生い立ちと教育 [編集]
ヒラリー・ダイアン・ローダム (Hillary Diane Rodham) は
1947年、
イリノイ州シカゴに衣料品店を営む両親のもとに生まれた。一家は
メソジスト教派であり、彼女は
白人中産階級が多く住むイリノイ州パークリッジで成長する。父親のヒュー・ローダムは
保守主義者であり、繊維業界の大物であった。母親のドロシーは専業主婦であり、ドロシーの両親はドロシーが幼い頃
離婚、ドロシーは父方の両親に預けられ寂しい子供時代を過ごした。ヒラリーには二人の兄弟、ヒューとトニーがいる。
弁護士時代 [編集]
調査団解散後はビルのいる
アーカンソー州に移り、ビルとともに
アーカンソー大学ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選、翌
1975年に彼と結婚している。
1976年にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都
リトルロックへ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、
ビンス・フォスターがパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともに
ジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加した。
1978年ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州の
ファーストレディーとなったが、弁護士としての活動も続け、
1979年にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。また
カーター大統領の指名により、
連邦議会が設立した
非営利団体の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。
1980年ヒラリーは娘の
チェルシーを出産。ビルは再選をかけた同年の知事選に破れるが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の
1982年の知事選で当選してカムバックした。この82年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている(
「名前のこだわり」の節を参照)。
この第二期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (Education Standards Committee) の委員長を務めた。
ビルの大統領選挙運動中、新しいイメージで登場したヒラリー。ソフトな
ボブカットが話題になった。
1991年にビルは大統領選に出馬。その選挙運動中、ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、一部から「
専業主婦に対して冷淡」とか「急進的
フェミニスト」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「
ウォルマート」の
社外取締役、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。
同年秋、ビルと
クラブ歌手ジェニファー・フラワーズの
不倫問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。
ファーストレディー [編集]
連邦議会議事堂での大統領就任宣誓式の後、
ホワイトハウスへ向かうパレードの途中、車から降りて歩きはじめるクリントン一家(1993年1月20日)
ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは翌
1993年から8年間、アメリカ合衆国の
ファーストレディとなった。ヒラリーはアメリカでは初の、院卒にして弁護士のファーストレディーであり、したがって初の
キャリアウーマンのファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて
国連代表を務めた
エレノア・ルーズベルトと並ぶ「最強のファーストレディー」と評していた。
就任後早々、ビルはヒラリーを医療保険改革問題特別専門委員会 (Task Force on National Health Care Reform) の委員長に任命した。同委員会は、国主導型の健康保険制度導入を視野に入れた「クリントン医療保険計画」を答申したが(アメリカは
