1/03/2009
淡島温泉
ついつい、元気になって、温泉話・・・
昔、東京に初めて来たとき、東武練馬だったったが、くりからもんもんのおじさんがたくさんいた。
入浴料は、55円。国電の初乗りが30円だったはず。すぐに銭湯も、国電も値上がりしたが・・・
元気になって、湯船につかって、世間話・・・
背中に般若や龍を背負う正統派のやくざやさんはいなくなった・・・
清水の次郎長のような、悪代官を懲らしめて、町民からお賽銭をもらう。本来のやくざやさん・・・
暴力団は、マフィアそのもの・・・
般若はお釈迦さまの世界、龍は天地をつかさどる中国の龍神に端を発する・・・
そんな恐ろしいものを背中に背負ったら、命がいくつあっても足りない・・・
湯から上がって、番台のおばちゃんと世間話・・・ おばちゃんは、だんだんと昔に帰るよ・・・
いや、おばちゃん、昔に帰ることはできない、昔のいいところは取って、新しい昔を創らないと・・・
まさか、お湯を沸かすのに、山へ芝刈りには行けないでしょ?
いっそのこと、江戸時代まで遡って、混浴になれば、毎日でも来るよ・・・ お、あそこのおねえさんは、いろっぽいな~~~、でも、おそらく、松明だから、暗くてよく見えないんだろうけど・・・
三助を雇って、いくら? 50文? よっしゃ~~~
カルピスを湯上りに飲んで、お湯で酔っぱらった~~~
安い~~~、淡島温泉、450円、庶民の味方~~~
Creator Aoyagi YoSuKe
元気にになりすぎて、酢ダコでビールを飲もう・・・ 包丁を落として、先が折れた~~~
折れた部分は、フローリングの床に突き刺さっていた。ペンチで引き抜いた。足に落ちなかったのが、不幸中の幸い・・・ 笑い
さ、飲むぞ、食うぞ~~~
よし、今日は正月料理の食い納めだ~~~、数の子、里芋、筑前煮、、、飲まば喰らえ~~~
丹波の黒豆は意外とうまいな~~~
酢ダコ、里芋、黒豆、田作り、昆布巻き、終了! 五丁上がり
かまぼこ、ネギなども残っているので、雑煮を作ろう・・・
正月明けには、赤字決算書、および、青色申告書を作成する。そして、廃業届と、開業届を提出する。
「手順」に従って、「成り行き」を見ながら、「調整」しながら、ことを「進める」のみ・・・
ノーナシは、相手にしない・・・ ムダだということが分かった・・・
コスト・パフォーマンスの最低限を超えない場合は、リーズナブルと呼べない・・・
「判断基準」は、「諸般の事情」を鑑みて、「リーズナブル」か、否か・・・
それだけ・・・ 無意味な先送りは、国益を害するだけ・・・
おしまい
〆
残り野菜などを使った簡単雑煮
材料:白菜、ネギ、春菊、ミツバ、カマボコ、卵、切りもち2個
作り方: いりこ、かつぶし、コンブでだしを作る。味付けは醬油のみ・・・
白菜など硬い部分を早めに入れる、切りもちを入れて、だいたい煮えたところで、ネギ、春菊を入れる。
卵でとじるのとほぼ同じタイミングで、ミツバを入れて出来上がり・・・
世界は終末を迎えた・・・
末法の世になった・・・
対策)
今のうちに贅沢をしておこう。温泉旅行だ~~~
週末温泉・杜甫5分
淡島のソバ屋、松月庵で、ビールと、天ぷらそばと、ごはんを食べた。
そして、蕎麦屋のそばの淡島温泉に行ってきた。
週末温泉・杜甫5分、徒歩5分で、気軽に贅沢・・・
週末温泉 Take Five、ちょっとだけよ、贅沢だよ・・・
そして、帰り道、魚屋で、マグロの刺身と、しらすを買った。
箱根の温泉じゃないが・・・
まずは、夕食、そして、温泉へ、、、そして、また、刺身などで、ちょいと一杯・・・
週末温泉・杜甫5分、Take Five、徒歩5分
そして、温泉につかりながら、テポドン対策を考えた。
ありゃ、そう言えば、チェルノブイリ原発事故の後、伊豆・長岡温泉であった人工知能ワークショップで・・・
スイス人と同室になった。チェルノブイリ原発事故の後だったためか、彼はガイガーカウンターを持っていた。
すげな~~~、スイス人は? 放射能の灰が日本まで飛んできていないか、確認しているのかな?
