中国の外交は、非情のライセンスだ・・・ この点をクリアしないと、日本外交は後れを取るばかりである・・・
政治は実務である、論理である、ディベートである・・・
宗教は個人的な心情である。
政治に心情、陳情は無用、権利、義務、責任など、実務的な政治を行うべき・・・
心情で行う政治は、混乱の素である・・・
ところが、日本人が一番苦手なのはこのディベートである。駆け引きに満ちたディベートが好きではない日本人が代わりに好むのが「情緒の共有」なのだ。情緒が共有できない相手との間では合理的な議論にすらならないことが多い。
情緒でごまかさない政策論争を
ビジョンを提示して国民を説得する政治的なリーダーシップが求められている。今回の総選挙がそうした道への第一歩となってほしい。
(出典)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090727/201026/
いい加減「情緒政治」と決別せよ
「政権交代ドラマ」に隠された本当の課題
竹中 正治 【プロフィール】
政権交代 東京都議選 自民党 政策 民主党 郵政民営化 総選挙 規制 紐帯 マニフェスト 情緒
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7月の東京都議会議員選挙の投票率は54.8%で、前回の44.0%から10ポイントも上がった。今回の都議選は政権交代のかかった次の総選挙の「予備選」の雰囲気となり、有権者の関心が高まったからだろう。
実際、有権者は対立の構図が鮮明な選挙を望んでいるのだと思う。小泉首相が郵政民営化に政治生命を賭けて打って出た2005年の総選挙の投票率が66.3%と前回の57.9%から跳ね上がったのも、争点、対立軸が鮮明だったからだ。一部の論者は、これを「小泉劇場」と揶揄したが、有権者が望んでいるのは対立軸の鮮明化なのだ。
たとえ反対意見の有権者の支持を失っても、政治家が旗幟鮮明に政策原理、ビジョンを掲げて選挙戦を展開することを多くの有権者は望んでいる。ところが肝心の政策原理、ビジョンの対立軸が一向に見えてこない。
A党、B党、どっちが自民、民主?
表にまとめたマニフェスト比較を見ていただきたい。これは2005年の総選挙の際にYahoo! Japanが各党のマニフェストを要約、比較した「選挙に行こう!2005衆院選」から自民党と民主党の政策の見出しを一覧にしたものだ。郵政民営化問題だけは抜いてある。
■マニフェスト表
A党 B党
景気・税制
・財政改革 国の直轄公共事業を抜本的に見直し 2007年度に消費税含む税制抜本改革
政治改革 選挙制度改革と法整備、国会議員定数を1割以上削減、国家公務員の人件費2割削減 憲法改正草案へ、国民投票法成立を、政治資金規正法を改正
年金 すべての年金の一元化 公務員とサラリーマンの年金制度の統合
雇用 パート労働法改正 若者の自立・挑戦のためのアクションプランの強化・推進
医療 医療制度の改革、がん予防・治療の体制整備 新医療制度改革法案を次期国会に
教育 義務教育終了年齢までの子ども手当を支給、子ども園(仮称)の創設 児童手当・子育て支援税制を検討、幼児教育の無償化
環境・安全 アスベスト被害への対策・制度を確立、地方警察官の増員 温室効果ガス6%削減約束の達成、アスベスト被害への新規立法
地方 抜本的な地方への税財源の移譲 三位一体改革の推進、道州制導入の検討を促進、集中改革プランにより地方行革を推進
外交 国立追悼施設の建立、自衛隊のイラク撤退を12月までに、日中関係再構築、日韓関係強化 自衛隊法の改正、防衛庁を防衛省に、北朝鮮拉致問題の解決に全力
出所:http://election2005.yahoo.co.jp/
あなたはA党とB党、どちらが自民党でどちらが民主党か分かるだろうか。街頭アンケートをすれば、大半の人が迷うと思う。筆者もこれを見せられたら、「三位一体」とか「防衛庁を防衛省に」とかの用語法の違いでかろうじて区別がつくだけだろう。
今回の総選挙では自民党のマニフェストがまだ公表されていないが、政策原理やビジョンの違いは不明瞭なまま、「政権交代」という政治ドラマだけが独り歩きしている。2005年が「小泉劇場」だったと言うなら、今回の盛り上がりは「自民党没落劇場」に過ぎない。
確かに自民党の現状については筆者もうんざりしている1人だ。何らかのビジョンを掲げて総裁選に立候補した人を総裁に選び、その総裁を与党として首相にした以上は、首相と内閣のビジョンの実現に向けて結束して働くのが議院内閣制での政党だと思う。
