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11/08/2010

こら、カネ貸し!!!


ナチスへ、お前らと同様のやり口だ!!!


ドクター・シュール!!!





12/12/2009


日本の異常さ = 恐怖政治




新型インフルエンザがパンデミック、つまり、レベル6に上がったのは、日本の状況を見て、判断した。


あれだけ騒いで、マスクの売り切れが続出・・・


今は、マスメディアはほとんど放送していない。


おそらく、マスクを売る、ワクチンを入手するために騒いだ => 石井部隊の残党がコントロールした。

元来、新型インフルエンザは感染力は強いが、毒性は低い。通常の季節性インフルエンザでも、毎年、5000人死んでいる。


あの騒ぎの異常さをだれも気にしていない。


つまり、石井部隊の細菌兵器が逆感染している。


そして、戦後、60年間も恐怖政治体制が敷かれているのである。ナチスが行った恐怖政治。その結果、日本は近々滅びる・・・

恐怖政治の手法はひとつではない。日本が恐怖政治体制だということに、民が気付かないことこそ、恐怖政治が行われている証拠である。

あるトキに、一挙に明るみに出て、日本は死滅するだろう・・・

民が気付いたトキには、すでに手遅れである・・・


(出典)

http://ameblo.jp/seisin-iryo0710/entry-10348433271.html



2009-09-22 22:57:16

恐怖政治と精神医学

テーマ:ブログ
精神科・心療内科・メンタルクリニック・メンタルヘス・うつ病・パニック障害・躁うつ病・発達障害・統合失調症・不登校・ADHD


※この記事は精神医療の問題に取り組んでいる mixiのサイクバスターさんの日記を転載させて頂いています


恐怖政治と精神医学

2008年11月01日22:24

人を支配したい人にとって、精神医学的思考は非常に都合が良いのです。

おとなしくなること、医者の言うことに従順になること・・・これが精神医学の治癒基準といってもおかしくないからです。

保護室から出るために、多くの人が医者や病院スタッフの言いなりになること(時にはその振りをして…)で、閉鎖病棟へ、そして退院へとつなげた人の話はゴロゴロとあります。

さて精神医学的思考を最も活用した代表者と言えばヒトラーでしょう。

事実、ヒトラーの周囲特に「親衛隊SS」というところには多数の精神科医がいました。ユダヤ人の大虐殺を画策したのも「精神科医」たちです。

ヴェルナー・ハイデ
ナチスの安楽死計画の首謀者。好ましくない人物を抹殺するナチスの精神医学による秘密計画「T4」の医療監督者。

ヘルマン・プファン・ミューラー
精神病院の院長。彼はその病院で子供達を餓死によって殺害をした。1943年、彼は計画を拡張させより年齢の高い人々を対象に2つの「餓死の家(フンガーハウザー)」を建設した。

ハンス・ハインツ
「T4」計画の精神科医で、最初の「児童専門(殺人)局」の本部であったブランデンブルク・ゴルデン州立精神病院の院長。ハインツは毒入りの食物、モルヒネ、シアン化合物や化学兵器用の劇毒物の注射という方法で、青少年を殺害した。


同時期のスターリン支配下のソ連においても、共産主義の教化というお題目のもと、反体制派の一掃(シベリアへの収容)を目的に、数々の精神医学的措置がとられました。
モスクワのセルブスキー研究所というところは、精神医学による懲罰的な政治統制の拠点でした。この研究所は、ロシア法と憲法の網を潜り抜けて強制労働と精神医学の収容所ネットワークを設立するためにKGBや内務省と共謀しました。
精神科医たちは、国家公安機関が政治犯に自白させ「証言」を得るために自白剤などと呼ばれる「薬物」を用いるという冷酷な手法を会は治しました。ソ連時代に強制労働収容所に収容され、「強制的な治癒」を施された市民は4000万人以上に上ります。
これらの市民の多くが、「不活発性統合失調症」という診断を下されています。共産主義に傾倒しない人の特有の病気だそうです。。。

中国でも似たような事案があります。
アンカンと呼ばれる精神医療施設があります。かつて法輪功のメンバーが数百人規模で収容されました。収容された人々にも「病名」がついていました。「社会改善妄想症」「政治的狂信症」だそうです。そして、この病気に用いられた治療は、「口から舌が飛び出すくらいの静脈注射」「足の裏に電流が押し当てられる激痛の針治療」だったそうです。

