変人だ・・・
体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。
父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ団藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、後にこの修得した論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる大蔵大臣のあいさつ原稿を書き、没にされたことがある(当時の大蔵大臣は北村徳太郎)。
三島が自衛隊に望んでいたことは、
自衛隊の名誉回復
日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。
天皇論
一方、三島の天皇への態度は複雑である。
三島は、最期の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[15]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
作風
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[44])。 傾向としてはロマン主義、耽美主義に分類されることもある。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。
三島は劇作家としても知られる(唯一翻訳出版したのも戯曲)が、実際に2つのものの対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海・暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[45]。 これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。
OLの日(日本)
1963年、初めて「OL」(Office Lady) という言葉が女性週刊誌「女性自身」11月25日号に載ったことに由来。
「OL」は、それまで用いられていた「BG」(Business Girl) に代わる言葉として「女性自身」が読者アンケートを行った結果1位となったもので、これをきっかけにOLという言葉が広く使われるようになった。
働く女性の異業種間交流サークル「OLネットワークシステム」が1994年に制定。
ハイビジョンの日(日本)
ハイビジョンの走査線の数が1125本であることにちなみ、1987年に郵政省(現総務省)とNHKが制定。
この日とは別に、9月16日が通商産業省(現経済産業省)の制定した「ハイビジョンの日」となっている。
憂国忌
三島由紀夫の忌日。監督・主演した映画「憂国」にちなむ。
こいつ、45歳没。僕は45歳の11月21日付で、会社を辞めました。
同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。
誕生 平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925年1月14日
日本・東京府東京市
死没 1970年11月25日(満45歳没)
日本・東京都新宿区
職業 作家
国籍 日本
活動期間 1938年 - 1970年
ジャンル 小説、戯曲
代表作 『仮面の告白』(1949年)
『禁色』(1951年)
『潮騒』(1953年)
『金閣寺』(1956年)
『鏡子の家』(1959年)
『近代能楽集』(1956年)
『豊饒の海』(1965年)
『サド侯爵夫人』(1965年)
『わが友ヒットラー』(1968年)
主な受賞歴 新潮社文学賞(1954年)
読売文学賞小説部門(1957年)
週刊読売新劇賞(1958年)
読売文学賞戯曲部門(1961年)
フォルメントール国際文学賞第2位(1963年)
毎日芸術賞文学部門(1964年)
文部省芸術祭賞演劇部門(1965年)
処女作 短編小説:『酸模』、『座禅物語』(1938年)
長編小説:『花ざかりの森』(1941年)
配偶者 平岡瑤子
親族 松平乗尹(五世祖父)
永井尚志(高祖父)
平岡定太郎(祖父)
平岡萬次郎(大伯父)
平岡梓(父)
平岡萬寿彦(父の従兄)
平岡千之(弟)
---Wiki
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風が特徴。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた(三島事件)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。[1]
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。
生涯
出自
家族 親族も参照のこと。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。[2]。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業。卒業後の明治26年(1893年)、武家の娘である永井なつと結婚[3]。内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼徳が側室との間にもうけた娘)の間に生まれた長女で、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
作家永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。つまり、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[4]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。
幼少年期
三島由紀夫 6歳 (1931年4月)
公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味を含む過保護な教育を行った。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)に公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。
高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名はアオジロ。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。しかし初等科6年のとき、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出して「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという[5]。
1937年(昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。
1938年(昭和13年)には『輔仁会雑誌』に最初の短篇小説「酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。
1939年(昭和14年)、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まった。この頃には、生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会っている。清水が学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。
