ロシア メドベージェフ
中国 胡錦濤
北朝鮮 金正日
韓国 李明博
日本 ?!? (アメリカ、ヒラリー?)
台湾 馬英九
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李 明博(イ・ミョンバク、1941年12月19日 - )は、韓国の政治家で、現第17代大統領。日本、大阪府出身。日本での通名は月山明博(つきやま・あきひろ, 쓰키야마 아키히로)( - 1945年)[1]だった。元ソウル市長。本貫は慶州李氏。号は「一松」(イルソン、일송)。
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馬英九(ば えいきゅう、Ma Ying-jeou、1950年7月13日 - )は中華民国(台湾)の政治家。法学博士(ハーバード大学)。第12代中華民国総統(現職)。
●宗教問題 イスラム・ヒンドゥ・仏教
インド(ヒンドゥ) シン首相
パキスタン・アフガニスタン(イスラム、アルカイダ、タリバン) ザルダーリ、カルザイ
スリランカ(仏教) ラジャパクセ
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マンモーハン・シン(Manmohan Singh मनमोहन सिंह、1932年9月26日 - )は、インドの政治家、第13代首相、国民会議派幹部、経済学者。 現パキスタン領の西パンジャーブ地方出身。
スィク教徒の貧しい家に生まれたが、奨学金を得てイギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学に留学。 インドに戻って大学で経済学を教えた後、財務次官、インド準備銀行(中央銀行)総裁などを歴任。 1991年6月から5年間、国民会議派のナラスィンハ・ラーオ政権で財務相を務めた。そこで多岐にわたる経済改革を推進した功績などにより、1997年に第2回日経アジア賞を受賞。
その後、上院議員を務め、国民会議派が総選挙で勝利した2004年5月、インド独立以来ヒンドゥー教徒以外では初めてとなる首相に就任した。
2006年12月中旬に来日し、衆議院にて演説をし、「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。」と語った[1]。この演説では、8世紀に来日したインドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)の時代から現代に至るまでの、インドと日本両国の関係に触れている。とくにパートナーシップという単語を何度となく繰り返し、今回の訪日がパートナーシップ構想を具体化するためであると言明している[1]。
2008年10月にも来日している。
●パレスチナ問題(湾岸問題) イスラム・ユダヤ
イスラエル(ユダヤ、リクード?) ネタニヤフ
パレスチナ(イスラム、ハマス?、ヒズボラ?) アッバス
シーア派とスンニー派について(2007年6月)
イスラム以前は、アニミズムをベースにした多神教だった。メッカにあるカーバ神殿がアニミズムの象徴。預言者ムハンマドがアッラー崇拝の一神教に変えた。
アラビア語の「イスラーム」は「神への帰依」を意味し、「ムスリム」は「帰依する者」を意味する。
一般的な挨拶の言葉「サラーム」は「平和」を意味する。ユダヤ人の挨拶の「シャローム」も「平和」を意味する。
「コーラン」はアラビア語で「朗唱されるもの」という意味。仏教の「お経」と似ている?「コーラン」はムハンマドを通じて「アッラー」がムスリムの共同体(ウンマ)へ遣わした啓典である。ムハンマドの膨大な言行が「ハーディス(伝承)」として伝えられ、コーランに次ぐ指針としての役割を果たす。ムスリムの実生活上の宗教や日常に関する規定をコーランやハーディスを元に修正したものが「シャーリア(イスラム法)」である。
「コーラン」=お経
「ハーディス」=啓典
「シャリーア(イスラム法)」=実生活の手引き
ウマイア朝の第三代カリフとなった「ウスマーン」が自己の出身家系を偏重する政策を取った。ムハンマドの従兄弟のアリーが第四代カリフについた。このふたつの流れが「ウンマ」の分裂を招き現在も対立している。
スンニー派(欧米より、穏健、政教分離) ウマイア家の流れ
シーア派(イスラム原理主義、タリバン、アルカイダ、ハマスなど) アリーの流れ
日本と比べると面白い。「靖国参拝」を行なう政治家はようするに、タリバン、アルカイダ、ハマスなどと似ている。「神道原理主義」?
安倍首相は「スンニー派」と「シーア派」の中間点に位置するように見える!
日本の神道原理主義者は、中途半端・・・
靖国の軍神をお参りする割には、家系を重視する。
イスラム原理主義者と正反対・・・
そう言う意味からも、イスラム原理主義者は、甘えを許さない・・・ 教義に厳格に従うのでは?
