アルジャジーラがある・・・
カタールは、日本にとって、いろいろと参考になるのでは?
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(出典)
http://ocin-japan.blog.drecom.jp/
(第7回) 輝くアラブ女性のシンボル:モーザ王妃

カタル王室のモーザ王妃は抜群のスタイルと美貌を誇るファーストレディである。但し「ファーストレディ」と言う言葉には注釈が必要である。何故なら彼女はハマド首長の第二夫人だからである。ハマド首長には3人の夫人があり、第一夫人と第三夫人は首長と同じサーニー家であるが、第二夫人のモーザ王妃はミスナッド家の出身である。1959年生まれの王妃はハマド首長より7歳年下で、1978年に結婚した二人の間には、5人の息子と3人の娘がある。彼女をファーストレディと称する所以はいくつかあるが、その一つは、ハマド首長と第一夫人のマリアム王妃との間に二人の息子がいるにもかかわらず、第二夫人である彼女の子息が皇太子となっていることである。1995年に宮廷クーデタで首長となったハマドは、皇太子としてモーザ妃の長男ジャーシム王子を指名した。そして2003年に突然ジャーシム皇太子位が重い糖尿病のため退位した時、後任の皇太子にはやはりモーザ妃の次男タミームが指名されたのである 。これらの事実からもハマド首長がモーザ王妃をいかに寵愛しているかがわかる。
モーザ王妃はカタル大学を卒業しており、美貌に加え知性も兼ね備えた女性である。彼女は慈善活動や教育活動などの社会活動に熱心であり、同国のマスコミには連日と言ってよいほどその活躍が報道されている。しかも天然ガスから生み出される無尽蔵とも言えるカタルの富がその活動を支えている。王妃は「カタル基金(Qatar Foundation)」の会長である。同基金はカタル国民の教育、研究及び社会福祉を増進することを目的に1995年に設立され、本部は首都ドーハの「教育都市(Education City)」にある 。このユニークな「教育都市」にはカーネギー・メロン大学やジョージタウン大学など米国の6つの大学の分校がある。カタルは教育の充実に力を注いでおり、地域の知的産業(Knowledge Industry)の中心になることを目標としている。同国は、金融、経済及び産業の分野でそれぞれGCCのトップを走るバハレーン、ドバイ或いはサウジアラビアと異なる路線を目指しており、その中心として活躍しているのがモーザ王妃なのである。
勿論、モーザ王妃に限らず中東各国の王妃は、いずれも社会活動に熱心である。それは世界の王侯貴族に共通している「ノブレス・オブリージ(高貴な者の義務)」の意識の表れであり、同時に富める者は貧しい者に手を差し伸べる義務がある、とするイスラムの教えによるものであろう。その意味で、サウジアラビアのアブダッラー国王の王妃も時折その社会活動が報道されるが、戒律の厳しいサウジアラビアでは、その報道はかなり抑制されたものであり、まして素顔の写真などは見られない。
ところがカタルのモーザ王妃の場合、素顔の写真が大きく報道されている。しかも抜群のスタイルと美貌に恵まれた王妃は格好の被写体である。王妃もそれを十分意識しているようであり、常に最新のファッションに身を包み、それでいてイスラム女性の慎ましやかさを失わないように振舞っている。彼女はカメラマンのみならず外国からの賓客にも非常に人気が高いのである。
因みにメディアへの露出度が高い中東の王妃としてモーザ王妃に比肩されるのは、バハレーンのサビーカ王妃とヨルダンのラニア王妃であろう。この3人を比較するとなかなか興味深い。
年齢はモーザ妃が47歳(1959年生)、サビーカ妃は58歳(1948年生)、ラニア妃が最も若い36歳(1970年生)と、ほぼ10歳違いである。子供の数はモーザ妃が8人、サビーカ妃4人、そしてラニア妃は4人である。モーザ妃とサビーカ妃の息子は皇太子であるが、ラニア妃の場合は長男がまだ12歳と若いため、皇太子はアブダッラー国王の異母弟である(なお、先代フセイン国王時代の例もあり、いずれ皇太子は王弟から国王の長男に交代するものと思われる)。
