イタリアには石の住まいの世界遺産がある。廃れていたが、価値を見直されて、修復が始まった。
そして、世界遺産に登録された。今、7割の住まいに人が住んでいる。洞窟住居
人が住まなくなると、家はすぐに廃屋になる。幽霊屋敷になる。
実は、住まいとは、住人と一緒になって、生きているのである。
だから、人が住まなくなると、急激に廃屋になってしまう。
同様に、人が集まるから、街ができる。
建物を作っても、人が集まらなければ、廃屋になる - かんぽの宿
すべての道はローマに通ず - クレオパトラ
ローマは一日にして成らず - カエサル
クレオパトラは美人というよりは、才媛であった。数ヶ国語を操った。
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人物

ベルリン美術館蔵 「クレオパトラ7世頭部」(紀元前40年頃)
歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、複数の外国語(メディア語・エチオピア語・シリア語・パルティア語・アラビア語・ヘブライ語など)に通じた、知的な女性と伝えている。ちなみに、容貌については「彼女の美貌そのものはけっして比類なきものではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女は魅力的であったが、それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方によるものであったと言われる。美の基準は人、地域、時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、絶世の美女ではなかったようだ。ベルリン美術館所蔵の頭像(右図)はこの事実を裏書していると思われる。
キケロはティトゥス・ポンポニウス・アッティクスへの書簡(紀元前44年6月付)の中でクレオパトラについて「女王は嫌いだ、こんな連中と関りたくない」と記した。ローマ市民のクレオパトラへの印象が窺える文章といえる。
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは、クレオパトラ7世がその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら(※逐語訳すれば、短かったら 鼻参照)歴史が変わっていた」と評した。ただし、これは誤解に基づいている。(最も、パスカルはこの話を単に例えとして記述しているに過ぎない。「人間とは、またその存在が紡ぎ出す歴史とは、何か少しを変えてしまうだけで何もかもが変わってしまう。それほど、それらは絶対的指針を持たぬ流動的で儚いものなのだ」という思想を体現する形で、『クレオパトラの鼻の例え』が用いられた。)
パスカルに限らず、後世の多くの人から世界で最も美しい女性であったと認識されている人物である(ハリウッド映画などでも名うての美人女優が演じる役と決まっている)。そのため、「実は美人ではなかった」という見解が、たびたび研究者によって発表されている。近年も、イギリスのBBCニュースで話題になった[4]。
映画や挿絵などでエジプト人のような姿で描かれることがあるが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であり、クレオパトラもギリシア人風の姿である事が多かったようである。むろん、エジプトの女王であった事から、エジプト風の格好をすることもあったようである。同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルと、エジプト風のオカッパスタイルの、両方が残っている。なお、オカッパスタイルの髪型は、カツラであると思われる(古来エジプト人は髪を短く切っていたため、女性のオカッパの長髪はカツラによるものである)。
トルコのエフェソスにおいて、妹アルシノエ4世のものと考えられる墓所と遺骨が発見されたとの説もあるが、クレオパトラ自身の墓はまだ発見されていない。
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ウィーン・美術史美術館にあるカエサルの胸像
ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Julius Caesar, 紀元前100年頃7月13日 - 紀元前44年3月15日[1])は、共和政末期の政治家、軍人であり、文筆家。
三頭政治と内乱を経て終身独裁官となり、のちの帝政の基礎を築いた。「来た、見た、勝った」「賽は投げられた」「ブルータス、お前もか」などの引用句でも知られる。
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エジプトにて
カエサルとクレオパトラ
ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先王プトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟が争っており、両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス派から攻撃を受けた為、クレオパトラの側に立って政争に介入し、ナイルの戦いで、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス派を打ち破った。この戦いで溺死したプトレマイオス13世に代わって、プトレマイオス14世がクレオパトラと共同でファラオの地位に就いた。
北アフリカ、ヒスパニア戦役
エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスが、ポントス王国のファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。紀元前47年6月、カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシリアやキリキアを抑えつつ進軍、同年8月2日、ゼラの戦いでファルナケスを破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に、「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici.)」との言葉があった。そのあとローマに短期間滞在した。その際、1年間の独裁官(ディクタトル)に任命された。紀元前46年4月、北アフリカを支配していたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカやカトーなど元老院派をタプススの戦いで撃破した。
紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは、市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラをローマに招いており、クレオパトラはカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたティトゥス・ラビエヌスやポンペイウス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
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