自由の国アメリカでもCIAと結託した精神科医が「シベリアUSA」という施策を講じました。これはアラスカの原野に広大な精神病院を建設し、政治的不満分子、スパイの容疑がかかった者から一般の市民に至るまで、本人及び家族の承諾なしに強制収容することが出来るとした法案でした。下院はすんなりと通過しましたが、この危険性に気がついた一部の市民達の怒りに触れ、上院で廃案となりました。


政治による支配を「恐怖」という道具を用いて行おうとすると、必ずそこには「精神医学」の影があります。

(出典)









ヒトラーの秘密警察 -ゲシュタポ・恐怖と狂気の物語- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ルパート・バトラー著の「ヒトラーの秘密警察」を読破しました。

まずは「訳者あとがき」から抜粋すると、
「秘密警察ゲシュタポがタイトルとなっているように、警察国家の恐怖政治を性格を
掘り起こすことが主題ではあるが、ナチ党の政権掌握からニュルンベルク裁判まで
おもだった出来事を時系列に追っているので、ナチス通史として読むことが出来る」
ということに集約された本書です。
著者は「
SS‐HITLERJUGEND―第12SS師団の歴史1943-45」等も書いていますが
どうも、たまたまなのか、タイトルが内容に負けているというか、緩い感じがします。
ヒトラーの秘密警察.JPG
ゲーリングが創設し、SSのヒムラーに引き継がれた「秘密国家警察ゲシュタポ」ですが
ナチ党の情報機関である「SD(親衛隊保安情報部)」も存在しており
やがてはその他の刑事警察などと統合されて
「RSHA(国家保安本部)」の一部署となっていきます。
特にSDとの線引きが曖昧なこともあって、その任務の範疇が区別しづらく、
こうなると、ゲシュタポというよりRSHAの物語と化していきます。
Heinrich Müller.jpg

本来、このタイトルならばゲシュタポ長官のハインリッヒ・ミュラーが主役であっても
良いと思いますが、期待するほど登場してきません。
ミュラーが謎の多い人物であり、戦後も行方知れずであることが要因かもしれませんが
だったら、もうちょっと独自の調査や追及をしてみては・・と言いたくなりますね。
Nebe, Huber, Himmler, Heydrich, Müller.JPG

SDおよびRSHA長官のラインハルト・
ハイドリヒ
その後任のカルテンブルンナーの出番のほうがずっと多く
結局は特別行動隊(アインザッツグルッペン)からハイドリヒ暗殺の物語、
そして有名な「白バラ」やアイヒマン、ヒトラー暗殺未遂事件まで幅広い内容となっています。
Ernst Kaltenbrunner.jpg

それなりに知られていることを様々な著書から抜粋し、だらだら書いている雰囲気で
新たな発見があるわけでもなく、特別に印象に残るような章があるわけでもありません。
この世界のベテランの方には非常に物足りなく感じるでしょう。
逆に言えば、確かに「ナチス通史」の入門編といえるかも知れません。

ヒトラーの秘密警察―ゲシュタポ・恐怖と狂気の物語
  • 作者: ルパート バトラー
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 単行本


タグ:ゲシュタポ ニュルンベルク裁判 ゲーリング ヒムラー sd RSHA 国家保安本部 ハインリッヒ・ミュラー アインザッツグルッペン 白バラ アイヒマン ヒトラー暗殺 カルテンブルンナー


日本の場合は?


笹川が死神に魂を売った・・・ それが始まりだった・・・







12/12/2009


日本のファウストとは?

笹川良一と石井細菌部隊一派である。

A級戦犯無罪放免と引き換えに、死神に魂を売って、売国した。ファウストの出現である。

民は石井の細菌に汚染されて、垂れ流される笹川の言葉の異常性に気付かない。

みなさん、僕はあなたとは兄弟ではありません。これは、事実です。

電波塔は、繰り返し宣伝し続けた。笹川の妄言を・・・


そして、笹川の餓鬼は医師会会長の座についた。石井部隊がそのバックアップをした。


ファシストの合い言葉 - 世界は一家、人類みな兄弟

悪魔のはらわた=「私は世界で一番金持ちのファシストである」





その結果が、財政赤字1000兆円となって具現化した。

警察などは、死神の金を守る番犬にすぎない。セコムなども同じ・・・

よって、真の悪魔のはらわた裁かなければ、日本は近々に滅ぶだろう・・・


世田谷では、「知らない人と話すな」と宣伝し続けた。羊は細菌に冒されているので、この放送を信じて、知らない人とは話さない・・・


そして、裏で陰口、告げ口を行っている。石井部隊の望むがままに・・・




---Wiki


消防学校は、陸軍中野学校跡地じゃないようだが・・・


中野学校の不正分子が侵入しているのだろう、細菌兵器の汚染源の可能性は十分にある・・・

---Wiki

陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学(実施学校)。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。通称号東部第33部隊


