比較的大きな都市を起点にするのは、交通の要所だからです・・・
そこから、中へ入っていく、だんだんと不便になる・・・
イルカの本、パースで、装備を調達・・・ そして、モンキー・マイアへ・・・
「AHでのイメージ・トレーニング」 -国際編
Hub(ハブ)のイメージについて。
Hubはバーチャルです。
リアル・ワールドとの関連は、
各大陸にある大きな空港や大きな港などを仮想的に
表わしていると考えれば良いです。大きな国際空港など。
日本で言えば、成田とか関空とか、、、横浜港とか神戸港とか、、、
そこを起点に国際的に動く、というイメージです。
ハブからAHのローカルへ繋がる。
「アジア・ハブ」
例えば、
AH下北 -> 成田空港(Hub) ->
上海空港(Hub) -> AH武漢
Hub間の移動は、例えば
成田空港(Asia Hub) -> ヒースロー(Europe Hub)
こんな感じです。
例えば、
AH下北からAHベルリンに行きたいとします。
リアル・ワールドで行くにはどうすればよいか、
などのイメージ・トレーニングをすると面白いと思います。
下北沢(小田急) -> 新宿(成田エクスプレス) ->
成田空港 -> ドゴール空港(パリ) -> ヨーロッパの新幹線(TGV?)
・・・> ベルリン(AHベルリンの特色あるスポットにも行く)
などです。
パリのシャルル・ドゴール空港駅からTGV(テジェヴェ)に乗って、
ドイツ高速線のICE(イー・ツェー・エー)に乗ってベルリンへ。
たぶん、TGVとICEは繋がっている?
鉄道網、自動車網、航空網が競合しています。
この段階で、環境に優しいのは、高速鉄道網?
高速鉄道のターミナルから、
さらにローカルへ入り込むときなどには、中低速鉄道、地下鉄、バス、リムジンなどがいいのかも?
さらに町中へ入ると、地下鉄、市電(LRT?)、バス、リムジン、タクシーなどの出番?
最後は、バイク、自転車、徒歩など?
モンキー・マイアのイルカを観察して、どのような発見ができるかを考えると、私はワクワクしてめまいがしそうだった。その夜、クラスメートのリチャード・コナーから電話があった。彼もあの日の午後に、エリザベスの報告を聴いていた。だが、私はリチャードのことはあまり知らなかった。私は彼とは共通のクラスが少なかったが、彼がとても冴えているのを知っていた。彼は大きくてのろまな子犬のように見えたが、子どもじみたイルカ・マニアとも言えた。
「モンキー・マイアに行って調査しようよ」
と彼は提案した。
私にはその言葉だけで充分だった。リチャードと私はケン・ノリス、バーンド・ワージック、ランディ・ウェルズに相談した。みな賛成してくれたが、モンキー・マイア行きの準備は自分たちでしなければならなかった。もっとも大きな問題は金だった。
リチャードと私は学生ローンを申請した。しかし、手続に時間がかかって、学期末近くまで許可が降りなかった。その間はステレオや本や服などの手放せるものはすべて売って、ローンが降りるまでしのいだ。一九八二年の七月末までギリギリで暮らして金ができ、オーストラリア行きのチケットを二枚手に入れた。
飛行機が西オーストラリアの首都パースに降りるまで、私たちは機中と通過待合室で三十時間以上も過ごした。まさしく、ひとつの人生のようだった。世界は次のような次元に凝縮された。ふたつの座席、トレー、小さな窓からの終わることのない空のながめ、前に座っている人の後頭部、座席の物入れから飛び出しているイヤフォン、忙しく動き回るスチュワーデス。私たちは瞬きほどしか寝られなかったし、カンタス航空の際限ない飲食サービスには飽き飽きした。空の旅は快適とはいいがたかった。
私は手荷物を受け取って、母が書いてくれた紙切れを取り出した。その紙切れには、母の大学時代の旧友バート・メインとバーバラ・メインの電話番号が書いてあった。私たちは一時間後にはメイン家のリビングルームでくつろいでいた。メイン家はその後何年間もパースの中継基地となった。私たちは数日経ってから、パースの真北の道端に立った。荷物を山積みにして親指を立ててヒッチハイクをした。
