テレビ東京のレディス4に殴りこみ~~~
野菜の使い切りがテーマ・・・
こっちは、しゃぶしゃぶ用豚肉残り+冷蔵庫野菜室整理定食
豚肉、タマネギ、ナス、ピーマン、きくらげ、炒め
味付けは?
醤油、ブラックペパー、豆板醤、干しエビ、乾燥ニンニク、黒酢、オイスターソース、ブルドックソース、日本酒、鶏がらスープの素
最後に、片栗粉で、仕上げ~~~
きくらげは、水に戻したら、でかくなった~~~、一カケだったが、8センチ四方ぐらいに膨らんだ。
意外とおいしいよ・・・
それに、なめこ汁に、キムチに、ご飯・・・
キリン・ゴールドを飲みながら・・・
Creator Aoyagi YoSuKe
Salon de Prevert
使い切ったもの・・・
豚肉、タマネギ、ピーマン、ナス、ブルドックソース
腹八分目で、定食は終わり。
残りを泡盛のつまみにしている。
乾燥ニンニクがうまいな~~~、油がしみて・・・
初めて試したけど、なかなかイケている・・・
やはり、プロにはかなわない・・・ カリフラワーの芯のスープ、うまそう・・・ 葉っぱの炒め物?
僕は、カリフラワー、ブロッコリーは、面倒そうなので、まだ、買ったことがないのですが・・・
この本質は、ジョーシキの打破だ~~~
捨てるのが当たり前と思っていることが、非ジョーシキなのかも?
笑い
クジラの法則、余すところなく使え~~~
「光陰矢の如し」
光陰とは?
光 - 日
陰 - 月
月日が経つのは速い・・・
日光菩薩、月光菩薩、その間に、薬師如来が鎮座して、異形の者を押さえつけている。
これが、薬師三尊が示している、浄瑠璃世界のイメージです・・・
テレビ東京さんへ
安い、高いはキーワードではない・・・
リーズナブル、値ごろ感・・・
そして、高くてもリーズナブル、安くてもリーズナブルでない・・・
つまり、ROIのこと・・・ Return Of Investment
これですよ・・・
安物買いの銭失い - いにしえの消費者
リーズナブルこそカギです、たまにはぜいたく、贅沢もリーズナブル。緩急をつけて・・・ そうすると、贅沢のありがたみが良く分かる~~~ - 賢い消費者
瑞泉梅酒、紀州梅、沖縄黒糖・泡盛使用・・・ これなどは、贅沢だけど、リーズナブル・・・
粗食と美食は、表裏一体・・・
当然です・・・ これが、痛風防止の方法ですが・・・
美人も毎日見ていれば、ただの人・・・ 笑い
本当だよ・・・
クレオパトラの鼻が1センチ低ければ?
たいして変わらない・・・・
クレオパトラの妖力がカエサルを狂わせた・・・
楊貴妃の妖力が・・・
女は化ける・・・ のですが・・・
「あばたもえくぼ」
やはりね・・・
歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、複数の外国語(メディア語・エチオピア語・シリア語・パルティア語・アラビア語・ヘブライ語など)に通じた、知的な女性と伝えている。ちなみに、容貌については「彼女の美貌そのものはけっして比類なき者ではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女は魅力的であったが、それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方によるものであったと言われる。美の基準は人、地域、時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、絶世の美女ではなかったようだ。冒頭に掲げられている女王の頭像(ベルリン博物館蔵)はこの事実を裏書していると思われる。
---Wikipedia

クレオパトラ7世フィロパトル(紀元前70年12月または紀元前69年1月-紀元前30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後の女王である。父はプトレマイオス12世アウレテス、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシャ語で「父の栄光」を意味する。
クレオパトラの誕生以前よりプトレマイオス朝は権力を巡る骨肉の争いが常態化しており、実際に紀元前55年(クレオパトラ14歳)には父(プトレマイオス12世)と姉(ベレニケ4世)が王位を巡って争い、ローマの支援も得て勝利した父王がベレニケを処刑したようにエジプト国内は安定には程遠い情勢であった。
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時にプトレマイオス12世は死去したが、父王の遺言及びプトレマイオス朝の慣例に則って、兄弟で最も年長であったクレオパトラが弟・プトレマイオス13世と結婚し、共同で王位(ファラオ)に就いた。
弟王との共同統治は弟王の側近の介入もあって当初より齟齬が生じていたので、ローマの支持を必要としていた。ローマでは、カエサルとポンペイウスが対立していたが、クレオパトラは父王の関係から、ポンペイウス派に与していた。ポンペイウスの子グナエウス・ポンペイウスがアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラに兵員と食料の協力を要請した。女王は、この小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。この際、クレオパトラは小ポンペイウスの愛人となった[1]。 しかし紀元前48年の春、これらクレオパトラの動きに不信を募らせたプトレマイオス派はアレクサンドリア住民がクレオパトラに対して起した反乱に乗じてクーデターを実行し、クレオパトラを東部国境のペルシオンへと追いやった。
紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためエジプトへ入ったカエサルは、アレクサンドリアで両共同統治者を招集した。当時、クレオパオラはエジプト東部のペルシオンで戦闘中であり、容易にアレクサンドリア出頭はできなかった。プルタルコスによると、女王は自らを寝具袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせ、王宮へ入ることができたといわれている(絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多いが、歴史資料では確認できない)。このとき、クレオパトラはカエサルに魅了され、彼の愛人となった。これを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれている。一応、カエサルは両共同統治者の和解させるのに成功したものの、この和解は15日間しか続かなかった。カッシウス・ディオによると、プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはちょうど到着したローマの援軍によって、紀元前47年のナイルの戦いでプトレマイオス派を制圧し、プトレマイオスをナイル川に溺死させた。プトレマイオス13世と結託し、クレオパトラと敵対していたアルシノエ4世は、捕らえられ、ローマへ送られて、のちにカエサルの凱旋式で引き回されることになった。
プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治を再開した。紀元前47年、女王はカエサルの子カエサリオンをもうけたとされる(カエサル父親説については異論もある)。プトレマイオス14世との共同統治は、カエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際には、クレオパトラ7世が単独で統治し、カエサルの傀儡であったと言える。
紀元前46年、カエサルが10年間の独裁官に任命され、凱旋式を挙行したころ、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れた(アルシノエが市中を引き回されるのを見たかもしれない)。クレオパトラ7世は、カエサルの庇護のもと目立たない形でローマに滞在していたが、紀元前44年カエサルが暗殺されると、カエサリオンを連れ、急遽エジプトに帰ったらしい。
