グレイトシステムの憲法は宇宙の原理と自然の摂理です。
すべてのモノは憲法に従って動きます。
憲法は完全です。
青柳洋介
アートハーバーはバードマンのボランティアです
世界は自然にディバインシステムになります
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11/07/2009
奇人・変人 - モモ
金曜日, 4月 24, 2009
韓国大使館・・・
奇人変人、大集合~~~
柳原白蓮、伊藤伝衛門、大正天皇、ダライラマ6世、一休さん、怪僧ラスプーチン・・・
柳原白蓮
メールがフルになったようだ・・・
草薙君の影響なのかな?
投書が殺到している?
体格の良い柳原先生(フジテレビ?)が出ていた。
僕は、今から、歯医者の柳原先生の所へ行く。
そして、僕の田舎には、柳原白蓮の館がある。大正天皇の血筋。
炭鉱マフィアのボスに嫁いで、東大生と駆け落ち・・・
この方も、恋の道、一筋? 激しい女? 天皇家の血筋だもんな・・・ お姫様だもんな?
小野洋子は、安田財閥のお姫さま。モノホンのお姫さまは、怖いのだ~~~、強いのだ~~~
本名は? これ? やばいな~~~
燁子(あきこ)
炭鉱のボスは?
伊藤
これも、やばいな~~~
面白い~~~
今、きちんと読んだら・・・
柳原白蓮は、大したタマだ~~~
すげえ~~~、笑い
噂によれば、大正天皇は、変人だったらしいが、その血筋を引いているよな・・・ 白蓮、燁子(あきこ)、
この女、面白そう~~~
こんなんとつきあったら、命がけになる・・・ 笑い
やはり、お姫さまは、怖い~~~
もしかして、大正天皇は、ダライラマ6世のお仲間?
ダライラマ6世、一休さんも、お仲間のようだ・・・
一休さんを見ていると、ダライラマ6世が出てきた
ダライラマは人間くさいです。ダライラマ6世などは、よなよな街へ繰り出していたそうです。次のような詩が残っています。
--
人恋いそめしはじめより 夜な夜な床に寝つかれず
日に日に心物思い 休むいとまの露もなし
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我が喇嘛(ラマ)僧の御前(おんまえ)に 教えを乞いに進みしも
深き御法(みのり)にあらずして 娘を想う心のみ
---
世間では、一休さんやダライラマ6世を「破戒僧」と呼ぶのだろうが、世間にいる大半の僧は悟りとはほど遠い「インチキ僧」にしか見えない!!!
大半の僧は「観光ガイド」か「墓守」にしか見えない!!!
あほ~~~
---
室町期の禅僧(臨済宗)。別号、狂雲子。幼名千菊丸。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)。母が一休を身篭ると、皇位の継承権を妬んだ人々の謀略で、彼女は南朝方と通じていると誹謗され、宮廷を追われることになった。そして南北統一から2年目の元旦に、嵯峨の民家でひっそり一休を産んだ。母は子が政争に巻き込まれぬよう、その身を保護する為にも、1399年、5歳の一休を臨済宗安国寺に入れ出家させた。
「周建」の名を与えられた一休は成長と共に才気を育み、8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。
1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。
運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。
1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。これを聞いた華叟は、歌の中からとった「一休」の号を彼に授けた。
1420年(26歳)5月20日の深夜、一休は琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至ったという(後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。華叟は一休を後継者と認め、印可(いんか、悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休は、これを頑として受け取らなかった。28歳、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂され始める。
1428年(34歳)、師の華叟が没したことをきっかけに、一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多く、そしてあらゆる階層の人に仏教の教理を易しく説く為に、彼は一ヶ所の寺に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々と説法行脚して回った。
38歳、崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面する。
※この頃、一休は堺・南宗寺に庵を結び、弟子であり実子の紹偵(しょうてい)と住んでいる。
1437年(43歳)、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知り、一休は火中に焼き捨てた。1447年(53歳)、二度目の自殺未遂。大徳寺内の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに胸を痛め、そして堕落した僧界に失望し、山へ入って断食死を試みる。この時は天皇自らの説得(親書)を受けて思い留まった。
1456年(62歳)、これより200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復。新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。
1461年(67歳)、浄土真宗の中興の祖、蓮如が営む親鸞200回忌に参列。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想に敬意を払い、教えを学び合っており、一休はこんな歌を残している。「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる歌だ。
1467年(73歳)、京都で応仁の乱が勃発。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、1470年(76歳)、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集『狂雲集』に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。
長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、1474年(80歳)、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に、天皇の勅命で第47代住職(住持)にされてしまう。「さて、再建費用をどうしたものか」。一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからだ。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成。一休は見事に周囲の期待に応えた。
※一休は大徳寺の住職となっても寺には住まず、酬恩庵からずっと通っていた。(たぶん彼女と離れたくなかったからと思う)
一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、髪や髭のある像を残すことで、「禅僧は髪を剃るもの」などといったつまらない形式に捉われず、精神を大切にしろという目に見えるメッセージだった。「一休の禅は、一休にしか解らない」「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん、仏法の守護神)に捧ぐ」と辞世を残し、当時の平均寿命の倍近い87歳まで長寿して、マラリアで亡くなった。
