大リストラ提案
次世代の構図
右派 石原(首相、51歳)、前原(外相、46歳) - 左派 岡田(首相、55歳)、辻本(外相、48歳)
石原は、現自民のホープ
前原は、自民の小泉さんと酒宴を持つなどして、ラブコールを送っていた。なおかつ、旧経営の神様、松下政経塾の出。
石原

前原
岡田は、現民主のホープ
辻本は、広く海外経験あり。2000年ダボス会議で、世界のリーダートップ100に選ばれている。
岡田

辻本

次々世代は?
右派 前原(首相)、??(外相) - 左派 辻本(首相)、蓮舫(外相)
もしくは
右派 石原(首相)、前原(外相) - 左派 辻本(首相)、蓮舫(外相)
これくらい大胆なことをやらなければ、日本は浮かびあがれない・・・
グローバルに対して、責任と義務を果たせない・・・
つまり、大リストラ~~~
注)
何やかや言っても、現時点の日本では、学閥が機能している。現実に即して・・・
石原(慶応大)、前原(京都大) - 岡田(東京大)、辻本(早稲田大)
面白い~~~、学閥戦争?!?
私学の雄 V.S. 官学の雄
注)
蓮舫の父親は、台湾人・貿易商。蓮舫は、青学卒、北京大学留学。アジア外交はカギである・・・
---Wikipedia
石原 伸晃(いしはら のぶてる、1957年4月19日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員。行政改革・規制改革担当大臣・国土交通大臣・観光立国担当大臣を務めた。日本OPヨット協会会長。自由民主党東京都連合会会長。TOKYO自民党政経塾主宰。前自民党政務調査会長。
概要
いわゆる「政策新人類」の代表格。1998年の「金融国会」では金融再生関連法案の成立に尽力した。森内閣においては政権批判の急先鋒で、「加藤の乱」に連座するなどして傷を負ったが、続く小泉内閣では行革担当大臣、国土交通大臣と重用され、道路公団問題などに取り組んだ。続く安倍内閣の党人事でも幹事長代理、政調会長に就任。
自民党寄りのメディアにすら『チャンスに打てない中軸打者』と呼ばれるほど、「お坊ちゃま」ゆえに「打たれ弱い」と評されることが多い[1]。
北京オリンピックを支援する議員の会副幹事長を務める。
2001年10月、大臣時代に「北海道の道路は車が走っている数よりヒグマが走っている数のほうが多い」と発言し、その発言に激怒した鈴木宗男に猛抗議を受けた。
2008年9月1日の福田康夫総裁辞任表明を受けて行われる自民党総裁選挙には、9月3日まで山崎拓らが慎重姿勢を示した影響もあってか、出馬をする意向を見せていなかったが、9月4日には与謝野馨らと共に、出馬への意欲を示した。9月9日には、出馬表明を決定した。しかし、9月7日のサンデープロジェクトで、小泉路線の二の舞になるのではないかと、批判されていた。9月15日の釧路での演説では「釧路から札幌まで高速道路はつながります。(中略)道路がつながって整備されて、皆さんに活用される社会資本整備になると、私、石原伸晃は確信している」と、演説した。
新銀行東京との関係
父親で都知事である石原慎太郎の提唱で都税1000億を投入して設立された新銀行東京に対して、石原伸晃の元私設秘書が決算書類の改ざんを知りながらもブローカーの仲介を引き受け、自民党都議に口利き仲介していたことが判明している。石原伸晃事務所は「(元秘書は)既に退職しており、口利きなどについては承知していない」としている。[2]その後、石原慎太郎都知事は「口利きするのは、それこそ政治家の仕事」として政治家の口利きを肯定する発言をしている。[3]
2008年10月26日にNHKの番組に出演し、金融危機で経営不安に陥っている金融機関への資本注入を実現する金融機能強化法改正案に関して、「法律の中には銀行(「新銀行東京」と「金融危機で苦しんでいる銀行」)に区別はない」と述べ、2008年秋の世界的な金融危機とは無関係に経営が行き詰まっている新銀行東京も対象に含まれるとの見解を示した。[4]これに対して11月2日に自民党園田博之政調会長代理がNHKにて「(出資している)東京都が立て直しに責任を持つべきだ。今注入できるとは思えない」と否定的な見解を示している。
道路公団民営化
小泉政権の主要政策の一環として、道路公団民営化を任せられ脚光を浴びるも、道路族の猛攻を抑えきることができず、妥協を重ねて屈したとする評価が多い[5]。自身も、「最終報告には実現不可能な部分もある」と弱気なコメントを残している。
道路関係四公団民営化推進委員会委員長代理であった田中一昭(政府民営化案の妥協策を不服として辞表を提出した)からは「偽りの民営化—道路公団改革」という暴露本を通じて「経綸を持たず、むしろ無能ぶりを天下にさらした」と酷評された。
国土交通大臣時代、日本道路公団総裁藤井治芳を解任した。藤井は解任取消を求めて東京地方裁判所に提訴。2006年9月6日に解任処分は相当であると、石原勝訴の判決が下された。
献金
消費者金融業界の政治団体「全国貸金業政治連盟」(全政連)からパーティー券購入などにより資金提供を受けている[6] 。
道路特定財源を資金源とする道路運送経営研究会(道路特定財源の一般財源化に反対している)から献金を受けている[7]。
人物
NHK総合テレビが深夜に不定期で放送している、「MUSIC BOX」(1970 - 1990年代のヒット曲と共に、当時の世相や流行を記録した映像を放送する深夜番組)では、日本テレビ報道局に在籍していた石原が、青函トンネル開通を記念して報道陣を乗せた特別列車の中で、取材メモを取っている姿が流れる(取材中にNHKのニュース映像に偶然映ってしまった模様)。
大臣在任時、出張時の昼食を高級レストランに設定した事務方を叱責し、「事務方が勝手に高級な物にセットした。料金は払わない」と主張したことがある。
たばこと健康を考える議員連盟所属。
信仰
新興宗教崇教真光の信者である[8]。秋季大祭の来賓の中でも石原は少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露した(『崇教真光』誌平成13年12月号)。45周年秋季大祭(2004年)では自身が組み手(信徒)であることを明らかにし、組み手としての立場をメインに祝辞を述べた(『崇教真光』誌平成16年12月号)。46周年秋季大祭(2005年)では中級に昇格したことを祝辞にて紹介している(『崇教真光』誌平成17年12月号)。
