ケインズ経済学の根幹を成しているのは
有効需要の原理である。
この原理は
古典派経済学の
セイの法則と相対するもので、「
供給量が需要量(
投資および
消費)によって制約される」
というものである。これは、有効需要によって決まる現実の
GDPが古典派が唯一可能とした
完全雇用における
均衡GDPを下回って
均衡する
不完全雇用を伴う均衡の可能性を認めたものである
[注釈 1]。
このような原理から有効需要の政策的なコントロールによって、
完全雇用GDPを達成し『豊富の中の貧困』
という逆説を克服することを目的とした、
総需要管理政策(
ケインズ政策)が生まれた。これは「ケインズ革命」
といわれている。
ケインズ経済学では
貨幣的な要因が重視されている。このことは、
セイの法則の下で実物的な交換を想定とした古典派とは、
対照的である
[注釈 2]。
不完全雇用の原因について、ケインズの『
一般理論』では「
人々が月を欲するために失業が発生する」と言われている。これは
歴史的な時間の流れにおける
不確実性の本質的な介在によって、
価値保蔵手段としての
貨幣に対する過大な需要
[注釈 3]が発生し、
これが不完全雇用をもたらすとするケインズの洞察を示すものとし
て知られている
[注釈 4]。
公共投資との関連 [編集]
ケインズの生きた時代のイギリスでは、
経済の成熟化で国内での投資機会が希少になり、
また自由な資本移動の下で資本の国外流出を阻止するための高金利
政策が国内投資を圧迫するというジレンマに悩んでいた。
そこで政府が主導して資本の流出を防ぎ投資機会を創出することで
国民経済の充実をはかることをケインズは考えていた。
もともとケインズは、
景気対策として中央銀行の介入による利子率のコントロール(
金融政策)に期待していたが、のちの『一般理論』においては企業の
期待利潤率の変動や
流動性選好などの制約で金融政策が奏効しない可
能性を認め、
雇用量を制約する生産量の引き上げの方策として公共投資(
財政政策)の有効性を強く主張するようになった
[1]。
またケインズの提案は、
失業手当の代替策としての性格を持っていた(
当時の失業率は10%を越える状況にあった)。
また過剰生産力の問題を伴わない投資として
住宅投資などが想定さ
れていたが、現実においては
軍事支出によってしか完全雇用を達成
するに足るほどの投資が政治的に許容されないことをケインズ本人
は憂えていた
[2]。
---Wiki
親友にして同志の
フリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的
世界観及び
革命思想として「
科学的社会主義」(学問的社会主義)
を打ちたて、資本主義の高度な発展により
共産主義社会が到来する
必然性を説いた。特に、『
共産党宣言』の結語
「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」“Proletarier aller Länder, vereinigt Euch!”は、彼の思想を端的に表す言葉として有名である。
ヨーロッパ諸国遍歴と共産主義宣言 [編集]
1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・
ヴェストファーレンと婚約。11月にパリへ出発、
マルクスは友人とともに、パリで『独仏年誌』を出版した。なお、
この時期マルクスは、
ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を
始めることとなる。しかしながら、『独仏年誌』
は2号で廃刊となり、
さらにプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけによ
り、1845年1月にはパリから
ベルギーの
ブリュッセルへ追放を
余儀なくされた。
1846年、マルクス28歳のとき、
在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「
共産主義国際通信委員会」を設立、
さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」
の結成に参画することになり、
『共産党宣言』を起草した。
しかしながら、「共産主義者同盟」
内の齟齬に起因する内部争いにより、
マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには
1848年2月の
フランス二月革命のため
3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パ
リにもどる。翌年にはエンゲルスの招きに応じ、
1849年8月末
、
ロンドンに亡命した。
亡命先ロンドンでの滞在生活 [編集]
マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、
ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、
資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。
1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」
紙の特派員になり、
1862年まで500回以上寄稿した。
ロンドンで結成された
第一インターナショナルの存在を知るや、
遅ればせながら参加し、
バクーニンと激しく論争した。
ロンドン亡命以降、
マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、
大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、
決まって
G-8席に着座しては経済研究と膨大な量の資料収集を行
っていた。
マルクスの長年にわたる経済研究とこれらの研究成果の集大成たる
資本論は、まさにここから生まれたといっても過言ではない。
1867年4月12日、
『資本論』第一巻を刊行。
資本の生産過程に関する研究成果の集大成であり、
マルクス自身による最初にして最後の出版作となった
[2]。