ところが、首相の人気が落ちるとたちまち足を引っ張り、3年間で3人目の首相・総裁というのは(もう少しで4人目の総裁までいくところだった)、どう見ても政党として機能障害に陥っている。
しかし一方で、自民党と民主党のどちらを見ても、最大公約数の要望を満遍なく満たそうとするような総花的で、区別のつかないマニフェストにうんざりしてきた。
なぜそうしたことが続くのか。
「情緒」に支配された日本の政治
資本主義か社会主義かを問うた時代が昔のこととなり、先進国の大政党の政策がある程度似たものになるのは日本だけの傾向ではない。米国や西欧でも同じ傾向は見られる。
それでも、例えば米国では、保守・共和党とリベラル・民主党は、政策原理とビジョンの違いで判りやすい対立の構図を形成している。どちらの政党の候補者か知らずに政策演説を聞いたとしても、どちらの党か分かる。それは保守とリベラルの間に図のような原理的な対立軸があるからだ。

日本の政治はどうだろう。郵政民営化問題でも自民党内部に左右の対立があると同時に民主党内にも同様の対立がある。両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きいくらいだ。
2005年の総選挙で、かつて郵政民営化を唱えていた民主党代議士らは沈黙し、当時の岡田克也代表は郵政民営化を争点から外して臨み、大敗した。その後を継いだ前原誠司氏は一転して独自の郵政民営化に関する対抗案を提出。そして今度の選挙では民営化見直しを掲げて臨もうとしている。
自民党も、郵政民営化に造反して除籍された議員が復帰し、麻生太郎氏までが「私は(郵政民営化に)もともと賛成じゃなかった」と言い出す始末だった。
原理もビジョンもあったもんじゃない。
それでは日本の2大政党は、いったい何をベースに寄り集まっているのだろうか。政治から政策原理とビジョンを抜いたら、あとは人脈、金脈、それと情緒しか残らない。人脈と金脈が政治の世界で強い「紐帯(結び付ける力)」となるのは古今東西のことだ。
日本的な特徴は「情緒の共有」にある。「苦楽をともにして長年やって来た」「相手の気持ちが分かる。私の気持ちも分かってくれる」「お世話になっている」。そうした紐帯関係である。
政党の代議士同士のみならず、代議士と地元有権者の関係にも同じ原理が働いている。政治家の地元での活動の多くが、後援会活動などを通じた支持者らとの情緒の共有による紐帯強化に費やされている。
人の一生で重大な情緒的出来事とは冠婚葬祭である。だから代議士先生は有力な支持者の結婚式にはご祝辞に駆けつけ、葬祭にはお悔やみに参上する。自分が行けないときは秘書を代理で参加させる。「先生は私たちのことを気にかけてくれている」という紐帯意識を地元有権者との間で維持、広げることに並みならぬ努力を費やしている。
涙の謝罪にもろい日本人
いや、政治だけではない。日本社会全体が情緒の共有を紐帯にして動いていると言えるだろう。
私が米国ワシントン赴任時代の4年間に経験したことの1つは、アメリカ人のディベート(討議)好きだ。政治の舞台でも、政策論争するシンクタンクでも、駆け引きたっぷりのディベートを展開する。大統領選挙の終盤戦のハイライトは大統領候補によるテレビ討論だ。分かりやすく自分の政策を論じ、臨機応変に相手と攻防し、ライバルをやっつけることができるかどうか、その結果次第で選挙の帰趨さえ変わる。
ところが、日本人が一番苦手なのはこのディベートである。駆け引きに満ちたディベートが好きではない日本人が代わりに好むのが「情緒の共有」なのだ。情緒が共有できない相手との間では合理的な議論にすらならないことが多い。
それを感じさせる出来事はたくさんあるが、例えば最近の事例では足利事件で冤罪となり、17年かけて再審となった菅家利和さんの報道を見ていて思った。あれほど冤罪に苦しみ、積年の恨みを語っていた菅家さんだった。ところが今年6月に県警本部長の訪問を受け、本部長が切々と謝罪と悔恨の念を述べると、「本部長が謝っているのを見て考えが変わった。許す気になった」とあっさり語った。
つまり、「気持ちのこもった謝罪」を通じて菅家さんと県警本部長の間に情緒の共有が成立したのだ。どうやら日本人は情緒の共有が実現されると、何でも許す気になるようだ。
もう1つは、2001年に米国の原子力潜水艦が愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」に衝突して沈没させた事故。この時、日本の被害者家族らは、原潜の船長がなかなか家族の前に顔を出して謝罪しないことに対し、「誠意がない」と怒った。日本のマスコミも大いに同調して怒りを煽った。