沿革 [編集]

創設の動きは1937年(昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊福本亀治各中佐を中心として1938年(昭和13年)に開校された「後方勤務要員養成所が前身である。1940年(昭和15年)には陸軍中野学校と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた。
創立当初は東京九段愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に当時の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町疎開富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なパイ技術養成機関であったが、大東亜戦争太平洋戦争の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍特殊戦スクールに相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかったため、日本軍にとっては有意義であったが、遅きに失した観はある。
1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として陸軍中野学校二俣分校が設立された1974年(昭和49年)、ルバング島から帰国した小野田寛郎少尉や、インドシナ戦争中にベトミンクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男が同校の卒業生であった[1])。
学生陸軍士官学校陸軍予備士官学校陸軍教導学校出身者から選抜された。その大半は一般大学卒などの学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。
1945年1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学出身者が最も多く、次いで拓殖大学東京外国語大学、そして早稲田大学慶應義塾大学明治大学などが続いた。一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。職業軍人の場合、軍人としての規律や高度な軍事教育は受けているものの、その知識は偏っていることから判断を誤るおそれがあり、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや新聞社通信員などの民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなるから避けられたのである。

校風 [編集]

学生は軍服を着用せず、普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。そのため代々の軍人の家庭の出身者は、親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用し長靴を履き将校軍衣を着る陸軍将校に憧れ軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在した。
講義は2年間の教程であったが、八紘一宇大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。また、天皇に対する見方も自由であり学生や教官の間で天皇制の是非が討論される事もしばしばだったという。

教育 [編集]

午前中は諜報、謀略、防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。 ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても、すばやく的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し、偽の情報を流して敵を混乱させることである。 いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。 中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。 講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した石元二郎大佐が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。 教官は、中野学校の一期生や、参謀本部、陸軍省の中堅将校などであった。
このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県富岡町に移設されることとなり、これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた。

卒業生の動向 [編集]

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動した。 参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍育成や諜報活動に任じたが、大東亜戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても義烈空挺隊に数名が要員として参加している。
1941年12月8日にはじまるマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が、英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになる。
ビルマの戦いでは、1940年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。
蘭印作戦では、陸軍挺進連隊パレンバン落下傘降下したパレンバン空挺作戦やジャワ攻略戦において、オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を混乱させた特殊ラジオ謀略放送にも中野学校出身者が深く関与していた。
至誠を重んじ、本気でアジア国家の独立を願った中野学校出身者は、戦況の悪化からアジア諸国の独立を迅速に達成できない軍首脳と衝突することも多かった。
二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である(一説に2,131名とされる)。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事田中徹雄大尉など)、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争[1](谷本喜久男少尉など)を始めとする戦後の東南アジア独立戦争に携わった卒業者も多くいた。

施設用地の変遷 [編集]

  • 中野学校の用地は戦後、警察大学校警視庁警察学校などの警察設地へと転用されたが、これらの施設は2001年(平成13年)府中市へ転出し、2008年(平成20年)4月1日に東京警察病院千代田区から移転した。跡地には福本亀治揮毫の「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。
  • 富岡校として使用された富岡中学校は現在、群馬県立富岡高等学校となっており、校内に「陸軍中野学校終焉之地」の碑などが建てられている。
  • 二俣分校跡地は現在、浜松市保健所天竜支所となっており、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建てられている。

歴代校長 [編集]

映画「陸軍中野学校」シリーズ [編集]

映画「陸軍中野学校」シリーズは、1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけて5本が大映で製作された。主演は市川雷蔵日本映画では珍しい戦争下のスパイ映画で、時代スター・市川雷蔵の数少ない現代劇での代表作として知られている。畠山清のノンフィクションを元に製作されている。
  • 陸軍中野学校』 監督:増村保造(1966年)
  • 『陸軍中野学校 雲一号指令』 監督:森一生(1966年)
  • 『陸軍中野学校 竜三号指令』 監督:田中徳三(1967年)
  • 『陸軍中野学校 密命』 監督:井上昭(1967年)
  • 『陸軍中野学校 開戦前夜』 監督:井上昭(1968年)

脚注 [編集]

  1. a b ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月

関連項目 [編集]

参考文献 [編集]

