スジャータが乳粥を運んでくるのと似ている。
スジャータとは?
【梵】ぼん
①(梵語 brahman)
ア) インドのバラモン教における宇宙の最高原理。ブラフマン
イ) その原理を神格化した最高神。ブラフマー。梵天。
②天竺(てんじく)・仏教に関する物事に冠する語。「梵語・梵唄(ばい)」
【Buddha-gaya 梵・仏陀伽耶】
インド東部。釈尊成道の聖地。ナイランジャナー(尼連禅河(にれんぜんが))の河畔。
釈尊は苦行6年の後、菩提樹下で正覚を得て仏陀となった。
注)このときに、スジャータが乳粥を与えたのかな?
やはり、そうだった・・・
P.S.(めいらく)
釈迦は6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと理解する。修行を中断し責めやつしすぎた身体を清めるためやっとの思いで付近のネーランジャー川(尼連禅河)に沐浴をしたとき、たまたまスジャータが森の神に供物の乳糜(牛乳粥)を捧げるために付近を通りかかり、川から上がったもののまさに命尽きようとしていた釈迦にこの供物を捧げた。
Aoyagi YoSuKe
Creator
そして、タイのお寺、インド、エルサレムなどへ、意識が飛んだ・・・
さまざまなことが思い出された・・・
初めてバリ島に行って、パラダイスを見たこと。ジョクジャカルタのプランバナン、ボロブドゥール。インド映画の「ムトゥ、踊るマハラジャ」まで・・・
調べたいことは、タイのお寺について、モーゼとユダの王、バビロンの王について・・・
○タイのみっつのお寺
ワット・プラケーオ
エメラルド仏を安置している
暁の寺
チャオプラヤ沿いにある
チェンマイの寺
ブッダの手(ジャックフルーツ)がある
○エルサレム(モーゼ、バビロンの王、ユダヤの王)
モーセ(ヘブライ語: מֹשֶׁה Mōšeh、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses, Moses、アラビア語: موسىٰ Mūsā)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者。当時、イスラエル人はエジプトで奴隷として使役されていたが、モーセは数々の妨害を打破して、彼らをエジプトから連れ出すことに成功した。
紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。
ヘロデ(ヘブライ語:הורדוס、英語:Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)。70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った。
///パレスチナ問題
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で、三すくみ状態になっている?
---Wiki
タイ、ラオスにおけるワット (วัด) とはパーリ語の avasa ないしサンスクリットの avasatha を由来とする言葉で、寺院を意味する言葉である。
定義
通常「ワット・○○」という形で、固有名詞の上に冠して用い、それが寺院であることを示す、あるいは、「ワット」単独で寺院一般を意味する。
ワット自体は寺院を意味する一般的な言葉であるため、ワットを冠する施設が絶対にタイ・ラオス的な上座部仏教施設であるとも限らない。たとえば、バンコクにあるワット・シーマハーウマーテーウィーのようなヒンドゥー寺院はワット・ケーク(インド人の寺)と呼ばれ[1]、ヴィエンチャンにあるヒンドゥー寺院もワット・ケーク、ノーンカーイにあるヒンドゥー寺院もワット・ケークと呼ばれている。バンコクにあるカルワリオ教会(聖ロザリー教会)はキリスト教会であるにもかかわらずタイ語ではワット・カーンワー(カルワリオ寺院)とワットを冠して呼ばれている[2]。また、バンコクにある中国・チベット寺院、ワット・ポーメーンクンナーラームもワットを冠して呼ばれている[3]。
一方、モスクは、マッサイット (マスジドの訛りมัสยิด) 、スラオ (สุเหร่า) などと呼ばれ通常、ワットを冠さない。
なお以下では混乱を避けるため、仏教寺院のみについて記述する。
概要
タイではワットは法人格を有している[4]。住職が一人置かれることになっている。寺院の管理はこの住職と寺院の周辺住民からなる委員会によって行われる[5]。住職がいなく僧が住んでいなく、管理が行われてない寺院は廃寺 (วัดร่าง) と呼ばれる[6]。
近世以前、近代的学校教育が普及するまでは学校として機能、また、現代では宗教行事のみならず、祭りが行われたり社交場としても機能している[7]。
構造
布薩堂、本堂、仏塔のある寺院(ナーン県のワット・プラタートチャーンカム)
通常以下のような施設を備えている。
布薩堂 (โบสถ์ หรือ อุโบสถ)
後述の「本堂」とよく似ているが、周辺に結界石 (เสมา) と呼ばれる石が置かれている[8]。この布薩堂は主に出家の時に使われる。
本堂・仏堂 (วิหาร)
本尊が設置されている建物である。
仏塔 (เจดีย์ หรือ ปรางค์)
貴人の骨や仏舎利などが安置される仏塔である。
三蔵庫 (หอไตร)
三蔵経を保管する場所。
説法所 (การเปรียญ)
元々は僧の学習のためのスペースであったが、現在では説法などの際俗人にも開放されている。
モンドップ (มณฑป)
