燁子 馨 晶子
自爆テロ犯、与謝野を狙え
新生日本丸を沈没させるぞ~~~
えいえいお~~~
さすが、晶子?の血筋? 燁子?の血筋?
晶子は? 与謝野鉄幹
燁子は? 柳原白蓮
馨さんへ、境の源吉と土佐の裕光で返り討にしてくださいね?
二刀流です・・・
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大阪府堺市(現在の
堺区)出身。旧姓は鳳(ほう)。
戸籍名は「志よう」。ペンネームの「晶子」の「晶」はこの「しよう」から取った。夫は
与謝野鉄幹(与謝野寛)。
作家・歌人 [編集]
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』明治34年(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。 歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。なお、晶子の弟は日露戦争から無事帰還し1944年(昭和19年)まで生きている。 大町桂月は『
太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・
与謝野鉄幹と
平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、
1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが『
横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向者であると評する者もいる[誰?]。 日露戦争当時に「
幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言した。ただし、
大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年3月7日に『
東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人
大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった
管野スガは未決在監中に
平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して
小林天眠への手紙に残している。
1911年に『
青鞜』発刊に参加、『
そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、
文部省と
内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「
栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、
夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。
晶子が34歳のとき『新訳
源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした
北村季吟の『
湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった
森鴎外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏五十四帖のうち最後の『
宇治十帖』を残すまで書き上げたが、
関東大震災のために
文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに十七年かけて六巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。昭和13年(
1938年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。
評論家 [編集]
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。
女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。数学が大変得意であり、女性も自然科学を学ぶべきと主張した[4]。 反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。 政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出して一概に反戦・反天皇の人物であったわけではなく、当時『労農主義』として紹介されていた
マルクス・レーニン主義も批判していた。
シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、
米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の
寺内正毅内閣の退陣を要求している。
晶子は『
中央公論』大正8年(
1919年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。
羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力、文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。のち文化学院女学部長。
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生い立ち [編集]
父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから燁子と名付けられる。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の華族の慣習としていったんは里子に出されたのちに柳原家に再び戻り、養育された。 1888年(
明治21年)、生母・りょう病死。
1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学。
1898年(明治31年)、
華族女学校(のちの
女子学習院)に入学。燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、りょう以外に年来の妾・
梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はりょうを妹のように、そしてりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたとも言われる。
最初の結婚 [編集]
1900年(明治33年)、14歳で、
子爵・
北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子の
資武(すけたけ)と結婚し、1901年(明治34年)、15歳で男子、
功光を出産した。しかし
知的障害があったといわれる資武とは早期に夫婦関係が拙くなり、5年後に離婚。実家に戻った
[2]。
再婚と「筑紫の女王」時代 [編集]
燁子は
1911年(明治44年)、27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、
政友会の
代議士であった
伊藤鉱業社長・
伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄・
義光が
貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伝右衛門の思惑が一致した
[3]政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“
黄金結婚”と大いに祝福された。伝右衛門は
飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに
福岡市天神と
別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも
赤銅(あかがね)
御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。
こうして燁子は「筑紫の女王」と呼ばれるようになった。しかし複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伝右衛門は何人もの妾がいたが、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷にいたが、伝右衛門の手が付いたことから燁子はユウをあてがう形となった。後年、白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。そんな懊悩、苦悩を燁子はひたすら歌に託し「心の花」に作品を発表しつづけた。
1915年(
大正4年)、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」(信仰していた
日蓮にちなむ)とした。その浪漫的な作風は「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹き付けた。
別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだが、その一人に
医学博士で歌人の
久保猪之吉がいた。妻の
久保より江も俳人として名を知られていた。
恋に生きる [編集]
1920年(大正9年)
1月31日、別府の別荘で会った龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。龍介も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は龍介の子を宿した。
姦通罪のあった
男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。
1921年(大正10年)
10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消した。2日後の
10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。
夫と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。
同日の大阪朝日新聞夕刊に白蓮名義で「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」という公開絶縁状が掲載された。これは白蓮が書いた手紙を龍介の友人が書き直したものであり、友人たちによって公開が以前から計画されていたという。しかし絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。特に国家主義の、黒龍会(頭山満の玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により、兄・義光は貴族院議員を辞職することとなった。白蓮は男児(香織)を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。 伝右衛門は
大阪毎日新聞に「絶縁状を読みて燁子に与ふ」と題し「(白蓮との結婚生活を)俺の一生の中で、最も苦しかった十年」などと表現した文を掲載したが、白蓮と龍介を姦通罪で起訴することはしなかった。伝右衛門の親族には白蓮を、重ねて4つにして「
遠賀川にたたきこめ」と激昂する者もいたが、伝右衛門は白蓮に手を出すことを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。しかし一方で、白蓮が産んだ男児の父親を確認する訴訟を起こしている。
再々婚以後 [編集]
1923年(大正12年)、
関東大震災の後、白蓮の産んだ子は伊藤の子ではない
[4]という判決が下り、白蓮の姦通は明らかとなった。白蓮は
華族から除籍され、財産も没収されて伝右衛門との離婚が成立した。当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、龍介に白蓮たちを引き取らせたという。龍介と結婚、長男・香織を伴い親子3人の生活が実現した。
しかし、夫は
結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している
[5]。
1925年(大正14年)には長女、蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後
弁護士として活躍した。
1931年(昭和6年)には龍介と中国を旅行している。
1945年(昭和20年)
8月11日、長男・香織が
鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。一方、皇太子と
正田美智子との結婚に際しては、
松平信子ら旧華族出身者と共に強硬に反対し、
右翼団体にも反対運動を行なう様働きかけた。
1961年(昭和36年)、
緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。
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