1940年(昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書いた。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。この頃オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。
戦時下の思春期
1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説「花ざかりの森」を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。後の後、天皇制に関して、深い傾倒を見せることと成り、美的天皇主義を蓮田善明から託された形となった。(蓮田は終戦直後に南方にて自決する)なお、この年の12月7日に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と戦争状態となった。
1942年(昭和17年)、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語をロベルト・シンチンゲルに師事。体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する[6] [7]。
1943年(昭和18年)、詩人・林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。弔辞は三島が読み上げた。
1944年(昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝領する。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ団藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、後にこの修得した論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
本籍地の兵庫県加古川市(旧・印南郡加古川町)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「仮面の告白」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局は合格し、召集令状を受け取ったものの風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東から悪感情をもたれる。
1945年(昭和20年)、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。
2月、入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降壊滅するまでアメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け、多数の動員学生が死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。『エスガイの狩』などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。
8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えながら、8月19日に軍用拳銃で自決。
10月23日には妹・美津子が17歳の若さでチフスにかかり急逝する。
12月暮、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子。三谷隆信の娘、三谷信の妹。のち鮎川純太の伯母となる女性)が銀行員と婚約。1946年5月5日には両者が結婚。恋人を横取りされる形になった三島は「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」と書いている[8]。
文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の元を訪ね、「中世」「煙草」を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」が雑誌『群像』に掲載される。
1947年(昭和22年)1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけた、という。
1947年11月、東京大学法学部(旧制)卒業。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったものの、結局は父の慫慂により大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(上司に福田赳夫、愛知揆一がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。
1948年(昭和23年)、『近代文学』の第二次同人拡大に際し、参加する(この件りは『私の遍歴時代』に詳しく叙述)。
河出書房の編集者坂本一亀から書下ろし長編の依頼を受け、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟って渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを父の梓からようやく許可される)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。
1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である嘉冶隆一が尽力したとされている)。翌年8月帰国。
自己改造と『金閣寺』
三島由紀夫と石原慎太郎(1956年)
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組んだ。古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛に行い、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の正田美智子と見合いを行ったのもこの時期のことであると考えられている[9][10]。
世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年~)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃からボディビルに加えて剣道を始める。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。
この時期には、三島文学が翻訳を介してヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。
楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークと称した四部作の小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年(昭和40年)から連載開始された(~1967年)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降引き続き候補としてその名が挙げられた。