通常壁のない四角い建物で尖塔がある。経を唱える場所である。
太鼓台 (หอกลอง)
警報用の太鼓を設置するところ。
鐘台 (หอระฆัง)
警報用の鐘を設置するところ。
庫裏 (กุฏิ)
通常、上記の施設より隔離されたところに置かれる僧が一般生活を送る施設である。
---Wiki
ワット・プラケーオはタイにあるエメラルド仏を安置したことのある寺が名乗る俗称。以下たくさんあるが、通常は1.を言う。
ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(現在エメラルド仏が安置されているバンコクにある寺院)
カムペーンペット歴史公園にあるワット・プラケーオ。
チエンラーイにあるワット・プラケーオ (チエンラーイ)
ワット・プラケーオドーンタオスチャーダーラーム・・・ラムパーン県にある寺院。
またヴィエンチャンにある、ワット・ホーパケーオもエメラルド仏を安置していたため誤ってこのように呼ばれることがある。
---Wiki
ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(英語:Wat Phra Sri Rattana Satsadaram、タイ語:วัดพระศรีรัตนศาสดาราม)はタイのバンコク・プラナコーン区にある仏教寺院。王宮の敷地内にある。通称ワット・プラケーオ(英語:Temple of the Emerald Buddha、タイ語:วัดพระแก้ว)。
歴史
1784年ビルマ軍に備え、ラーマ1世がトンブリ王朝をクルンテープ・マハナコーンへ移されるのと同時に、当時の建築技術を最大限に利用して建設された。
概要
プロマピマーン宮殿やチャクリー宮殿などと接する。本堂にはエメラルド仏が安置されている。王室専用の仏教儀式の場であるため寺には庫裏などの僧侶が生活するための施設がなく、僧侶もいない。現在は観光地にもなっていて、内外から毎日たくさんの旅行客が訪れる。
主な建物
本堂
エメラルド仏を安置する。
プラ・シーラッタナチェーディー
金色の仏舎利塔。
プラ・モンドップ
経堂であり、三蔵経を納めている。
プラサート・プラテープ・ピドーン(ロイヤルパンテオン)
ラーマ1世から8世までの彫像を安置。
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ワット・アルンラーチャワラーラームは、タイ王国のバンコクにある寺院。アルンは暁の意味である。三島由紀夫の小説『暁の寺』の舞台ともなり、チャオプラヤ川の川沿いにたたずむ姿はバンコクを代表する風景にも数えられている。またワット・アルンは現在の10バーツ硬貨にも描かれている。一般にはワット・アルンの名でも知られる。また英語においてはTemple of Dawnと呼ばれているが、これが三島由紀夫の暁の寺の由来になったと考えられている。
ワット・アルンラーチャワラーラームは、創建についての記録は見つかっていないが、アユタヤ朝のペートラーチャー王時代にフランスの軍人によって描かれたチャオプラヤー川流域の地図にあることから、少なくともそれ以前に建てられていたことがわかる。当時の呼び名はワット・マコーク、その後ワット・マコークノーク、ワット・マコークナイと名を変えたが、1767年のアユタヤ朝滅亡後、この地を掌握したタークシンにより修復され、名前をワット・ジェーンとした。そしてトンブリー王朝の王宮寺院となった。
後のバンコク王朝(チャクリー王朝、現王朝)の創始者ラーマ1世は、トンブリー王朝時代の1779年にタークシン王の命を受け、ヴィエンチャンを攻略、そして、戦利品としてエメラルド仏を持ち帰り、この寺院内に安置された。しかし、1782年にバンコク王朝ができ、エメラルド寺院の建立に伴い、エメラルド仏はイッサラスントーン親王(後のラーマ2世)によってエメラルド寺院・ワット・プラケーオに迎えられた。寺院はその後、ラーマ2世により1820年ヒンドゥー教の暁神アルーナから現在の名称となる。以降ラーマ2世の個人的な保護を受け、ラーマ2世の菩提寺となった。
この寺院で最も特徴的なトウモロコシのような形をした大仏塔はバンコク様式で、高さは75m、台座の周囲は234m(異説あり)。中心の大塔を4つの小塔が取り囲み、須弥山を具現化している。大塔の上方にはインドラ神が三つの頭を持つ象アイラヴァータ(タイ語でエラワン)の上に鎮座しているのは、須弥山山頂の忉利天を表している。塔の表面は陶器の破片で飾られ、さらに基壇の部分にはラーマキエン物語に登場する鬼やガルーダ、ハヌマーンが飾り付けられている。このような陶器を用いた建築の装飾は中国美術の影響によるもので、ラーマ3世時代に多く用いられたものである。塔は19世紀、ラーマ2世のころから建設がはじまり、ラーマ3世のとき完成し、現在みられる姿となった。
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ムアンチエンマイ郡はタイ・北部にある郡(アムプー)。チェンマイとも。チエンマイ県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラーンナータイ王国の首都として、メンラーイ王により1296年4月12日建造された。王国の首都として古くから発展し、ラーンナータイ王国が廃止された現在でも北部の文化・経済の中心である。人口では東北部のナコーンラーチャシーマーを下回るが、その歴史の長さや都市の格から、一般にバンコクに次ぐタイ第2の都市とされている。