自身の身は自身で守る。軍隊を持ち、永世中立国のスイス。安全に対しては、敏感だ。
考え方も、時計のように精密だ。だから、金持ちは安全性を考慮してスイス銀行に金を預けるのだろう。
ホリエモンも、かなりの額をスイスの銀行に預金しているようだ。ただし、個人名義で入れているといえども、会社代表として入れているので、自分の金ではない、と言っていたが・・・
ま、金持ちの話はここまで・・・
ワークショップが終わって、食事なども済んだ。夜、その会場を抜け出して、浴衣姿でお散歩・・・
なんじゃ~~~、ラーメン屋ばかりじゃん・・・ 怪しいな、何を売っているのだろうか?
ご想像にお任せします。
僕は、酒とつまみをちょいと頼んで、くさやを持ち帰った。スイス人に食わしたら、食った。おそらく、チーズを食うので、くさやも食えるんだろうな、と思った。
それは、それとして、、、
専守防衛のために、ガイガーカウンターを入手しなければ・・・ おそらく、アキバ天国に行けば、買えるはずだ。
核弾頭付きテポドンが東京上空で爆発したら、ガイガーカウンター片手に、放射能汚染の影響が少ない場所へ避難する。おそらく、風上方面に逃げればよいのだろう・・・
広島の原爆実験に際しては、米軍も放射能汚染の危険性を十分に把握していなかった。よって、原爆投下後の調査時に、米兵も被爆した。
広島の原爆実験から得られた貴重な情報である。
個人でできるテポドン対策は、これくらいかな?
最悪ケースを考えて、有り金は全部使ったほうが良いのかも?
あの世へ、金は持っていけません。地獄であろうと、天国であろうと・・・
さすがに、温泉は効果がある。テポドン対策ができた。
核弾頭付きテポドンが、新宿御苑に配備されているミサイル防衛システムで、迎撃されて、東京上空で爆発した場合を想定して、脱日の準備にかかる。
正月に飲み残した、福島産、日本酒 寒おろし 大七 純米 生酛(きもと)を飲んでしまう、マグロの刺身をつまみにして・・・
身辺整理だ~~~、ガイガーカウンターも購入しなければ、アキバ天国で・・・
脱日に備えよう・・・
危険だ~~~、ニッポン株式会社・・・ リスク・マネジメント(危機管理)
そして、このような事態が発生した時に、会社などで、何が起きるか?
羊頭狗肉の立派な看板がオンパレードする・・・
そっくり、、、前いた会社と・・・
グレゴリオ暦、2001年は? 脱社のトキ
エチオピア歴、2001年は? 脱日のトキなのかも? すでに、脱日しているのかも?
確定するのが、少し先なだけで・・・ 会社へ、退職届を出した日は過ぎているから・・・
がんの放射線治療など、ごたごたあって、退社の日付が伸びただけ・・・
ニッポン株式会社が、テポドンで焼かれて、放射能汚染されるのでは?
そんな感じだ・・・
テポドンは、エノラゲイの息子である・・・
2001年7月10日に、癌を告知された(グレゴリオ暦)、つまり、6日後
2001年7月10日(エチオピア歴)は?
2009年3月19日(グレゴリオ暦)のはず・・・
ということは、2009年3月18日(大安)にすべてが決着するのでは?
そして、3月19日(赤口)に、ニッポンの癌が公にされる。告知されるのでは?
