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3/10/2010

石井部隊 

旧731部隊ウイルスリケッチア


オウムが主張していたのは、これだ・・・


ウイルスリケッチア


事実は闇の中・・・ 何が事実かは不明である・・・


BC兵器



bio-chem
【略】=biological and chemical weapons ; biological/chemical weapon●生物化学兵器






化学兵器生物兵器の使用は国際条約(ジュネーヴ議定書 (1925年))で禁止されたが、日本は1970年まで批准しなかった。後に731部隊の部隊長となる石井四郎は、軍事技術研究のために欧州各国を周遊してジュネーヴ議定書を知り、その有効性(特にそのコストパフォーマンスに関して)に注目した。帰国後に化学兵器や生物兵器が日本にとって有用であるとし軍部に働きかけ、防疫研究室が設置された


人体実験 [編集]

731部隊は捕らえた多くの朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験生体実験に供したと言われている[5]。終戦後にソ連中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[6]とされているが、これを証明する資料は現在のところ確認されていない




1945年8月9日ソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。

米軍(GHQ)との取引 [編集]

特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い偽の葬式まで千葉で行い行方をくらます。
アメリカは731部隊の調査のため、細菌研究の専門家マレー・サンダース軍医中佐を日本に送り込む。通訳兼情報提供者として旧陸軍省から派遣されてきた内藤良一(731部隊で石井の右腕)と大政翼賛会の元代議士亀井寛一郎はサンダースに会うが、当初は731部隊と何も関係ない人物ばかりを紹介した。このためサンダースは激怒し、内藤に「このままでは私は本国に帰り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合、どんな事態が起こるかわからない。しかし、皆がもし真実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」と言った。内藤は全てを隠しとおすことを断念し、天皇から731部隊まで連なる陸軍の命令系統を記したメモを提出した。このためサンダースは連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーに内藤らの戦犯免責を提言。サンダースは内藤を呼び、「マッカーサーの取り計らいにより細菌研究者の戦争犯罪人としての追求は行わない」と伝えた。「この(戦犯免責の)効果は絶大で一気に研究資料が出てきた」と1997年のテレビ朝日ザ・スクープの取材に対しサンダースは答えている。



石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。


1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。
同年1月24日GHQの尋問で内藤が人体実験の事実を認めた。同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してなならない」と回答。
再度のGHQの尋問に対し石井は人体実験の資料はなくなったと主張。さらに石井は、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。
結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。

戦後、ペストコレラ性病などの生物兵器糜爛性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特殊部隊であったと、ロシア国内で行われたハバロフスク裁判で認定されている。

日本国の賠償責任 [編集]

中国人180名が細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判[9]」を起こした。
人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることからこの種の訴訟は全て原告の要求は却下された。

陸軍軍医学校 (りくぐんぐんいがっこう)は、かつて東京都新宿区戸山町に存在した旧帝国陸軍の医学系の教育機関のひとつである。現在の敷地には、厚生労働省戸山研究庁舎、国立感染症研究所、独立行政法人国立健康・栄養研究所が設置されている。



人骨騒動 [編集]

1989年7月、この軍医学校跡地において厚生省国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)建設工事の際、同地から約100体に上るモンゴロイド系人骨が発掘された。人骨には、銃の傷跡のある遺体や切り傷のある遺体が複数あったため、「細菌戦のための731部隊による生体実験の犠牲者ではないか」などの疑惑が出た。
このため、1993年9月に遺骨の調査・研究を目的に、火葬・納骨の費用を支出しないよう求めた住民訴訟が提訴された(もっとも、遺骨を分析すれば人種の違い等は判明するが、中国人と断定したり遺骨の傷が生前に受けたものかどうかの判別は極めて難しいとされる)。2000年12月に住民敗訴の最高裁判決が確定し、これをうけ2001年6月、厚生労働省は「大量人骨は、戦場に遺棄された戦死体からの研究用標本」と結論付け、新たにつくる納骨堂に納める方針を固めた。