名称
チエンマイとは「新しい街」という意味である。これはマンラーイ王が都を建設した際には、すでにチエンラーイ(「マンラーイの街」という意味)があり、これに対して新たに建設されたチエンマイを「新しい街」と称したのが、チエンマイの名の由来である。また美名としてノッパブリーシーナコーンピンチエンマイ (นพบุรีศรีนครพิงค์เชียงใหม่) という呼称があり、意味は「新しい街吉祥なるナコーンピンたるチエンマイ」である。この為ナコーンピン (นครพิงค์) という名称が用いられたこともあった。
歴史
13世紀頃までさかのぼることのできる歴史あるワット・チエンマン
ランナータイ王国の首都はもともとチエンラーイであったが、メンラーイ王によってグレゴリオ暦で1296年4月12日午前四時をもって公的にチエンマイに遷都された。この日時は宮廷の天文学者や占い師が選定した時間である。このときスコータイからラームカムヘーン王を呼び、パヤオからはガムムアン王を呼んで、都市計画を練り上げた、この為、都市の建設の様式にスコータイ的な要素が混ざり、それまで、ラーンナー世界で一般的だった川沿いに都市を建てる様式(チエンセーン、チエンラーイなど)とは違い、川から少し離れた場所に碁盤の目状に建てられている。なお、現在残る市街地の城壁がこのころのマンラーイの時代の遺跡なのかメーク王の時代の遺跡なのかは分かっていない。
チエンマイの建設には以下の要因があった。まず、北にあった元の侵攻を避けること、コーク川に面したヨーン地域にアクセスがよく、北上すればすぐマンラーイの母体であったヨーン地域の支配に不便でなかったこと、またチエンマイは、ピン川の上流にありピン川はチャオプラヤー川、またその向こうのタイランド湾に通じており、中国との貿易に有利であった。
その後、チエンマイはラーンナー王朝の首都として発展を遂げたが、ラーンナー王朝は1558年ビルマのタウングー王朝により属国化された。ただし、征服者のバインナウンは引き続きチエンマイをラーンナー地域の首都とした。1701年にはラーンナー地域はチエンマイを中心とする南部地域と、チエンセーンを中心とする北部地域に分けられ、チエンマイは南部地域の首都となった。
18世紀後半には、ビルマの求心力が低下し、ラーンナー地域は内乱状態に陥り、1780年までにチエンマイは疲弊し瓦礫と化した。一方カーウィラは1796年に、チエンマイに残っていたビルマ勢を一掃し、チャクリー王朝の後援の元、チエンマイを再興した。これが現在のチエンマイの骨格となっている。その後、1899年、チエンマイは君主をかかえたまま、内務省の下位の行政組織、郡(アムプー)となった。
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ワット・プラタートドーイステープ=ラーチャウォーラウィハーンはタイ北部チエンマイ県にある仏教寺院。1383年にラーンナータイ王朝の6代目クーナー王によって建立された。通称ワット・ドーイステープ。
ドーイ・ステープ=プイ国立公園の内側で、チエンマイ市を見下ろすステープ山(ドーイ・ステープ)の山頂に位置し、市街地から寺院の門までは舗装道路が整備され、自動車で行くことができる。門から山頂までは、2匹のナーガ(竜王)が彫られた306段の石段がある(設置時の数で、現在の段数とは異なる)。寺院には金色に輝くチェーディー(仏塔)があり、仏舎利が収められている。
寺院までの道路は1935年に、高僧シーウィチャイ (ครูบาศรีวิชัย) によってわずか4ヶ月22日間で建設された。その功績を称え麓には記念碑がある。また寺院内には黄金の像が奉られている。
山門から寺まではケーブルカーがあり、石段を登らずに寺院に入ることもできる。
毎年五、六月頃に麓から寺院まで水を担いで登る年中行事があり、ソンナームプラタート(สรงน้ำพระธาตุ)と呼ばれる。毎年多くの人々が参列する。
プラタート・プラチャムピークート
プラタート・ドーイステープはプラタート・プラチャムピークートの一つであり、未年生まれの人が巡礼に訪れるべき場所とされる。巡礼に置いては以下の経文を唱えることが推奨される。
สุวัณณะเจติยัง เก สะวะระมัตถะลุงคัง วิรัญญะธาตุง สุเทวะนามะกัง นะระเท เวหิสัพพะปูชิตัง อะหังวันทามิ สัพพะทา
スワンナチェーティヤン・ケー・サワラマッタルンダン・ウィランヤタートゥン・ステーワナーマカン・ナラテー・ウェーヒサッパプーチタン・アハンワンターミ・サッパター
---Wiki
モーセ(ヘブライ語: מֹשֶׁה Mōšeh、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses, Moses、アラビア語: موسىٰ Mūsā)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者。ユダヤ教・イスラム教・キリスト教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー)の著者であるとされてきた。