あ~~~、怖い・・・ ビンラディン・・・
こうやって見ると、イラン革命は、イスラム法に厳格に従うイスラム共和国を作った。
統治に関して
ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとみなして完全否定している[2]。そしてイスラーム法に厳正にのっとった統治[3]を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用[4]、支配者による収奪の徹底的排除[5]、被抑圧者の解放と救済[6]などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」は、君主や貴族の汚職・浪費・収奪などが批判されたパフラヴィー朝に代わる「イスラーム的ユートピア」という側面を有している。
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だが、他者に対して、あまりにも、排他的すぎる。それが、紛争の原因になっているという気がする。
もう少し、柔軟にならなければ、イスラム原理主義は、孤立化するのではないか?
そして、現状を考えると、つまり、資源の枯渇、環境負荷の限界などの問題が顕在化したので、協力関係、互恵関係、パートナーシップなどの協調路線を取っていかないと、先が苦しいのでは?
どうでしょうか? ビンラディンさん?
イスラム原理主義者・ビンラディン

共産主義革命者・チェ

ラスタマン・ボブ

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ネタニヤフ

ベンヤミン・ネタニヤフ(בנימין נתניהו, Benjamin Netanyahu, またはBinyamin, 愛称Bibi,ネタニヤウ、若しくはナタニヤウの方がより原音に近い、1949年10月21日 - )は、第9代イスラエル首相。在任1996年6月18日から1999年7月6日。彼はイスラエル建国後に生まれた最初の首相。2005年12月に右派政党リクードの党首に再登板。尊敬する政治家は、同党の創設者・メナヘム・ベギン元首相と英国のマーガレット・サッチャー元首相である。また、急進的な新自由主義者でもある。
家族および個人の背景
ベンヤミン・ネタニヤフはベン=シオン・ネタニヤフとジラ・ネタニヤフ夫妻の息子として生まれた。父親のベン=シオンはロシア姓をミリコフスキー(Milikowsky)というリトアニア出のユダヤ人で、ユダヤ史の教授およびヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であった。彼の兄ヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死したイスラエルの英雄。弟のイド・ネタニヤフは放射線技師および作家。兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、Sayeret Matkal に所属した。ネタニヤフの最終的な階級は大尉。
ネタニヤフはアメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した。彼はマサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を持ち、ハーバード大学とMITで政治学を学んだ。ネタニヤフは三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。現在は三番目の妻サラと共に暮らし、二人の子供がいる。
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アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیتالله روحالله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī、1902年9月24日 - 1989年6月3日)は、イランのシーア派(十二イマーム派)の精神的リーダーであり、1979年にイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーを追ったイラン革命の指導者である。イランの現在の政体、イスラム共和制は彼によって打ち立てられた。日本ではホメイニ師(氏ではない)と表記されることが多い。
ホメイニーは、1902年頃にイラン中部のホメインの町でシーア派第七代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイドの家系に生まれ、当初の名をルーホッラー・ムーサーヴィーと言った。のちに「ホメイン出身の者」を意味するホメイニーを名乗る。
ホメイニーが幼い頃に亡くなった父はイスラム法学者で、彼もイランのシーア派の聖地コムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの位階を得た。一方、1941年以来、皇帝の西欧化政策に対する不満を表明する。
1963年、皇帝が宣言した「白色革命」に対する抵抗運動を指導し、逮捕される。このときは釈放されるものの、政府批判を続け、翌1964年ついに国外追放処分を受けた。イラクのシーア派の聖地ナジャフに入ったホメイニーは、ここで「法学者の統治論」を唱え、シーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとする理論を構築した。
1978年にイラクを離れ、フランスに亡命するが、一貫して国外から皇帝への抵抗を呼びかけつづけた。
1979年1月16日に反体制運動の高まりに耐えかねた皇帝が亡命したのを受けて、ホメイニーは2月1日にフランスから15年ぶりの帰国を果たしてイスラム革命評議会を組織した。
2月11日、評議会は皇帝政府から権力を奪取し、唯一の公式政府となると、イスラム共和国への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。
4月1日、ホメイニーはイラン・イスラム共和国の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となった。この一連の流れはイラン革命と呼ばれる。