同時期に自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後『暁の寺』に結実[11]。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海』第三部『暁の寺』(~1970年刊行)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表。
1969年2月に東大全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わす(討論記録は新潮社)。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに”殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演し、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演(薩摩藩士田中新兵衛役)。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは後の三島事件の中心メンバーとなる。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年夏にはすでに結末部は脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。
略年譜
1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。
1931年(昭和6年) 学習院初等科に入学。成績は中の下。
1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。成績、急に上昇する。同学友誌『輔仁会雑誌』に詩『秋二編』が掲載される。坊城俊民と出会う。
1938年(昭和13年) 『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)』『座禅物語』が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドやジャン・コクトーを愛読する。
1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩『凶ごと』を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。
1941年(昭和16年) 『花ざかりの森』を『文芸文化』に掲載。文学をやることについては父・平岡梓から猛反対を受けていたため、小説掲載が父に露見せぬよう「三島由紀雄」という筆名を名乗ろうと考えたが、「由紀雄という字面は重過ぎる」との清水の判断で「三島由紀夫」を初めて名乗る。『輔仁会雑誌』編集長となる。保田與重郎と出会う。
1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。
1943年(昭和18年) 林富士馬を知る。東文彦死去。
1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。
1945年(昭和20年) 『中世』『エスガイの狩』発表。
1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、川端創刊の文芸誌『人間』に短篇『煙草』を発表。『群像』に短篇『岬にての物語』を発表。
1947年(昭和22年) 東京大学法学部(旧制)卒業。法学部での三島の成績は次席であり[要出典]、首席は共産主義者の飯田桃である。高等文官試験に合格。席次は167人中138位。大蔵省事務官に任官。『盗賊』発表。
1948年(昭和23年) 椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。
1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。
1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。
1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。
1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。
1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。
1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館 (戯曲)』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(~1958年ごろまで)。
1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。
1958年(昭和33年) 画家杉山寧の娘、瑤子と結婚。結婚に際しては、平岡家の祖先が被差別身分だったとの噂を聞きつけた杉山家から身元調査を受けた。本籍を兵庫県印南郡志方町上富木から東京都目黒区緑ヶ丘に移す。剣道を始める。
1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』、随筆集『文章読本』を発表。
1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。
1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。嶋中事件が起き深沢七郎の推薦者として右翼から脅迫を受け警察の護衛がつく。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。
1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状~「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。前年の事件に関連して文学座を退団した役者らが、「グループNLT」(劇団NLT)を結成。三島は顧問に就任する。
1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。ノーベル文学賞有力候補に。
1966年(昭和41年) 『英霊の聲』発表。林房雄と対談し、『対話・日本人論』として出版される。
1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。
1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎、南美江、村松英子らと「NLT」を退団し、劇団「浪曼劇場」を旗揚げ、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』などを上演。
1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。
1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。
三島の持論
改憲論
三島が没年に著した『問題提起(日本國憲法)』[12]では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして同条二項では自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば日本は「国家として死ぬ」しかないと三島は考えた。
さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条全ての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず第1章「天皇」の問題と、第20条に関する神道の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。
なお、三島は1969年12月から楯の会の隊員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足し、翌1970年1月以降、三島が執筆した「新憲法における『日本』の欠落」「『戦争の放棄』について」「『非常事態法』について」を元に憲法改正案を起草し続けた。結局、三島の死後の1971年2月になって一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」を完成[13]、楯の会は同月解散した。この「維新法案序」は産経新聞の2003年11月2日号により始めて紹介された[4]。
自衛隊論
三島は、檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
檄文では、「諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した。
三島は、没年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている[14]。 そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく書かれている。
この中で三島は、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、
航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、
という提案をおこなっている。国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。
『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは、
自衛隊の名誉回復
日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。
天皇論
一方、三島の天皇への態度は複雑である。
三島は、最期の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[15]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
特に昭和天皇に対しては、「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している[16]。
その昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島は昭和天皇が「昭和の歴史においてただ二度だけ」「人間としての義務(つとめ)において」「神であらせられるべきだった」と批判する。「二度」のケースとは、
忠臣たるべき2・26事件の反乱将校らを厳重に処罰させたこと
いわゆる『人間宣言』により、「神としての天皇のために死んだ」特攻隊隊員らを裏切ったこと
であり、三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[17]。
もっとも、その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際に昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島は福田恆存との対談[18]において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に過酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。[19]
裁判
『宴のあと』裁判
三島は、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告でもある。
1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決[20]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。
当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判
1998年(平成10年)、福島次郎が文藝春秋社から小説『三島由紀夫-剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであり、三島から福島に送られた15通の手紙の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ところが、この手紙を原文のまま著書に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人は「著者の福島と出版元である文藝春秋社に出版差し止め、著作権侵害による損害賠償を求めて民事裁判を起こした。
一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)のほか、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。
2000年(平成12年)、最高裁判所は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。当初より異例の初版10万部の発行をおこなっており、判決にもかかわらず大半は流通した。
その他
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2007年9月貼付)
三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と言っているが[21]、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[22]。
ボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(このとき三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会ったとき三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[23]。最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。
三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163cmと、当時としては平均的であった[24]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173cmです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた。その新聞記者の身長が173cmだったのに、どう見ても三島のほうが小さかったからである[要出典]。
三島はもともと胃が弱く、お茶漬けを何よりの好物としていた。しかし30歳以降はボディビル・剣道・ボクシングなどで自己鍛錬を重ねて胃弱を克服し、それ以降は好んで脂っこい料理を食べるようになった。好物を問われると、胸を張って「ビフテキ」と答えた。