---Wiki


満州第七三一部隊(ななさんいちぶたい)は秘匿名であり、正式名称は、大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部。防疫・給水を表向きの業務としていたが、細菌戦で使用する生物兵器の研究・開発を目的に設置され、人体実験をも行っていた[1][2][3]という説が一部で唱えられている。
「731部隊」とは、1941年に付けられた通称号の略である。初代部隊長の石井四郎陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。

軍組織における位置 [編集]

731部隊は日中戦争支那事変)から太平洋戦争大東亜戦争)中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物兵器化学兵器)研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織である。
当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。近年になり米国の公文書が機密解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[4]
従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。
731部隊はそれらの部隊中で最大級の設備を有してはいたが、その中心ではなく実験・検証施設であったにすぎない。731部隊は表向き日中戦争時の1941年に各種流行性伝染病予防と兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国ハルピンに配備された。731部隊で実施された内容は各部隊の中でも特殊なものであり、人間の生体を用いて非倫理的な実験が行われたと言われているが事実は定かでない。
陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』は関東軍防疫給水部本部を表す通称号であり、1941年に陸軍の全部隊にそれぞれ付けられた秘匿名である。各支部などをまとめた関東軍防疫給水部は「満州第659部隊」と称した。 

部隊の活動 [編集]

化学兵器生物兵器の使用は国際条約(ジュネーヴ議定書 (1925年))で禁止されたが、日本は1970年まで批准しなかった。後に731部隊の部隊長となる石井四郎は、軍事技術研究のために欧州各国を周遊してジュネーヴ議定書を知り、その有効性(特にそのコストパフォーマンスに関して)に注目した。帰国後に化学兵器や生物兵器が日本にとって有用であるとし軍部に働きかけ、防疫研究室が設置された。

防疫活動 [編集]

BC戦術(生物兵器(B)と化学兵器(C)を使う戦術)を使用する側にとっても防疫活動は重要な要素であり、一般戦術においても有用であることから、これを軍内部のおいての主要な名目として防疫給水部の名称で組織が発足した。表向きの看板とは言え、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。
1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章陸軍技術有功賞が贈られた。

人体実験 [編集]

731部隊は捕らえた多くの朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験生体実験に供したと言われている[5]。終戦後にソ連中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[6]とされているが、これを証明する資料は現在のところ確認されていない

生物兵器の実験的使用 [編集]

ノモンハン事件での貢献による表彰は、防疫活動に対するものではなく、その際に実験的な細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。

終戦 [編集]

1945年8月9日ソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。

米軍(GHQ)との取引 [編集]

特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い偽の葬式まで千葉で行い行方をくらます。
アメリカは731部隊の調査のため、細菌研究の専門家マレー・サンダース軍医中佐を日本に送り込む。通訳兼情報提供者として旧陸軍省から派遣されてきた内藤良一(731部隊で石井の右腕)と大政翼賛会の元代議士亀井寛一郎はサンダースに会うが、当初は731部隊と何も関係ない人物ばかりを紹介した。このためサンダースは激怒し、内藤に「このままでは私は本国に帰り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合、どんな事態が起こるかわからない。しかし、皆がもし真実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」と言った。内藤は全てを隠しとおすことを断念し、天皇から731部隊まで連なる陸軍の命令系統を記したメモを提出した。このためサンダースは連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーに内藤らの戦犯免責を提言。サンダースは内藤を呼び、「マッカーサーの取り計らいにより細菌研究者の戦争犯罪人としての追求は行わない」と伝えた。「この(戦犯免責の)効果は絶大で一気に研究資料が出てきた」と1997年のテレビ朝日ザ・スクープの取材に対しサンダースは答えている。
だが内藤は人体実験をやった事実に関しては否定し続けた。サンダースの代わりにアーヴォ・トンプソン中佐が来日、隊長の石井との面会を執拗に日本に要求。この事態に731部隊の関係者は人体実験の秘密がばれるのではと震え上がった。隊員だった増田は青酸カリを持って、都内に潜伏していた石井に「隊長死んでくれ」「家族も殺してくれ」と要求した。石井は自殺を拒否し、トンプソンに尋問されることになったが人体実験の事実を否定し続けた。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。
同年1月24日GHQの尋問で内藤が人体実験の事実を認めた。同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してなならない」と回答。
再度のGHQの尋問に対し石井は人体実験の資料はなくなったと主張。さらに石井は、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。
結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。

