もしかして、かの地とは?
エメラルド・グリーンに輝く未来のトーキョー・ジャングルなのかも?
腹話術師と言えば、いっこく堂
彼の才能は高い・・・
そうだろうな、いっこくも歌っている
虹の向こうに(1999年8月11日)
やはり、オズの魔法使いは、すげえよな? いっこくさん?
スケールが違う、夢の腹話術師・・・
あんたの真のライバルなのでは? オズの魔法使い・・・
注目点)
中学時代は壮絶ないじめにあっていた。
いじめをバネに変えて、「腹話術」で復讐したのではないかと考えているが?
どうなの? いっこくさん?
そして、夢の腹話術師は?
「オズの魔法使い」
アメリカのカンザス?から、竜巻で吹き飛ばされたドロシーが、家に帰るために、オズの魔法使いに会いに行く。
ブリキのかかし、わらのライオン?、、、エメラルドの町、そして、オズの大魔法使いは?
な、な、なんと、チンケなおじさん腹話術師だった。
熱気球に乗って、無事にお家へ帰った。。。
ファンタジーの原点のような作品。
アメリカ・カンザス州に暮らす少女ドロシー(Dorothy)は竜巻に家ごと巻き込まれて、飼い犬のトト(Toto)と共に不思議な「オズの国」(Land of Oz)へと飛ばされてしまう。途中で脳の無いカカシ・心の無いブリキの木こり・臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えてもらうため「エメラルドの都」(Emerald City)にいるという大魔法使いの「オズ」(Wizard of Oz)に会いに行く。
テーマ曲は、オーバー・ザ・レインボー
そうか、素敵な曲だ~~~
出た~~~、昭和
常田富士男、市原悦子
「まんが、日本昔ばなし」
いちばん、印象が深いのが、ひとり暮らしのばあさんが、柿を見て
「柿食いてえ~~~、柿食いてえ~~~」
と独り言を言っているシーン
よほど、食いたかったのだろう・・・
---Wikipedia
『まんが日本昔ばなし』(まんがにっぽんむかしばなし)とは愛企画センター、グループ・タック制作、MBS毎日放送制作枠にてTBS系列で放送された日本のアニメ作品及びテレビアニメである。
1975年に開始。作詞家の川内康範が監修に携わり、川内の娘で童話作家である川内彩友美が企画。毎回日本各地に伝わる昔話が映像化され、市原悦子と常田富士男の両名が一人で何役もの声を使い分ける独特の語りによって紹介する。スタッフに一流のベテランアニメーターやイラストレーターを多数起用するなど、映像にこだわりのある作品だった。番組内で使われた音楽にも川内の甥である北原じゅんの純邦楽からロック、フォーク、ラテン、クラシックなどを織り込んだ多彩かつ無国籍な音楽が使用され、作品の質の高さに一役買った。
毎日放送(MBS)制作で最初はNET(現・テレビ朝日)系列で放映されたが開始から3ヶ月でいったん放映は終了し、9ヶ月のブランクを挟んでTBS系へ移動して再開された。これは、当初の放映分がもともと番組改編の都合で空いてしまった枠の穴埋めとして本来は海外在住の日本人向けとして制作されていたものを放映したためである。その後、反響の高さから改めてレギュラー番組化されるに至った。この間にMBSと朝日放送(ABC)がネットチェンジしていたために全国レベルではNET系からTBS系へ移籍する形になった。再開後の時間帯は30分前の『料理天国』、後に続く『クイズダービー』、『8時だョ!全員集合』、『Gメン'75』などとともに1970年代、1980年代のTBS系の土曜夜を高視聴率で支えた。
民放連、オンデマンド・アーカイブス(NHKの海老沢さんに負けるな~~~)
切磋琢磨の二重構造
NHK <-> 民放連
民放連の内部抗争、笑い(各局のコンテンツの売上高)
頑張ってね~~~
オズの魔法使い
1974年10月5日から1975年3月29日(午後7時30分~8時)にかけて日本テレビ系で放映していたテレビドラマ。全26話。シェリー主演。11月より番組中数分間、赤と緑の色眼鏡を使う立体映像を取り入れていた。なお、エンディング曲は『虹の彼方に』を採用。主演のシェリーが歌っていたが、オリジナルとは違い、アップテンポで現代風な歌詞と編曲(山本直純による)になっていた。キャストは佐藤博(ライオン)、高見映(かかし)、常田富士男(ブリキマン)、山崎唯(トト(ドロシーのペットの犬)の声)。監修は寺山修司。HONDA一社提供。
田中角栄のだみ声、久しぶりに聞いた、「日本列島改造論」、今となっては、時代錯誤だが・・・
田中角栄の若い姿に似ている男を発見した。
一度だけ、ラッキーパンチ?で、日本チャンピョン、故郷の静岡に錦を飾るはずの初めての防衛戦で、あえなく敗退・・・
彼は、今でも、俺は神だ~~~、とかアホなことを抜かしている。
アホ天ボクサー、今は、造園業? 庭師の仕事をしているそうな・・・
花見で久しぶりに会った。おい、こら、ここの公園の造園を任されたらどうする?
