さいたま芸術劇場か? シアターχか?
どちらだか忘れた、演目は洋モノ
范文雀さんが深窓の令嬢、白いレースに日傘をさして、立っている姿を想いだした
もうひとつ、身に付けたネックレスがきらきら光っていた・・・
范文雀さんは台湾国籍だが、中身はほとんど日本人・・・
他にいねえな~~~
どうも、これだ、サド侯爵夫人だった、笑い
どちらも、難しい芝居だったので、良く分からなかった
今だったら、もう少しは分かったかも?
1995-96年 | | 三島由紀夫作『サド公爵夫人』 峰さを理・范文雀・剣幸・後藤加代出演
彩の国さいたま芸術劇場 ヨーロッパ公演等
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台湾人音楽家を父親に持ち東京に生まれる。1968年、NETの『特別機動捜査隊』に端役で出演しデビューする。主な舞台歴として『二人でシーソー』(1979年・サンシャイン劇場)に始まり、『炎の女』(1982年・俳優座劇場)、『カッコーの巣の上で』(1991年)、『サド侯爵夫人』(1995年・彩の国さいたま芸術劇場)、他多数。シアターXでは1994年『アガタ』(演出:渡辺守章 共演:渕野一生)、2000年『砂世御前』(共演:張春祥 他)。2002年『野ねずみエイモス』(演出:ルティ・カネル)ではナレーション出演、最後の舞台出演に。 | | |
シアターX情報誌ニューズレター11号より抜粋 1994年11月15日
范文雀 M・デュラス『アガタ』を
─── 『アガタ』は彼女(マルグリット・デュラス)の1981年の作品。日本でも翻訳は出版されている。パリ初演は1983年エッサイヨン劇場にて。
シアターXでは1994年8月、この作品を渡辺守章が新訳・演出、范文雀主演で上演する。
●范 『アガタ』は、十年前に本が出版されたときからとても興味を持ちました。女性が性愛を描くと、えてしてベタついて甘ったるくなるのですが、デュラスの文体は、とても硬質で、読者を拒否しているようにさえ思える。ほんとに目を凝らしていないと、見逃してしまうものを眼前に突きだし、淡々としかも奥深く……。とても惹かれました。
すでに日本でもデュラスの作品の愛好者は多く、私自身、『アガタ』をどこかでやれるといいなあと思いました。でも舞台化を試みようとする演出家はいなかったように思います。
その後二、三の劇団が上演を試みていますが、とても成立しにくいものだと。男と女のゲームのような感じもする。好きで、いつかやりたいなと思っていた『モデラート・カンタービレ』と似通った感じ。でもこれは実年齢よりもだいぶ上の世界なので、やるならその前に『アガタ』を、と心ひそかに思ったりしたのですが、そのうち忘れてしまって……。
ところが去年、渡辺守章さんが、ある雑誌に『アガタ』をいつかやってみたいと一行書いておられるのを読んで、そういえば、私もやりたかった作品だったんだ、って。その後お会いする機会をつくっていただき、やろう! ということになったんです
─── 舞台は、大西洋に面した海辺の空き家となっている別荘のサロン。男と女。女が別れる決心をし、男をこの別荘に呼ぶ。女の名はアガタ。別荘の名もアガタ、ヴィラ・アガタ。
●范 よく似た男と女。そう、ふたりは兄と妹なんです。
つまり『アガタ』は、近親相姦の兄と妹の愛を描いたものです。禁じられるが故に高められる愛、苦痛を伴った愛、それが最終的に浄化されていく時間……。愛は、障害があるほど燃え上がるとよくいうけれど、確かにフラットな愛ではない。さらにそれをつきつめていって……、旅立つ、つまり別れることで完全な愛にしていく。それは観念なんだけど。
──中略──
禁を犯すということにおいては、東洋人はジメジメした、四畳半的な匂いに陥りやすいのですが、そんな感じがまったくない。むしろキリリと乾いてて。そこにデュラスのむきだしのすごさがある。言葉が喚起するイメージが鮮烈で深い。人と人とのたたかいがあるんです。
役者はプロデュースの段階で選ばれ、ある出来上がったものに参加するのがふつうです。作る側と役者がじっくり語り合いながらすすめていく舞台づくりは本来は必要なことですが、時間的にもシステム的にもむずかしいのが現実です。それを可能にしたきわめて珍しいケースですね。
シアターX批評通信14号より抜粋 2003年3月24日
范文雀さんを想う会
【トーク】渡辺守章/高須賀優/山本健翔(司会)
【リーディング シアター】原作:尾崎翠「第七官界彷徨」 脚本:范文雀 演出:山本健翔
(2003年3月9日)