Creator Aoyagi YoSuKe
おまけ) 春望 杜甫
春望
原文 書き下し文 訳
國破山河在 国破れて山河在り 国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
城春草木深 城春にして草木深し 城内(長安)では春が訪れ草木が青く茂っている。
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ 時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、
恨別鳥驚心 別れを恨んで鳥にも心を驚かす 家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。
烽火連三月 烽火 三月に連なり 幾月[※ 1]が経ってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、
家書抵萬金 家書 万金に抵る 家族からの手紙は万金にも値する。
白頭掻更短 白頭掻けば更に短く (心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど抜け落ち、
渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す まったくかんざしをさすのもたえかねそうだ。
「目からウロコ」の意味が分かった~~~
近場の淡島温泉へ行った。
背中が痛くて、限界~~~
そして、温泉から出た。
あら、別世界~~~、世界がくっきり見える・・・
昼間に温泉に入ったので、その効果がはっきりと分かった。
効果的面、目からウロコ
血行が良くなり、老廃物が飛んで行った~~~
他にも分かったこと。
今、PCが2台ある。1台は椅子。もう1台はカーペットで、胡坐。
椅子に座りすぎると、腰が痛くなる。胡坐をかきすぎると、背中が痛くなる。
よって、半々に使うのがバランスが良い。
血行が良くなると、このようなことも気づく。
そして、なぜ、腰と、背中が痛かったか、その理由も判明した。
同じ姿勢なので、すじが固まっていた。湯船ですじを伸ばすと、ずいぶん楽になった。
お得な温泉、近場の温泉、激安、450円。
湯上りには、プロテインの補給のために、牛乳を飲む。120円。
安くて、贅沢な温泉ツアー・・・
満足・・・
それで、これから、ビールに飯だ~~~
帰りに、魚屋で、しじみを買った。味噌汁にした。
マグロの作も、昨日、買っていた。
さあ、夕飯だ~~~
ご飯は、冷凍物をち~~~ん
でわ・・・
Aoyagi YoSuKe
下北はこの一枚だけ
森厳寺の銀杏
レイライン
富士山(霊峰) - 高尾山(天狗) - 秋葉(天国か地獄) - 涸沼(龍神)
涸沼の龍神を祭っているのは、厳島神社のようだ・・・
涸沼の龍神が祭ってある厳島神社は、安産の神さまでもあるようだ・・・
住所が子生877
だって・・・
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---Wikipedia
涸沼(ひぬま)は、茨城県中部の鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町にまたがる那珂川水系の湖沼。
地理 [編集]
涸沼は、東茨城台地、鹿島台地に囲まれた所に位置し、上流から笠間市を水源とする涸沼川や大谷川などが流れ込む。下流側では涸沼川[1]那珂川に合流し、そのすぐ先で海と通じており、満潮時には海水が涸沼川を逆流し、淡水と海水が混ざりあう汽水湖となっている。また、那珂川の氾濫時には淡水が涸沼に流れ込み、地形的に遊水地ともいえる。なお国や県では涸沼川の一部分という見解が一般的である。
流域面積:439km²、湖面積:9.35km²、流域人口約161,000人。
利用 [編集]
漁業 [編集]
シジミの生産が盛んであり(1999年全国第4位)、涸沼沿岸では直売営業所も見られる。また、マハゼなどの魚の漁も盛んである。
農業用水 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