臨終の言葉は「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を締めくくった。
一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉だった--「大丈夫。心配するな、何とかなる」。
現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)は境内にある。しかし!彼が天皇の息子であったことから、その敷地だけが宮内庁の管轄にあり、内部の墓は見ることができない。菊の紋章の門から先は立入禁止なんだ。常に庶民と共に生き抜いた一休としては、庶民から隔離されている今の状況は不本意だろうなぁ。
境内には小僧版一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れるとあって、誰もが頭を撫でていくので、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められているという。
高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。彼は印可状など無用と焼き捨て、禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風だ。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。
戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われた一休。権力に追従しない自由奔放な生き方は、後世の作家を大いに刺激し、江戸時代には『一休咄(ばなし)』というトンチ話が多数創作された。
禅の民衆化に大きく貢献した一休はまた、仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。
●一休の歌
その書『自戒集』『狂雲集』『仏鬼軍』は戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいものと言われている。『続狂雲集』には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。こんな禅僧はいない。とはいえ、美しい歌も多いので幾つか紹介。
「白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露」(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる)
「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる)
「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも)
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ、爆)
「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ)
「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです)
アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。
「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」
(石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい)
この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。
※おまけ「骨かくす皮には誰も迷いけん 美人というも皮のわざなり」(蜷川新右衛門)
●奇行伝説
一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。
またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて、ズタボロの汚い法衣でこう歌い歩いた。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)。
●茶
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。
●トンチ話
足利義満は周建(一休)を邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出した。周建がパクパク食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと、「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」との返事。義満は刀を突き出し「ならば、この刀も通して見よ」。周建は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」。そう言って平然としている周建に対し義満がさらに言ったことが「あの屏風の虎を捕らえよ」だった。一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。
(出典)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic16.html
---
洋介
2007年11月 3日 (土) アート & サイエンス | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (4)
///こういうのが出てきた
権威とは
公正な仕事をきちんと行なうから、あるのであって、
「国会議員」だから「権威」があるとは思いませんが・・・
「権威を主張」するのであれば、「権威」とは何であるかを
再考すべきです!!!
例えば、「産む機械」という発言は自ら権威を汚す言葉です・・・
伊吹さんは「権威」と「権力」を勘違いされているのでは?
「無謀な権力」を行使する人は、「権威」を汚す人です・・・
残念ながら・・・
元来、国家自ら、最高法規である「憲法」の違反を犯しています。
「権威」があるわけないと思いますが・・・
たとえ、権力はあっても・・・
今一度、憲法を読み直してください。伊吹さんは、「立法府」の国会議員ですよね?
「憲法」を理解できない人に「立法」はできませんが・・・
広辞苑より
(authority)
【権威】けんい
①他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。
「権威が失墜する」
②その道での第一人者と認められている人。大家。
「数学の権威」
【権力】けんりょく
他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。
「権力の座につく」「権力を振るう」「権力者」
---
「権威」と「権力」を勘違いなされていませんか?
青柳洋介
///
ベンチャー企業 - エンジェル
昔、ベンチャー企業への融資についてクレームを入れた。
個人投資家にベンチャー企業の情報を提供するシステムを運用するとか、テレビで言っていた・・・
こういう個人投資家のことを「エンジェル」って言うんじゃなかったっけ?
文化事業のパトロンのことを「メセナ」って言うんじゃなかったっけ?
【mecenat】仏 メセナ
(古代ローマの政治家で文芸の擁護者G. Maecenasの名に由来)芸術・文化の庇護。特に、企業による芸術・文化の援護活動を言う。
昔は、西部グループとかでよくやっていたんじゃないのかな?
