ナの国王へ渡したのが金印。
ナとは? 私のことです、ナ?

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金印(きんいん)は金でつくられた印章のこと。東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証しとして、その定められた地位に応じ玉印・金印・銀印・銅印などが与えられた(印綬)。日本では、福岡県福岡市東区の志賀島で発見された「漢委奴国王印」が最も著名であり、国宝に指定され福岡市博物館に収蔵されている。また、金印が発見されたとされる場所には現在金印公園がある。
ヨーロッパにおいては、皇帝の出す文書に金印が付された。(→金印勅書参照)。
現在の日本の国璽・御璽は金印であり、京都の印章職人によって作成された。
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漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある。また漢倭奴国王印とも書く。
天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国糟屋郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)南端・叶崎の「叶ノ浜」で出土。福岡藩主黒田家所蔵だったが、1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈され、福岡市博物館で展示されている。1931年(昭和6年)12月14日に国宝に指定されている。
印文と解釈
3行に分けて篆書で「漢〈改行〉委奴〈改行〉國王」と刻されている。
「委」は「倭」の減筆、つまり「委国」は「倭国」と解釈され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。一方、「委」には「まかせる」の意味があり、「倭」の減筆か疑問視する声もあり、
「漢の倭(委)の奴(な)の国王」説 - 落合直澄、三宅米吉[5]など[6]
委奴を「いと・ゐど(伊都国)」と読み、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じる説 - 藤貞幹、上田秋成、久米雅雄、柳田康雄など
という論がある。
倭と奴の発音は
倭 - 上古音 uar 中古音 ua 近古音 uo 現代音 uə
奴 - 上古音 nag 中古音 no(ndo) 近古音 nu 現代音 nu
であり[7]、漢代の漢字音(上古音)では奴をド、トとは読めないというのが定説である。 上古北方漢音(漢代の方言)が存在したとして、奴を「ど」と読む久米雅雄説[8]もあるが少数説である。
古田武彦は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣である倭奴国王(倭国王)の印綬とするが、学術論文として提示された説ではなく、研究者による検討、批判の対象とはされていない。
中国史との比定
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
– 強調引用者
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者に対しては、諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。
1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは58年に光武帝の第9子で広陵王であった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高い。これが真実だとすれば偽造説は完全に否定される。
発見とその後
発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ただし近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である。
田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥[9]によって『後漢書』に記された金印であると同定された。
その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に保管・展示されている。
金印の出土地および発見の状態については、中山平次郎の努力によるところが多い。中山は、現地の踏査、黒田藩の古記録および各種の資料の照会を行い、その出土地点を現在の志賀島東南部とした。推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による記念碑が建立された。しかし、1958年と1959年の2回にわたり、森貞次郎、乙部重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の考古学的調査が行われた。その結果、金印出土地点は、中山の推定地点よりも、北方の叶ノ浜が適しているとの疑問が提出された[10]。
偽造説と反論
形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、近世に偽造された偽物であるとの説もある。
印綬の形式が漢の礼制に合わないとして、私印説・偽造説もある(西嶋定生、宮崎市定、三浦佑之など)[11]。
それに対し、高倉洋彰は漢代の印制にない蛇鈕の金印を偽造するのは不自然とする。
また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「広陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が、製作されたとして辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の鏨(たがね)によって打ち出されている。
文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
を指摘している[12]。
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