---Wikipedia
前原 誠司(まえはら せいじ、1962年4月30日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。民主党代表(第5代)。松下政経塾第8期生。
生い立ち
京都市左京区に生まれる。父は鳥取県境港市出身。母は鳥取県日南町出身。中学2年のころ父が亡くなる。父の死もあり、高校1年生から大学を卒業するまで奨学金を受けながら勉強する。
京大受験失敗後の浪人時代に偶然高坂正堯の『国際政治』を立ち読みし、国際政治における"歴史上のプレーヤー"に憧れる。京都大学法学部の高坂正堯ゼミ在籍時、外交官か、大学に残ろうかと考えていたところ、師にあたる高坂正堯の「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんが、それほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスで政治家としての道を志すことを決意。その時、一人の松下政経塾生を紹介される。東京都議会議員であり、のちに日本新党へともに参画する山田宏であった。その山田から感銘を受け、1987年、松下政経塾へ第8期生として入塾する(8期生として入塾してはいるが、その一年前に入塾を認められていた。ドイツ語の単位を落としたのが原因で、卒業が一年遅れたためである。同塾の入塾試験に二度合格した者は、現在まで前原のみ)。同期生に玄葉光一郎や勝又恒一郎らがいる。
京都府議
1991年松下政経塾を卒塾。同年の自身が被選挙権得て最初の京都府議会議員選挙に立候補し、北神圭朗ら学生ボランティアの支援で府議会史上最年少で初当選を飾る(現在は尾形賢が最年少記録更新)。前原の選挙区である左京区は日本社会党衆議院議員の竹村幸雄の当時の地盤でもあった。
日本新党 - 民主党
1992年長浜博行に請われ、野田佳彦、山田宏、樽床伸二、中田宏らとともに日本新党へ参画。同年の第16回参議院議員通常選挙では近畿・四国エリアで応援に回り、新党ブームに一役買う。
1993年の第40回衆議院議員総選挙で日本新党公認新党さきがけ推薦で立候補して初当選(同じ区で京大法学部の先輩で京都市会出身の公明党新人竹内譲も当選)。しかし佐川急便事件で細川内閣が総辞職。その後、枝野幸男、荒井聰、高見裕一らとともに日本新党を離党し、民主の風(院内会派)を結成する(松下政経塾の先輩で兄貴分的な存在であった山田宏は、前原が恩人たる党首細川護煕に対して後ろ足で砂をかけるように出ていったことや、日本新党離党について自分に一切の相談がなかったことに激怒した)。さらにその2ヵ月後には「民主の風」メンバーとともに新党さきがけに合流し、政調会長の菅直人(当時)のもとで政調副会長、院内幹事(国会対策委員長)渡海紀三朗の下で院内副幹事(国対副委員長)をそれぞれ歴任する。1996年の総選挙直前に旧民主党、1998年の民主党の結党に参加。1999年1月民主党代表選挙では塾の先輩で同じ政令指定都市選出の都道府県議経験者で、1993年の衆議院に初当選した同期の松沢成文の推薦人。
2002年9月の代表選挙では、鳩山・菅の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため「第二期民主党をつくる有志の会」を結成する。若手統一候補として同じ松下政経塾出身者の野田佳彦と並び、代表選候補に名前があがったが、最終的に(小宮山洋子ら自身の推薦人名簿に名を連ねる予定だった国会議員とともに)野田を推薦する側に回った。このことが、後の代表選挙で野田が前原を支持するきっかけになった。
民主党代表選出
民主党代表時代の前原
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で民主党は大敗を喫したが、自身は志帥会新人で政経塾の後輩の山本朋広を破り、小選挙区勝利で再選。党代表の岡田克也は辞意を表明した。前原は岡田後継の代表選挙に立候補し、9月17日に菅直人を2票の僅差で破り、第5代代表に選出された。前原の代表就任には、民主党が一気に代表を若返らせたことやその端正なルックスから、読売新聞などのメディアが、“新代表はジャニーズ系”、“永田町の郷ひろみ”と報じ、朝日新聞が「目指せ、日本のブレア」と題した社説を載せるなど、好意的に受け止められた
内政と外交
代表就任後は人事で明確な世代交代を進める一方、反対野党に終始しない「対案、提案路線」を掲げ、与党の重要法案に対しては、積極的に対案を提出することを宣言し、民主党の“政策立案能力”、“政権担当能力”のアピールを試みる。その後も長く民主党の支持母体となっていた日本労働組合総連合会等の労組との関係を見直すと主張。労組とは党との考え方の違いを率直に議論しながら是々非々の関係を構築し、労組依存の体制から脱却して行くことを掲げた。
第31回日米安全保障専門議員交流で、東アジアの安全保障について討論する前原
2005年12月2日に東京の大学において講演した際、「日米安保と防衛の一方的な依存は、アメリカに対する過度の甘えである」として、自民党の対米追従を批判した。同月中旬の自らの米中歴訪では、「中国の軍事的脅威に対して日本は毅然とした態度を取るべきである」という持論を展開した。9日(現地時間8日)の戦略国際問題研究所(CSIS)における講演では、中国の軍事力増強について現実的な脅威と指摘(中国脅威論を唱えた)し、またシーレーン(海上交通路)防衛の要求上、日本の集団的自衛権を認めるべく憲法改正の必要性を訴えたが、これには民主党内の左派から党内合意を経ていないとの批判を受けたほか、中国政府の反発を呼び、予定されていた会談を中国側がキャンセルするという事態に繋がった。同13日に前原は訪問先の北京で記者会見を開き、中国脅威論の主張を根拠に要人との会談を拒否した中国政府の対応を批判して、「(率直に物を言わぬ上辺での)友好は砂上の楼閣になってしまう」と指摘した。