青柳洋介
2007年11月26日 (月) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
///怪僧ラスプーチンの末裔へ
バルト - 力士
もしかして、フン人(アジア系?)の血が入っているのかな?
エストニアとフィンランドは近いので・・・
昔、フン人と習ったが・・・
今は、フィン人と呼ぶみたい。ヴォルガ流域から移動してきた・・・
ステンカ・ラージンの故郷?
ロシア民謡
【訳詞】与田準一
【MIDIデータ作成協力】Iwakichsky
1.くおんにとどろくヴォルガの流れ
目にこそ映えゆく
ステンカ・ラージンの舟
目にこそ映えゆく
ステンカ・ラージンの舟
2.ペルシャの姫なりもたえる口と
うつつにはなやぐ
うたげがながる
うつつにはなやぐ
うたげがながる
3.ドンコサックのむれに今わくそしり
おごれる姫なり
飢ゆるはわれら
おごれる姫なり
飢ゆるはわれら
4.そのかみ帰らずヴォルガの流れ
さめしやステンカ・ラージン
まゆねぞかなし
さめしやステンカ・ラージン
まゆねぞかなし
元は大変長い歌で、以前どこかのサイトで訳文が出ていたのですが見つかりませんでした。ここのペルシャの姫はヒロインとしてでなく悪者として出てくるのです。
(出典)メロディー付き
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/stenkarajin.html
この歌を聴くと雄大なヴォルガ河と大陸が思い浮かぶよな・・・
農民はジャガイモでも作っていたのかな? ウォッカの原料だっけ?
【Cossack・哥薩克】コサック
カザーク Kazak ロシア
(もとトルコ語で、自由人の意)15~17世紀のロシアで、領主の過酷な収奪から逃れるため南方の辺境に移住した農民とその子孫。
ステンカ・ラージンは17世紀のロシアの農民暴動の指導者。一時はカピス海からペルシャ湾にかけて、盛大な勢力を構築しましたが、最終的は弾圧されて一揆も鎮圧されてしまいます。
原詩は英雄ステンカ・ラージンをたたえた長大な抒情詩ですが、日本ではこの与田さん訳詞で一部だけが紹介されてます。この詩だけを読んでいると、ステンカ・ラージンというのは、泥棒の親分でペルシャの姫をさらってきて手篭めにしているみたいですね。
(まるで、松坂みたい)
アラブ方面では、アリババが盗賊から宝を奪う。開け~~~、護摩!(?!?)
日本では、鼠小僧ジロキチ・・・
(まるで、イチローみたい)
国の雰囲気が出ているな~~~
あほ~~~
青柳洋介
2007年11月24日 (土) アート & サイエンス | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
///今一度、日本の仏教
日本の仏教
【密教】
仏教の流派の一。深遠で、凡夫にうかがえない秘密の教え。インドで大乗仏教の極に現れ、中国・日本のほかネパールチベットにも広まった。日本では、真言宗系の東密と天台宗系の台密とがある。秘密教。秘密仏教。
【天台宗】 法華経
仏教宗派の一。法華経を根本経典として一乗主義の立場をとり、五時八教の教判理論や止観の実践体系を特徴とする。中国で、北斉の慧文・慧思を経て、智顗(ちぎ)によって大成された。日本へは鑑真が最初にもたらしたが、本格的には804年(延暦23)最澄が入唐して学び、翌年帰朝して比叡山延暦寺を中心にこれを広めた。後に山門・寺門の両派に分かれ、中世末真盛(しんぜい)派が分出した。最澄(762~822)は密教・禅・戒も合せて伝えたので、日本の天台宗は総合的な学風を特徴とする。止観宗。天台法華宗。天台法華円宗。
【真言宗】 華厳経
仏教宗派の一。歴史上の釈迦仏を越えた永遠の宇宙仏である大日如来こそ真実の仏であるとし、大日経・金剛頂経などを所依の説教とする。胎蔵・金剛の両部を立て、六大・四曼・三密などの説により、即身成仏を目的とする。入唐して恵果(けいか)に学んだ空海(774~835)が帰国後、東寺・金剛峰寺などでこれを弘通(くずう)。のち古義・新義に分れ、現在は各派に分れている。真言陀羅尼宗。密宗。真言密教。
大日如来(梵語Mahavaiocana 摩訶毘盧遮那)宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主。大日経・金剛頂経の中心尊格。その光明が遍く照らすところから遍照または大日という。大日経系の胎蔵界と金剛頂経系の金剛界との2種の像がある。遍照如来。遍照尊。遮那教主。