老朽化したステーションワゴンが停車したので、私たちは乗り込んだ。白いハイソックスと短パンをはいた赤ら顔の男が運転していたが、私たちは彼のオージーなまりの英語に戸惑いながらも、いっしょうけんめいに話した。男はアウトバック(オーストラリアの奥地)の中央出口付近にあるマーブル・バーの北に位置するオパール鉱山で働いているらしかった。空気が乾燥していて、とても暑かった。男はアボリジニとの出会いについて話し始めた。鉱山の入植地に入り込んだいきさつを話しながら、ダッシュボードの小物入れを開けて、22口径のピストルを取り出した。リチャードも私も本物のピストルを見たことがなかったが、まさか、車中でピストルと同居するとは思わなかった。
「俺たちは奴らを撃った」
と彼は宣告した。
その夜はジェラルトンに宿泊して、海洋博物館へ行った。博物館には、船の残骸が多数展示されていた。それはブローホス諸島とジュチードープ・クリフで難破した船の残骸だった。この危険な海域はモンキー・マイアを囲む広いシャーク湾の真南にある。
翌日になって道端に戻り、親指を立てて、ふたたびヒッチハイクをした。数台が通過した後で、ぼろぼろのホールデン製のステーションワゴンが止まった。ふたりの若者が運転席に座っていたが、後部座席はゴミの山で満杯になっていた。
「心配するな。すぐにゴミを片づけるよ、座れるよ」
とひとりが言った。
心もとなかったが、どうしてもモンキー・マイアへ行きたかったので、私たちはワゴンに乗った。私は古くて汚れたマットレスの山、ゴミ箱、車の屋根の隙間に押し込まれたが、そこには背もたれもなかった。私たちは時速百三十キロで、グレート・ノーザン・ハイウェイを北上した。前の座席に座っているリチャードとふたりの男は、缶ビールをつぎつぎに飲み干して、窓から空き缶を放り投げた。まるで、
「鉄の乙女」
が後方のスピーカーから、金切り声を上げているように感じた。
私はまぶたを閉じて、別世界へ行こうとした。その辛さは際限なく続くように思えたが、なんとかオーバーランダーへたどり着いた。
カルナボン、ブルーム、ダンピヤー、ダーウィンへ至る道と、シャーク湾へ至る道の分岐点で車を降りた。オーバーランダーの停車場だけが、三百キロの道のりで、唯一の文明の痕跡と言えた。他には何もなかった。西オーストラリアの海岸方面へ向かうトラックや車は、オーバーランダーで燃料補給をして、乗車している人たちはトイレを使って食事もする。停車場はみすぼらしくて、従業員は暇をもてあましていた。空気はほこりっぽくて、水は悪臭がする。マネージャーが冗談めかして、
「ハエがオーバーランダーのマスコットです」
と平然と言う。
たしかに、オーバーランダーのハエは半端じゃなくて、咬みはしないが、人の目や鼻や口から体液を吸おうとねらっている。ハエは顔の周りにたかってきて、信じられないほどしつこい。追い払っても、さっと逃げて、二インチ(五センチ)くらい離れて、すぐに戻ってくる。ハエを追い払うには、顔をたたき続けるか、顔の周りの空気をかき回すしかなかった。まさに、
「オージーの歓待」
だった。
この歓待に慣れるか、気が変になるのに、時間はかからない。だが、私はオーバーランダーに好感を持ち続けている。シャーク湾へ行くための重要な停車地だし、乗り物から降りると、慣れ親しんだ匂いや音や景色が私を迎えてくれて、シャーク湾へ戻ったと実感できるからだ。興奮して、アドレナリンが血管を駆け巡り、私はモンキー・マイアへいそいそと向かう。
ステーションワゴンの後部座席から降りて、停車場の赤土に降り立ったときには、生きていて良かったと心の底から思った。目的地に着くまで、何が起きるかの見当もつかなかった。
