・・・
日韓がうまく調整すれば、核問題、拉致問題は解決するのでは?
真ん中の大極マークが、日韓に見えてきた。
周りの卦が、4カ国・核麻雀に見えてきた・・・
天 月
大極
日 地
---Wikipedia
大韓民国の国旗(だいかんみんこくのこっき)は通称太極旗(たいきょくき)と呼ばれる。白地の中央にある円で「太極」を表し、その中に赤と青の2色からなる「陰陽」があり(青部を上に掲揚するのは逆さであり誤りである)、その周囲四隅に「卦」が配置されたデザインとなっている。
太極旗は李氏朝鮮の高宗時代、1883年旧暦1月27日に朝鮮国の国旗として公布され、1949年10月15日に大韓民国の国旗として採用された。
制定当初の太極旗の実物は本国に残っておらず、アメリカのスミソニアン博物館所蔵の1884年製の太極旗が実物サイズでもっとも古いものである。また、それを絵で伝えたものが他国の史料のなかに残されている。従来、太極旗の八卦を四卦に減らし左に45度傾けたデザインは朝鮮の特命全権大使兼修信使である朴泳孝が1882年8月に日本に向かう船の中で考案されたものとされてきたが、1882年7月に米海軍省 (Navy Department) の航海局 (Bureau of Navigation) が発行した『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations) 第5版に収録されたものが2004年に発見され、現在のところ、公式に視認できる最古のものとなったため、朴泳孝以前にすでに考案され使用された可能性が出てきている。デザインは現在のものと若干の違いがあり、現状のものに確定するまでに細かく変遷しているようである。初期のものの中には太極円内の陰陽が赤黒のものなども存在し、卦の大きさや位置、太極の構図などが細かく換えられたりするなどして現在のデザインに落ち着いた様である。
李氏朝鮮の国旗制定が具体的な問題として浮上したのは、1880年、日本から帰国した修信使金弘集らが清の駐日公使館参事官黄遵憲が書いた『朝鮮策略』を持ち帰ってからである。『朝鮮策略』はロシアの南下政策に対して朝鮮がアメリカと連合すべきとする書物であるが、ここではじめて朝鮮の国旗の図案についての言及があり、朝鮮が清の冊封国であることを強調するため、清朝旗のように龍を図案に入れることを主張している。そこで李氏朝鮮は国旗制定にあたり、清の助言を求めたところ、北洋大臣李鴻章は朝鮮国王の御旗である画龍方旗が清の黄龍旗と似ていることからこれを国旗としてもよいのではないかとした。具体的な国旗の図案についての議論が行われたのは、検証されなかった設によれば、1882年4月、朝米修好通商条約締結を斡旋するために訪れた清の馬建忠と金弘集の会談においてである。その筆談の内容を記録した『清国問答』によると第1次会談で馬建忠は条約締結において国旗が必要であり、朝鮮人の服色である民の白、臣の青、王の赤にちなんだ白底青雲紅龍の図案を提案し、金弘集はこれを了承している。しかし、第2次会談において金弘集は青雲と紅龍は作るのに手間がかかるため、赤地に青と白が交わった円の図案はどうかと述べたが、これに対して馬建忠は地は白で中央に半紅半黒の太極文様を描き、その周囲に朝鮮八道を象徴する八卦を配した古太極図の図案を提唱し、金弘集はこれを受け入れたとされている。ちなみに「清国問答」は日本新時代社週刊「橋樑」2002年7月15号に引用されているが、原本の存在は疑わしい。原本の存在が確認された根拠によれば,1882年10月2日、日本の日刊新聞『時事新報』が 根拠となる。「中国の馬建忠が朝鮮の国旗は清国の国旗と似たもようを使うことを指示した。 これに国王は憤慨して、絶対に中国の国旗をまねないといって他の模様を作ることを指示したという。」[1] 太極旗製作年度のような時期の、外国でみた客観的な資料で、価値が大きいと言える。
その2か月後、壬午事変が起こり、日本との間に済物浦条約が結ばれた。済物浦条約の規定に従い謝罪の使節として朴泳孝らが派遣された。朴泳孝がその4か月間のことを記した日記『使和記略』によると8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスに八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45度傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したとされる。以上が四卦太極旗製作に関する通説であったが、上記のようにこれより早く四卦太極旗を描いたと思われるアメリカの史料が発見されたため見直される可能性がある。
翌1883年旧暦1月27日(3月6日)、統理交涉通商事務衙門の指示によって八道四都に通知され、太極旗が正式に国旗として使われるようになった。
白地は平和の精神を表し、中央の赤と青からなる「太極円(太極文様)」は、陽・陰がひとつになり万物を創造する、創造の精神を表しているとする。まわりの四卦は向き合っているもので一つの意味を持っているとする。乾()が天、坤()が地の無窮の精神を表し、坎()が月、離()の日の光明の精神を表しているとする。

伏羲先天八卦の生成
これは儒教経典の一つである『易経』繋辞伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の宇宙生成論に由来しており、円で表される天地未分の太極の中に両儀=陰陽が生じている様子を描き、四方に配されている四卦は、八卦を代表する四正卦(乾・坤・坎・離)であるとともにその初爻と第二爻で両儀から生じる四象(太陽・少陰・少陽・太陰)を表し、いわゆる伏羲の先天図である。太極旗と呼ばれ、朱子学にもとづいた先天太極図(古太極図)系統の太極図―いわゆる陰陽魚の太極図―ともいえるが、卦を大きく配して四象を兼ね、より先天図としての特徴が分かりやすい図案になっている。先天太極図と比べてみるならば、まず一般的に白黒で配色される陰陽が、韓国国旗では赤青で彩色されている。また先天太極図に特徴的な陰中陽と陽中陰を表す魚眼が欠けているが、これは魚眼部分が表す坎・離の卦を円外に配して円内は純粋に陰陽両儀のみを表しているためで、先天太極図が円内に太極-両儀-四象-八卦すべてを重ねる構図であるのに対して韓国国旗は太極と両儀、四象と八卦を重ねつつ順に四方へと広げていく構図といえる。周りの卦は伏羲先天八卦方位に配されているが、八卦を四卦に減らしたために四正卦の南北東西が上下左右に配置される先天太極図とは異なり、左上・右下・左下・右上の四隅に配置されている。
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