阿弥陀(梵語Amitayusは無量寿、Amitabhaは無量光と漢訳) 西方にある極楽世界を主宰するという仏。法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため四十八願を発し、成就して阿弥陀仏となったという。その第十八願は、念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。浄土宗・浄土真宗などの本尊。
薬師如来 薬師教に説く東方の浄瑠璃世界の教主。
仏陀(ぶつだ 梵語 buddhaの音写。目覚めた人の意で、悟りに達した人をいう)
菩薩(ぼさつ 梵語 bodhisattva 覚有情、悟りを求めて修行する人)
観世音(かんぜおん 梵語 Avalokitesvara 観察することに自在な者の意)
【真言】
②(梵語 mantra の訳語)密教で、真理を表す秘密の言葉。呪。陀羅尼。
【顕教】
[仏]言語文字で説き示された釈尊の教え。密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む。
【浄土宗】
わが国浄土門の一派。浄土三部経を所依とし、法然(1133~1212)を開祖とする。自力教を排して、他力念仏によって極楽浄土に往生することをその目的とする。
【浄土真宗】
わが国浄土門の一派。浄土三部経を所依とする。阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって往生成仏できるとし、称名念仏は仏恩報謝の行(ひょう)であるとする。親鸞(1173~1262)を開祖とする。
【日蓮宗】
日本仏教十三宗の一。日蓮(1222~1282)を開祖とする。即身成仏・立正安国を期す。
【禅宗】
日本では、1168年(仁安3)栄西(1141~1215)が入宋して臨済宗を伝え、1223年(貞応2)道元(1200~1253)が入宋して、曹洞宗を伝えた。
【臨済宗】
禅宗の一派。唐の臨済を祖とする。日本では鎌倉時代に栄西が伝えたのに始まり、室町幕府は京都・鎌倉に五山を定めて保護した。公案によって弟子を教化する看話禅の立場をとる。現在15派に分れる。
【曹洞宗】
禅宗の一派。中国で洞山良价と弟子の曹山本寂によって開かれ、日本では道源が入宋して如浄からこれを伝え受けた。臨済宗が公案を用いるのに対し、只管打坐(しかんだざ)を説く。永平寺・総持寺を大本山とする。
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青柳洋介
2007年11月23日 (金) アート & サイエンス, メモリー | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
///サイバンインコ・ウイルスの発生源?
インコ - 鸚哥
1970年代にペットが逃げ出して、世田谷近辺で繁殖したインド方面のインコは
ワカケホンセイインコ 輪掛本青鸚哥
昔から有名なインコは
セキセイインコ 背黄青鸚哥
漢字にすると面白い! カタカナではまったく分からない鳥の特徴が少しは分かる。
アホウドリ 信天翁・阿房鳥
【鸚哥・音呼】いんこ
鸚鵡目鸚鵡類を除く鳥の総称。オウムとちがい尾羽が長いか羽冠がない。やや便宜的な分け方で、モモイロインコはオウム属。色彩が美しいので、飼われることが多い。熱帯地方から南半球にかけて分布。日本で野生化している種もある。小型のセキセイインコ、大型のコンゴウインコなど多くの種類がある。
コンゴウインコ 金剛鸚哥
【信天翁・阿房鳥】あほうどり
ミズナギドリ目アホウドリ科の海鳥。ガンよりも大きい。体は主に白色で、肩羽・翼および尾羽の先端は黒色。海面を滑翔。羽毛利用のため大量捕獲され全滅に瀕したが、鳥島・尖閣列島に残存することが確認され、特別天然記念物・国際保護鳥に指定。
また、広義にはアホウドリ科の鳥の総称で、大型の海鳥。南半球の海に多く、世界に13種がある。日本では、アホウドリ・コアホウドリ・クロアシアホウドリが沖合で見られる。馬鹿鳥。叔父だまし。アルバトロス。
あほ~~~
青柳洋介
2007年11月17日 (土) アート & サイエンス | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
///米・中・露の大国の論理の中に沈没する、北・韓・日
北・韓・日は、日本・朝鮮語語族、グローバル化した現在、同一部族。よって、北日戦争はマフィアの内部抗争。
今や、知恵遅れのマフィアの抗争。周りの大国は、にやにや笑って、眺めている。
今や、ロシア・中国の共産主義は、北の共産主義、韓・日の資本主義より、コンセプトが上になった。
北・韓・日の本質は、儒教と、お家制度がもたらしている旧時代の制度。時代遅れです・・・
2007年11月 6日 (火)
中・米 日本を飛び越えた?