2006年3月6日神奈川県内で開催された民主党所属の参議院議員の朝食会で政令指定都市選出の道府県議について「ほとんど仕事がない。神奈川県議会の半分以上が横浜、川崎から選ばれているのはおかしい」などと政令市県議不要論ともとれる主張を展開、大きな話題になった。
こうした対案路線や労組依存からの脱却、外交安保におけるタブーに囚われない姿勢は党内左派陣営との軋轢を生みながらも概して好意的に受け止められたが、後述の堀江メール問題で大きく躓くことになる。
メール問題
2006年の第164回通常国会は冒頭から耐震偽装問題、米国産牛肉の輸入問題、ライブドア事件、防衛施設庁の官製談合事件など所謂「4点セット」により民主党は与党を追い詰める立場にあった。しかし2006年2月、衆議院予算委員会で永田寿康の質問に端を発した堀江メール問題に関連して、民主党は十分な証拠を開示できなかった。さらに、ライブドア関連の情報を精査する中で、ライブドアと武部家の間に密接な関係があるのではないかとする情報も民主党にもたらされていたことで、前原はひとまず、メールの真偽論争は避けて、国政調査権行使によって武部の息子の金融機関の口座を調査するよう党首討論で小泉首相に要求した。同時に、自民党が国政調査権の行使を確約するならば、これを担保に金融機関の口座番号も含めた情報を、民主党も提示するとした。だが、騒動の発端となったメールの信憑性が低いために逆にこの追及が批判を浴び、前原や民主党の立場を弱まらせることになった。これに対して自民党からは非難の声が上がり、民主党への抗議の電話が殺到することになった。
これに関して、問題となった偽メールを見抜けなかった前原自身の進退問題が取り沙汰されることとなったが、2月28日に謝罪会見を行い、同時に代表続投を宣言した。しかし代表選挙で前原陣営の選挙対策委員長として票を取りまとめ、前原の意思を尊重して国会運営に当たっていた国会対策委員長の野田佳彦(当時)の引責辞任を余儀なくされ、執行部の右腕を失う結果となってしまった。前原の代表続投宣言のあとも、民主党の堀江メール問題はマスメディアで取り上げられ続け、最大の責任者かつ当事者である前原の代表辞任はもはや避けられないと見られていた。2006年3月31日、前原も代表辞任を表明した。前原の代表辞任の表明を受けて、鳩山由紀夫も幹事長辞任を表明、永田寿康も代議士辞職を表明した。
このメール問題については、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では、「普通の企業なら当然備わっている筈の危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」と指摘し、前原と安倍晋三を「タカ派的体質、自信過剰という点で 共通点が多い」とした上で「両若手指導者が短命で終わった点は興味深い」と述べている。
2009年1月、この問題を引き起こした永田は北九州市内で飛び降り自殺を遂げた。これについて「自分がメールの問題の処理をもう少し上手くやれば、こんなことにはならなかった。胸が詰まる思いだ」と述べた[1]。
4月7日、民主党代表選で小沢一郎が菅直人を破って当選し、前原体制は半年足らずで終焉した。
民主党代表辞任後
2006年10月衆議院議員補欠選挙では選挙の直前に、テレビ各局で、同時期に起きた北朝鮮の核実験に対して、周辺事態と認定されうる6類型のうち、6番目の類型に限りなく近いとして「周辺事態法を適用するべきである」と発言し、北朝鮮の核実験は周辺事態にあたらないとする民主党執行部の「周辺事態」論議を痛烈に批判した。これによって、安全保障政策における民主党執行部と前代表である前原や彼に同調する勢力との亀裂が表面化するとともに、党の方針を小沢、菅、鳩山のいわゆるトロイカ体制のみで決定するべきではないという執行部への批判が噴出することとなった。同時に、民主党の外交防衛部門会議は、小沢、菅、鳩山らトロイカ体制の見解は、民主党の公式見解ではないとする声明を発表した。また、「『核保有を議論すべきではない』との考えか」との質問に対し、「『議論をすべきではないとは考えていない』が、現在の状況では議論すべきでない」と発言し、一応は平時の核議論を容認した。だが、自身の公式サイト、産経新聞などで、
「日本が核を保有したとしても、核保有国であるアメリカや中国と瀬戸際外交を行う北朝鮮に対する抑止力とは成りえず、核拡散防止条約からの脱退も余儀なくされ、国際社会からの制裁を受けると共に、一連の流れによって日本自身がNPT体制を脆弱にし、結果的に北朝鮮やイランの核保有をゆるしてしまう。また、アメリカとの同盟関係を見直してまで今すぐ日本が核を持つことに意義は見当たらない。」
といった趣旨の見解も示したことから、日本の核武装に関して基本的には反対の立場をとっている。また、そもそも核武装論議にも批判的である。
後継代表の小沢一郎との対立も、しばしば指摘されているが、本人はこれを否定している。小沢のISAF構想や国連中心主義には賛同しつつも、「日本外交の基本は日米同盟」であり「国連至上主義」になってはいけないと説く[2]。同年9月に小沢一郎が民主党代表に再選された際には、党副代表就任を要請されたが、これを固辞した。最終的に、前原グループから新たに執行部入りする議員が出ることは無かった(ただし、本人は新たに常任幹事となり、党常任幹事会にも参加している)。
2007年4月の国民投票法案の衆議院本会議における採決では、党代表の小沢一郎が与党に対して対決姿勢を強める方針に反発し、外遊を理由に会議を欠席した。同年7月の第21回参議院議員通常選挙後の臨時国会における最大の争点であるテロ対策特別措置法延長問題に関しては、党内で小沢一郎らが反対を表明する中にあって、自身は「テロとの戦いには75ヶ国が参加しており、日本が抜けるのは国益に反する。何らかの形で参加するのが良いし、洋上給油は現段階ではベストだ」と述べるとともに、米国との関係も考慮して延長に理解を示すなど、独自の柔軟な見解を示した。