その他 [編集]
涸沼北部に涸沼自然公園などの公園施設がある。また、釣りやキャンプ、ウィンドサーフィンなどのレジャーなどに利用される。
生物相 [編集]
植物 [編集]
涸沼では、398種の植物が確認されている。
昭和40年代までは、ヨシやマコモなどの水生植物が群生していた。しかし、下記に示す湿地の干拓やコンクリート護岸工事などによって、群生地が減少、ミズアオイ、ミズワラビ、タコノアシが絶滅の危機に瀕している。
鳥類 [編集]
涸沼では、86種の鳥類が確認されている。
涸沼では、シジミや小魚が豊富であり、鴨や雁などの水鳥が多くみられる。また、シギやチドリなどの渡り鳥が湿地などによくみられる。さらに、冬場には猛禽類であるオオワシやオジロワシも見られる時がある。
魚類 [編集]
涸沼では、105種の魚類が確認されている。
涸沼は、全国的に珍しい汽水湖であるため、フナ、ナマズなどの淡水魚やハゼ、ボラなどの回遊魚など多種多様な魚を見ることができる。
昆虫類 [編集]
涸沼では珍しいヒヌマイトトンボといわれるイトトンボの一種が確認されている。
貝類 [編集]
涸沼ではヤマトシジミの全国的な産地となっている。しかし、護岸工事などで年々漁獲高が低下している。
河川 [編集]
流入河川 [編集]
涸沼川
若宮川
///
(出典)
http://business2.plala.or.jp/ibarakit/hinuma/
涸沼の名称
『常陸国風土記』香島郡条の香島郡の範囲を記した部分に、
北は那賀と香島との堺なる阿多可奈湖
とみえる。「阿多可奈湖」は「アタカナコ」とは訓(よ)まず、「アタカナノミナト」と訓むのが通説である。
「阿多可奈湖」の位置については、涸沼にあてる説(『新編常陸国誌』など)と那珂湊の古名とする説(『大日本地名辞書』)などがあり、たとえば、『新編常陸国誌』は、「阿多可奈湖」とは「暖湖」といぅ意味で、涸沼が「水勢疾カラズ、水留滞シテ清冷ナラズ」という状態であるところからこう名付けられたとしている。
ただし、涸沼説にせよ、那珂湊説にせよ、一長一短があり、いずれにしても、古代の地形が、現在の地形とそっくりそのまま同じであったとは、とうてい考えられず、おそらくは現在よりは入海化していたものと思われるから、「ミナト」は「水門を」の意で河川の河口を指し、「阿多可奈湖」とは、「古の那珂川の河口で涸沼はおそらくは其跡であらう」(松岡静雄『常陸風土記物語』)と考えるのがよい。涸沼を含む古の那珂川の河口を「阿多加奈湖」といったのである。
『将門記』に「吉田郡蒜間之江辺」とみえる「蒜間之江」が涸沼を指すことは異論がない。この蒜間について中山信名は「亦日中ヲ比留麻ト伝ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤタシカナラズ」(『新編常陸国誌』)と述べている。その他、涸沼の名称を近世文書等から拾うと、「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまである。中山信名も「粉々弁ジ難シ、タダコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人伝ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ笠間、長岡ノ辺、伝ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ伝ヘタルモノナリ」(『新編常陸国誌』)と記しているから、「ヒルマ」の名は古代から近世までよく伝承されていたのであろう。
◆涸沼の位置・面積
茨城町の東部に位置し、中央境界をもって茨城町、大洗町、旭村に属している。湖盆の中心の位置は北緯36度16分30秒、東経140度30分である。
湖水面積9.35k㎡ 、湖岸延長20km、最大水深6.5m、平均水深2.1m、流入河川は大谷川・石川川・涸沼川など7。湖盆形態は、湖を親沢鼻と弁天鼻とを結ぶ線を境として西側、湖前部の副湖盆、沼の大部分を占める主湖盆、それに北東端の湖尾部の三部分に分ける説と主湖盆に湖尾部を含んでしまい二大別して主湖盆と副湖盆とにする考えとがある。いわゆる湖尾部の「みお」は水深が深く、6mにも達する。