だが、米国流の対応では、謝罪するかどうかは事実関係を究明してからのことであり、その前にいきなり謝罪するなどという「自己に不利益な行為」は普通しない。
しかし、日本人はこれを耐えがたいほどの不誠実、傲慢と感じる。まず謝罪しないと、その後の補償などを巡る冷静な話し合いが始まらない。結局、日本側が激怒の一途で話が際限なくこじれて行きそうな雲行きだった時に、原潜の船長が被害者家族らを訪問し、「直接謝罪に訪れるのが遅くなってすまなかった」と慟哭気味に謝罪し、その場の家族らも一緒に感極まるという展開になった。
このことを転機に遺族の怒りもマスコミの報道も沈静化、冷静化していった。要するに、日本人の話し合いは情緒の共有を基盤にして初めて成り立つのだ。被害者関係者らの悲しみを共有する行為が「慟哭の謝罪」だったのだ。
「かわいそう」の一言で国家戦略さえも逆走
日本社会では情緒の共有こそが影響力の最も強い武器になるのだから、これが政治の世界の紐帯にならないはずがない。かくして義理人情で武装した政治家集団が、人脈・金脈に合わせ、情緒の共有をベースに政党を形成する。組織が大きくなると「共有関係」を持続するのは難しくなるが、派閥を形成して結束を強め、他派閥と対抗する。
その結果、政策議論は二の次になってしまうのだ。
例えば、日本の産業・企業がグローバル競争を勝ち残るために必要だと言われて、雇用契約の多様化、柔軟化などを進める法制度変更が実施され、派遣社員などの活用が拡大した。ところが、今回の不況で、「同じ社員なのに一方的に解雇されてかわいそう」という声がメディアで大々的に報道されると一転、自民党も民主党も規制緩和の見直し、規制強化に動き出した。
経済学者らはこう説いた。「雇用の保護主義的な規制を強化すれば、既存従業員の利益は守られるが、一方で企業は新規雇用に慎重になり、結果として未就労者層を中心に失業率が逆に高まる」。だが、メディアで流れる「かわいそうじゃないか」の大合唱で、野党も与党も先祖帰り的な規制強化に逆走している。
勘違いされないために言い添えると、私は派遣社員問題を放っておけと言っているのではない。政党間の政策論争において「雇用保護的な規制 VS 雇用契約の自由化」という対立軸が働かないことが不思議だと言っているのだ。
私は情緒的な紐帯が何もかも悪いと言っているのでもない。情緒的な共有を広げることで物事に対処しようとする日本社会の特徴は、争いを減らしてコンセンサスを導く日本的な手法であり、それが社会的安定に良く機能している面もある。
しかし、グローバルな競争環境の中で日本が繁栄の持続か、衰弱かの岐路に立っている今日、政治と政策の閉塞から抜け出すことは、情緒の共有に頼った政治ではできそうにない。国として達成すべきことの優先順位の決定と、そのための合理的な政策が選択される政治の仕組みが求められているのだ。
官僚システムは、戦後の「不足とキャッチアップの時代」には一定の有効性を発揮したが、今日のような状況では国家的な優先順位の決定に無力である。彼らに任せれば、「現状維持」と組織の自己目的と化した「拡張」しか出てこない。優先順位を決定できるのは政治であり、その代議士を選ぶのは国民だ。この意志決定のプロセスで、政党による政策原理の提示と有権者による選択が働かないことには、日本の将来はおぼつかない。
情緒でごまかさない政策論争を
今回の選挙の結果、民主党を中心とした政権が誕生し、もし本気で「小泉政権の市場原理的な政策路線」が間違っていたと主張するのなら、ぜひやってもらいたいことがある。同党がかねてから主張してきたポリティカル・アポインティー(政治任用)をしっかりと実施し、官僚組織の中から「市場原理主義的」な政策を担った幹部官僚を外に出し、代わりに規制強化派の先生方を任用してもらいたい。
大学やシンクタンクは、野に下ったこうした官僚の中から志のある方々を受け入れて、実践的な政策研究に邁進していただこうではないか。そこから、次の政権交代での返り咲きや中堅・若手の政権登用の道も開けるだろう。こうしたプロセスを繰り返すことで、政策を対立軸にした政党政治が実現できるのだと思う。実際、米国の政策研究の態勢や人材の層はそうやって形成されてきたのだ。
ビジョンを提示して国民を説得する政治的なリーダーシップが求められている。今回の総選挙がそうした道への第一歩となってほしい。
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