1871年3月26日、マルクス53歳のときに
パリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、
パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命
政権が誕生した。このときマルクスは『フランスの内乱』
と題する執筆を行っており、
後にも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。
他方で「なぜ
ヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」
とパリ・コミューンを痛烈に批判している。
晩年 [編集]
1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『
資本論』
の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書きつづけた。
1881年12月2日妻イエニー死亡。
1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、
肘掛け椅子に座したまま逝去(享年65歳)。マルクスは、
亡命地ロンドンにいながら、
自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、
フランスの共産主義運動の精神的支柱であり続けたが、
道半ばにして逝去した。彼の葬儀は、
家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人で執り行なわ
れた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」
として遺されている。
彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くハイゲト・
セメタリにあり、
1956年には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像
形が加えられた。そして現在に至るまで、
彼の生前の面影を偲ぶことができる。
マルクスは、
彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、
彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、
遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが
1889年に『
資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、
第三巻の編集・出版が行われた。
マルクスの歴史観 [編集]
唯物史観 [編集]
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構(社会的存在)を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を規定するとしている。したがって、人間の意識と社会的存在との関係は、人間の意識がその時代における社会的存在(物質的生活の生産様式)を規定するのではなく、逆にその時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった、同時代の意識そのものを規定するという関係が成立することになる。 人間の社会的存在を土台にして、その時代における意識を規定するという関係から、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。このようなマルクスの歴史観を唯物史観という。
人間社会の発展と疎外 [編集]
マルクスは歴史分析の中で、
人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、
逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち
疎外が発生することを
指摘した。疎外の形態はさまざまであり、
商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる
労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、
人間の主体性を否定し、まるで歯車の一部のようにみなされる
機械技術による疎外[3]など、
時代の発展とともに人間生活の中でさまざまな疎外が発生し、
それらの疎外が上部構造と下部構造との間にさまざまな矛盾と閉塞
感を生じさせ、上部構造全体の変革、すなわち
革命の契機になると
結論づける。
革命 [編集]
このようなマルクスの歴史観に基づき、成熟した資本主義の社会では、下部構造にさまざまな矛盾や疎外が内包されており、これらの矛盾や疎外を契機として上部構造の変革をドラスティックに推し進める社会革命が必然的にやってくることを予言した。
マルクスの資本主義観 [編集]
マルクスは
『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな
矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは、社会の
生産性を
高めるための必要な段階と捉えており、
資本主義の成熟を契機として、やがて
共産主義へと移行すると考え
ていた。マルクスの理論からは、
共産主義革命が資本主義の成熟段階を迎えていない当時のロシアで
は、社会資本の充実や経済機構の整備がまだまだ未成熟であり、
疎外といった社会矛盾が顕在化する段階にはなく革命が勃発するこ
とはあり得ないと考えられたためである。したがって、
マルクスが共産主義革命を展開するうえで前提とされていたのは、
当時の
英独仏などに代表される西欧の成熟した
資本主義国家であっ
た。
そのため、
資本主義の成熟段階を経ていないロシアにおいて1917年に
ロシア革命が勃発し、世界初となる共産主義国家
ソビエト連邦が成立し
たことに関して、当時から知識人の間では異論が多かった。実際、
当事者である
ボルシェビキも、