先進国で唯一、国民皆保険ではない)、アメリカ
医療保険制度の抜本的改革となりかねないこの計画は、野党共和党や保険会社、製薬会社、中小企業などによる大規模な反対活動にあい、民主党多数議会をもってしても支持を得ることができず、結局翌
1994年に廃案となってしまった。これに勢いを得た共和党は、クリントン政権の政策を「急進的な
リベラル改革」と位置づけて攻撃、同年の中間選挙では大幅に議席を伸ばして両院で多数となり、行政府と立法府のねじれ現象が生じることになった。
後にヒラリーは著書の中で、医療保険改革の失敗は「すべて自分の政治力が未熟であったせい」だと記している。一方当時の政治評論家は一様にこの失敗が「ファーストレディーを国政に参画させるという前代未聞の人事が国民には不適切だと受け止められたということに他ならない」と評した。しかし、
1996年の著作It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us は
ベストセラー本となりヒラリーの子供を中心とした政策課題は過半数の女性には好感を持って迎えられ、また大多数のアメリカ国民は「国主導型の健康保険制度導入ということ自体がアメリカにとっては時期尚早だった」と見ていたことが世論調査などで明らかになっている。
いずれにしても、大統領選挙キャンペーンでビルがヒラリーとのコンビを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 ("get two for the price of one")」と言っていたように、ビルがヒラリーを「最大のアドバイザー」と評して全幅の信頼を置いていたのは事実であり、ヒラリーはその後もクリントン政権を通じて閣議に臨席するという特別な存在であった(これは
ケネディ大統領が信頼する実弟の
ロバート・ケネディを司法長官に任命して常に傍らにおいた例を踏襲したものだといわれる)。
こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 (co-President)」や「ビラリー (Billary)」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のある
ウエストウイングにも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド (Hillaryland)」と呼んだ。
医療保険改革や中間選挙での敗北と逆風が続いたヒラリーだったが、
中華人民共和国の
中国共産党政府の
人権侵害に反対する人権擁護団体や一部の議員が出席に反対する中、
1995年9月、
北京で開催された
国連世界女性会議に米国代表団の名誉団長として出席、演説の中で「女性の権利とは人権である」と訴えた。
1996年1月には初の著書となる『村中みんなで (It Takes A Village)』を出版した。
同じ頃、「
ホワイトウォーター疑惑」関連で、紛失したとされていたローズ法律事務所時代のヒラリーによるマディソン・ギャランティ貯蓄貸付組合のための法律業務の記録がホワイトハウスで突然見つかった。1月26日ヒラリーは
スター独立検察官の召喚により、紛失したとされていた記録について
大陪審の前で証言を行った。
上院議員 [編集]
2001年1月4日、上院議員として初登院し宣誓式に臨むヒラリー。左は夫のクリントン大統領と娘のチェルシー、右は
アル・ゴア副大統領 (上院議長)。
2000年、長年
ニューヨーク州選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、
ニューヨーク市市長で共和党の
ルドルフ・ジュリアーニが出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが
前立腺癌治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55%を得て当選した(なおこの出馬も
1964年に
マサチューセッツ州出身の
ロバート・ケネディ司法長官が民主党に乞われて上院選にニューヨーク州から出馬し当選した例を踏襲したものだと言われる)。
ファーストレディー時代は
左派色が強く、夫のセックススキャンダルについて「右派の陰謀」とまで言い切ったこともあるが、上院議員になると
世論に同調した柔軟性も見せるようになった。
再選をかけた