『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトのヘブライ人家族に生まれたが、新生児を殺害することを命じたファラオの命令を逃れるためにナイル川に流され、王族に拾われて育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神(エホバ)の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた。エジプトから民を率いて脱出したモーセは40年にわたって荒野をさまよったが、約束の土地を目前にして世を去ったという。
『旧約聖書』におけるモーセ
『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた[1]。当時、イスラエル人はエジプトで奴隷として使役されていたが、モーセは数々の妨害を打破して、彼らをエジプトから連れ出すことに成功した。シナイ山(あるいはホレブ山)で神から十戒を授かってイスラエル人に与えたので、立法者と呼ばれている。モーセとイスラエルの民は、40年もの間シナイ半島の荒野をさまよい、約束の地カナンにたどり着くが、モーセ自身はカナンを目前にして120歳で没したという。『出エジプト記』はモーセの誕生に筆を起こし、エジプト脱出と十戒および律法の制定に終わっている。
『出エジプト記』によれば、モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオはイスラエル人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女(一説にはハトシェプストとも言われる)が通りかかって彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ひきあげる)から「モーセ」と名づけた。
成長したモーセは同胞であるイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。ミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている。現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。
エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶し、なかなか許そうとしなかった。そのため十の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ(『出エジプト記』14章)。
その後、モーセはシナイ山で神(大天使ミカエルと言う説あり)から石版2枚の十戒を受けた。
『出エジプト記』に続く『レビ記』『民数記』『申命記』はその後のモーセの生涯と律法の内容について記している。モーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課す[2]。
モーセもまたメリバの泉で、神の命令に従わなかった(岩を杖で二度打った)ことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れのことばを残した[3]。そののちモーセはピスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら世を去った。その墓所は伝わっていないとされている。没年齢は120歳[4]。
イスラム教におけるモーセ
『クルアーン』(コーラン)ではアラビア語でムーサー (موسى Mūsā) と呼ばれる。イスラム教の聖典『クルアーン』では、モーセすなわちムーサーは過去の預言者のひとりにして、ユダヤ教徒の共同体に神(アッラーフ)から使わされた使徒として登場する。ムーサーは『クルアーン』において諸預言者の中でも最も偉大な預言者であるとみなされており、ムスリム(イスラム教徒)はムーサーを「神と語る者(カリームッラーフ)」と尊称する。
ムーサーの名は『クルアーン』中において非常に多くの個所で言及され、特に、第28章「物語」は全編がムーサーの物語になっている。『クルアーン』によれば、ムーサーはエジプトで生まれ育ち、のちに「聖なる谷」で神の声を聞いて預言者となった。また、彼の兄であるハールーン(アロン)もムーサーを補佐するための預言者とされる。ムーサーとハールーンはエジプトのファラオに唯一なる神を信仰するよう求め、神の偉大さを伝えるために杖を蛇に変えるなどの奇蹟を示すが、ファラオに拒絶されたためにイスラエルの民を連れてエジプトを離れた。出エジプト物語は『聖書』と基本的に同じであり、シナイ山(アラビア語ではムーサー山と呼ばれる)で、ユダヤ教徒に対して与えられた啓典であるトーラー(律法)を神から授かったという。
クルアーンのムーサーの物語では、ユダヤ教徒たちがムーサーの言うことを聞かず、時に偶像をあがめたことについて非常に詳細に言及されており、このようなクルアーンの、正しい神に選ばれた使徒ムーサーに従わないユダヤ教徒に対する批判的な言及が、歴史的なムスリムによるユダヤ教徒に対する差別心、敵意の原因のひとつとなったと指摘されることも多い。
ムーサーはイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。また、ムーサーという名はムスリムに好まれる男性名のひとつとなっている。
モーセと『聖書』
『創世記』から『申命記』にいたる『旧約聖書』の最初の五書は長い間、モーセの手によるものと信じられ、「モーセ五書」とよばれていた。当然、丁寧に読んでいれば「モーセの死をモーセ自身が書けるのか?」といった疑問は出るものの、長きに渡ってモーセが著者であることは自明のこととされてきた。しかし近代以降の批判的聖書研究(文書仮説)の立場では、モーセが書いたという見解は否定されている。