2007年の安倍改造内閣において、東大教授の御厨貴や評論家の宮崎哲弥、毎日新聞の与良正男などからは、安倍晋三との個人的な交友関係や小沢一郎との確執等の風聞から防衛大臣に引き抜かれる可能性も指摘されたが、結局離党することはなく、予想は実現しなかった。2007年秋の臨時国会を前にした民主党改造人事では党の主要ポストを与えられる可能性が指摘されていた。その見方通り、前原は8月31日の党改造人事で岡田克也、石井一、高木義明、川端達夫ら主要幹部とともに党副代表に就任した。
2008年1月、小池百合子との対談で、大連立構想に関し、「民主党は政権の現実味を感じずに政策立案し、野党病に陥っている。時限的に問題を解決するためと明示すれば連立することがあってもいい」と主張した。ただし、現時点では逆転国会で審議を活性化させることを優先すべきとしている。
2008年6月、前原は、『中央公論』7月号での自民党の与謝野馨との対談で、農家への戸別所得補償や子ども手当などを初めとする2007年7月の参院選マニフェストについて、これらの公約の必要経費を18兆円と試算したうえで「行革だけでは財源を捻出するのは絶対無理」「私は、(民主党は)『君子豹変』しないかぎり、まともな政権運営はできないと思いますよ」と持論を展開した。この前原の主張は、前原自身が代表時代に法案を提出した民主党の農業政策を自ら「不可能なバラ撒き」として否定したことになる。面目丸潰れにされた格好の「民主党次の内閣」の現・前・元の農林水産大臣である筒井信隆・篠原孝・山田正彦から抗議と説明の電子メールを党所属国会議員全員に向けて一斉送信されるという事態に発展した。そのメールの内容は、「民主党の農業政策をバラマキだと言える精神は理解しがたい。次期総選挙を考えても看過できない」「妄言を糾弾し、その退場を勧告する」「(前原)副代表は自らの出処進退を明らかにされんことを勧告する」など激烈なものであった。また、後述する(前原が)菓子パンをごみ箱に投げ捨てたことに触れ、「生命の維持に欠くことのできない食料を粗末にするような人間に食料・農業について論ずる資格はなく、議員としての資質ばかりか、その人間性に重大な問題があると言わざるを得ない」と指弾している[3]。 このメールについて、筒井信隆は後日、記者団に「副代表の辞任要求ではない。進退の勧告は削除したい」と既に一部修正していることを認めた。
2008年9月に実施された民主党代表選に関して、「小沢執行部は及第点」と評価しているがマニフェストを進化させるために無投票を避けるべきだと主張した。これについて鳩山由紀夫から、メール事件で党を危急存亡に陥れた前原が小沢代表に採点を下すのは「おこがましい話だ」と批判され、以後前原は口をつぐんでいる[1]。
2009年2月4日、衆議院予算委員会の質疑において、道路特定財源の一般財源化に伴い新設された「地域活力基盤創造交付金」の使途が主に公共工事にあてられることを強調し、「首相は“やるやる”詐欺の常習犯だ。選挙をやるといってやらない。一般財源化もやるといってやっていない」と批判し、「麻生首相を詐欺師呼ばわりした」と産経新聞が報じた。これに対して麻生は、「詐欺というのは犯罪だ」と反論した。さらに衛藤征士郎が前原に対して「無礼な言論をしてはいけない」と注意すると、民主党議員が委員長席を集団で囲んで騒然となる一幕があった。前原の発言はその後もエスカレートし、公益法人の在り方について麻生が「事前通告がない」と答えると、「そんな答弁するなら家で寝ていたほうがましだ。税金泥棒だ」と言い放った。
人物像
前原は、中国脅威論、集団的自衛権の行使の必要性、将来の日本国憲法第9条改正、武器輸出三原則の見直しなどを明確に打ち出している。このため、党内外の護憲派からは前原は改憲のネオコンと評されることもある。しかしながら、99年7月に国旗国歌法案の採決で反対票を投じたり、靖国神社参拝に消極的であったり、夫婦別姓や外国人参政権に対する賛意を述べる点など、リベラルないしリバタリアン的な部分も多く、安全保障問題における積極性の一方で社会問題における保守的イデオロギー色は薄い。経済を始めとする内政面でも改革派に属し、「真の構造改革」が必要の立場を採る。こうした点は多くの松下政経塾出身の議員と共通している。
安全保障分野に関して、親米を基調としつつも日米同盟の双務性を強化したうえで過度な対米依存から脱却することを説き、石破茂や額賀福志郎など自民党の防衛族議員からも一目置かれている。ただし友好関係は自民の防衛族に親中派が多いことから薄い。前原が安全保障分野の知識を如何なく発揮したのは、民主党側の実務者レベル交渉担当者として、2003年に政府与党の有事関連法案にその対案として民主党が提出した「緊急事態・未然防止基本法案」および「武力事態対処法案」の内容を盛り込むよう、修正協議の交渉を行なったときのことである。この与野党間の修正協議で、前原に政府与党案の不備を突かれた与党側は、法案の修正を余儀なくされた。安全保障政策では党を代表し、政府側と交渉に当たってきた。党内では「次の内閣」ネクスト外務大臣、ネクスト防衛庁長官なども務めた。
外交、安全保障政策において、野党が与党に対して極度に対立軸を持ち込む国会戦術には否定的であり、「外交、安全保障を極度に政治の道具として何でも反対とか、ケチをつけるべきではない。それを超越した二大政党制をつくりたい」と発言したこともある。議員連盟「新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会」で中谷元)、公明党の(上田勇とともに世話人を務める。
尊敬する政治家は広田弘毅、好きな歴史上の人物は坂本龍馬。愛読書は城山三郎の「落日燃ゆ」。歴史小説を好んでよく読むという。座右の銘は「至誠 天命に生きる」。
永田町を代表するプロレスファン、格闘技マニア。
静岡空港建設反対の国会議員署名活動に賛同している[4]。
逸話