三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった[25]。
三島由紀夫は日本の作家のなかでも特に海外での評価が高く、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。
三島が監督・脚本・主演全てをおこない、後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年(平成8年)に発見されたという。
三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる大蔵大臣のあいさつ原稿を書き、没にされたことがある(当時の大蔵大臣は北村徳太郎)。
介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。
映画「黒蜥蜴」では主人公の黒蜥蜴(丸山明宏(美輪明宏))により剥製にされた男として出演しその肉体を披露した。その際、男の剥製が黒蜥蜴にキスされるシーンのリハーサルで美輪は寸止めしたが、「何故しないの?」と三島は不満そうに答えた。妙に思いながらも次のリハーサルで本当にキスをしたものの、「何故もっと長くしてくれないの?」と再び不満を漏らしたという。このキスシーンは三島が美輪とキスするためにわざわざ仕込んだシーンであったが、実は美輪はキスという行為が嫌いであり、この時はとても嫌だったと美輪本人が後に語っている。
日本の作家のなかでも抜群の英語力を誇り、いくつかの英語でのインタビューやスピーチが残されている。特に武士道などの旧来の日本的価値観について解説したものは非常に明快でわかりやすく、評価も高い。
カニが大嫌いで、生態はおろか「蟹」という漢字を見ただけで鳥肌をたてたほどだったという。しかしカニの身を食べることは平気で、特に缶詰は、缶の表面のカニの絵さえ見なければむしろ好んだ。
三島は水木しげる、つげ義春や好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている[26]。水木について三島は「…『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも、『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では、見るもむざんな政治主義に堕している」と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」と絶賛しており[27]、このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。
動物の中では特に猫を溺愛し、「生き物の中で最も美しいものは、人間。次は馬か猫だろう」[28]と述べている。
ファッションについては「流行から遅れた物を着るのが好きで、おしゃれに個性は必要ない。同じ物を着てるやつにぶつかると嬉しい」「着物は嫌いで、オレは文士に見えないだろうというのが拘りかな」と語っていた。しかし、着物嫌いであったにもかかわらず褌を愛用していた。
三島の友人であった武田泰淳は、三島の自決の際に、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。[29]。
身長163cm。血液型A型。
家族 親族
出自も参照のこと。
実家
祖父 定太郎(官僚)
祖母 夏子(東京府士族・元大審院判事永井岩之丞の娘、幕臣永井尚志の孫)
父 梓(官僚)
母 倭文重(学者橋健三の娘)
弟 千之(外交官)
妹 美津子
自家
妻 瑤子(画家杉山寧の娘)
長女 紀子(演出家)
長男 威一郎(元実業家)1962年5月2日生。映画の助監督を経て、1988年9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。
系譜
平岡家
三代目利兵衛(五代)のとき、農業のかたわら商売を始め[30]、塩をまぶした魚介類などを売り歩いた[31]。
菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳によると、平岡家初代“孫左衛門”の肩には〈しおや〉という屋号のようなものが記されているという[32][33]。
もともと一家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だった[34]が、太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ、志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った[35]。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという[36]。
“平岡”姓は明治に入り土地の名をとって名乗った[37]。
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━太吉┳萬次郎━萬壽彦
┃
┃
┣定太郎━梓┳公威━威一郎
┃ ┃
┃ ┗千之
┗久太郎━義一
杉山寧━━瑤子
┃
平岡定太郎 ┏平岡公威
┃ ┃(三島由紀夫)
┣━━平岡梓 ┃
┃ ┃ ┃
永井岩之丞━━━夏子 ┣━━┫
┃ ┃
橋健三━━━倭文重 ┃
┗平岡千之
┃
近藤三郎━━近藤晋一 ┃
┃ ┏夏美
┣━━━┫
(14代) ┃ ┗久美
竹中藤右衛門━━┳寿美
┃
┣竹中宏平━━竹中祐二
┃ ┃
┗竹中錬一 ┃
(元首相) ┃ ┃
米内光政━━━━和子 ┃
┃
(元首相) ┃
竹下登━━━━公子
兵庫県と三島由紀夫
三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らず、作品のなかでは敢えて故郷をとりあげず無視した。三島自身関西弁が大嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を軽蔑した。中村光夫に宛てた1963年9月2日の書簡では「上方へ久々に来てみると、上方言葉は全くいただけず、世態人情、すべて上方風は性に合はず、外国へ来たやうです」と語っている。このため、一部からは批判の声もあり、地元民の三島に対する評価は高いものでない。
『農民文学』の仲野羞々子は「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡家の分家三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父 定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通し、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」とのべている(『農民文学』第九十三号所載)。
三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとした背景には、夫(平岡定太郎、兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられているが、差別問題が関係しているとする説もある[38][39]。 それによると平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・太吉が領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、当時賎民とされた非人階級に落とされた上で、“所払い”にされたためだというのである[40]。