戦後の状況 [編集]

石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。
1947年国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。
1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[7]
1952年名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。
同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。
1956年新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。
1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。
1993年大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチンはしかおたふく風邪風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。
近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。

大量虐殺の証言 [編集]

終戦時の撤退における資料隠滅、ならびに対米工作時の処理のため、731部隊に関する一次資料はほとんど存在していないとされていた。しかし、関係者(その多くは旧軍に所属あるいは関係していた日本人、前述の通り組織的な撤収が行われたため、満州の旧軍機関としては例外的に帰還率が高い)の証言[1][2]などにより、近年になって、徐々に各種資料が発見され、全貌の究明が進みつつある。
ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎の書いた日記が発見され、それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中に使われている符丁が、人体実験を表しているのではないかと疑われている[8]
戦後、ペストコレラ性病などの生物兵器糜爛性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特殊部隊であったと、ロシア国内で行われたハバロフスク裁判で認定されている。

日本国の賠償責任 [編集]

中国人180名が細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判[9]」を起こした。
人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることからこの種の訴訟は全て原告の要求は却下された。

関東軍防疫給水部 [編集]

組織 [編集]

日本国内の上部組織は、現在の新宿区戸山にあった陸軍軍医学校に置かれ、陸軍参謀本部に帰属すると同時に、陸軍軍医学校にも帰属しており防疫研究室と呼ばれた。
中国を中心とするアジア各地の拠点ごとにそれぞれ防疫給水部が置かれた。
などである。
中でも世界的に有名なものは石井四郎隊長が率いる関東軍防疫給水部本部(731部隊)であり、これは第691部隊に所属していた。

関東軍防疫給水部長 [編集]

※1940年8月23日まで関東軍防疫部長
※階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[10]

関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊) [編集]

第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[10]
  • 総務部
    • 副官
    • 調査課
      • 翻訳班
      • 印刷班
      • 写真班
      • 兵要地誌班
      • 調査班
      • 図書班
    • 人事課
    • 庶務課
      • 労務班
      • 庶務室
      • 食堂
      • 酒保
      • 学校
    • 企画課
    • 経理課
    • 管理課
      • 建設班
      • 工務班
      • 動力班
      • 運輸班
      • 電話班
    • 軍需課
  • 第一部(細菌研究/部長:菊池斉)
  • 流行性出血熱研究班(班員:所安夫==>東京大学教授・帝京大学教授・熱海所記念病院)
  • 第二部(実施研究)
  • 第三部(防疫給水)
    • 庶務課
    • 第一課(検索)
    • 第二課(毒物検知)
    • 第三課
      • 濾水班
      • 給水班
      • 運輸班
      • 工作班(濾水機)
      • 濾水機・弾筒製造窯
  • 第四部(細菌製造/部長:川島清 軍医少将)
  • 教育部(隊員教育/部長:西俊英 軍医中佐)
    • 庶務課
    • 教育課
    • 衛生兵
    • 炊事班
    • 診療所
    • 錬成隊
    • 少年隊
  • 資材部(実験用資材)
    • 庶務課
    • 第一課(薬品合成)
      • 山口班(細菌弾)
      • 堀口班(ガラス)
    • 第二課(購買補給)
    • 第三課(濾水機)
    • 第四課(倉庫)
    • 第五課(兵器保管)
    • 第六課(動物飼育)
  • 診療部(付属病院)
    • 伝染病棟
    • 診療室
    • 家族診療所
  • 憲兵室
    • 保機隊

支部 [編集]