モーセと芸術作品
絵画・彫刻
キリスト教美術においてはモーセは通常老人の姿に描かれることが多い。
中世ヨーロッパ美術においてはモーセはしばしば角のある姿で描かれる(画像参照)が、これはヴルガタ訳の描写をもとにしたためである(『出エジプト記』 34:29-30, 35)。元来、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「角」を意味する語は「輝く」という意味にも解釈可能であり、現在の『聖書』翻訳では後者の意味で訳出される。
映画
モーセと出エジプトをテーマにした映画も多い。代表的な作品に以下のものがある。
セシル・B・デミル監督による『十戒』(演:チャールトン・ヘストン)、1956年(アカデミー賞特殊効果賞受賞作)
ブレンダ・チャップマン監督による『プリンス・オブ・エジプト』、1998年
---Wiki
『出エジプト記』(しゅつえじぷとき、英語:Exodus)は、旧約聖書の二番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。モーセ五書(トーラー)のひとつであり、ユダヤ教では本文冒頭の言葉から『シェモース』と呼ぶ[1]。全40章から成る。
構成
エジプト脱出とシナイ山での契約が二つの大きなテーマとなっている。
エジプト脱出
ヤコブ後のエジプトにおけるユダヤ人の状況(1章)
モーセの物語(2章 - 4章)
ファラオとの交渉と十の災い(5章 - 11章)
民のエジプト脱出と葦の海の奇跡(12章 - 15章)
シナイ山への旅(16章 - 19章)
神と民の契約
十戒の授与(20章)[2]
契約の書(20章 - 23章)
契約の締結(24章)
幕屋建設指示とその規定(25章 - 28章)[3]
儀式と安息日の規定(29章 - 31章)
金の子牛(32章 - 33章)
戒めの再授与(34章)[4]
安息日と幕屋の規定(35章 - 39章)
幕屋の建設(40章)
成立
『出エジプト記』はエジプト脱出の物語に後から契約の内容と細かい規定が組み合わされて完成したと考えられている。モーセ五書の配列で『出エジプト記』の次にあたるのは『レビ記』であるが、『レビ記』は全編が宗教的規定に関しての書であるため、『出エジプト記』は内容的にはその次の『民数記』へ繋がっているといえる。
なお、22章18にある「呪術を使う女はこれを生かしておいてはならない」という部分が『欽定訳聖書』では「魔女」(witch)と訳され、この『聖書』が広く読まれたことで、魔女狩りの『聖書』における根拠とみなされることになった。
ちなみにキリスト教において旧約聖書という時、「旧約」すなわち古い契約というのはこのシナイにおける神と民との契約のことをさしている。
---Wiki
ヤコブ(英語:Jacob、ヘブライ語: יעקב, Ya'akov, Ya‘aqôbh, ヤアコーブ、アラビア語: يعقوب, Ya‘qūb ヤアクーブ)は、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。別名をイスラエル (ישראל, Israel) といい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。
聖書におけるヤコブ
『創世記』によると、父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラハム。
ヤコブは兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われることになって逃亡する。逃亡の途上、天国に上る階段の夢(ジェイコブズ・ラダー〈Jacob's ladder〉という言葉の由来)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せ、やがて財産を築いて独立する。
兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で神と格闘したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが後のイスラエルの国名の由来となった。
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。 晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。 エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。
ヤコブの子ら
ヤコブは4人の妻を持ち、12人の息子と1人の娘がいた。
ラバンの娘レアの子 - ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、一人娘であるディナ
ラケルの下女ビルハの子 - ダン、ナフタリ
レアの下女ジルパの子 - ガド、アシェル
レアの妹ラケルの子 - ヨセフ、ベニヤミン
彼らがイスラエル12部族の祖となったといわれるが、話は少し複雑である。まず、レビ族は祭司の家系であって継承する土地を持たないので12部族には入らない。またヨセフ族はなく、ヨセフの息子エフライムとマナセを祖とするエフライム族、マナセ族が加わることで十二部族となっている。このうちユダ族とベニヤミン族、レビ族以外の10部族は北イスラエル王国滅亡後に歴史から姿を消し、「イスラエルの失われた10支族」(イスラエルの失われた10部族)と呼ばれることになる。