昨年(2002年)11月5日に逝去された故范文雀さんを偲び、親交のあった方々のお話を伺うとともに、范文雀さんの遺作となった脚本『さまよえる蘚(こけ)の恋情』(原作:尾崎翠「第七官界彷徨」)の朗読を生前の范さんと共にこの脚本の舞台上演を試みていた有志がおこなった。
●「范文雀さんを想う会」に参加されたT・Nさん(書店員)の方より寄せられた感想
参加しようと思った動機は、本日も渡辺守章氏の話題になっていた『アガタ』(1994年・シアターX上演)の舞台を観ていたからです。
M・デュラス作『アガタ』については私も好きな作品であり、また渡辺守章氏の演出とあって観に行くことにしたのですが、言葉や役者の肉体を際立たせる演出と、その中で凜とした美しさを放つ范文雀さんの演技に魅了されたことを覚えています。
今回は尾崎翠の「第七官界彷徨」を戯曲とした『さまよえる蘚(こけ)の恋情』(范文雀脚色)を読むという催し。尾崎翠の作品、とりわけ「第七官界彷徨」にはそのユーモアとペーソスのある文章に、病んでいた心持ちを慰められた経験のある私自身にとって、特別な思い入れのある作品です。范文雀さんはずっと以前から『アガタ』を演じたいと思い続けていたとのこと。その范文雀さんがこの「第七官界彷徨」を脚色し、尾崎翠の世界をどう描いたのか大変興味を抱きました。
実際に朗読された作品は、おはぎを届けに行くくだりなどが省略されていたことなど、公演後にうっすらと思い出すほどで、作品世界を簡潔にかつそのエッセンスを表現していました。そして、范文雀さんが独自に切り取ったさまよえる人間の恋情が放つ光の様なものをありありと感じ入りました。
テキストを読まれた役者さんたちは、それは脚本上のことなのか演出上のことなのか、はじめは少々固い感じの声でした。でもその後、話が進んでいくうち何もない舞台に何かが芽生える様に、自然なる感情の高まりの中にある種独特の世界が浮かびあがってきて、大変感銘を受けました。
普段は小説を読み、映画は観ていても舞台の演劇世界には馴染みの薄い私も、改めて戯曲のそして生身の人間の声の肉迫感の様なものに思いをはせ、今日の会に参加して良かったと感じる次第です。
P.S. この『さまよえる蘚(こけ)の恋情』が実際に演じられたらどういうものになるのだろうという興味があります。そして、現在ユーロスペースで上演されているデュラス自身の手による映画『アガタ』(古田加南子翻訳監修)を観て、あの夏の范文雀さんの『アガタ』の舞台を思い起こしています。
| | 1994年8月17日~22日
『アガタ』 作:マルグリット・デュラス
演出:渡辺守章
出演:范文雀、渕野一生
(撮影:宮内勝) |
故・范文雀さんへの追悼詩 2003年
絹の魂
ルドルフ・ジョーウォ(ポーランド・演出家)より
人生や死について
一度も話し合った
ことがない
盲目の味覚と
無言の感触だけが
仕事に埋もれている
私たちのあいだを
いったりきたり
互いに信頼のなかで
より近い存在に
なっていた
この人の内面を見なければ
なかに
なにが潜んでいるのだろうか
覗いてみたものは
絹の魂
幸せで書き尽くされてはなかった
夢
好奇心
希望
献身で
いっぱいだった
あとで
役のなかによみとれたものは
ヒポリタの自由
大勢のなかに孤独な異邦人
タイタニアの不達成感
騙された無力な
自分の情熱によって侮辱をうけた
気の狂ったキャリアウーマンの皮肉
女優
壁にノックすれば
カッコウが飛び出す
木を一本二本抜き取る
林ができるまで。
まぶたを閉じれば、雪が降る。
口笛をそっと吹けば、川が流れ出し
山や谷を結ぶ
こうして想像力が変身の魔術で
我が人生の不足をうめる。
死は逃げ出す。
我々の死者は何をしているか。
知らない。
希望は
私たちの記憶を看病して
最も美しい思いで咲いた花に
水をやり
われわれの人生の
値うちをあげて
われわれの優れたところを
鍛えて
最悪のことをゆるし
そして
普段のわれわれよりも
よい人間を演じるための
力添えがほしい
(翻訳:石川グラジナ)
ルドルフ・ジョーウォ(Rudolf Ziolo):ポーランド・ポフシェフヌイ劇場芸術監督。1999年、シアターコクーンで『夏の夜の夢』を演出。范文雀さんはこの公演に出演した。 |
| | 1994年8月17日~22日
『アガタ』 作:マルグリット・デュラス
演出:渡辺守章
出演:范文雀、渕野一生
(撮影:宮内勝) |
郡司正勝(ぐんじ・まさかつ:1913年~1998年)
范 文雀(はん・ぶんじゃく:1948年~2002年)
岸田今日子(きしだ・きょうこ:1930年~2006年)
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