中国とアメリカの利害から行けば、当然の成り行きだろう・・・
日本はどこと戦っているの? よく分からないな?
日本は日本の官僚主義や日本自体の腐敗と戦っているだけではないの?
仮想敵:?
現実敵:自国
じゃないの? 勝負あったということなのかな?
あほ~~~
---
中・米国防相会談、ホットライン設置で合意
・・・
・・・
中華人民共和国中央軍事委員会副主席、国務委員兼国防部長の曹剛川上将は5日、米国のロバート・ゲーツ国防長官と八一ビルで会談した。双方は率直で誠意ある実務的な雰囲気の中、世界・地域情勢、両国・両軍関係、その他共通関心事について、幅広く踏み込んだ意見交換を行い、前向きな成果を上げた。
曹副主席は現在の中・米関係の発展を積極的に評価。「中・米関係はさらなる発展の重要なチャンスを迎えているが、いくつかの試練にも直面している。双方は共に努力し、試練に適切に対処し、両国関係の着実で健全な前進を促していくべきだ」と指摘した。
・・・
・・・
曹副主席とゲーツ長官はその後の共同会見で、会談での合意事項として次の点を挙げた。
▽両国防省間にホットラインを設置する。技術上の問題について早急に協議するよう関係当局に促す。
▽各レベルの対話と交流を引き続き強化する。
▽両軍は人道支援・災害救助演習を実施する。
▽両軍は軍事学校・佐官級交流を強化する。
▽両国防当局は朝鮮戦争前後に中国で消息を絶った米国人の行方について軍事書類上の協力を開始する。
▽両軍は文化面の交流を強化する。(編集NA)
写真(1):ゲーツ長官の歓迎式典
写真(2):会談の模様
「人民網日本語版」2007年11月6日
---
洋介
2007年11月 6日 (火) 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)
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柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん、明治18年(1885年)10月15日 - 昭和42年(1967年)2月22日)は歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の一人。
父は柳原前光(やなぎはら さきみつ)伯爵、母は前光の妾のひとりで没落士族[1]の娘で柳橋の芸妓となっていた奥津りょう(通名おりょう)。東京に生まれた。
大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪で、大正天皇の従妹にあたる。
生涯
生い立ち
父前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから燁子と名付けられる。 燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の華族の慣習としていったんは里子に出されたのちに柳原家に再び戻り、養育された。
1888年(明治21年)生母おりょう病死。1892年(明治25年)麻布南山小学校に入学。1898年(明治31年)華族女学校(のちの女子学習院)に入学。燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、おりょう以外に年来の妾梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はおりょうを妹のように、そしておりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたとも言われる。
最初の結婚
1900年(明治33年)14歳で、子爵北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子の資武(すけたけ)と結婚し、1901年(明治34年)15歳で男子、北小路功光を出産した。しかし知的障害があったといわれる資武とは早期に夫婦関係が拙くなり、5年後に離婚。実家に戻った[2]。
1908年(明治41年)東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学し、寮生活をおくる。佐佐木信綱に師事し「心の花」に短歌を発表し始めた。
再婚と「筑紫の女王」時代
燁子は1911年(明治44年)27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士であった伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄柳原義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伊藤伝右衛門の思惑が一致した[3]政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“黄金結婚”と大いに祝福された。伊藤伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神と別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。
こうして燁子は「筑紫の女王」と呼ばれるようになった。しかし複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伝右衛門は何人もの妾がいたが、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷にいたが、伝右衛門の手が付いたことから燁子はユウをあてがう形となった。後年、白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。そんな懊悩、苦悩を燁子はひたすら歌に託し「心の花」に作品を発表しつづけた。
1915年(大正4年)、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」(信仰していた日蓮にちなむ)とした。その浪漫的な作風は「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹き付けた。
こうして白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(他は九条武子と江木欣々、あるいは日向きむ子)の一人として知られるようになった。
別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだが、その一人に医学博士で歌人の久保猪之吉がいた。妻の久保より江も俳人として名を知られていた。
1918年(大正7年)「大阪朝日」は「筑紫の女王・燁子」を連載。1919年(大正8年)詩集『几帳のかげ』、歌集『幻の華』刊行。
恋に生きる