クルアーンにおけるヤコブ
イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)では、ヤコブすなわちヤアクーブは過去の預言者のひとりとして登場する。
しかしクルアーンにおいてヤアクーブは、彼自身を主人公とする物語ではなく、息子のユースフ(聖書のヨセフ)に関連する物語の中で言及される。クルアーンではユースフの物語は第12章「ユースフ」で一章を用いて詳しく述べられており、ヨセフが兄たちによって捨てられ悲嘆に暮れるという物語は共通している。ヤアクーブは愛息を失った悲しみのあまり盲目となったが、神(アッラーフ)の与えた運命を耐え抜いて神への信頼を守った。のち、エジプトに渡って立身したユースフと再会し、預言者であるユースフのもたらした神の奇蹟により視力を取り戻す。
ヤアクーブの名はムスリム(イスラム教徒)に好まれる男性名のひとつである。ヤアクーブの名をもつ代表的な人物は曖昧さ回避ヤアクーブを参照。
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バビロン捕囚(バビロンほしゅう)は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。
概要
紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。
エホヤキムの息子のエホヤキンが王国を嗣いだが、ネブカドネザル王は謀反を恐れ、エホヤキンや王族をはじめとしてエルサレム市内の若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させた。その数は10,832人に達したという。エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、紀元前586年エルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行された。
ユダの捕囚民
ユダの捕囚民の大部はバビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(『エゼキエル書』による)。この地域はかつてアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは減少した人口を補うためであったと考えられる。一方で職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ主としてネブカドネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事することになった。
『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達はこのバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。これに対しエレミヤとエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。しかし、上述した如く紀元前586年にエルサレム神殿が破壊されると、ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。
ユダヤ人とバビロニア文化
すぐに故国に帰れると言うユダヤ人の希望は幻と消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は現地の文化の著しい影響を受けた。1、2世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)の例に見られる如く王族の間ですらその傾向は顕著であった。
また月名にバビロニア月名が採用された。旧来のユダヤ月名は「第一月」「第二月」のように番号でもって呼称されていたが、これが「ニサン月(第一月)」「イヤル月(第二月)」のようにバビロニア名でもって呼ばれるようになった。
そして文字文化にも大きな影響が齎された。旧来の古代ヘブル文字に変わってアラム文字草書体が使用されるようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるようになった。
オリエントの強制移住
古代オリエント社会においては、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わるものではない。紀元前592年に捕囚民に対して与えられた食料の供給リストがバビロンから出土しているが、このリストにはユダ王エホヤキンやユダヤ人ガディエル、セマフヤフ、シェレミヤフなどの名前とともツロ人、ビュブロスの大工、エラム人、メディア人、ペルシア人、エジプト人、ギリシア人などの名が上げられており、広範な地域から人間が集められた事がわかる。
ユダヤ人のバビロン捕囚はこういった強制移住政策について今日最も詳細に記録が残されたものとして重要性を持つ。
バビロン捕囚の終焉
新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに打倒された紀元前537年に、ペルシア王キュロスの命令によって、ユダヤ人たちは解放され、故国に戻る許可を得た。捕囚の地から最初にエルサレムに帰還したものは42,462人という。