◆涸沼の魚
富栄養湖の涸沼の魚類相は、海産魚と淡水産魚の混棲という特徴をみせる。とくに、昭和30代までは、北方系のニシン漁で賑わったが、近年、コイやウナギの漁獲量も減少の傾向にある。魚類相の変化の原因については、干拓工事による生息場所や産卵場所の減少も一因といわれるが、沼全域の水質の汚れも見逃せない。
湖にひろく分布する魚は、ハゼ、ボラ、カムルチー、ウナギ、ドジョウ、フナ類、ナマズ、シラウオ、ワカサギ、サケなどで、沼の東部に限られて記録された魚は、ヒラメ、トラフグ、クロダイ、コショウダイ、ダツ、スソウミヘビ、ハダカイワシ、カタクチイワシなど。
記録として価値ある魚は、南方系のユゴイ、カライワシ、北方系のニシンなどで、コバンザメやニシンを追って南下してきたオットセイの記録もある。
◆涸沼の鳥
野鳥研究家山口万寿美氏によれば涸沼で記録された鳥は、18目42 科169種であり、河川や水田等では、春秋に渡りをするシギ、チドリ類が36種、冬季にくるガン、カモ類が24種、ワシ、タカ類が11種など鳥相は豊かである。
日本列島に占める本州の位置、さらには涸沼が海岸線に近い水と緑とに恵まれた静寂な土地柄か、珍迷鳥の出現も多く、コウノトリ、レンカク、ツメナガセキレイ、サバンナシトド、オオワシ、ユキホオジロ、オオホシハジロ、オジロワシ、シマアオジ、アネハヅルなどはせ著名な種類である。
とくに、昭和34年11月23日、コウノトリ一羽、63年10月30日、アネハヅル幼鳥一羽が飛来した駒場の水田は、記録的な土地と評価は高い。
厳冬の涸沼には、高く飛ぶオジロワシ、オオワシ、水面に休むオオハクチョウとともにヨシガモ、スズガモ、キンクロハジロといったカモ類がみられる。海が荒れるとウミネコやセグロカモメなどの海鳥が涸沼に避難してくる。初夏、岸のヨシ原に巣を造るオオヨシキリの声がけたたましく、静かな岸辺をバンが泳ぐ。干拓地周辺ではシギ、チドリ類をみる。
秋、十月半ば、年によって数は変動するが刈り取りの済んだ田にタシギがいる。
◆涸沼の植物
近年、ヘドロ化した脂質の堆積、護岸工事、シジミ取りによる影響かヒロハ、エビモ、ササバモ、イトモ、オモダカ、フサモなどの水中植物群落の貧弱化の傾向を加速している。
沿岸の群落構成種は、ヨシ、マコモ、カサスゲ、シロバナサクラタデ、ミゾソバ、コシロネ、ゴキズル、アメリカセンダングサ、ホソイ、クサヨシ、アカバナ、チゴザサ、カキドオシ、サンカクイ、セリ、スゲの一種、ヒメアシボソ、ウキシバ、ウキクサなど。岸から20mまではヨシ群落、20~45mまではマコモ群落で、これ以上岸から離れると、クサヨシ、セイタカアワダチソウ、ススキなどの群落。
昭和40年代まで、水生植物の宝庫として、沼では、サンショウモ、オオアカウキクサなどのシダ類、ヒルムシロ、エビモなど18科42種の植物が記録されているが、広浦のセキショウモ、イトモ、なぎさの小石に着生する緑藻類カワアオノリ、海水の浸入する場所に育つカワツルモなどの涸沼を特徴付けた植物の消息を聞いていない。
南岸部には、アゼスゲ、フトイ、サンカクイ、マコモ、ヨシ、ヒメガマ、オモダカ、アギナシが生育し、シャジクソウ類のカタシャジクモ、オトメフラスコモは少なくなった。沈水植物では、ホザキノフサモ、マツモ、ヒロハノエビモ、リユウノヒゲモ、セキショウモ、イトモが記録でき、涸沼大橋周辺では、ヨシ、マコモ、ヒメガマの群落、湿地内の浅い水域にササバモ、ヒロハノエビモ、セキショウモ、イバラモ、トリゲモ、それにミズアオイが育ち、浮葉植物のヒシ、ヒメビシ、トチカガミをみる。
◆ヒヌマイトトンボ
ヒヌマイトトンボは、1971年7月7日広瀬誠氏らによって発見された。このトンボは、宮前地区のヨシ原で発見され、発見地の涸沼にちなみヒヌマイトトンボと命名された。このイトトンボは、潮の干満によりヨシ、マコモなどがほどよく水分を含み、また乾いたりする水生植物の群生地が生息に最適とされている。
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◆涸沼のヤマトシジミ