お前、絵を描いていたが、こっちは、リアルな空間がキャンバス・・・
この空間、どのように見える?
文句がつけられましぇ~~~ん
もしも、これくらいのサイズの造園を任されたら?
20年は、かかりますよ~~~
そら、そうだろうな、まだ、素人だからな、でも、体も小さいし、体力もあるし、これから先も仕事はあるぞ。
トーキョーは緑化する。ビルの屋上緑化、壁面緑化、、、なおかつ、植生はメンテが必要・・・
やってみろ~~~
アホ天ボクサー、つまり、アホと天才は、紙一重、笑い
こいつも、田中、田中正人、元アホ天ボクサー
アホ天ボクサー、つまり、アホと天才は、紙一重、笑い
こいつも、田中、田中正人、元アホ天ボクサー
奇跡のパンチがさく裂したとき・・・
相手は世界を狙う沖縄出身のキウナというやつ。
アホ天ボクサーは、酒も飲むし、タバコも吸っていた。
「かませイヌですよ」
7連敗中・・・ 奇跡の七転八倒ボクサー、ここにあり。だるまさんボクサー
僕のアドバイスは?
「お前のフットワークは直線的、四角いリングと思うな、丸い土俵だと思って、回れ」
これだけのアドバイス。
奇跡のラッキーパンチにつながるアドバイスだったのだろうか?
酒を飲みながらのアドバイスでした・・・
いいことを思いついた。
故郷の静岡に、アホ天神の「ほこら」でも作って、観光名所にしたら?
静岡名物、アホ天神のほこら・・・
おそらく、赤字経営で、倒産する? 笑い
No.67
Over The Rainbow
Lyrics by E.Y. Harburg
Somewhere over the rainbow way up high
There's a land that I've heard of once in a lullaby
Somewhere over the rainbow skies are blue
And the dreams that you dare to
Dream really do come true
Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemon drops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
Somewhere over the rainbow blue birds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?
2009/04/29
オーバー・ザ・レインボー
詩 E.Y.ハーバーグ
訳 青柳洋介
大空高く、虹を超えて、かの地へ
昔、子守歌で聞いた土地
青空にかかる、虹を超えて、かの地へ
すべての夢、それは、君が
叶えようとしているもの
ある日、僕は星に願う
空を見上げると、雲がずっと広がっている
そこでは、レモンの粒のように、困難が溶け去る
煙突のはるか上で
君は僕を見つけるだろう
青い鳥が飛ぶ空を超えて、かの地へ
虹を超えて、鳥が飛ぶ
きっと、僕にはできるはずだ・・・
---Wikipedia
いっこく堂( - どう)は腹話術師である玉城一石(たまき いっこく、1963年5月27日 - )を座長とする人形劇団。
「玉城一石がいっこく堂という芸名で活動し腹話術をしている」と言われることが多いが、玉城本人も「誤解されるが、私と人形でいっこく堂という劇団を組んでいる」と言っている。
メンバー
玉城一石
沖縄県沖縄市出身。沖縄県立北谷高等学校卒業。血液型はA型。
人形
使用する人形の種類は様々で、人形によって声を変えている。下記の他に、玉城自らを人形にしたのもある。
ジョージ(吉助氏)
中年男性を模した人形。吉祥寺出身の恥ずかしがり屋という設定。
サトル(サトル・シアトル・トンデール)
鳥の人形。二種類の顔がある。
スカーレット
ダン (ダン・ヤマト)
欧米人風の顔をした人形。人形の中ではもっとも実際の人間に近い顔だが登場回数は多くない。
オペーラ (オペーラ・にんげん・ジャ・ねえ)
クマを模した人形。
アインストーン
アルベルト・アインシュタインのパロディー。ビーカーでビールを飲む癖がある。
カルロス (カルロス・セニョール・田五作)
薄毛の中年男性風。ボリビア出身。
さるのすけ
サトリ
鶏がモチーフ
師匠
玉城より100歳年上(1863年5月27日生まれで145歳)の老人。姓が師、名が匠という設定。
ブーちゃん
豚がモチーフ
カンちゃん
近年主にテレビに出るときは師匠、サトル、ジョージと共演することが多い。
来歴
中学時代は壮絶ないじめにあっていた。
高校在学中に行っていたものまねが芸の原点。教師のものまね、草刈正雄、ルパン三世、スワヒリ語講座などを体育館の舞台でよく演じていた。