  • 斎藤充功 『陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後』角川書店、2005年 同文庫、2008年
  • 斎藤充功 『陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像』 平凡社新書335 、2006年
  • 畠山清行、保阪正康編 『陸軍中野学校終戦秘史』 新潮文庫、2004年
  • 畠山清行、保阪正康編 『秘録陸軍中野学校』 新潮文庫 2003年
  • 加藤正夫 『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』光人社、2001年 同文庫、2006年 
  • 加藤正夫 『陸軍中野学校の全貌』展転社、1998年。

石井部隊とも関係がありそう・・・
---Wiki

731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。
満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3][4]や実戦テストまで行っていたとする説もある。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

沿革 [編集]

軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素であり、日本陸軍は陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設されると同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年秋からハルビン東南70kmの背陰河での研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[5]
1936年8月、軍令陸甲第7号により、関東軍防疫部が正式発足した。関東軍防疫部は石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことから通称「加茂部隊」と呼ばれていた。関東軍軍馬防疫廠(通称号:満州第100部隊)も同時に編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[5]
1940年7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。ほかにも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は1940年7月編成時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[5]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[6]
1945年8月のソ連対日参戦が起きると、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判戦争犯罪人として訴追された[7]

軍組織における位置 [編集]

沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。
従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。

部隊の活動 [編集]

当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。戦後、ロシア国内で行われたハバロフスク裁判では、ペストコレラ性病などの生物兵器糜爛性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定されている。なお、近年になり米国公文書が機密解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[8]

防疫活動 [編集]

表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。
1939年に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章陸軍技術有功賞が贈られた。
1940年11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点、シェルダン・ハリスen)など、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったとする論者もある[9][10]。しかし、常石敬一は、これらの自作自演説には確かな証拠が全くなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている[11]。また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している[12]。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも北里柴三郎が出席している[13]

生物兵器開発 [編集]

731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約には批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。
日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などへ研究旅行を行い、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。
731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。

人体実験 [編集]

生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする見解がある。森村誠一悪魔の飽食』などの本で、731部隊は捕らえた多くの朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人スパイ捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、生体実験に供したと言われている(ただし、『悪魔の飽食』は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している)。終戦後にソ連中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[14]とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[15]。終戦時には、生存していた40-50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたという[7]
こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員などの関係者の証言である[2][3]。その代表的な人物が陸軍病院の軍医であった湯浅謙である。湯浅は敗戦後に中国に抑留され、捕虜として2年、戦犯として撫順戦犯管理所で3年半過ごすことになったが、その後、彼は731部隊の軍医の教育の中で「中国人を生きたまま手術して殺す」という生体解剖を実施していたと主張している[16]。2007年に、湯浅と同じく元731部隊員で中帰連の篠塚良雄en:Yoshio Shinozuka)は、当時自身が「防免給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことをアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[17]。ただし、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定するに至った中国帰還者連絡会関係者などの証言については、その信憑性を疑問視する見方もある[18]
他方、部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は余り確認されていない。近年になり米国の公文書が機密解除されたため調査が行われたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[8]
確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いの特例措置に関するものがあり、これが731部隊での人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」では、スパイ容疑者や思想犯匪賊アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソビエト連邦諜報員(「ソ」諜)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[19]。また、現存する731部隊の医学的成果を常石敬一が分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷[20]治療の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[21]。このほか、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中にも非人道的な活動を明示する内容は無いものの、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている[22]

生物兵器の実験的使用 [編集]

生物兵器について、単なる研究だけではなくて、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある。日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリックen)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする[23]。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がある[24]。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない[23]。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる。
また、ノモンハン事件においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、とうてい科学的には加害効果が期待できないことから、研究者の常石敬一や秦郁彦デモンストレーションにすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[25]
このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある[26]

米軍 (GHQ)との取引 [編集]