イランアメリカ大使館人質事件、イラン・イラク戦争などの対外危機や、大統領アボルハサン・バニーサドルと、議会与党イスラム共和党の対立など困難が続く中で、ホメイニーは革命イランの最高指導者として政治・司法・文化をイスラーム原理主義に染め上げる政策に強い影響力を発揮した。
ホメイニーは革命の期間中かつてのシーア派イマーム達の殉教を「被抑圧者」(モスタズアフィーン)の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主義の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によって彼は元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け革命を達成した。しかし革命達成後は一転して世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵」「カーフィル」として弾圧した[1]。
1989年6月3日、遷化。86歳没。
最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であった。
最高指導者の座はアリー・ハーメネイーが継承した。葬儀の日には、事故により彼の遺体が棺から飛び出し、多くの参列者が殺到し、騒動になった。
主張
統治に関して
ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとみなして完全否定している[2]。そしてイスラーム法に厳正にのっとった統治[3]を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用[4]、支配者による収奪の徹底的排除[5]、被抑圧者の解放と救済[6]などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」は、君主や貴族の汚職・浪費・収奪などが批判されたパフラヴィー朝に代わる「イスラーム的ユートピア」という側面を有している。
他宗教・他民族に対する姿勢
政治的イスラームを掲げた政治指導者・理論家として当然のことではあるが、ホメイニーは著作に於いてたびたび「イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない」と主張している。著書において、現代においてもジズヤ徴収(すなわちズィンミー制)は有効であると主張している箇所がある[7]。
とりわけバハーイー教徒に対してはズィンミー程度の人権すら与えず、完全に排斥するべきだと説いたこともある。パフラヴィー朝下の1962年10月6日に、政府が地方選挙において選挙権・被選挙権をムスリムのみに限った条項[8]を撤廃し、バハーイー教徒などにも市民権への道を開こうとした時には、同僚の法学者とともに激しい抗議運動を行い、同法を撤回へと追いやった[9]。
また、人種主義でも知られており、著書でアメリカ先住民を「半開の赤色人」[10]、古代の西ヨーロッパのゲルマン人、ケルト人を「野蛮」[10]と述べている。
またとりわけユダヤ人に対しては(イスラエルのパレスチナ占領およびパレスチナ人への抑圧という事情があるとはいえ)激しい敵意を燃やしており、イスラームの初期におけるユダヤ人との確執を「反イスラームの宣伝と陰謀」[11]と呼称し、現在のパレスチナ問題に至るまでこの対立が尾を引いたものと認識しており、また別の箇所では、ユダヤ人を呪っている[12]などしている。
またキリスト教徒や無神論者(物質主義者)にも憎悪を抱いており、これらイスラーム以外の信仰の信者はすべてイスラームのよき教えから人々をそらし、堕落させるものだと認識していた。そのためこれらの信仰がイランにおいて存在し、宣教活動を行っていることに対する嫌悪感を著書で表明している[13]。
また、「イスラーム」(無論、ホメイニーの定義する形のイスラーム)に有害な民族・集団は「人類の利益」(無論、ホメイニーの定義する「イスラーム」的観点から考えた人類の利益)に反するため虐殺しても問題ないとしており、これを人類とイスラームにとって「公正」なものであると見なしている[14]。例としてクライザ族虐殺事件を挙げている。
刑罰に関して
ホメイニーはハッド刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた[15]。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外セックスを行ったものにたいする100回の鞭打ち(未婚者)[16]や石打ちによる死刑(既婚者)[17]、窃盗犯に対する人体切断[18]などをあげている。
イラン・イスラーム共和国に対する影響
結果として、ホメイニーが著書で主張していたほとんどの事項が、彼の指導するイラン革命後のイスラーム共和制において実現された。
イラン刑法はシャリーアの規定にそい、婚外セックスや同性愛に対する鞭打ちや投石による死刑などを定めている。また、イスラーム以外の宗教のうち、ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教は、当初のホメイニーの主張どおりズィンミーになることは免れ、憲法でもその尊重がうたわれたものの、政治的権利や信仰の自由などでムスリムに対して劣位に置かれることとなった。また、バハーイー教徒や無神論者は完全にその存在を否定された。
孫たち
ホメイニーには全部で12人の孫がいるが、そのうちの4人が政治活動を行っている。最年長のホセインは祖父の掲げた「法学者による統治」の廃止と世俗国家化を主張し、「ウラマーが政治介入する現体制は全体主義も同然」とも主張したため現在は、イラン当局により自宅軟禁下に置かれている。
アリーは改革派陣営から2008年の議会選挙に立候補したが、保守派のウラマーで構成される監督者評議会の審査により立候補資格を剥奪された。同じく改革派から立候補した孫娘のザフラーも立候補資格を取り消されている。
このため、ホメイニーの孫で現在も政治に関わっているのはハサン唯一人である。そのハサンも2009年1月31日に行われたイスラーム革命30周年記念式典での演説で革命がイスラーム主義者だけではなく、左翼や民族主義者など全ての勢力が参加して実現できたとし、間接的にではあるが、現在の体制に不満を表明したとされる[19]。
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