高校卒業後、「池中玄太80キロ」の影響を受け俳優を志し、日本映画学校に入学。同校卒業後、1986年に劇団民藝に俳優として入団。劇団の宴会の場で腹話術を披露したところ、民藝の中心俳優・米倉斉加年から腹話術師への道を勧められ、海外留学し修行を積んだ。
1998年、『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のライブ企画「第11回OWARAIゴールドラッシュII」優勝をきっかけにブレイク。
2000年1月19日、日本初の腹話術ビデオ『いっこく堂劇場』を発売。1日で初回出荷5000本が完売した[1]。
エピソード
片手あるいは両手に人形を持って腹話術をする。たまにコップなどを使って腹話術をする事もある。歯が1本欠けているので声が歯の隙間から出る為、唇を全く開けずに声を出す事が可能。破裂音も難なく発することが出来る数少ない腹話術師(本人曰く、破裂音を発する際に必要な下唇の代わりに舌を使っているという)。人形の声を入れ替えたり、唇が動いた後に声を出す事も可能。英語も堪能で、アメリカでも口演した。
「腹話術=高音」というイメージを破る自在な声と地声での腹話術の喋りは、毎日鏡に向かい練習した賜物。時には口を切り血まみれになることもあった。
「腹話術でパ行を出すことは不可能」とされてきたが、いっこく堂は難なくパ行を出すことができ、これまでの常識を根底から覆した。
舞台公演等で通常ならマイクを用いて声を拡声させるが、マイクを一切使わない舞台公演を行った事もある。
マネージャーの小久保隆也は、プロ野球・福岡ソフトバンクホークスの小久保裕紀の実弟である。
伊集院光は玉城のことを尊敬する人の一人として挙げている。その伊集院とは2008年2月1日に放送されたプレミアム10で共演した。
課外授業 ようこそ先輩の中で、母校の後輩たちと腹話術を披露している。また、2006年には芝富士にある小学校で腹話術を披露している。
大和魂出演時
テレビ東京で2007年9月21日に放送された企画番組『大和魂』のなかで日本の有名人が海外で自らの得意技を披露することになった。この時玉城は中国の番組『超級明星』に出演し、発音が難しい中国語で腹話術を披露している。尚。この時彼の年齢が47歳と紹介されたが、正しくは44歳であった。
この時の対戦相手は次のよう人たちであった。
シ・シェンゲン (石生根) - 山奥から30時間掛けて会場まで来た口笛名人。玉城と一緒に食事をするほどの自信家だったが、予選で敗退。
ジュ・ジェン - ピアノ王子と称された。
ジョウ・ファン - 創作手品師。
チェン・シェンピン - 対戦相手では唯一の女性。回転しながら様々なことをこなした。
ラン・グアンピン - 前回の王者。バケツを載せたテーブルを口でくわえながら缶の上に置いた板に乗るなどの演技を見せた。
玉城は予選で審査員全員を魅了することに成功し、予選を突破。さらにランの防衛戦にも勝ったため、この日の放送では見事優勝を果たした。 尚この番組の中で玉城は人間の証明のテーマと世界に一つだけの花を歌っており、腹話術で歌えることも証明した。
賞詞
「平成11年度文化庁芸術祭」新人賞受賞
「第16回浅草芸能大賞」新人賞受賞
「第37回ゴールデン・アロー賞」芸能新人賞受賞
テレビ出演 [編集]
トゥナイト2(ゲスト出演。テレビ朝日)
笑点(今日の演芸。日本テレビ)
うたばん(スペシャルの「とくばん」にてゲスト出演。石橋貴明に絶賛された)
森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ) - テレフォンショッキングゲスト
にんげん日本史(NHK教育)
さんまのまんま(フジテレビ・関西テレビ系)
とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ) - 新・食わず嫌い王決定戦ゲスト
バニラ気分!(フジテレビ)
ニュースステーション(ゲスト出演。テレビ朝日。久米宏から『本物の芸人さん』と評価してもらったことが、心に残っているという)
おしゃれカンケイ(ゲスト出演。日本テレビ。昔、下積みの頃、番組関係の大道具の仕事をしていたことがあった)
ライオンのごきげんよう(フジテレビ)
いまどき!ごはん(テレビ朝日)
徹子の部屋(テレビ朝日)
いつみても波瀾万丈(日本テレビ)
速報!歌の大辞テン(日本テレビ)
エンターテイナー 華麗なる技の秘密Ⅱ(BS2)2007年5月26日
超・人(BS-i)2007年11月4日[1]
誰も知らない泣ける歌 西田敏行熱唱!全員号泣SP(日本テレビ)2008年11月25日
CD
虹の向こうに(1999年8月11日)
傷だらけの私鉄沿線(2002年8月21日)
いっこく堂版 老人と子どものポルカ(2005年7月30日)
生きてるだけで それだけで(2007年5月26日)
脚注 [編集]