特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
アメリカは731部隊の調査のため、細菌研究の専門家マレー・サンダース軍医中佐を日本に送り込む。通訳兼情報提供者として旧陸軍省から派遣されてきた内藤良一(731部隊で石井の右腕)と大政翼賛会の元代議士亀井寛一郎はサンダースに会うが、当初は731部隊と無関係な人物ばかりを紹介した。このためサンダースは激怒し、内藤に「このままでは私は本国に帰り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合、どんな事態が起こるかわからない。しかし、皆がもし真実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」と言った。内藤は全てを隠しとおすことを断念し、天皇から731部隊まで連なる陸軍の命令系統を記したメモを提出した。このためサンダースは連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーに内藤らの戦犯免責を提言。サンダースは内藤を呼び、「マッカーサーの取り計らいにより細菌研究者の戦争犯罪人としての追求は行わない」と伝えた。「この(戦犯免責の)効果は絶大で一気に研究資料が出てきた」と1997年のテレビ朝日ザ・スクープの取材に対しサンダースは答えている。
内藤は人体実験をやった事実に関しては否定し続けた。サンダースの代わりにアーヴォ・トンプソン中佐が来日、隊長の石井との面会を執拗に日本に要求。この事態に731部隊の関係者は人体実験の秘密がばれるのではと震え上がった。隊員だった増田は青酸カリを持って、都内に潜伏していた石井に「隊長死んでくれ」「家族も殺してくれ」と要求した。石井は自殺を拒否し、トンプソンに尋問されることになったが人体実験の事実を否定し続けた。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。
同年1月24日GHQの尋問で内藤が人体実験の事実を認めた。同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。
結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

日本国への賠償請求 [編集]

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[27]。この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

その後 [編集]

1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[28]

関東軍防疫給水部 [編集]

組織 [編集]

  • 関東軍防疫給水部(通称号:満州第691部隊)
    • 関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)
    • 牡丹江支部(通称号:満州第643部隊)
    • 林口支部(通称号:満州第162部隊)
    • 孫呉支部(通称号:満州第673部隊)
    • 海拉爾支部(通称号:満州第543部隊)
    • 大連支部(通称号:満州第319部隊)

関東軍防疫給水部長 [編集]

  • 1940年8月23日まで関東軍防疫部長
  • 階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[29]

関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊) [編集]

第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[29]

支部 [編集]

  • 牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
    • 総務課
    • 経理課
    • 第一課
    • 第二課
    • 第三課
    • 資材課
    • 教育課
  • 林口支部(満州第162部隊)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所文部省百日咳研究会)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 大連支部(満州第319部隊)
    • 総務部
    • 研究部
    • 製造部





鬼のやり口のお陰で、癌になって、放射線で焼かれた・・・


これが、ブラックレインの逆流だ・・・

鬼の腹の中はまっ黒け!

お前らに鬼愛だ! 癌で死ぬ!!! ブラックレインが逆流する

因果応報だ!!!

避けようがない・・・ 自然の摂理だ!!!

泥棒はこうやって死ぬ!!!




こら、鬼に、餓鬼へ


お前らから、二度と借金はしねえよ

住宅ローンを支払ったから、鬼のやり口は知っている

何で、自ら寿命を縮めないといけないの?

あんたらのやり口は知っている・・・

死ね! 人でなしが~~~







もう二度と、ないだろう・・・ 歌舞伎町は過去・・・

光陰矢のごとし・・・ あっという間に、赤字社長


今は、これだけ・・・ これより上向きはあり得ない、どこまで、生き延びて、、、最後は鳥に食われて・・・

わが人生、悔いなし・・・




11/07/2010


後始末

大和魂向けのご説明です

葬儀について

僕は鳥葬でも、ゴミ焼却場でゴミとともに焼かれても、いっこうに構わない

あの世と、この世は違うから・・・

ゴミの山で焼かれて、この世は生き地獄、すなわち、あの世は極楽です、笑い


鳥葬の例は?




縁談について

本妻なしの妾のみ


妾の例は?




以上


Aoyagi YoSuKe

Creator

BirdMan Inc.

Art HarbOur






11/07/2010


世田谷医師会へ

東京都世田谷区は天気が悪い

2004年に開業して以来、ずっと、赤字

それで、全財産が消えた・・・

生命保険

不動産

預貯金


すべて消えて、赤字になった・・・


ついに、借金生活です・・・


よって、世田谷区とはご縁がなくなりました。


お世話になりました、今年の定期健康診断も、未受診のまま・・・


都落ちです・・・


医療費は削減、歯医者の3ヶ月後検診も中止しました


食 > 衣・娯楽 > 住


よって、これしかありません


医食同源

毒と薬は紙一重

病は気から

病は患者が治すモノである


よって、できる限りの医療費削減をします


食 > 衣・娯楽 > 住 > 医


医療を受ける余裕はない


逆に、国民健康保険は赤字が減って、助かるでしょう・・・


でわ

さようなら・・・


世田谷区医師会殿


AO






2/07/2010


韓流?

日本で、韓流が流行った理由は?