趣味はSL写真の撮影ならびに収集、時刻表の分析、妻との食事、ドライブ。国会議員随一の鉄道ファン(特にSL写真の撮影旅行)と言われている。また、新婚旅行先は「現役のSLが走っている」という理由で北海道だった。高価な機関車のプレートを、我慢できずに購入した時は夫人を嘆かせてしまったというエピソードもある。また、秩父鉄道でのSL写真(国鉄C58形蒸気機関車)が2008年度の秩父鉄道SLカレンダーの表紙に採用されている。本人曰く、秩父鉄道にたまたま自分の撮った写真を送って採用されただけなので政治力は使っていないとの事(出演した未来創造堂での発言)。その他、現在西日本旅客鉄道山口鉄道部で発売しているSLやまぐち号オレンジカードセットの台紙写真に前原の写真が使われており、「写真提供:京都府 前原誠司」とキャプションがある(台紙は写真複数からなっており、前原の写真はその一部である)。「鉄道ピクトリアル」「国鉄時代」「一個人」等に鉄道ファンとしてのインタビュー記事や寄稿がある。
2005年9月の代表選の立会演説会において、前原は「父親を早く亡くし、母子家庭で苦労した」という体験談を披露し、その父親について新聞のインタビュー記事などでは「立命館で法律の勉強をして、京都家庭裁判所に就職、最後は簡易裁判所の裁判官」と明言している。だが、実は父親は京都家裁の庶務係長で、飛び込み自殺していたとされる。その根拠として「マイホームの借金苦に 特急に飛び込み即死 島根で京都家裁係長」という新聞記事(昭和51年6月1日付)がある。そのとき、前原は中学2年だった[5]。
2006年3月14日、「メール問題」で党幹部が落ち込んでいるなか、渡部恒三が激励のために会津名物「起き上がり小法師」を党幹部などにプレゼントする気配りを見せた。テレビカメラを入れさせて会津名物「起き上がり小法師」を利用しての再起を演出する予定だったが、渡部の「起き上がり小法師」はこのように起きあがるのだという明るい実演のあとに、前原が起き上がり小法師を選んで横にしても全く起き上がらなたったため、逆に座が凍りつくという一幕があった。しかもこの様子がワイドショーで全国に放映され、結果的に前原の代表辞任への最後の強力な一押しとなった。このため、渡部がわざと不良品を前原の前に置き、代表辞任を促すメッセージを送ったとする説も生じたほどであるが、真偽は不明である。この約2週間後の3月31日、前原は代表辞任を表明した。
代表辞任直後に早稲田大学で講演会が行われたが、その時のテーマが「リーダーシップ」であった。「リーダーシップで大失敗したばかりの私がお話するのも心苦しいが」とジョークを飛ばし、観衆の笑いを誘った。
安倍晋三とは、当選同期で議員会館も隣りの部屋(安倍晋三の議員会館の部屋の前の住人は安倍晋太郎、前原の部屋の2代前の住人は安倍の祖父岸信介)。ともに安全保障政策に関して気心知れた仲であり、二期目あたりまでは時折、酒を一緒に飲みに行っていた仲である。現在も、お互いの携帯番号は交換しており、安倍が選挙の応援演説で前原の選挙区に入る時、安倍の方から「ちょっと選挙区に入らせて貰います」と挨拶が入ることもあるという。
事務所に出勤すると、毎日菓子パンと惣菜パンをそれぞれ一個ずつ食べるのが日課という。あるとき、新人女性秘書が間違って菓子パン2個を用意したところ、大激怒して「菓子パンなんか2個も喰えるか!」と大声で怒鳴り、菓子パンをごみ箱に投げ捨てたという[6]。本人はこれを否定するコメントを記者に述べている。
師の高坂正堯と同じく熱狂的な阪神タイガースのファンで、高校時代は野球部に所属していた。
妻の愛里とは1994年に知人から紹介され数回のデートの末に、2ヶ月で結婚した。今でも夫婦仲は良いという。
関連する団体・議員連盟
日本会議国会議員懇談会
新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会(世話人)
日米平和・文化交流協会(元理事、2007年12月退任)
新憲法制定議員同盟
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
たばこと健康を考える議員連盟
年譜
1975年
京都市立修学院小学校卒業(3月)
1978年
京都教育大学附属京都中学校卒業(3月)
1981年
京都教育大学附属高等学校卒業(3月)
1987年
京都大学卒業(3月)
松下政経塾入塾(第8期)(4月)
1991年
京都府議会議員選挙(左京区・無所属)当選(4月)
1993年
第40回衆議院議員総選挙(旧京都1区・日本新党公認)当選(7月18日)
1996年
第41回衆議院議員総選挙(京都2区・旧民主党公認)2期目当選(現職文部大臣で宏池会の重鎮奥田幹生に敗北し比例復活)(10月20日)
2000年
第42回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)3期目当選(6月25日)
2003年
第43回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)4期目当選(11月9日)
2005年
第44回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)5期目当選(9月11日)
第5代民主党代表に就任(9月17日)
2006年
堀江メール問題で民主党代表を辞任(4月7日)
2007年
第6代民主党代表小沢一郎の下、民主党副代表に就任(9月5日)
2008年
民主党の農業政策を不可能なバラ撒きと雑誌『中央公論』7月号で批判
「民主党次の内閣」農水相経験者から抗議メール[3]を民主党内に一斉送信される(6月12日)
書籍
『石破茂・前原誠司ほかが集中講義!日本の防衛 7つの論点 別冊宝島Real』 ISBN 4796647899
『日本を元気にする地域主権』PHP研究所
---Wikipedia
岡田 克也(おかだ かつや、1953年(昭和28年)7月14日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。民主党副代表。
官僚(通商産業省)、民主党代表(4代)を務めた。
略歴
生い立ち
三重県四日市市に生まれた。父親は、岡田卓也イオングループ相談役。兄弟は、兄1人(岡田元也イオン社長)、弟1人。大阪教育大学附属高等学校池田校舎を経て東京大学法学部を卒業後、1976年通商産業省入省。同期には高橋はるみ北海道知事らがいた。
通産省では中小企業対策や石油問題などを手がけた。1985年に米国ハーバード大学国際問題研究所に派遣され、研究員として1年滞在。留学中の師はエズラ・ヴォーゲルであった。この頃から政治への意識が芽生え始めた。