この部落民説は三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるが、父・梓はこの風説を断固として否定。結局、梓が志方村に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついている[41]。
これを裏付けるように、村松剛は次のように述べている。「三島研究家越次倶子は平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳を写真に撮影しており、さらに1964年ごろ平岡家の壬申戸籍の写しも入手しているが、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかった」[42]。
一方、『資料・三島由紀夫』(朝文社)を書いた福島鑄郎によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」(同書増補改訂版、1982年)という。また、板坂剛は村松を批判して「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の<写真>の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、<さしさわりのある>部分を残した過去帳とは別の<さしさわりのない>ように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それが<さしさわりのある>ものであったはずがないのだ」と述べている[43]。 その後、安藤武は曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を実地に検証してこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままとなっている。
主な作品
短篇「酸模(すかんぽう)~秋彦の幼き思ひ出」1938年
詩「九官鳥~森たち、第五の喇叭、独白、星座、九官鳥」1939年
短篇「彩絵硝子(だみえがらす)」1940年
中篇「花ざかりの森」1941年
短篇「苧菟(おっとう)と瑪耶(まや)」1942年
中篇「世々に残さん」1943年
短篇「夜の車」1944年
のち「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と改題
短篇「エスガイの狩」1945年
短篇「煙草」1946年
短篇「夜の仕度」1947年
長篇「盗賊」1948年
短篇「魔群の通過」1949年
長篇「仮面の告白」1949年
長篇「青の時代」1950年
長篇「禁色」1951年~1953年
海外紀行「アポロの杯」1952年
短篇「ラディゲの死」1953年
長篇「潮騒」1953年~1954年(第1回新潮社文学賞)
評論「小説家の休暇」1955年
長篇「金閣寺」1956年(第8回読売文学賞小説部門)
戯曲「鹿鳴館」1956年
一幕戯曲集「近代能楽集」1956年
長篇「美徳のよろめき」1957年
「よろめき」という言葉は男女の不倫を指す流行語となった
戯曲「薔薇と海賊」(週刊読売新劇賞)1958年
長篇「鏡子の家」1958年~1959年
評論「不道徳教育講座」1958年~1959年
随筆「文章読本」1959年
戯曲「熱帯樹」1960年
戯曲「十日の菊」1961年(第13回読売文学賞戯曲部門)
短篇「憂国」1961年
長篇「美しい星」1962年
長篇「午後の曳航」1963年(フォルメントール国際文学賞第2位)
写真集 「薔薇刑」1963年
短篇「剣」1963年
評論集「私の遍歴時代」1964年
長篇「絹と明察」(第6回毎日芸術賞文学部門)1964年
戯曲「サド侯爵夫人」1965年(文部省芸術祭賞演劇部門)
長篇「複雑な彼」1966年
短篇「英霊の聲」1966年
翻訳戯曲「聖セバスチァンの殉教」1966年
ガブリエレ・ダヌンツィオを池田弘太郎と共訳
評論「太陽と鉄」1967年
評論「葉隠入門」1967年
戯曲「朱雀家の滅亡」1967年
評論「文化防衛論」1968年
戯曲「わが友ヒットラー」1968年
小品「F104」1968年
戯曲「癩王のテラス 3幕7場」1969年
短篇「蘭陵王」1969年
戯曲「椿説弓張月 3幕8場」1969年
馬琴作品の歌舞伎台本
対談集「源泉の感情」、「尚武のこころ」1970年
長篇「豊饒の海」1965年~1970年
作風
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[44])。 傾向としてはロマン主義、耽美主義に分類されることもある。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。
三島は劇作家としても知られる(唯一翻訳出版したのも戯曲)が、実際に2つのものの対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海・暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[45]。 これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。
映画
原作
制作年
作品名
制作(配給)
監督名
主な出演者
1953年
夏子の冒険
(※カラー映画)
松竹大船
中村登
若原雅夫 角梨枝子 高橋貞二 桂木洋子
淡路恵子
1953年
にっぽん製
大映東京
島耕二
山本富士子 三田隆 上原謙
1954年
潮騒
東宝
谷口千吉
久保明 青山京子 三船敏郎
1957年
永すぎた春
大映東京
田中重雄
若尾文子 川口浩 船越英二 角梨枝子
1957年
美徳のよろめき
日活
中平康
月丘夢路 葉山良二 三國連太郎 宮城千賀子
1958年
炎上
大映京都
市川崑
市川雷蔵 新珠三千代 仲代達矢 中村玉緒
1959年
燈台
東宝
鈴木英夫
河津清三郎 津島恵子
1961年
お嬢さん
大映東京
弓削太郎
若尾文子 田宮二郎 川口浩
1962年
黒蜥蜴
大映東京
井上梅次
京マチ子 大木実 叶順子 川口浩
1964年
剣
大映京都
三隅研次
市川雷蔵 藤由紀子
1964年
潮騒
日活
森永健次郎
吉永小百合 浜田光夫
1964年
獣の戯れ
大映東京
富本壮吉
若尾文子 河津清三郎
1965年
肉体の学校
東宝
木下亮
岸田今日子 山崎努 山村聰 東恵美子
1966年
複雑な彼
大映東京
島耕二
田宮二郎 高毬子
1967年
愛の渇き
日活
蔵原惟繕
浅丘ルリ子 中村伸郎 山内明
1968年
黒蜥蜴
松竹
深作欣二
丸山明宏 木村功 川津祐介
1971年
潮騒
東宝
森谷司郎
朝比奈逸人 小野里みどり
1972年
音楽
行動社/ATG
増村保造
黒沢のり子 細川俊之
1975年
潮騒
東宝/
ホリ企画制作
西河克己
山口百恵 三浦友和
1976年
金閣寺
たかばやし
よういちプロ/
映像京都/ATG
高林陽一
篠田三郎 柴俊夫 島村佳江
1976年
午後の曳航
マーティン・ポール
=ルイス・ジョン・
カルリーノ・プロ/
日本ヘラルド映画
ルイス・ジョン
・カルリーノ
サラ・マイルズ クリス・クリストファーソン
1980年
幸福号出帆
悶文グループ/
三宝プロダクション
/東映セントラル
フィルム
斎藤耕一
藤真利子 倉越一郎
1983年
愛の処刑
(※榊山保名義)
ENKプロモーション
野上正義
御木平介 石神一
1985年
潮騒
ホリ企画/東宝
小谷承靖
堀ちえみ 鶴見辰吾
1986年
鹿鳴館
MARUGEN-
FILM/東宝
市川崑