こういったことからユダヤの知識人は当時キュロスを大いに称えた。
「主は彼の油が注がれた者(使わされた者)クロスに向かい、かく語りたもう。我は彼の右手を支え、諸国民を彼の前に屈服せしむ。我は諸王の腰を解き、二つの扉を持つ門を彼の前に開かん。門は閉ざされることなし。我は汝の前に行き、起伏ある所を平地となさん。我は真鍮の門を粉砕し、鉄の閂を断ち切らん。我は汝に暗闇の宝物、秘所に隠された富を与える。其は汝を汝の名によりて呼ぶ我、主がイスラエルの神なることを汝が知らんためなり。我が僕ヤコブのため、我が選びしイスラエルのため…」
– 旧約聖書『イザヤ書』
ただし、こうしたユダヤ人の解放にも関わらず相当数のユダヤ人はバビロニアに残留する道を選んだと考えられる。ユダヤ人がバビロニアに強制移住させられて以来既に半世紀以上の歳月が経過しており、多くのユダヤ人達は現地に根を下ろしていたし、その多くはもはやバビロニア生まれであり、実際には一度も見たことの無い「故郷」への帰還を約束されても容易に決心の付かなかった事は想像に難くない。
王族をはじめ、パレスチナに帰還した人々(その最初の指導者はシュシバツェル(シェナツァル)であったと伝えられる)は破壊されたエルサレム神殿(第二神殿)を再建し、ペルシアの支配に服した。
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嘆きの壁(なげきのかべ、英語: Western Wall, アラビア語: حائط البراق, ヘブライ語: הכותל המערבי)は、エルサレム神殿のいわゆるヘロデ神殿の外壁の一部。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった
概要
訪れた人々が壁に触れて祈りをささげるため、人の背の高さの壁部分が黒ずんでいる
紀元前20年、ヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。
名称について
古いユダヤの書物の中に「神殿の西壁(western wall of the Temple)」との言及がある。しかしこの記述が「嘆きの壁」を指すのか、それとも神殿群の別の壁を指すのかは不明である。現在の「嘆きの壁」に関するものとして最も古い記述は、11世紀の詩人en:Ahimaaz ben Paltielによるものとされる。現在広く使われているWailing Wallの名称は1917年にイギリス人によってつけられたとされ[1] 、これは19世紀のヨーロッパの旅行者が、この壁を「ユダヤ人が嘆く場所」(英語:wailing place of the Jews, フランス語:Mur des Lamentations, ドイツ語:Klagemauer)と呼んだことに由来する[2][3] 。なお、「嘆きの壁」の単語自体は古くからのアラビア語el-Mabka(「涙の場所」の意)の直訳である[4] 。「嘆き」とは、神殿の破壊を嘆き悲しむために、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現している。なおイスラム教の預言者ムハンマドが、彼を乗せて天に昇った動物「ブラーク」をこの壁につないでおいたという伝説があり、1920年代に壁の所属をめぐってアラブ人とユダヤ人の間の緊張が高まった際、アラブ人はこの壁をal-Buraqと呼んだ。[1]
歴史
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嘆きの壁の歴史は、紀元20年頃ヘロデ大王が改築した神殿の西壁として始まる。
70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った。
バル・コクバの乱により、ユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止されていたが、ミラノ勅令により4世紀以降、1年に1日の立ち入りが許可されるようになる(詳細不明)。
1967年の第三次中東戦争以降、ユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りが許されるようになる。
広場の最近の損害
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関連項目
ヘロデ大王
エルサレム
エルサレム神殿
神殿の丘
スレイマン1世
ユダヤ教
ユダヤ戦争
嘆きの壁事件
バル・コクバの乱
---Wiki
ヘロデ(ヘブライ語:הורדוס、英語:Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)は、共和政ローマ末期から帝政ローマ初期にユダヤ地区を統治した王(在位:紀元前37年 - 紀元前4年)であり、ローマとの協調関係を構築してユダヤを統治。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王、あるいは大ヘロデと言われる。
生涯
「ヘロデのイェルサレム占領(The taking of Jerusalem by Herod the Great, 36 BC,)by Jean Fouquet, 15世紀後半