政界入り
当時の三重1区の自民党現職・山本幸雄が高齢のため、新人候補の出馬が求められる環境が生まれていた。1988年7月、大臣官房企画官を最後に通産省を退官。自由民主党から1990年の第39回衆議院議員総選挙に出馬、当選した。
自民党では派閥は経世会に所属していたが、政治改革を巡る争いでは、改革フォーラム21に所属し、新人代議士ながら若手国会議員の代表格として頭角を現した。 1993年、宮澤内閣改造内閣不信任案賛成し羽田、小沢に従って新生党に移り、新生党が新進党に合流したため、新進党入りした。新進党解党時には強く反対したが、その後国民の声、民政党を経て民主党結成参加。
民主党時代
2002年の民主党代表選に立候補したが、対立候補の菅直人に敗れた。このときの菅代表体制では、党内融和の観点から幹事長に就任した。
菅が2004年に発生した年金未納問題に責任を取る形で代表を辞任し、更には後継の党代表にほぼ内定していた小沢一郎も同様に国民年金未払問題により辞退したため、2004年5月18日より代表を務めた。
代表就任以降、「野党」ではなく「政権準備党」を名乗るなどして、常々衆議院選挙での政権交代をアピールした。菅・小沢両氏の辞任・辞退を受けて急に代表に就任したため、その行く末を危ぶむ声も多かったが、2004年7月11日の参議院通常選挙では自由民主党を1議席上回る50議席を獲得した。また、2005年7月3日の東京都議会議員選挙でも民主党は躍進した。
2004年9月13日の代表選挙で無投票再選を果たす。役員人事で幹事長に川端達夫、代表代行に藤井裕久を任命する。
2005年8月の郵政民営化問題を契機とする衆議院解散(郵政解散)自民党が分裂選挙となったことから、当初は「政権獲得千載一遇のチャンス」などと言われたが、小泉劇場の前に民主党は埋没し、9月11日の総選挙では公示前勢力を64議席下回る113議席に終わり大敗、岡田は9月12日に代表を引責辞任した。
2006年9月、民主党の改造人事で民主党副代表に就任した。
2008年7月、9月に行われる民主党代表選への出馬を示唆する発言をしていた[1]が、最終的に代表選には出馬しない意向を示した[2]。
2009年3月、小沢一郎代表の秘書が政治資金規正法で逮捕された一件では、朝日新聞社が47都道府県の民主党地方幹部に行った調査においてポスト小沢の最有力候補として注目されるが、岡田は外訪先のシンガポールで「右往左往しないことが大事だ」と語り、鳩山由紀夫らと小沢一郎の代表続投を支持。党内の引き締めを図った。
国家公務員法違反問題
2004年6月に通産官僚時代に無給ではあるものの届出もせずに岡田家の資産管理会社の取締役を務めていたことが明らかになった。これは国家公務員法の兼職禁止規定違反となるが、「国家公務員法を知らなかった」と釈明した。しかし、「法学部出身のうえ、公務員研修で真っ先に教わる事項なのに国家公務員法を知らないはずは無い」という批判を受けている。なおこの件については発覚時にはすでに公訴時効が成立している。
政策・主張など
内政においては「自由で公正な社会」を標榜する。経済政策では「小泉(元)総理以上の市場経済主義者」を自認するなど、政府の役割を認めながらも自由主義的な傾向が強い[3]。一方で、「実質的な機会の平等」を実現するため、教育の重要性を繰り返し説いている。
外交においては日米同盟を基軸としながらも、アジア重視の姿勢を見せている。国際貢献には積極的な姿勢を見せ、憲法9条を改正した上で国連を中心とした集団的安全保障への参加と武力行使を容認する姿勢を見せている[4]。これは前代表の菅直人が提唱した穏健な国防・改憲議論とは一線を隔すものであり、この路線は後任の前原体制にも引き継がれた。
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会長として在日外国人に日本国への地方参政権を持たせることを主張している。
中台問題では訪台や台湾当局者の会談の際に独立反対を明言。そのため台湾側から批判された。また靖国問題でも中国(中華人民共和国)などからの批判に対して説明不足を理由に当時の小泉首相に何度も参拝中止を要求した。これに対し小泉から「岡田代表は中国が反対しているから(靖国神社に)行くなといっているんですか、それとも岡田さんが反対だから行くなといってるんですか」と逆に真意を問われたこともあった。[5]
民主党代表時代には、官僚出身らしい手堅い手腕でボトムアップによる全会一致主義の党運営を行った。一方、党内で意見が分かれた場合には「代表預かり」と先送りすることが多かった。
代表時代にはマニフェストを重視した戦略を貫いた。郵政解散の際、民主党では郵政民営化ではなく、郵便貯金の上限引き下げなどを主張した。
消費者金融業界の政治団体である「全国貸金業政治連盟」(全政連)から政治献金を受けていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で伝えられた[6]。
人物
概要
身長176cm、体重76Kg、血液型O
趣味は映画鑑賞、読書のほかカエルの置物集め。海外に行くと必ず買い求めるという。自室にはカエルの置物が大量に飾ってあり、かなりのコレクターであった。
3人の子供がおり、育児に熱心で子供好きの一面をもつ。
世襲の政治家では無いが、「イオンの二代目」と評されるのを嫌っている。TV番組等でも紹介されることは少ない。かといって家業を否定しているわけではない。しかし、ネット上では「ジャスコ」「ジャスコ岡田」と書かれることが多い。
大学時代は勉強より読書に夢中だった。当時衝撃を受けた本としてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を挙げ、三兄弟の中でもイワンに共感を覚えたという。
「真面目」「誠実」を売りにしていたため、2004年の参院選では実直さが評価されたが、一方でその真面目さが祟って2005年の解散総選挙では小泉劇場に埋没してしまい、惨敗の要因の一つとなった。