1918年(大正7年)、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者宮崎龍介だった。龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天、龍介も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。この後ろ盾となっていたのは、東京大学の吉野作造、早稲田大学の大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。
1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で会った龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。龍介も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は龍介の子を宿した。姦通罪のあった時代の恋は命がけだった。
1921年(大正10年)白蓮は伊藤伝右衛門と上京した機会に姿を消した。同年10月22日の朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。夫と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。
同日の「朝日新聞」夕刊に白蓮名義で『私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます』という公開絶縁状が掲載された。これは白蓮が書いた手紙を宮崎の友人が書き直したものであり、友人たちによって公開が以前から計画されていたという。しかし絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。特に国家主義の、黒龍会(頭山満の玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により、兄義光は貴族院議員を辞職することとなった。白蓮は男児(香織)を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。
伊藤伝右衛門は「大阪毎日新聞」に「絶縁状を読みて燁子に与ふ」と題し『(白蓮との結婚生活を)俺の一生の中で、最も苦しかった十年』などと表現した文を掲載したが、白蓮と龍介を姦通罪で起訴することはしなかった。伊藤の親族には白蓮を四つに畳んで『遠賀川にたたきこめ』と激昂する者もいたが、伝右衛門は白蓮に手を出すことを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。しかし一方で、白蓮が産んだ男児の父親を確認する訴訟を起こしている。
再々婚以後
1923年(大正12年)関東大震災の後、白蓮の産んだ子は伝右衛門の子ではない[4]という判決が下り、白蓮の姦通は明らかとなった。白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて伊藤伝右衛門との離婚が成立した。当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、龍介に白蓮たちを引き取らせたという。龍介と結婚、香織を伴い親子3人の生活が実現した。
しかし、夫は結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している[5]。
1925年(大正14年)には長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後弁護士として活躍した。1931年(昭和6年)には龍介と中国を旅行している。
1945年(昭和20年)8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。一方、皇太子と正田美智子との結婚に際しては、松平信子ら旧華族出身者と共に強硬に反対した。
1961年(昭和36年)、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)逝去、81歳。1971年(昭和46年)龍介逝去、78歳。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。
二人が逝去まで暮した家は西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮している。
脚注 [編集]
^ 父親の新見正興は咸臨丸で知られている1860年の遣米使節団長であったが、明治維新直後に早世している。
^ なお、子を婚家に残し離婚しているが、このことは燁子の本意ではなかった(子を連れて帰りたかったが、当時の家族制度などから“いわば(子と)引き裂かれたと同然”の結末だった)といわれる
^ ただし、伊藤は上野精養軒で白蓮と見合いした後、三井鉱山の有力者の説得をうけて白蓮との結婚を受け入れたとする説もある。(荒俣宏『黄金伝説』)
^ この際、当時の伝右衛門が無精子であるという検査結果が公表されている。
^ 白蓮・宮崎の斯様の“窮状”を人づてに伝え聞き同情した因縁の白蓮の前夫・伊藤が白蓮・宮崎に経済的援助を申し出たことがあったそうだが、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ、白蓮ら側から断りがあったという
関連項目 [編集]
北小路功光
柳原家
新見正興-生母おりょうの父。江戸幕府外国奉行。
白洲正子
正親町三条家(嵯峨家)-白蓮から見て、柳原家側の曾祖母の出身家。
嵯峨浩
白洲次郎
旧伊藤伝右衛門邸-飯塚市有形文化財。門は『銅御殿』から移設されたもの。また、白蓮が嫁入り道具として持参した石灯篭が残る。また、ミュージアムショップ「白蓮館」が絶縁状の原文と新聞掲載文を販売している。
参考文献 [編集]
柳原白蓮『幻の華』大正8年
松永伍一・柳原白蓮『火の国の恋』(出版タイムズ社)1959年
宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」昭和42年6月号)
永畑道子『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋)1990年
林真理子『白蓮れんれん』(中央公論社)1998年
斉藤憐『恋ひ歌―宮崎龍介と柳原白蓮』(而立書房)2003年
永畑道子『恋の華・白蓮事件』(藤原書店)2008年
荒俣宏 『黄金伝説』(集英社)1990年、(集英社文庫・荒俣宏コレクション)1994年
外部リンク [編集]
柳原家・白洲家・樺山家・川村家 関連家系図
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