海に通じているために、潮の干満の影響をうける汽水湖、涸沼で漁獲される軟体動物斧足類シジミガイ科ヤマトシジミは全国的に有名である。 沼では水深1mより浅い底に分布の中心があり、1.5~2mより深いところにはほとんど分布しない。涸沼川では、水深が5mでも分布している。シジミが生育のために多量の酸素を必要としている事実から、分布は溶存酸素量と密接に関係しているようだ。底質では、砂や砂礫底に分布し、泥質にも住める。水中の塩素量の変化に対しては強い抵抗性を有し、涸沼においては、生息地において最大12%の塩素量を測定している。
卵巣の発達は、6月からはじまり、7月で最大となり、秋、10月には産卵を終える。浮游幼生は、8月上旬から9月中旬まで採取され、殻長が18mm以上に育つと底に着く。冬季はほとんど成長が認められず、春先から成長しても、1年では15mmには達しない。涸沼川では、冬季でも徐々に成長し、満1年で15mmに達するものもある。成熟した個体の殻長は、17~27mmである。
◆イトメの生殖群泳
イトメは汽水湖や河口などの泥土中に生息し、生殖時期には、生殖物質の充満する体の前方約3分の1が切れて水中に泳ぎ出し、多数が群泳する。涸沼ではこれらをウミコとよび、釣りの餌にしたり、肥料にも用いる。群泳の要因については、月齢、潮汐、塩分濃度、水圧、潮流などの複雑な組み合わせによるものと推測されている。昭和30年代には、涸沼の全域で群泳がみられ、とくに、10、11、12月の新月に続く数日間、夜間に大規模な群泳があり、話題をよんだが、近年、群泳がみられないことは残念である。
◆涸沼の自然利用
涸沼は町の東端に位置し、その美しい景観と豊富な自然・資源は、水産業、観光、そして町民の想いの場として、大きな役割を担ってきた。
涸沼の歴史をたどると、古くは江戸時代の舟運(『茨城町史・地誌編』涸沼の歴史参照)、コイ、ウナギ、シジミなど豊富な水産物を糧とした水産業の営み、昭和期に行われた数か所にわたる干拓事業、釣を主役とした観光資源としての活用など、涸沼と町民とのかかわりは脈々とつづいている。
水がきれいなときは、涸沼がプールがわりとなり、沿岸の子供達は涸沼を遊び場として育つうちに、誰もが水泳の達人となったものである。
涸沼の水産業の推移と現状をみると、涸沼は、多くの魚介類に恵まれて水産業もさかえてきた。とくにヤマトシジミは、全国的にも有名であり、涸沼沿岸の多くの人々が、シジミを生業としてきた長い歴史がある。また、春先にかけて産卵のため回遊してくる、ニシンは、漁民にとって大きな糧であった。さらに養殖が主流のウナギ、コイなどにしても、涸沼で水揚げされる天然のウナギ、コイは、その風味が独特で多くの人びとに珍重されてきた。そしてシジミやテナガエビ、ゴロなどを材料とした佃煮づくりも、涸沼の水産業の一角を占めていた。こうして、涸沼の水産物を生業とする人びとは、第一にシジミや魚を採る人、第二にそれを加工、または生のままその日のうちに、行商して歩く人との二グループに大別されていた。
◆水戸八景広浦の秋月
天保4年(1833)に、徳川斉昭は、領内景勝の8ヶ所を選んで「水戸八景」とした。「水戸八景」とは、「僊湖(せんこ)の暮雪(ぼせつ)」・「青柳(あおやぎ)の夜雨」(以上水戸市)・「山寺の晩鐘(ばんしょう)」・「太田の落雁(らくがん)」(以上常陸太田市)・「厳船(いわふね)の夕照(せきしょう)」(大洗町)・「広浦の秋月」(茨城町)・「村松の晴嵐(せいらん)」(東海村)・「水門(みなと)の帰帆(きはん)」(旧那珂湊市)の八つである。水戸八景は、藩内最高の詩境であり、中国の瀟湘(しょうしょう)八景になぞらえている。八景選定の目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然鑑賞と健脚鍛錬とを図ることにあったとされている。斉昭は、漢詩「水戸八景」をつくり、それぞれの地に、自ら揮毫して碑を建てた。
下石崎字米津にはその八景のひとつ「広浦秋月」の碑がある。昭和9年11月30日には名勝として県指定文化財になっている。天保11年9月13日,斉昭は広浦の名月を観賞するため,側臣藤田東湖,会沢正志斎や彰考館員らとともに船で下石崎を訪れている。