各王妃の出自は大きく異なっており、モーザ妃の実家は非王族のミスナッド家であり、サビーカ妃はハマド国王と同じハリーファ王家の王女である。これに対してヨルダンのラニア妃の父親はパレスチナ人の医師であり、彼女がキャリア・ウーマンとしてアンマンの新聞社に勤めていたときにアブダッラー国王(当時は皇太子)に見初められて結婚したのである。アブダッラーはフセイン国王の長男ではあるが、母親のムナ王妃が英国人であったため、王位継承が危ぶまれた時期もあった。そのためアブダッラーが国王に即位し、ラニアが王妃となった時、彼女は「現代のシンデレラ」と呼ばれたほどである。
現在3人の王妃はファーストレディとして公式の場では夫である国王或いは首長を助け、そして自らも重要なポストに就いて慈善活動、教育活動を中心に活発な活動を行っている。3人の王妃の活動の特色を見ると、カタルのモーザ妃は上に述べたとおり教育活動に力を入れており、バハレーンのサビーカ王妃はアラブ女性の地位向上のため国際的に積極的な活動を行っている。同妃は「アラブ女性連合最高評議会(AWO)」の議長を務めており、先般のイスラエルによるレバノン南部侵攻に際し、ムバラク大統領夫人はじめAWOのメンバーに呼びかけて、即時停戦を求める声明を発表したことなどは、サビーカ王妃の活動例のひとつである 。ヨルダンのラニア王妃の場合は、パレスチナ出身として国内では孤児院訪問などの社会活動に熱心に取り組む一方、その若さと国際的センスを活かして夫のアブダッラーの外国訪問に同行し、各国の要人に中東和平を訴え、同時に貧しい自国に対する援助の取り付けに一役を買っているのである。
カタルのモーザ妃の活動は国内の教育振興事業が中心であり、他の二人に比べて現在のところ国際的な活動は目立たないが、いずれカタルの国際的な地位が向上すると共に、外交の舞台でも活躍するようになるであろう。何しろスタイルと美貌に恵まれ、さらに世界有数の金持ちでもある王妃には、脚光を浴びる要素の全てが備わっている。外国のメディアはそれを見逃さないであろう。そしてカタルの無償援助(ODA)を求める開発途上国、或いはスポンサーとしてカタルを当てにする国際慈善団体など各種のNGO、NPOも、モーザ妃に熱い眼差しを向け始めている。王妃は今後ますますその輝きを増すであろう。
(第7話 完)
---Wikipedia
国旗

エンブレム

カタールは、正式名称カタール国で、中東・西アジアの国家。首都はドーハ。アラビア半島東部のカタール半島のほぼ全域を領土とする半島の国。ペルシア湾に面する。南はサウジアラビアと接し、北西はペルシャ湾を挟んでバーレーンに面する。
国名はqatura (「噴出する」)に由来する。
国名
正式名称はアラビア語で دولة قطر Dawlat Qaṭar といい、通常は قطر Qaṭar と称する。このためアラビア語の音韻にしたがって仮名表記をする場合は「カタル」とするのが妥当であるが、日本では官公庁やマスコミを中心に一般的には「カタール」と書かれる傾向にある。
歴史
紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物が見つかっている。ペルシア湾での真珠採取の産地として古代から知られて来た。
その後、近代までの歴史は不明である。現在のカタール王家サーニー家(Āl-Thānī)の創始者ムハンマド・ビン・サーニーがビダウ( البدع al-Bida‘、現在のドーハ)を治めるカタールのシェイク(シャイフ)に選ばれた。バーレーンのハリーファ家(Āl-Khalīfa)が1868年まで北カタールを治めていた。その年カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、オスマン帝国がカタールを占領した。
第一次世界大戦後、オスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配のもと、アブドゥッラー・ビン・カースィム・アール=サーニーをシェイクとした自治権を認めた。イギリスとカタール間の1916年の条約は、イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容だった。1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものだった。
1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