演説の内容が細かく、政策の内容を丁寧に説明する。大下英治の著書によると、民主党の藤田幸久元衆議院議員が有権者に「小泉総理は生命保険のキャッチフレーズを提示したが、岡田代表は約款を読んでいる」と揶揄されたと言った。
派閥嫌いであるが、2006年に入り「NGO海外活動推進議員連盟」と「核軍縮促進議員連盟」を発足させており、党代表時代に弱かった党内基盤を強化し、党代表復帰に備えているという見方もあった。
支持者からの贈り物は一切受け取らず、直筆の礼状を添えて送り返しているが、贈り物として届いた伊勢エビを受け取らず腐らせてしまった、生花の贈り物も拒否して枯らしてしまった、という出来事もあった。
無駄な道路を造らないという信念から、2002年、三重県で道路建設促進協議会の顧問就任を拒否している。そのため、一部では「岡田が反対しているから伊勢大橋の架け替えが遅れている。」「北勢バイパスはなかなかできない。」といった怨嗟の声が挙った[7]。
発言
「そのサインが本人のものだと確認したんですか。名誉毀損ですよ」
民主党代表であった菅直人の拉致犯釈放嘆願署名について安倍晋三に問い詰められたとき。そのサインは本物であった。
「イラクの状況から米軍が駐留する責任はあるが自衛隊は憲法上撤退すべきだ」
ハワード・ベーカー駐日米国大使との会談中に。
「金大中前大統領が言われた未来志向のレールの上をうまく走っていないとすれば、主に日本側に問題があると思う」
羅鍾一駐日大使との会談中に。
「日韓両国で共通の歴史教科書を持つ必要があるのではないか。議論の場を作るべきだ」
ウリ党の当時議長の辛基南の会談中に。
「微妙な問題は信頼関係を大事にしながら話し合うべきだ」
2004年6月11日、東シナ海ガス油田問題で中華人民共和国の武大偉大使との会談で。
「私は18歳で大学に入りまして、大学在学中に20歳を超えましたが、学生は任意加入であります。したがって就職をした際に、国家公務員でありますので(ここで初めて)国家公務員共済に22歳のときに入りまして、それから12年間通産省で勤めてまいりました。(中略)したがいまして、国家公務員共済、国民年金、共に、未加入とか、未納というのは、大学時代の任意加入の時代を除いては、ございません。」
2005年5月18日、代表就任後の記者会見での発言。当時議員の年金未納・未加入が問題になっていたが、岡田と民主党は同じく任意加入時期に年金未加入だった小泉純一郎を強く批判していた。
「まずはあの、過疎地でそんな1000万も預金している人がどのくらいいるか、という問題はあるんです。1000万も持っているような資産家であれば、それは民間の金融機関はいくらでもね、それは預金、取りに来ますよ。」
2005年8月14日、サンデープロジェクトにおける発言。司会の松原聡から、郵政民営化による過疎地への郵便局への影響を質問されて。
「アルコール中毒で悩んでいる人の目の前にビールを置いたり、糖尿病患者の目の前に饅頭を置いたりするようなものだ。病が深くなるだけで何の意味もない」
2008年12月23日、鹿児島県曽於市での講演での発言。2008年度第2次補正予算案に盛り込まれた定額給付金について。[8]
その他
新進党分党発表の際議員総会で解党反対を訴え小沢一郎に反論した。
2005年6月の衆議院予算委員会では、「A級戦犯の祀られた靖国に行くべきではない、私が総理ならば行きません」と発言し対立、西村眞悟議員から「中国の代弁者をした奴が総理になれる資格が無い!!」と批判された(なお本人は代表になる前の2000年に参拝、また同党幹事長時代には靖国神社系列の護国神社に参拝した)。
2005年の衆議院選挙後に岡田はTBSの「新・調査情報」のインタビューにて「政治は真面目なものであるべき」と主張するなど小泉内閣における「劇場型民主主義」に対しては批判的な姿勢を取った。
2005年に行われた衆議院解散総選挙の直前にライブドア代表取締役社長の堀江貴文の要請で堀江と会談を行ったが出馬要請を見送った。後に堀江は証券取引法違反で逮捕されたが、これについて岡田は以前出馬要請を見送ったのは「堀江氏が真面目に政治に取り組む姿勢を感じられなかったこと、有権者を見下すような発言をおこなったため」などと主張した。他方、堀江がフジテレビの株を買い占めたときには、国会で「民間同士の経済行為であり、政治家がとやかく言うべきでない」という趣旨の発言をおこなった。
新興宗教崇教真光の48周年秋季大祭(2007年)に出席し、来賓として祝辞を述べている[9]。
関係団体
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会長
民主党日韓議員交流委員会顧問
北京オリンピックを支援する議員の会副会長を務めた。
日韓議員連盟所属
NGO海外活動推進議員連盟
核軍縮促進議員連盟
イオン・ジャスコグループ
親族
家族
2004年9月に第2次小泉改造内閣で行政改革・産業再生相に就任した番町政策研究所所属の衆議院議員(愛媛2区選出)の村上誠一郎は義兄(村上の実妹・多津子が岡田の配偶者)。
系譜
岡田氏 初代惣左衛門が現在の三重県四日市市にて太物〈綿・麻織物〉・小間物商等を売り歩く行商人として、岡田屋を創業。6代惣右衛門が個人経営から株式会社組織・岡田屋呉服店に改組した。7代目卓也がイオン (企業)ジャスコグループに発展・拡大させた。
惣左衛門━惣右衛門━惣助━惣八━惣右衛門━惣右衛門━卓也━桜子━克也
文献
著書
『政権交代―この国を変える』 講談社、2008年6月、ISBN 406214607X
---Wikipedia
辻元 清美 (つじもと きよみ、1960年4月28日 - )は、日本の政治家・活動家。(社民党所属衆議院議員。)
奈良県吉野郡大淀町生まれ、大阪府育ち。名古屋大学教育学部附属高等学校、早稲田大学教育学部卒。国際交流団体ピースボート設立者。介護ヘルパー2級。NPOのコーディネート、男女共同参画社会へ向けての執筆、講演などで活動。
来歴
1983年 早稲田大学在学中、民間国際交流団体「ピースボート」を設立。
1988年 第三書館の取締役に就任。
1993年 エイボン女性大賞教育賞を受賞。