このときの烈公の和歌に「浪の色も空にかよひてすめる夜の 月の光も広浦の月」「広浦の浪にやどして遠方の 山のあなたの月を見るかな」があり,藤田東湖に「仰いでも伏してもあかぬ眺めかな 水の底迄すめる月影」がある。
◆親沢の一つ松
涸沼に突出した砂嘴のひとつに親沢という景勝地があり、その突端は松の木が多い。
昔、一人の老人がここに住んでいたが、貧乏なうえ、子供がなかった。ここに一つ葉の松があって、この老人は子供がわりに、大事に育てていた。これを村の人々は「親沢の一つ松」と呼んでいたが、その後枯死してしまったので、野生の松を植えて後世に伝えていた。 のち、水戸光圀がこの地に立ち寄ったとき、この話をきいて次の歌を詠んだという。
◆子を思う涙ひぬまの一つ松 波にゆられて幾世へぬらむ 現在この歌碑が親沢にある。
渋川
桜川
才川
大谷川
かつては、寛政川も流入河川だった。
流出河川 [編集]
涸沼川[1]
歴史 [編集]
縄文時代、海水面が上昇し[2]涸沼周辺では入り江であった。その後、入り江の入り口が川の土砂によってふさがれ涸沼ができた。
江戸時代では、東北や那珂川流域から物資を運ぶルートとして利用され、「内川廻り」といわれるルートの一部であった。さらに水戸藩が松波勘十郎に涸沼西部の海老沢から巴川流域の紅葉まで約10kmを結ぶ「紅葉運河」や涸沼川から大貫までの約1kmを結ぶ「大貫運河」を掘らせたが失敗に終わった。
明治時代に入ってからも、大久保利通が大谷川から北浦の流入河川である鉾田川をむすぶ国家計画に着手したが、暗殺により頓挫した。いまでも旧旭村(現鉾田市)に切り通しの跡を見ることができる。
1927年(昭和2年)より、涸沼干拓が始まり、前谷(茨城町下石崎)、広浦(大洗町神山町)、船渡(茨城町上石崎)、馬割(茨城町海老沢)、東永寺(茨城町上石崎)、宮ヶ崎と干拓され、水田として利用された。
水質 [編集]
過去10年間の化学的酸素要求量(COD) の値の動き(測定場所は親沢、宮前、広浦の平均値、値は涸沼の水質データ による)
測定年 CODの値
1997 9.7
1998 6.6
1999 8.9
2000 9.5
2001 6.8
2002 7.8
2003 6.8
2004 5.5
2005 6.9
2006 6.4
参考 [編集]
^ a b 地元の人では下涸沼川とよぶ。
^ このことを縄文海進という。
関連項目 [編集]
日本の湖沼一覧
外部リンク [編集]
涸沼辞典(茨城町)
霞ヶ浦環境科学センター
クリーンアップひぬまネットワーク
///
(出典)
http://www.asahimura.net/town.htm
鉾田市旭地区(旧旭村)は、茨城県の南東部に位置し、東は鹿島灘、北は涸沼 に面する自然環境に恵まれた総面積53.80k㎡、人口約12,000人の純農村地域です。旧村名(旭村)には、その前途が朝日の昇るご とく発展してほしい、という願いが込められておりました。
開村以来、農業立村を基本に村づくりが進められ、昭和 40年代からは施設園芸を積極的に取り入れ、とくにメロ ン・甘藷は特産物として全国的に有名になりました。 ▼旧旭村地区
【人 口】 11,876人(平成15年12月1日現在)
【面 積】 53.80k㎡
【村の花】 きく
【村の木】 もちの木
【村の鳥】 ひばり
【名産品】 メロン、甘藷、いちご、トマト、スイカ等
【観光・
みどころ】 茨城勤労者いこいの村涸沼(夏期プール、テニスコート、野球場、ファミリーパットゴルフ、スクリーンゴルフ、温泉)、厳島神社(子生弁財天:社殿は元録の建築、安産の守護神県指定文化財)等。
【スローガン】 青い海と豊かな大地いきいきとした息吹がきこえる鉾田市旭地区
【旧村役場
所在地】 〒311-1492
茨城県鉾田市造谷605-3 TEL:0291(37)1111
*旧旭村役場は、鉾田市旭総合支所となりました。
>>鉾田市のホームページへ
青い大海原、きらめく湖面、緑の大地と観光資源にも恵まれた鉾田市旭地区です。