2006年の上院選では、共和党候補に得票率で67%対31%という大差をつけて勝利した(このため「ヒラリー当確」は全米一早く出た)。この圧倒的な再選をうけ、かねてより噂になっていたヒラリーの
2008年大統領選への出馬は現実の選択肢として取沙汰されるようになった。また選挙後ビルが複数のインタビューで「ヒラリーが大統領選に出馬するかしないかは分らないが、ヒラリーが大統領になったとしたら素晴らしい大統領になることは間違いない」と彼女の出馬を言外に臭わせたことから、ヒラリー出馬説は一層真実味を帯びるようになった。
大統領選 [編集]
上院軍事委員会で証人の証言を聞くヒラリー(2007年7月31日)
しかし、その後は次第にオバマ陣営の勢いに押されて劣勢となった。特に、スーパーチューズデー後に行われた予備選では、オバマ候補に9連敗を喫し、民主党大統領候補としての選出は厳しい状況となった。3月のミニ・チュ-ズデーでは大票田のオハイオ州とテキサス州で辛勝し、ロードアイランド州も含め3勝1敗と土俵際で踏ん張り、その後も
ペンシルベニア州といった大規模州では有利に戦いを進めたが、中小州ではオバマ陣営が圧倒的な強さを見せ、テキサス州などの大規模州でもヒラリー候補に僅差で迫ったオバマ候補が指名獲得を濃厚にした。党内からは撤退論も噴出したが、ヒラリー候補は「最後まで諦めない」として撤退を拒んだ。
更に予備選終盤には、
ロバート・ケネディが6月に暗殺されたエピソードに言及してオバマ候補の
暗殺を期待するともとられかねない致命的な失言までしてしまい
[2]、オバマ陣営のみならず
共和党陣営からも強い批判を受け、ヒラリーはオバマやケネディ家に謝罪した。4月以降の予備選ではヒラリー候補が多少勢いを盛り返し、ウェストバージニア州やケンタッキー州、プエルトリコなどではヒラリー候補が圧勝したものの、最終的には特別代議員でもオバマ候補に逆転を許し、オバマ候補は全代議員の過半数を獲得して指名を確定させた。ヒラリー候補は8月の民主党党大会で正式に撤退を表明し、オバマ氏支持を表明した。
なお、ヒラリーはこの指名候補争いで多額の選挙費用を計上し、外部コンサルタントや業者に対し6月の時点で1200万ドル(約10億8000万円)の負債を抱えることになり、大統領選挙直後からその返済に追われることになった
[3]。
国務長官 [編集]
2008年11月の大統領選挙ではバラク・オバマが当選した。民主党の指名争いで劣勢になった頃から、ヒラリーがオバマの副大統領になる可能性が報じられたが実現せず、オバマが次期大統領として翌年発足する政権の人事に着手した11月ごろからヒラリーは
国務長官など閣僚候補として名前が取りざたされていた。それに対して、上院を離れることに気が進まない。国務長官という新しい地位は「困難にして魅力的な冒険」だと発言するなど、政権入りには後ろ向きであった。しかし、11月20日には彼女は指名を受諾した
[4]。
2008年12月1日にオバマ次期大統領はヒラリーを正式に国務長官に指名したことを発表した。ヒラリーは「合衆国にすべてをささげる」と指名を受け入れた
[5]。
ヒラリーは上院時代も含め、必ずしも外交に力を入れてきたとは言い難く、外交通とは言い難かったが、大統領選挙においては、ファーストレディとして世界中の要人との人脈を築き上げたことを強くアピールしてきた。オバマが彼女を国務長官に指名した背景には、圧倒的な知名度など彼女の「即戦力になる経験」を重視し、「
実利的」な政権であることを示す一方で、大統領選挙で党内に入った亀裂を融和し「超党派」性をアピールしたかったという事情がある。
上院外交委員会は2009年
1月13日、ヒラリーを召還して国務長官承認のための公聴会を開始し、オバマ大統領就任後の
1月21日に上院の本会議が賛成94反対2でヒラリーの国務長官就任を承認した。これに伴いヒラリーは正式に国務長官に就任した
[1]。
国務長官としてのヒラリーの最初の外遊先は
東アジア諸国であり、日本、
インドネシア、韓国、中国を順に訪問して無難な外交デビューを飾った
[6]。他方で中東和平・
対テロなど喫緊の課題を多く抱える中近東・西南アジアで、大統領と直接協議する権限を与えられた特使が実務に当たっており、外交経験の少ないヒラリーは大きな懸案の少ない無難な地域で仕事を始めざるを得なかったという事情があった。
2009年6月にヒラリーは右ひじを骨折したために、オバマ大統領のロシア訪問の同行、さらに主要国(G8)外相会議の出席ができなかった。そして8月にアフリカ7カ国を訪問したときには、夫のビル・クリントン元大統領が北朝鮮を電撃訪問。最初の訪問国
