



二者で対峙すると衝突しやすい。勝負になりやすい・・・
その場合の衝突回避方法のひとつが、
陰陽大極図に象徴される陰陽大極連星・・・
だから、夫婦の仲を取り持つのは子供、子はかすがい・・・ つまり、三角関係になることを意味します。
三角形は、その本質からして、安定しやすい。
家屋を建てるときに、四角い場所に斜めの板を渡す・・・ 名前は何だったっけ?
そして、武家と公家の衝突の回避こそ、右三つ巴+左三つ巴だと思う。
右三つ巴は、武の象徴
左三つ巴は、文の象徴
だと思う。
文武両道の象徴こそ
右三つ巴+左三つ巴
つまり、六つの要素の回転である。
陰陽大極連星(1対1)
右三つ巴+左三つ巴(他にもダビデの星、六芒星などもある)
これらは、安定というコンセプトにとって、重要である・・・
Creator Aoyagi YoSuKe
左三つ巴の西園寺公望さんは、「平和主義者」だったんだ・・・
軍部の力が日増しに強くなり、日本はきな臭くなってきていた。
西園寺さんが91歳で亡くなった1年後に「太平洋戦争」に突入した。
死の直前まで
「この国は、どこへ行く」などと憂えていたとされる。
また公望は西園寺家家紋である「左三つ巴」を立命館学園が使用することを許可しており、第二次世界大戦終戦までこれを染め抜いた旗が実際に学園で使用されていた。
---Wikipedia
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。
官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、東京や長崎でフランス語の勉強を始めた。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて大村益次郎の推薦によって明治4年(1871年)、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。京都に来ていた大村に礼を言うために旅館を訪れる直前、親友(万里小路通房)が駆け込んできて長談義となり、その間に大村は襲撃されるという事件が起こっている(明治2年)。
フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。
普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、かわって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真ただ中にパリに到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後にフランス首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民、松田正久らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺はソルボンヌ大学で勉学にいそしむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。なお、第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿ですごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。
パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、明治14年(1881年)3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、明治天皇の内勅がでるとあっけないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は彼の生涯にわたる世界観、政治観を端的にあらわしているともいえる。
西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。西園寺は絶対天皇制の持つやがては皇室の存続をも危うくさせる危険性を早くから見抜いていた。西園寺のような感性をもった政治家を他に見出すことは難しい。
生涯権力や金銭に対する執着は乏しく、この淡白な性質は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったといえよう。この点で彼は終生の政敵山縣有朋とは対照的であった。
また、3人の内縁の妻を持ち、女子を儲けている一方、生涯正室は娶らなかった。はっきりした理由は西園寺自身述べていないが、名門西園寺家の当主であった彼は、娶るならば皇族、公家、大名家などの姫でなければならず、自由人であった西園寺がこうしたしがらみを嫌ったためとも言われている。
明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという。
---広辞苑
北沢八幡は、右三つ巴がある・・・ 八幡の神は、応神天皇を首座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰された。
そして、個人的に、中国霊帝の末裔、阿智王の印として、以下を使用している。
A business that makes nothing but money is a poor kind of business.
-Henry Ford
金しか作らないビジネスは不毛な類のビジネスだ
- ヘンリー・フォード
金しか作らないビジネスは「あだ花」を咲かして枯れるのみ
- 青柳洋介
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