古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロスという武将がいた(イドマヤはハスモン朝によってユダヤ教化させられた土地であり、ユダヤ人からは軽視されていた、と書かれている)。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功した。
ヘロデはカエサル死後の混乱したローマの政治情勢を読みきって、ローマとの友好関係を維持することに成功。ガリラヤ地方の知事として統治した。父アンティパトロスがマリコスというユダヤ人に毒殺されると、即座に彼を捕らえて処刑しているが、ヘロデの専制的なやり方はユダヤ人最高法院の反感を招くものであった。
ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。政教一致政権であるハスモン朝において大祭司でもあったヒルカノスの甥アンティゴノスがパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。エルサレムにいたヘロデの兄パサエロスも捕らえられて命を落とした。ヘロデはヒルカノス2世の孫娘であるマリアムネ1世を妻としてハスモン朝との関係を作っていたが親ローマであったため身に危険がおよび、ガリラヤから当時クレオパトラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求めてアレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡った。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されてローマの軍勢を貸与され、エルサレムへ向かった。エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落。紀元前37年、ヘロデはついにローマ皇帝に従属することを約束して、ユダヤの分封王となることができた。
アントニウスがオクタウィアヌスに敗北すると、ヘロデはすかさず勝利者へ乗り換えた。ヘロデはローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤であることを熟知していたのである。王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺することであった。BC37年に最後のハスモン王アンティゴノスをローマ人によって処刑させた。そして、ヘロデは、BC34年頃妻マリアムネの弟アリストブロスを暗殺し、BC29年に妻マリアムネを処刑し、BC28年に彼女の母であるアレクサンドラを処刑し、BC7年にマリアムネとの間に生まれた自分の二人の王子アリストブロスとアレクサンドロスを処刑した。また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院の指導的なレビ族の祭司たちを迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、宗教的な問題のみを裁くようになる。
ヘロデは都市計画において業績を残した。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた。それだけでなくヘレニズム君主としてパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになった。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのはソロモン王を超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。
ヘロデ大王の最晩年は後継者問題が彼の頭を悩ませた。また、エルサレム神殿に金の鷲をすえようとしたため、ユダヤ教指導層と対立することになった。紀元前4年、死去。
なお、キリスト教の歴史認識においては、キリスト教の教典である新約聖書のマタイによる福音書に、新たな王(救世主)の誕生を恐れたヘロデ大王が二歳以下の幼児を虐殺(幼児虐殺)させたため、イエスと両親がエジプトに避難したという記事がある。しかし、歴史的な裏づけはない。ただし、この描写が福音書記者の時代のヘロデに対する一般的な認識を反映している可能性はある。
ヘロデの死後、遺言に従って息子のアルケラオ(アルケラオス)とヘロデ・アンティパス、フィリポスと三人の兄弟たちが後を継いだ。ユダヤ人たちはローマに使者を派遣して、ヘロデ王家の支配を廃してくれるよう要請したが、聞き入れられなかった。しかし、アルケラオが王を名乗ることは許されなかった。後にアルケラオは失政を重ねたため、住民によってローマに訴えられ、解任されてガリアへ追放された。その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の兄弟たちも父のように王を名乗ることはゆるされなかったが、分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認められた。
墓の所在
ヘロディウム(南西方向より)
ヘロデの墓については、エルサレム近郊のヘロディウムに人工的に作られた山に存在するとされてきたが、確証は得られていなかった。しかし、2007年5月7日に、ヘブライ大学の研究チームがヘロデの墓を発見したと報じられた。
関連項目
聖書の登場人物の一覧
古代イスラエル
ユダヤ属州
アグリッパ1世
アグリッパ2世
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