クレオパトラ7世は、嫡子のいないカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたと思われるが、カエサルは、庶子に当たるカエサリオンを後継者に指名してはいなかった。紀元前46年、既にカエサルは遠縁の養子ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスを後継者と定め、遺言書を遺していた。
クレオパトラ7世がエジプトに帰国し頃、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡すると(死因不明、クレオパトラによる毒殺説もある)、クレオパトラは、幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。
紀元前42年、クレオパトラは、フィリッピの戦いで、三頭政治側ではなく、マルクス・ユニウス・ブルートゥスら共和派を支援した。共和派の敗北にともない、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラに出頭を命じた。これに対して、クレオパトラはアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる[2]。アントニウスはエジプトに近いシリアなどの東方地域では勢力を維持しており、クレオパトラと良い関係を作ることは、アントニウスにとって好都合であったことは事実である。 他方、アルシノエは小アジアのエフェソスにあるアルテミス神殿に聖域逃避していたが、クレオパトラは、アントニウスに頼んで殺害させた。
その後、2人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、クレオパトラ・セレネ、紀元前36年には、もう一人の男の子プトレマイオス・フィラデルフォスが誕生した。アントニウスはエジプトと同盟したが、パルティア遠征で惨敗を喫したあと、政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚した。クレオパトラとアントニウスは結婚したのかもしれない。アントニウスは、再度東方遠征を試み、今度はアルメニア遠征で勝利を収めて帰還し、エジプトのアレクサンドリアで凱旋式を挙行した。さらに、エジプトに埋葬されることを望むなど(アントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが元老院で読みあげたもので、真偽は定かではない)、ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき、それは私闘ではなく「ローマ対エジプト」の構図になっていた。
紀元前31年、クレオパトラ・アントニウス連合軍とオクタヴィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突した(アクティウムの海戦)。この海戦の最中にクレオパトラ7世は戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ7世の船を追って逃亡し、ともにアレキサンドリアへ戻った。結局、アントニウスの連合軍は敗北を喫した。アントニウスは部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑された。
クレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは、自殺を図った。アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられ、息を引き取る。クレオパトラ7世自身はオクタヴィアヌスに屈することを拒み自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体を噛ませて自殺したとも伝えられている。さすがのオクタヴィアヌスも彼女の「アントニウスと共に葬られたい」と言う遺言だけは聞き入れたようである。
エジプトを征服したオクタヴィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる虞れがあるカエサリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし、エジプトをローマに編入して、皇帝直轄地エジプト(アエギュプトゥス)とした。ちなみにクレオパトラがアントニウスともうけていた他の子供達はアントニウスの前妻オクタウィアに預けられ、養育された。
歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、複数の外国語(メディア語・エチオピア語・シリア語・パルティア語・アラビア語・ヘブライ語など)に通じた、知的な女性と伝えている。ちなみに、容貌については「彼女の美貌そのものはけっして比類なき者ではなく、見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」と評している。彼女は魅力的であったが、それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方によるものであったと言われる。美の基準は人、地域、時代などによって異なるので注意が必要だが、少なくともプルタルコスの評価では、絶世の美女ではなかったようだ。冒頭に掲げられている女王の頭像(ベルリン博物館蔵)はこの事実を裏書していると思われる。
キケロはティトゥス・ポンポニウス・アッティクスへの書簡(紀元前44年6月付)の中でクレオパトラについて「女王は嫌いだ、こんな連中と関りたくない」と記した。ローマ市民のクレオパトラへの印象が窺える文章といえる。
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルによれば、クレオパトラ7世がその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら(※正確には、短かったら 鼻参照)歴史が変わっていた」と評した。ただし、これは誤解に基づくものである。(最も、パスカルはこの話を単に例えとして記述しているに過ぎない。「人間とは、またその存在が紡ぎ出す歴史とは、何か少しを変えてしまうだけで何もかもが変わってしまう。それほど、それらは絶対的指針を持たぬ流動的で儚いものなのだ」という思想を体現する形で、『クレオパトラの鼻の例え』が用いられた。)
パスカルに限らず、後世の多くの人から世界で最も美しい女性であったと認識されている人物である(ハリウッド映画などでも名うての美人女優が演じる役と決まっている)。そのため、「実は美人ではなかった」という見解が、たびたび研究者によって発表されている。近年も、イギリスのBBCニュースで話題になった[3]。
映画や挿絵などでエジプト人のような姿で描かれることがあるが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であり、クレオパトラもギリシア人風の姿である事が多かったようである。むろん、エジプトの女王であった事から、エジプト風の格好をすることもあったようである。同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルと、エジプト風のオカッパスタイルの、両方が残っている。なお、オカッパスタイルの髪型は、カツラであると思われる(古来エジプト人は髪を短く切っていたため、女性のオカッパの長髪はカツラによるものである)。
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