ケニヤは夫の訪朝を質問されることになった。
さらに
コンゴの
キンシャサでの対話集会の席上「コンゴと中国との金融協定」について「オバマ大統領」はどう考えているのかのと男子学生がフランス語で質問したところ、
同時通訳が「クリントン元大統領」と
誤訳した。それを聞いたヒラリーは気色ばみ、「私に夫が何を考えているか話させたいの?国務長官は私よ。夫じゃない」といい「私の考えなら話すけど、私は夫をとは交信しない」と返答した。あとで誤訳の事実を知らされるとヒラリーは機嫌を取り戻したが、「元大統領が、妻に向けられるべきスポットライトを奪った」(AP通信)と報じられた
[7]。
政治的立場 [編集]
ヒラリーは従来民主党の中でも
リベラルな立場をとっており、そのため主に女性層や都市部の非白人層から強い支持を得ていた。アメリカで常に論争となる
人工妊娠中絶についても女性の権利としてこれを支持していた。
しかし、上院議員に当選後は
銃規制に反対した他、
イラク戦争の開戦に賛成するなど、アメリカにおいて根強い勢力を誇っているキリスト教右派層や保守層の支持を得る為に、一定の
中道ないし
保守的な立場も見せ、これによって民主党内の「ヒラリーだけは絶対にダメ」という反ヒラリー派の懐柔にある程度の成功をみたが、一方でそうした日和見的な姿勢によって、かつての支持層の一部が離反していくという
ジレンマを経験している。
名前のこだわり [編集]
アメリカ人の女性が結婚すると、通常は
旧姓のあとに夫の姓をつけたものを正式な名前とする。ただしそれはあくまでも記録上のことであって、実際には「ローラ・ウェルチ」が「ジョージ・ブッシュ」と結婚して「ローラ・ウェルチ・ブッシュ」になっても、彼女は日頃から自分のことを「ローラ・ブッシュ」と名乗り、周囲も彼女のことをそのように呼ぶ。アメリカでは夫婦別姓が可能だが、多くの女性は伝統的に夫の姓を使用している。
ところがヒラリーは、アーカンソー時代に「ヒラリー・ローダム・クリントン」を名乗り始めて以来、一貫してこの「旧姓込み」の名前を使用している。ホワイトハウス時代にもファーストレディーとしては異例の「The First Lady Hillary Rodham Clinton」と呼ばれることが多く、ここでもヒラリーは他のファーストレディーとは一線を画していた。このヒラリーの旧姓へのこだわりは、保守派には「典型的なリベラル」とか「
70年代の
ウーマンリブを思わせる」などと評判が悪かったが、一般には「いかにも自己を埋没させようとはしないヒラリーらしい」と肯定的に受け止められていた。
2000年の上院選に出馬を表明した頃には、これを機会にまた元の「Hillary Rodham」に戻すのではないか、という憶測も流れたが、ヒラリーはためらうことなく「Hillary Rodham Clinton」を維持した。ただし選挙戦では、
ポスターから
テレビ広告に至るまで、ありとあらゆる媒体に
「Hillary」の一語のみを使用した。「Clinton」はビルを連想させて余りある、というイメージ戦略が公の理由だが、これもヒラリーの「自己へのこだわり」なのだと一般には解釈された。
このようにファーストネームで選挙戦を戦うというのは極めて異例である。今日では
マスメディアの多くが彼女のことを一般に「Hillary」と呼ぶようになっている。上院議員としての呼称や敬称をつけた名称こそ「Senator Clinton」だが、彼女が「Hillary Clinton」と呼ばれることが比較的稀であることに変わりはなかった。ところが2007年1月に大統領戦に正式に立候補すると、ヒラリー陣営では今度は意識的に「Rodham」を抜いた「Hillary Clinton」を前面に打ち出すようになった。メディアではこれを一様に「保守層への気兼ね」などと分析しているが、これが「ローダム色」の払拭を狙ったものなのか、あるいは「クリントン色」の上塗りを意図したものなのか、その辺の事情については依然として推測の域を出ていない。
受賞歴 [編集]
1997年:第39回
グラミー賞最優秀ポエトリー・アルバム (Best Spoken Word Album) 受賞。
参考文献 [編集]
シカゴ経済の展望についてスピーチ(2006年4月11日)
[1]
Families USA の集会で演説(2006年)
アーカンソー州のマイク・ビーブ州知事夫妻と(2007年8月20日)
著書 [編集]
関連文献 [編集]
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