浅丘ルリ子 菅原文太 沢口靖子 三橋達也
2005年
春の雪
東宝
行定勲
妻夫木聡 竹内結子 若尾文子 真野響子
出演 [編集]
制作年
作品名
制作(配給)
監督名
三島の役柄
主な出演者
備考
1951年
純白の夜
松竹大船
大庭秀雄
特別出演
河津清三郎 木暮実千代
※原作
1959年
不道徳教育講座
日活
西河克己
特別出演
大坂志郎 信欣三
※原作
1960年
からっ風野郎
大映東京
増村保造
朝比奈武夫
若尾文子 船越英二
志村喬
※主演作品
1968年
黒蜥蝪
松竹大船
深作欣二
日本青年の生人形
丸山明宏(美輪明宏)
木村功
※劇化 劇曲
1969年
人斬り
フジテレビ
/勝プロ
五社英雄
田中新兵衛
勝新太郎 仲代達矢
石原裕次郎
※出演
監督
制作年
作品名
制作(配給)
三島の役柄
主な出演者
備考
1966年
憂国
東宝/ATG
武山信二中尉
鶴岡淑子
※制作は1965年 製作・脚色・美術も
音楽作品
からっ風野郎(同名の大映映画の主題歌)
キングレコード、1960年3月20日発売。
三島は作詞と歌唱を担当。作曲とギター演奏は深沢七郎。
大映映画「お嬢さん」主題歌
キングレコード、1961年1月31日発売。
三島は作詞を担当。歌唱は中原美紗緒。
起て!紅の若き獅子たち
クラウンレコード、1970年4月29日発売。
三島は作詞を担当。作曲は越部信義。歌唱は三島と楯の会の会員たち。
「軍艦マーチのすべて」
キングレコード、1998年発売。
三島由紀夫指揮による読売交響楽団の軍艦行進曲の演奏が収録されている。
関連人物
蓮田善明 日本浪曼派系の国文学者。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時、駐屯地のマレー半島のジョホールバルで自決。島津書房で全集全1巻が刊行。
清水文雄 日本浪曼派派系の、和泉式部研究で著名な国文学者。学習院時代の恩師で筆名「三島由紀夫」を提案した、三島の『師清水文雄への手紙』がある(新潮社、2003年)。小学校時の今上天皇の担当教師でもあったが、戦後の広島大学に赴任し終生在住した。
徳川義恭 学習院の先輩、若くして病没、尾張徳川家分家の出身で、皇族との縁戚関係があり、半世紀以上侍従・侍従長を務めた徳川義寛は実兄である。
東文彦 年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)の大半は東宛である、戦時中に23才で夭折。自決直前に序文を『東文彦作品集』に記した(講談社、講談社文芸文庫で再刊)。なお母方の祖父は石光真清である。
林房雄 尊敬し交流していた作家、『林房雄論』を書き、共著『対話 日本人論』がある。東大法学部の先輩でもある。
伊東静雄 日本浪曼派の詩人。三島から尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を大変嫌っており、1944年に三島の訪問を受けた時、日記の中で三島を「俗人」と呼び、その手紙を「面白くない。背のびした無理な文章」と酷評した。伊東歿後、三島はこの日記の内容を知るに及んで「あの人は一個の小人物だつた」[46]と逆襲した。
川端康成 三島の師、あるいは先輩作家。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治が谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあるが、この件に関しては夫人の川端秀子から「さりげなく、しかし、きっぱりとお断り」された(1951年3月)。自決約一年前辺りから、楯の会に対する川端の冷淡さに失望したとの証言がある[47]。築地本願寺で行なわれた葬儀の委員長は川端が務めた。
福田恆存 英文学者、戯曲家、保守系の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が「劇団雲」結成を発表する前夜、三島に参加を呼びかけているが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否した。その後演劇活動は共にしなったが、三島は「雲」の機関紙に寄稿し、昭和42年に対談「文武両道と死の哲学」[48]も行っており、関係断絶までには至っていない。
吉田健一 英文学者、作家。鉢の木会の同人仲間として三島と一時期親しかったが、のちに不和を生じて絶交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためともいわれるが、『宴のあと』刊行に際して、有田八郎と旧知の仲だった吉田が有田との話し合いを三島に求めたところ、三島が感情的に反撥したためという説もある。
澁澤龍彦 作家、フランス文学者。澁澤が自分の訳したサドの翻訳書の序文を三島に依頼し快諾を受けてから(1956年)、三島の没年にいたるまで親交があった。澁澤が三島を「自分の同世代者なかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」(追悼文「三島由紀夫氏を悼む」より)と賞賛する一方、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の最高峰の呼び声が高い『サド侯爵夫人』は、澁澤のサド伝『サド侯爵の生涯』(中公文庫ほか)に想を得ている。澁澤は三島に面と向かって「近ごろ、兵隊ごっこ(楯の会)はいかがですか」と(半ば皮肉で)言えるほど親しい間柄だった。
市川雷蔵 歌舞伎出身の映画俳優、大映作品『炎上』(金閣寺が元)『剣』で主役を演じている。三島からの信頼が厚く、歌舞伎公演に際して、激励の文章を送っている。『獣たちの戯れ』の映画化は多忙で、『春の雪 豊饒の海』の舞台公演は病いで実現しなかった。昭和44年にガンで没したが、池上本門寺での葬儀には三島も夫妻で参列している、今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が出されている。
美輪明宏 歌手、俳優。10代の時、美輪のアルバイト先のシャンソン喫茶『銀巴里』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島由紀夫の戯曲に多く出演し、「近代能楽集」「双頭の鷲」、三島が脚本を手がけた「黒蜥蜴」は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことは無く、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は、自決決行に先駆けて、永訣として「薔薇の花束」と共に楽屋の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。
天知茂 生涯の持ち役だった明智小五郎をはじめて演じたのは、三島本人から指名され、丸山明宏初主演でもある昭和43年の舞台『黒蜥蜴』である。
中村伸郎 俳優。三島が劇団「文学座」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「NLT」「浪曼劇場」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。