1971年に近隣国のアラブ首長国連邦(とバーレーン)がアラブ首長連合を計画したが、むしろ独立国として9月3日に独立を果たし、国際連合及びアラブ連盟に加盟。近隣国のサウジアラビアかアラブ首長国連邦の一部になることを断った。1988年にはソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。OPEC(石油輸出国機構)の初期からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国である。
1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場を取った。
1995年に現首長であるハマドが、前首長であり父であるハリーファの外遊中に無血クーデターを起こして政権を奪取。ちなみに、ハリーファも初代首長であり父であるアフマドの外遊中に無血クーデターを起こして政権を奪取している。
ハマドが政権を奪取して以降、彼は天然資源のみに頼った経済体制を危惧して観光産業の育成などに着手している。一時は前首長ハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、世界一退屈な都市とまで言われた首都ドーハにも様々な娯楽施設などが建設され、賑わいを見せ始めている。また、衛星テレビ局アルジャジーラも彼のポケットマネー(1億5000万USドル)で設立された。
政治
カタールはサーニー家( آل ثاني , Āl-Thānī)による首長制(君主制の一種)である。現行憲法は2003年4月29日に承認されたもので、三権分立の立場を取り、民主主義や女性参政権の保障などを謳っている。しかし、実際はサーニー家に実権が集中している状況。
議会としては45議席の「諮問評議会」が置かれており、閣僚への質問権や予算案承認のための投票権などを持つ。45議席のうち30議席は直接選挙、15議席は首長による任命制。行政権は首長および内閣が持つ。首相職あり。司法権は上級刑事裁判所、下級刑事裁判所、民事・商事裁判所、労働裁判所、高等裁判所の5裁判所が行使する。死刑制度が存在する。
有力部族
サーニー家
昔からのカタール土着の部族。1868年のカタール独立以来、首長のポストを独占している。2002年の内閣閣僚の6割はサーニー家が占めている[1]。
アティーヤ家
カタールの有力家族の一つ[1]。アブドゥラー・ビン・ハマド・アティーヤ (Abdullah Bin Hamad Al-Attiyah) が国副首相兼エネルギー・工業大臣として2007年11月に来日している[2]。また、2002年当時の中央銀行総裁はAbdallah al-Attiyahである[1]。
ミスナッド家
現首長ハマドの母や、ハマドの第二夫人で現皇太子の母ムーザ王妃 (Sheikha Mozah Bint Nasser Al-Missned) を輩出する[3]。
カマル家
2002年当時の財務相Yusif Husayn al-Kamalを輩出する[1]。
軍事
詳細はカタールの軍事を参照
カタール固有の軍事力は、軍事予算はGNP比4.2%(1993)、総兵力1万1800人である。
アメリカ中央軍が駐留し、首都ドーハ近郊に司令部の一つアッサイリヤ基地がある。アメリカ中央軍は中東を責任地域とするが、司令部のあるフロリダ州タンパが遠すぎるため、イラク戦争直前の2003年に第2の司令部として設置された。イラクやアフガニスタンに展開したアメリカ軍部隊はここから指揮される。
経済
石油と天然ガスに依存する経済体制で、輸出の大半が石油・天然ガス及びその関連製品で占められている。インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者がカタール国籍を持つ総人口より多く、外国人労働者に労働力を大きく依存。
農業
カタールの年降水量は50mm前後であるため、降雨に頼った農業は不可能である。しかしながら、灌漑などを利用した農業が営まれており、農地面積は国土の0.7%(8000ha、1994年)に達する。牧場は同4.5%(5万ha)である。農業従事者の人口に占める割合は0.5%。
主要穀物では大麦(5000トン、2002年)、トウモロコシ(1000トン)を栽培する。野菜ではトマト(1.1万トン)、次いでキャベツ(2000トン)の生産が盛ん。畜産業では、ニワトリ(400万羽)とヒツジ(20万頭)が最大。次いでヤギ(18万頭)、ラクダ(5万頭)など。 漁業は盛んではないが、約7000トンの水揚高が記録されている。