  • 牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
    • 総務課
    • 経理課
    • 第一課
    • 第二課
    • 第三課
    • 資材課
    • 教育課
  • 林口支部(満州第162部隊)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所文部省百日咳研究会)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 大連支部(満州第319部隊)
    • 総務部
    • 研究部
    • 製造部

参考文献 [編集]

  • 悪魔の飽食 新版』森村誠一 1983年 角川文庫 ISBN 4-04-136565-1
  • 『731部隊』 常石敬一 講談社現代新書 ISBN 4-06-149265-9
  • 『昭和史の謎を追う (上)』 秦郁彦  文春文庫 ISBN 4-16-745304-5
  • 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 田辺敏雄 2002年 自由社 ISBN 4-915237-36-2
  • 『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 田中明 松村高夫編 不二出版 1991年

    731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書などを収載



  • 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 近藤昭二編 柏書房 2003年 ISBN 4-7601-2404-7



  • 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会 編1990年7月15日初版1刷発行、1993年9月25日新装第1刷発行制作 凱風社(初版)樹花舎(新装版)



  • 『七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書』 平成十五年十月三日提出 [1]



脚注 [編集]

  1. a b 山本真(大分協和病院医師)「森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)の証言1991年9月。
  2. a b ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8
  3. ^ Peace in こうち「『731部隊と高知』証言
  4. ^ http://chronicle.com/article/Release-of-Archives-Helps-Fill/31577 Release of Archives Helps Fill Gap in Files on Wartime Atrocities - Research - The Chronicle of Higher Education Jan 19 2007
  5. ^ 森村誠一悪魔の飽食」。ただし、悪魔の飽食は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している。
  6. ^ 小俣和一郎「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。ISBN 4-476-03255-9
  7. ^ 松下一成「ミドリ十字と731部隊ー薬害エイズはなぜ起きたのか」三一書房、1996年。ISBN 4-380-96295-4
  8. ^ 青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9
  9. ^ 731部隊細菌戦裁判ホームページ http://www.anti731saikinsen.net/index.html
  10. a b 731細菌部隊の全貌 http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm

関連項目 [編集]

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in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー

Multi Language

現時点では?


ブログは日本語ベース


Google Translatorで、各国語へ、変換




そして、現場で、リアルなコミュニケーションは?


英語ベースで、現地語がお愛想・・・


こんな感じかな?


Aoyagi YoSuKe

Art HarbOur


The Gaiaと各ハブは?


英語がベースで、Google Translatorで、各国語へ・・・

Copyright and Responsibility of AH Shimokitazawa blog



Copyright:


Each manager or each member of Each AH Local must independently handle Copyright.


Each may insist on Copyright or discard Copyright independently.


Copyright depends on each manager or each member.


Responsibility:


Each manager or each member of Each AH Local

must independently have the resposibility on the posted works.

Art Harbour Shimokitazawa


コピーライト:

各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々でコピーライトの取り扱いをしなければならない。

コピーライトを主張するか破棄するかは各々に任される。


責任:


各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々が投稿した作品に関して責任を持たなければならない。


アート・ハーバー 下北沢


Posting Rule - 掲載ルール




Introducing People, Works, Shops etc. related to Art Harbour as a spot ad.


As a general rule, the details such as map, price should be in the Official Sites related to the ad.

Each ad may contain the Official Sites' URL related to the ad.


Restriction: The Number of Photos is within 6(basically 3). about 640x480 pixel


Ad Size: Within about 2 standard printing papers.


Example: Spot ad. , Flyer, Live Report, Poem, Short Story, Illustraltion, Photo, Paintings etc.


Art Harbour Shimokitazawa



アート・ハーバーに関連した人、作品、店などをスポット広告として紹介する。


原則として、地図や価格などの詳細は広告に関連したオフィシャル・サイトに掲載する。


各広告には関連オフィシャル・サイトのURLを掲載しても良い。


制限:写真など6枚以内(基本は3枚) 1枚に付き640×480ピクセル程度


サイズ:標準プリント用紙(A4)約2枚以内


例:スポット広告、フライヤー、ライブの報告、詩、イラスト、絵など



アート・ハーバー 下北沢