@ アルキメデスのカメ? ウサギがカメを絶対に追い越せない なぜならば、トキの神、クロノスが支配しているから・・・
@ アキレスと亀だった・・・
@ 現実には、追い越す瞬間がある、それはフェノミナである・・・
@ 追い越す瞬間とは? せつない刹那である、無と無限が共存するフェノミナである・・・
@ まるで、サクラの森の満開の下のドロボーと鬼女のようだ・・・ はかなく消えてしまう・・・ アキレスがカメを追い越す瞬間である・・・
@ せつない瞬間に家元の鴻巣さんが割り込んだ、笑い せつないな~~~
@ チャングムの酒屋のオヤジと嫁さんのようでもある、笑い カン・ドックの妻 ナジュテク(羅州宅) - クム・ボラ(琴寶羅)-(つかもと景子) トックの妻で、チャングムの養母。醸造業を営んでいる。ケチで計算高く口は悪いが、根は優しく心温かい人。
ゼノンのパラドックスは、
エレア派の
ゼノンの考えた
パラドックスで、
パルメニデスの「感覚は全て疑わしいものである」こと、特に「一があるのであって多があるのではない、多があるとすれば運動は不可能である」という学説を、ピュタゴラス派の多を主張する立場を批判して唱えたものであった。
今日、ゼノンのパラドックスと呼ばれるものは、
アリストテレスの「自然学」とそのシンプリキウスによる注釈の中に八つ伝わっている。そのうちのいくつかは、本質的に同じ問題を取り扱ったものである。
パラドックスの概要 [編集]
ゼノンの論証がパラドクシカルであるゆえんは、それらが導く結論はいかにも非現実的であるにもかかわらず、結論を導く
論証過程自体は正しそうに見えるという点にある。つまり、論証の前提の正しさを受け入れる者にとって、論証の結論を拒否するためには論証プロセスのどこに誤りが潜んでいるかを指摘する必要があるがそれは容易なことではなく、結果として、そののち多くの哲学者がこの課題に挑戦する事態となった。
ただし、ゼノンの意図としては、これらの論証によってその非現実的な結論を主張したかったわけではない。そうではなく、世界が不可分な要素的な点やアトムからなるという前提から運動が不可能となるという帰結を導き出すことで、運動が可能であるという現実との矛盾を示そうとしたものであった。その場合、運動自体を否定しようというつもりはそもそもゼノンにはなく、否定されるべきはむしろ、そのような非現実的な結論を導く際に前提としてはたらいていたような考え方にある、というのがゼノンの考えであった(一種の背理法)。
以下、ゼノンが提示したとされるパラドックスのうち「運動のパラドックス」として今日知られる四つを掲げる。
二分法 [編集]
地点Aから地点B0へ移動するためには、まずAからの距離がAB0間の距離の半分の地点B1に到達しなければならない。さらにAからB1へ移動するためには、Aからの距離がAB1間の距離の半分の地点B2に到達しなければならない。以下、同様に考えると、地点Aから地点B0へ移動するには無限の点を通過しなければならず、そのためには無限の時間が必要である。よって、有限の時間で地点Aから地点B0へ移動することは不可能である。
アキレスと亀 [編集]
あるところに
アキレスと
亀がいて、二人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか(注:
イリアスにおいてアキレスの枕詞の一つは「駿足の」である)なので亀がハンデをもらって、いくらか進んだ地点(地点 A とする)からスタートすることとなった。
スタート後、アキレスが地点 A に達した時には亀はアキレスがそこに達するまでの時間分先に進んでいる(地点 B)。アキレスが今度は地点 B に達したときには亀はまたその時間分先へ進む(地点 C)。同様にアキレスが地点 C の時には亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけないことになる。
ゼノンのパラドックスの中でも最もよく知られたものの一つであり、多数の文献は彼の手に帰しているが、歴史家パボリノスの説によれば、この議論を創始したのは
パルメニデスであるという
[1]。
飛んでいる矢は止まっている [編集]
これは物体の運動に関するものである。矢が飛んでいる様子を考えよう。ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっているであろう。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている 。
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