鉱業
カタールでは有機鉱物資源のみが採取可能である。原油の産出量は2001年時点で3142万トン、天然ガスは世界シェアの1.2%に達する1225千兆ジュールに達する。輸出に占める鉱業の割合は非常に高く、2002年時点で天然ガス42.6%、原油35.0%に達する。
工業
工業は発達しておらず、食肉加工、窒素肥料の製造、セメント製造などが小規模に営まれている段階である。最も規模が大きいのが石油化学工業、次に製鉄である。輸出に占める工業製品の割合は2002年の段階で石油製品6.7%、プラスチック3.1%、鉄鋼2.8%である。
情報通信
しばしば「中東のCNN」と形容されるアルジャジーラの本社がドーハに置かれている。
観光
ドバイにもあるパーム・ツリー・アイランドがドーハ湾に作られ、リゾート地になっている。また、南部のホール・アル・ウデイドのラグーンや砂丘ツアーがある。
都市

カタールの首都ドーハ
首都ドーハ - 国内で最大の都市であり、国民の半分以上がドーハに住んでいる。
アル・ワクラ (Al Wakrah) - ドーハの南約20km。
アル・ホール (Alkhor) - ドーハの北57km。古い街区がある。
ウム・スラル・モハメッド (Umm Salal Muhammad) - ドーハの北約20km。19世紀に建てられた3階建ての長方形の塔「バルザン塔」がある。
ラス・ラファン (Ras Laffan) - 工業都市。
Madinat Al-Shamal
ウム・サイド (Umm Sa'id) - 工業都市。石油製品輸出港。
ドハーン (Dukhan) - 西岸の都市
シャハニヤ (Shahaniya) - ラクダレース開催地として知られる
地方行政区分
詳細はカタールの行政区画を参照
地理

カタールの地図

カタールのビーチ
カタール半島は、サウジアラビア側から160km突き出ている。国内の大部分は不毛な砂漠の平野である。標高が最も高い地点でも、海抜100メートル以下である。カタール半島の付け根付近にあるホール・アル・ウデイド(Kawhr al Udayd、別名:インランド・シー)は静かな内海である。
宗教
イスラム教(国教)95%
その他の宗教 5%
国民
主な宗教はイスラム教スンナ派である。また、シーア派とワッハーブ派がそれぞれ人口の10%強いる。イスラム教はカタール国籍を持つほとんどの人々が信仰している。公用語はアラビア語であるが、英語も政界・財界などで広く理解されている。
文化
第15回アジア競技大会が、首都ドーハで開催した。期間は、2006年12月1日から15日まで。アラブ圏では初のアジア大会で、エジプト以東の中東地域を含むアジア地域の45の国と地域が参加する。 潤沢な石油・天然ガス収入で医療、教育が無償、社会保障制度も完備。
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
12月18日 独立記念日
10月 ラマダン明け祭 イスラム暦による移動祝日
12月 犠牲祭 イスラム暦による移動祝日
独立記念日は2006年までは9月3日であったが、2007年より変更された。
スポーツ
詳細はカタールのスポーツを参照
サッカーのカタールリーグはオイルマネーで多くの有名選手を獲得し、話題になっている。 最近ではガブリエル・バティストゥータ、イエロ、エメルソンがカタールのクラブに移籍している。
また、バスケットボールも近年力をつけており、2006年には世界選手権に初出場した。
出典、注釈
^ a b c d 前田高行 『カタル・サーニー家の構図 』、2002年12月22日
^ 外務省カタール国 要人往来
^ 輝くアラブ女性のシンボル:モーザ王妃
関連項目
アルジャジーラ
ドーハの悲劇
カタール海軍艦艇一覧
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、カタールに関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。
政府
日本政府
日本外務省 - カタール (日本語)
在カタール日本国大使館 (日本語)
観光
カタール - ウィキトラベル
その他
JCCME - カタール
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