八幡宮の祭神。応神天皇を主座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰された。やわたのかみ。
トンカス天の両目は右三つ巴。
土方歳三の家紋と同じ・・・

西園寺公望公の家紋は左三つ巴。
(Wikipedia)
官を辞した西園寺は公家風の名を嫌って「望一郎」と改名した後、大村の推薦によって1871年、官費でフランスに留学した(後に減額を申し出ている)。その礼を言うために大村を訪れる直前、親友が駆け込んできて長談義となり、その間に大村益次郎が襲撃されるという事件が起こった。
フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。
普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、かわって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真ただ中にパリに到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想を吸収していった。その間、後にフランス首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民、松田正久らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。なおその後パリ講和会議に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿ですごした親友クレマンソーの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。
パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、1881年3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権に加担するのは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。
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(出典)
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_h.html
左巴と右巴

巴は正しくは鞆絵で、弓手の手首につける鞆の形、あるいは鞆に描かれた文様からきているという。また渦巻きや蛇の形に起源するともいい、諸説あって未だ定説がない。
鞆絵は最もふるい文様の一つで、また同時代の絵巻物などには、この文様の描かれていないものはないといってよいほど流行した文様である。平安後期には西園寺実季がこれを自家の車の文様に定めたといい、家紋としても最も早い図柄であった。頭部の回転方向が左のものを左巴、右回転のものを右巴という。
この左右の区分は、平安時代の儀式に用いた太鼓の鞆絵模様に起源する。すなわち「江談抄」によると、左の太鼓は三つ鞆絵、右の太鼓は二つ鞆絵を用いたとある。また「四天王寺聖霊絵巻」には、左側に左三つ巴、右側に右二つ巴の太鼓を配置している。当時の故実としては、左方は左の三つ巴、右方は右二つ巴の文様を描き、座位を区別していたので、巴の左右の文様が、平安時代の儀式の太鼓方の左右を表示したものであった。とはいえ、時代により、家によって右左は混在していることも事実だ。
西園寺 藤原氏北家公季流 三つ頭左巴 左旋回
梅 園 藤原氏北家公季流 三つ頭右巴 右旋回
大 宮 藤原氏北家公季流 三つ頭右巴 左旋回
長 尾 桓武平氏良文流 三つ頭左巴 右旋回
小 山 藤原氏北家秀郷流 二つ頭右巴 右旋回
板 倉 清和源氏足利氏流 三つ頭左巴 右旋回
大久保 藤原氏北家宇都宮氏流 三つ頭左巴 右旋回
(現在は、時計の針の進む方向を右回りといっているようだ)
巴を家紋として用いた場合、巴の左右はその数の多少とともに、家の嫡庶・本末の区別にも利用された。西園寺嫡流は「左三つ巴」を用いたのに対し、その庶流家は右三つ巴を使用している、などはその例だ。
【左:左三つ巴/右:右三つ巴】[資料:日本紋章辞典/歴史と旅383号]
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阿智王 アチョー Acho
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青柳洋介
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