1996年10月20日 結党直後の社民党の党首・土井たか子の、いわゆる「一本釣り」により第41回衆議院議員総選挙に立候補し、近畿ブロック比例代表から初当選。同じく初当選の保坂展人・中川智子と共に「土井チルドレン」と呼ばれた。なおこの時点の社民党は、自社さ連立政権に閣外協力で留まっていたが、辻元は常に「社自さ」と称した。
2000年 世界経済フォーラム・ダボス会議の「明日の世界のリーダー100人」に選ばれる。第42回衆議院議員総選挙において、大阪10区から当選。選挙後7月より党政策審議会長。
2002年3月 「週刊新潮」により、秘書給与流用疑惑が報道される。
2002年3月26日 「秘書給与流用疑惑の責任をとる」として衆院議員辞職。
2003年7月18日 本人ほか3名が秘書給与詐欺容疑で逮捕される。
2004年2月12日 上記容疑の有罪が確定。
2004年7月11日 第20回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から無所属で出馬し落選(次点)。
2005年9月11日 第44回衆議院議員総選挙において近畿ブロック比例代表から当選。
秘書給与流用事件の詳細
2002年3月、「週刊新潮」により、秘書給与流用疑惑が報道。
2002年4月23日、衆議院参考人質疑について政策秘書らと事前打ち合わせ。このとき、(実際とは異なり)政策秘書に勤務実態があったかのように答弁すると決める。
2002年4月25日、衆議院参考人質疑。政策秘書に勤務実態があったかのように答弁。虚偽答弁であったことが翌年の辻元逮捕後に判明する。
2002年8月19日、元政策秘書(佐々木美枝、邊見眞佐子)に支給された給与全額に利子を加えた 23,317,972円を自主返還。
2003年6月、警視庁捜査2課が辻元本人と元政策秘書らから事情聴取したことが7月に明らかになる。
2003年7月18日、警視庁捜査2課が、辻元と初代政策秘書・佐々木、元公設秘書・梅澤桂子、名義借り指南役とされる土井の元政策秘書・五島昌子(本名・渡辺昌子)の4名を秘書給与詐欺容疑で逮捕。この逮捕に関しては、疑惑発覚から1年4ヶ月が経過しており、総選挙が近いといわれる時期だったことから、何らかの政治的思惑が絡んでいるのではないかとして筑紫哲也などの著名人や、市民団体が逮捕に疑問を投げかけた[要出典]。この疑問に対して、東京地検特捜部は、証拠隠滅の恐れがあったため逮捕に踏み切ったと主張。逮捕後、逮捕前の任意聴取で「政策秘書に勤務実態はあった」という主張が一転して、辻元、五島をはじめとする4人全員が、口裏合わせをして証拠隠滅を図った事実、詐欺容疑を全面的に認めた。
2003年11月20日、東京地方裁判所にて公判開始。
2004年2月12日、東京地裁判決、懲役2年執行猶予5年。26日同判決確定。
2009年2月26日、執行猶予期間が満了し、刑の言い渡しは効力を失った。
秘書給与流用疑惑について、当初「一種のワークシェア」との弁明を試みた。詐欺罪の適用について、「詐欺」の語感に対して激しい反発を示したと言われる。罪を認めて執行猶予付き有罪が確定したのにもかかわらず、当案件で自らが批判を受けることを「被害」と表現し、法廷外では自らの犯罪行為を否定し続けている。
発言・主張
2002年3月11日、衆議院予算委員会で証人喚問された鈴木宗男に対し、「ど忘れ禁止法を適用したい」や「あなたは疑惑の総合商社」などと激しく追及した。その直後、自身の秘書給与流用が明るみに出た。
2003年の逮捕以前では、『朝まで生テレビ』でパネリストとして「社会党は社会主義の政党ではなくて、日本社会のための党を目指すべき」と語った。
2005年10月1日夜、アダルトグッズ専門店が渋谷のライブハウスで開催した女性限定のイベント「女祭」において、「週刊新潮来てへんやろな」と前置きした上で、「国会議員って言うのは、国民の生命と財産を守るといわれてるけど、私はそんなつもりでなってへん。私は国家の枠をいかに崩壊させるかっていう役割の“国壊議員”や」と発言した事が、その場で潜入取材していた週刊新潮の女性記者によって報道された[1]。
2006年、田原総一朗から「戦前日本の侵略政策は具体的にいつから開始されたのか」と問われ、「日清戦争からだと思います」と回答[2]。
2008年10月10日、麻生太郎内閣が2008年内に衆議院解散・総選挙を行うかに関して、「金融危機の震源地である当のアメリカを見てください。まさにいま、大統領選挙をやっているではないですか。両政党がそれぞれ選挙で経済政策をはっきりと示して、国民に選んでもらおうとしています。こういうところこそ、アメリカにならうべきでしょう。私は、この危機をどう乗り切るかをテーマに、一刻も早い総選挙を行うべきだと考えます。各政党が経済政策を示し、議論すべきです。「経済が大変だから選挙をしない」のではなく、正々堂々と競い合って、選ばれた政権が国民が選んだ経済政策にのっとって実行すれば、国民も納得するはずです。」と発言した。[3]
護憲論者と見なされているが、連立政権下においては「自衛隊も日米安保も認めないのは無責任」と発言していた。
政党交付金について「受け取らないのはポピュリズム」と発言していた。
立候補の記者会見で、「もともと私は旧態依然の社会党なんか大嫌いだった」と発言。
(北朝鮮との国交正常化を最優先すべきとして)「国交正常化の中では、戦後補償が出てくるでしょう。日本は、かつて朝鮮半島を植民地にして言葉まで奪ったことに対して、北朝鮮には補償を何もしていないのだから、あたりまえの話です。そのこととセットにせずに、「9人、10人返せ!」ばかり言ってもフェアじゃないと思います」と述べている[4]。
出演番組
疑惑発覚以前には朝まで生テレビにパネリストとして何度も出演。2006年元旦放送分にて再出演。
関連
中核派がイニシアチブを取る百万人署名運動では、福島瑞穂・海渡雄一夫妻、保坂展人、中川智子らとともに呼びかけ人として名前を連ねている[5]。
ゼミナールの同窓生に山本譲司がいた。
お笑い芸人キャベツ確認中のしまぞうがモノマネをしている。
前記の女祭において、国壊議員としては珍しいサイン入りの大人のおもちゃを競売にかけた。[6]。
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