石原慎太郎 作家、政治家、東京都知事。三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品「完全な遊戯」が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、昭和45年6月に三島が石原を批判する文を書いてからは事実上断絶した。石原は、三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、野坂昭如との対談や評論でも否定的な見解を述べ続けた。三島の死後に「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に美輪明宏からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は生前のインタビューで「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べている。
村上一郎 作家。批評家。右派的な作家である。独自視線の戦争批判が冴える。三島由紀夫と頻繁に会談し、「尚武のこころ」(日本教文社、昭和45年)に詳しい。昭和50年自宅で自刃。
北杜夫 作家。年齢も近かったことから交友が始まり、三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島とは疎遠だった。
遠藤周作 作家。憂国忌発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージには一定の理解を示していた。晩年の代表作『深い河』は『豊饒の海』の影響も多分に受けている。
越路吹雪 独身時代に三島と恋愛関係にあった。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていた。
増村保造 映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人ロイ・ジェームスに向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる[49]。
安部譲二 作家。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は小説『複雑な彼』を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部となった。
田宮二郎 俳優 田宮本人の希望で『複雑な彼』に主演、学習院の後輩でもある。
土方巽 舞踏家、振付家。 暗黒舞踏派の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年には、三島の小説『禁色』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」(澁澤)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集 『薔薇刑』の製作につながっていく。「薔薇刑」の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。
細江英公 写真家。1961年、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が舞踏家の土方巽を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、三島の初めての評論集『美の襲撃』の口絵写真を依頼する。これを契機に、ボディービルに傾倒した、三島自身の38歳の肉体を被写体としする写真集 『薔薇刑』の一連の撮影が行なわれ、『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、世界の代表的な写真集の一つとなった。
篠山紀信 写真家、処女写真集『篠山紀信と28人のおんなたち』(毎日新聞社、1968年)に三島が序文を書いている。また自決の直前に、三島の依頼で写真集『男の死』を撮影した。数点が公開されたのみで、現在まで封印している。
手塚治虫 漫画家。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『ばるぼら』(1973~74、ビッグコミック連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前「劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的諷刺家になったら、その時点でもうおしまいである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を創造した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て…」(「劇画における若者論」)と手塚を辛辣に批判した。
矢頭保 写真家。三島は、矢頭の作品集『体道~日本のボディビルダーたち』(1966年)や『裸祭り』(1969年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。
長沢節 画家。三島が節に興味を持ち椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。節が書いた小説をほめ鎌倉文庫の『人間』の臨時増刊号に原稿を持っていったが、その後鎌倉文庫がつぶれたため実現ならず。その後三島が右翼というので距離を置くようになる。
アーサー・C・クラーク 20世紀を代表する著名なSF作家。三島はSF好きとしても知られており[50]、クラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、『幼年期の終り』などに関する感想をエッセーに残している。アポロ計画華やかなりし1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』も鑑賞している[51]。クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には三島の『仮面の告白』への言及がある。
ドナルド・キーン 日本文学者。三島の良き理解者で、彼を高く評価していた。たびたび回想・評伝を出している。キーン宛ての三島書簡がある[52]
アイヴァン・モリス 同じく友人の日本文学者、『金閣寺』英訳者であり著書「光源氏の世界」がイギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英し授賞式に立ち会った。
エドワード・G・サイデンステッカー 同じく日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは徐々に疎遠になっていったようである。
マルグリット・ユルスナール フランスの女性作家。深い西洋古典学の教養を有し、多田智満子の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者のひとりで著書がある[53]。女性初のアカデミー・フランセーズ会員でもある。
ビョーク アイスランド出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。
シガニー・ウィーバー 『エイリアン』で知られるハリウッドの女優。映画『黒蜥蜴』を鑑賞後、リメイク化権を取得。
フランシス・フォード・コッポラ 『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』等で知られるサンフランシスコ在住の映画監督。
ジョージ・ルーカスと共に『MISHIMA』をプロデュース。『鏡子の家』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時は、三島の『豊饒の海』からもモチーフを得ている。
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