ロシアが資本主義の成熟を見ていないという点に関して自覚的であ
ったために(
実際には先進国での革命が相次ぐと期待していたために)、
メンシェビキら政敵や
ドイツ社会民主党に批判され、
新政策立案の条件においても悩みの種であった。現在では、
マルクスの主張した資本主義の成熟の果てに共産主義の実現が可能
になるという前提条件は、逆に一連の
社会主義国家が自国の運営と
システム運用に失敗した主要因の一つとして挙げられることが多い
。
---Wiki
アメリカ経済学会の会長を務めたこともあったガルブレイスである
が、その主張は主流派(古典派的)
経済学者からは偶像破壊主義者的に見做されることも多い。
その理由としてはガルブレイスが
経済学の数学的なモデリングを忌
避し、平易な記述の政治経済学を指向していることが挙げられる。
またさらに進んで、
彼の論理が確固とした実証研究に基づいていないと批判する経済学
者も少なくない。彼は進歩主義的価値を重視する古典的な意味での
ケインジアンであり、文筆の才にも恵まれている。彼の著作には、
経済学上のトピックを扱った数多くの通俗的な著書(
うち数冊は1950年代、60年代のベストセラーとなった)
が含まれ、
その中で彼は経済学上の理論が必ずしも実生活とうまく調和しない
ことを説いている。
2004年に出版され、高い評価を得た彼の伝記"John Kenneth Galbraith: His Life, His Politics, His Economics"は、彼の経歴と思想に関する新たな関心を呼び起こした。
著作 [編集]
ガルブレイスの著作は多くの経済学者にとって批判的議論の対象となっているといわれる。特に古典的自由主義の立場をとる者、あるいはオーストリア学派の流れを汲む者はガルブレイスの主張に反対し、その研究の正確性に疑問を提起している。
1952年に刊行された『アメリカの資本主義(邦題)』
においてガルブレイスは、将来のアメリカ経済が三頭政治的、
すなわち大企業、
大規模労働組合および政府による支配を受けるであろうことを、
大恐慌以前には大企業のみが経済に対する支配力を持っていたことと
対比して論じている。
1958年に著された彼の最も有名なベストセラー『
ゆたかな社会(邦題)』では、
アメリカ経済が成功に向かうためには大規模な
公共事業、例えば
高速道路、
教育といった分野への投資が必要になるであろうとの彼の
考えを述べている。また生産者側の
宣伝によって消費者の本来意識
されない欲望がかき立てられるとする
依存効果(
dependence effect)を説き、また彼は、
それまで疑われることのなかった前提、
すなわち物質生産の持続的増大が経済的・
社会的健全性の証である、
とする考えに対して疑問を投げかけている。
この立場から彼はしばしば、最初の
脱物質主義者の一人と考えられ
ている。この著作は(
ガルブレイスのケネディ大統領への影響力からみて)ケネディ、
ジョンソン両政権で実施された公共投資政策、いわゆる「
貧困との戦い」に大きく貢献したと考えられている。
尚、同著書は大きな論争の的となり、
リバータリアニズムの立場か
らは、
アイン・ランドがこの著を評して「
ガルブレイスが主張しているのは、中世の
封建主義に過ぎない」
と述べ、
マレー・ロスバードが「(『ゆたかな社会』は)錯誤、
ドグマ的前提、昔ながらのレトリック技法に満ち溢れ、
そこには筋道立った議論は存在しない」と批評した。
1967年の『新しい産業国家』で彼は、アメリカにおいて
完全競争の仮定に当てはまるような産業は実際には殆ど存在しないことを
述べている。ガルブレイス自身は『ゆたかな社会』・『
新しい産業国家』・『経済学と公共目的』を三部作と呼んでおり、
ガルブレイス自身は『ゆたかな社会』および『新しい産業国家』
を自己の最良の著作と考えている。
1977年の"The Age of Uncertainty"
は英国では13回のBBCテレビドキュメンタリーになった。
また邦訳の『不確実性の時代』は
日本で1978年のベストセラー
になった。
『不確実性の時代』に対するマネタリストの反発は強く、特にミルトン・フリードマンの反論は激しかった。フリードマンはテレビ番組『選択の自由』を作成し、その著作もベストセラーとなった。フリードマンの『選択の自由』で示された政策は新保守主義の経済政策の支柱であり、英国のサッチャー政権や米国のレーガン政権において実施され、日本でも中曽根政権から小泉政権での「聖域なき構造改革」にいたる政策で実施された。『選択の自由』は影響力の点では一時的には『不確実性の時代』を凌ぐものとなったが、サブプライムローン問題に端を発する2008年の世界同時株安によってその評価は急落した。2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは、ネオケインジアンの立場から、「変動為替相場では、投機家の思惑が自己成就的な相場の変動を作り出し、変動為替相場が本質的に不安定である」ことを示し論争に終止符を打った。1990年の『バブルの物語――暴落の前に天才がいる(邦題)』においては、ガルブレイスは数世紀にわたる金融バブルの状況を追い、その全てに共通する原理はレバレッジであるとした上、「来たるべき偉大な」と称される類の過大な期待は、多くの場合、非合理的要因による錯覚に過ぎず、とりわけバブルの絶頂においては懐疑に対する排斥が激しくなるとの警鐘を鳴らしている。自身の体験としてもブラック・マンデーの崩壊を予測して批判を受けた経緯が語られている。ただしケインジアンであるクルーグマンが指摘したように、従来、経済学者の多くは景気後退に際して金融緩和を行うと利子率が低下することで民間投資や消費が増加すると考えられていたが、利子率を下げ続けて一定水準以下になると流動性の罠が発生し、マネーサプライをいくら増やしても、民間投資や消費に火がつかないため、通常の金融政策は効力を喪失する。この問題についてはフリードマンや同じくシカゴ学派である竹中平蔵もサプライサイド経済学の観点から説明することは出来ず、日本の「失われた10年」を招いたが、ガルブレイスもまた見逃している。
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