どこまでも広がる青い大海原と絶え間なく打ち寄せる白い波の鹿島灘は太平洋のダイナミックな躍動にあふれています。きれいで真夏も冷たい海水は、波が荒くサーフィンにもってこい。年間を通して、若者たちがボードを操る姿みられます。砂浜が広いために、潮干狩りにも最適、季節になると親子連れの姿が浜辺を埋めつくし、大きな歓声とともに夏の訪れを教えてくれます。また、地引き網漁は夏の観光の目玉として注目を集めています。
広浦ともいわれる涸沼は淡水と海水の魚が混棲する関東一の釣り場として知られ、約50種類の魚がいるといわれています。しじみも涸沼の大切な宝でシーズンには、しじみ採りに精を出す人々が湖面を彩ります。
いこいの村涸沼
「茨城勤労者いこいの村涸沼」は誰でも利用できる公共の施設で、宿泊室他、会議や宴会に使える大ホール、涸沼の雄大な景色を眺めながら温泉を満喫できる大浴場があり、またテニスコート、パターゴルフ、プールなど総合レジャー施設として人気を集めています。
食事は、新鮮な海の幸を贅沢に使った磯料理。宿泊は一泊二食で8,200円から。テニスコート(全天候型)1日6,000円。プール1日800円(大人)。
交通:鹿島臨海鉄道大洗鹿島線涸沼駅から3Km
お問い合わせ:いこいの村涸沼 TEL:0291-37-1171
「いこいの村涸沼」の公式ホームページはこちらです。
涸沼ヨットハーバー
「涸沼ヨットハーバー」はセーリングを楽しむ人で利用が増え、白い帆をはらませたヨットがすべるように湖面をゆく美しい姿に思わず目を奪われてしまいます。
矢神神社
日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの神社。伝説によると、日本武尊が東征の際に鉾田市旭地区上釜に上陸し、涸沼南岸の高台であるこの地で休息。そのときそばに置いた大弓を残したため、村人がこれを奉じて祠を建て、日本武尊を祭ったのが矢神神社の始まりとされている。
貞観元年(859年)の創建。
交通:いこいの村涸沼から徒歩20分。
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国都神神社
和銅3年(710年)の創建。この地に疫病が流行り、長であった大碓時度が村人を救おうと天神に祈願。すると国都神が夢に現れ「祠を建てよ」とのお告げが。そしてお告げの通り疫病が退散したという伝説から国都神神社の名がついた。
神木の椎木は、このとき大碓時度が植えたものとされ、市の天然記念物になっている。ちなみに大碓時度は日本武尊の兄である大碓命の24世の孫。
交通:バス停「田崎」から5分
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鹿島神社
日本武尊ゆかりの神社。日本武尊が東征の際、大野村角折浜に上陸し、鹿島神宮の神に先勝を祈願したとされる。その伝説にちなみ和銅3年(710年)に祠を建てたのがこの神社の始まりとされる。
交通:パス停「薬師堂前」から徒歩8分。
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厳島神社
子生(こなじ)の弁天様の名で親しまれるこの神社は、承歴2年(1078年)、宮島の厳島神社から分霊を迎えたのが始まり。古くから安産の神様として村人から信仰されている。
また森に抱かれた池の中央部にたたずむ本殿は、県の文化財に指定され、柱には精巧な竜の彫刻が施されている。
交通:バス停「子生弁天」下車徒歩4分
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玉沢稲荷神社
冷水海岸は、鹿島灘を一望できる砂浜の美しい海岸で、玉沢稲荷神社の森とあわせて「茨城の自然100選」に選ばれた。玉沢稲荷神社は、源頼義が奥州追討の際にこの地で霊験を被ったとする伝承を持つ神社で、社殿は市の指定文化財となっている。
境内には樹齢800年とされるスダジイやタブノキの大木があり、周囲は森閑とした雰囲気が漂う。
交通:パス停「勝下新田」から徒歩25分
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