パースを発って、緑の田舎道を走り抜けていると、黒インコの群れが鳴き声をあげている。ブドウ園や、馬の農場や、背の高いユーカリの林などもある。北へ向かうと、林は低木へと変化していく。低木は丈の低い薄緑色の茂みと、明るい赤土に囲まれている。カラスが鳴き騒いで、くさび形の尾をした大型のワシが、ウサギの死骸をつかんで道端へ舞い降りる。今ではカンガルーは少なくなったが、約十二メーターに一頭の割合で、ハイウェイに沿って並んでいる。カンガルーは危険なので、郊外を走る車は
「カンガルーよけ」
を装備している。
カンガルーよけは、車の前部が損傷するのを防ぐが、カンガルーとぶつかると、どこかしらが壊れる。
オーバーランダーは、停車場と二車線の道路の他には何もなくて、茂みがところどころにあって、荒涼とした砂漠が周りに広がっているだけだった。私たちが停車場で冷たい飲み物を飲んで、渇きをいやし終わるころ、太陽が沈もうとしていた。雲が広い空に散らばっていて、雲の下で消え行く光がピンクからオレンジへと変わっていく。私たちは酒で酔っ払った道路工事の男の車に乗りこんだ。男はシャーク湾へ至る道の南方十キロ付近で寝泊りしていた。そのため、私たちはモンキー・マイアへ着く前に、オンボロ車から降ろされた。車が離れるにつれて、視界からテールランプが消えていった。私たちは自分たちが置かれた状況を考えた。何もない砂漠のど真ん中に置き去りにされて、食料も水もない事実に気づいて、急に怖くなった。他の車が見つからなければ、得体の知れないものが跳ねまわっている地面に寝るしかない。砂漠の夜の冷気が迫ってきたのに、私たちには寝袋もなかった。
私たちは震えながら、頭上を通り過ぎる星を一晩じゅう眺めた。正体不明の奇妙な音がゴトン、ゴトンと聞こえた。後になって、それはカンガルーが立てた音だと分かった。小さくて奇妙な有袋類が這いまわりながら、私の背中で暖を取る夢を何度か見た。私は目が覚めても、夢か現かの区別ができなかった。
夜が明けたとき、辺りの景色はあまりにも鮮やかで、現実離れして見えた。点在する野花の中で、ピンク色のインコの群れがエサをついばんでいた。華やかな薄ピンク色のオウムもいた。さまざまな大きさや形をしたアリが、私たちの体や、荷物の上や、周辺を這いまわっている。見慣れない鳥が茂みの中で跳ねまわっていて、鳴きながら、玉虫色の青と黄色の姿を見せびらかしている。片側には薄緑色の茂みがあり、反対側にはアカシアの茂みがあった。錆色のアカシアの花びらには、黄色の斑点がついている。輝く朝の陽光の中で、茂みの緑とアカシアの色が対比している。景色があまりにも美しくて不可思議だったので、私は地球以外の惑星で目が覚めた気がした。この日こそが、私がモンキー・マイアの光景を初めて目にした日だった。モンキー・マイアは小さなキャンプ地で、ペロン半島の北東部の海岸線に面している。ペロン半島は青緑色のレッド・クリフ湾の海に囲まれている。
私たちが初めて訪れたころ、モンキー・マイアは設備もほとんどない、ぜいたくのかけらもない、ひなびた釣り場だった。五十ばかりのキャンプに、発電機が騒音を立てながら電気を供給していた。未舗装の広場には、RV車にガソリンを入れる「スタンド」があった。電気が通じていないバックパッカー向けの安キャンプもあった。広場の片側には、無線アンテナがついた小さな小屋があった。そこには、「公衆電話」が置いてあったが、その電話は繋がるとは限らなかった。トイレと塩水が出るシャワー付きのレンガ作りの小さな
「沐浴場」
もあった。
デナムは半島の反対側にあって、モンキー・マイアから三十キロ離れている小さくて退屈な漁村だ。モンキー・マイアからもっとも近いが、町は寂れていた。店が二軒あって、一軒は郵便局を兼ねていた。週に二度だけ、デナム国際空港から郵便物を空輸している。空港には、未舗装の短い滑走路が一本と、トタン屋根の小屋が一軒あった。町には、居酒屋と、教会と、赤土を造成して作った小さなゴルフコースがあった。
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