韓国の文化と日本の文化は似ている。兄弟のようなもの・・・

古に帰る => 昔に戻っただけ・・・

初めて韓国に行って、日本より、20年は遅れていると感じた・・

日本が逆行して、今や、韓国文化の方がダイナミックになってしまった・・・

つまり、追い抜かれてしまった・・・



11/14/2009


新宿・横町(NHK) - モモ

歌舞伎町のプロレス会館

韓国の小さな星の光である。


昔、ションベン横丁、今、思い出横丁

ホタルの光である。



火曜日, 5月 08, 2007


Shinjuku Kabukicho Osanpo


Lunch at Thai Restaurant - BAN THAI
Kabukicho Ichibangai

歌舞伎町一番街のタイ料理屋バンタイで腹ごしらえ。
ランチ、お手ごろ値段! 久しぶりのちゃんとしたタイ料理、うまかった。

Korean Dance team, SA.CHOOM
「SA.CHOOM/ラブダンス」韓国のダンスチーム。
댄스컬(ダンス曲、ダンスミュージカル?)
사랑하면 줌을줘라(サラハンミョン チュムルチョラ、恋愛 踊れ?)

Korean macho dancer
韓国人ダンサーのマッチョマン
What?

何?

Beautiful colors!

綺麗な色!

Korean Charming Girls!

韓国人のおねえさんダンサー!

Bravo!!!
At FACE, Shinjuku Kabukicho

拍手喝采!!!
新宿・歌舞伎町 FACEにて

Famous theater- KOMA at Kabukicho

歌舞伎町といえば、ここを抜きには語れない? コマ劇場。

Old Bar Street - Omoide Yokocho
Very funny walks around Shinjuku Station!
Time flies!!!

昔、ションベン横丁、今、思い出横丁
懐かしい場所のお散歩、楽しかった! 光陰矢のごとし!!!

Photographer AO 写真 あお
Writer AO 文 あお

From Shimokitazawa Harbour on May 7,2007

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The Definition Of Art Harbour Blog



The Definition Of Art Harbour


Virtual International Trade Harbours Of Art


Opening Anniversary Date: December 1, 2006

Language: Multi Language


Each harbour can export the works toward the virtual world.

People and organization can import the works from all over the world.


Now,Item: Works on Art Activities that are expressed with Photos and Explanations etc.

Export Method: Each Harbour put the Works onto this blog

Import Method: People and Organizations accsess this blog

Order Method: People and Organizations put some comments about the Works onto this blog.


In the future, we will need transportation including trains,airplanes,ships, cars, buses etc.

in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー

Multi Language

現時点では?


ブログは日本語ベース


Google Translatorで、各国語へ、変換




そして、現場で、リアルなコミュニケーションは?


英語ベースで、現地語がお愛想・・・


こんな感じかな?


Aoyagi YoSuKe

Art HarbOur


The Gaiaと各ハブは?


英語がベースで、Google Translatorで、各国語へ・・・

Copyright and Responsibility of AH Shimokitazawa blog



Copyright:


Each manager or each member of Each AH Local must independently handle Copyright.


Each may insist on Copyright or discard Copyright independently.


Copyright depends on each manager or each member.


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Each manager or each member of Each AH Local

must independently have the resposibility on the posted works.

Art Harbour Shimokitazawa


コピーライト:

各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々でコピーライトの取り扱いをしなければならない。

コピーライトを主張するか破棄するかは各々に任される。


責任:


各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々が投稿した作品に関して責任を持たなければならない。


アート・ハーバー 下北沢


Posting Rule - 掲載ルール




Introducing People, Works, Shops etc. related to Art Harbour as a spot ad.


As a general rule, the details such as map, price should be in the Official Sites related to the ad.

Each ad may contain the Official Sites' URL related to the ad.


Restriction: The Number of Photos is within 6(basically 3). about 640x480 pixel


Ad Size: Within about 2 standard printing papers.


Example: Spot ad. , Flyer, Live Report, Poem, Short Story, Illustraltion, Photo, Paintings etc.


Art Harbour Shimokitazawa



アート・ハーバーに関連した人、作品、店などをスポット広告として紹介する。


原則として、地図や価格などの詳細は広告に関連したオフィシャル・サイトに掲載する。


各広告には関連オフィシャル・サイトのURLを掲載しても良い。


制限:写真など6枚以内(基本は3枚) 1枚に付き640×480ピクセル程度


サイズ:標準プリント用紙(A4)約2枚以内


例:スポット広告、フライヤー、ライブの報告、詩、イラスト、絵など



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