^ いっこく堂ビデオ即日完売、スポーツ報知、2000年1月29日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
---Wikipedia
『オズの魔法使い』(オズのまほうつかい、The Wonderful Wizard of Oz )はライマン・フランク・ボームが著した児童文学作品。 この後、ボームが14冊、ボームの死後に他の作者等がオズ・シリーズ(Oz books)を出版している。
概要
「マザー・グースの物語」のヒットで童話作家として成功していたライマン・フランク・ボームが、自らが子どもたちに語ってきかせた物語を元に書き、1900年5月に出版した。W・W・デンスローが挿絵を担当した。凝った構成によるカラー図版の児童書は当時としては革新的であり、本はたちまち子どもたちの心をとらえ、増刷の追いつかない空前の人気作品となった。初版の1万部は数週間で売り切り、翌年1月までにほぼ10万部が売れた。
アメリカ・カンザス州に暮らす少女ドロシー(Dorothy)は竜巻に家ごと巻き込まれて、飼い犬のトト(Toto)と共に不思議な「オズの国」(Land of Oz)へと飛ばされてしまう。途中で脳の無いカカシ・心の無いブリキの木こり・臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えてもらうため「エメラルドの都」(Emerald City)にいるという大魔法使いの「オズ」(Wizard of Oz)に会いに行く。
「オズ」(Oz)の名の由来は、原作者ボームが近くのファイリング・キャビネットにO-Zと記されているのを見て名づけたなど、色々な説がある[1]。
オズ・シリーズ
ライマン・フランク・ボームの作品 [編集]
1. 「オズの魔法使い」 (The Wonderful Wizard of Oz)1900年
2. 「オズの虹の国」 (The Marvelous Land of Oz) 1904年
3. 「オズのオズマ姫」 (Ozma of Oz) 1907年
4. 「オズと不思議な地下の国」 (Dorothy and the Wizard in Oz) 1908年
5. 「オズへつづく道」 (The Road to Oz)1909年
6. 「オズのエメラルドの都」 (The Emerald City of Oz)1910年
7. 「オズのつぎはぎ娘」 (The Patchwork Girl of Oz)1913年
8. 「オズのチクタク」 (Tik-Tok of Oz) 1914年
9. 「オズのかかし」 (The Scarecrow of Oz)1915年
10. 「オズのリンキティンク」 (Rinkitink in Oz)1916年
11. 「オズの消えたプリンセス」 (The Lost Princess of Oz) 1917年
12. 「オズのブリキの木樵り」 (The Tin Woodman of Oz)1918年
13. 「オズの魔法くらべ」 (The Magic of Oz)1919年
14. 「オズのグリンダ」 (Glinda of Oz)1920年
ルース・プラムリー・トンプソン(Ruth Plumly Thompson)による続編 [編集]
15. The Royal Book of Oz 1921年
16. Kabumpo in Oz 1922年
17. The Cowardly Lion of Oz 1923年
18. Grampa in Oz 1924年
19. The Lost King of Oz 1925年
20. The Hungry Tiger of Oz 1926年
21. The Gnome King of Oz 1927年
22. The Giant Horse of Oz 1928年
23. Jack Pumpkinhead of Oz 1929年
24. The Yellow Knight of Oz 1930年
25. Pirates in Oz 1931年
26. The Purple Prince of Oz 1932年
27. Ojo in Oz 1933年
28. Speedy in Oz 1934年
29. The Wishing Horse of Oz 1935年
30. Captain Salt in Oz 1936年
31. Handy Mandy in Oz 1937年
32. The Silver Princess in Oz 1938年
33. Ozoplaning with the Wizard of Oz 1939年
他の作家による続編
ジョン・R・ニール(John R. Neill)作
34. The Wonder City of Oz 1940年
35. The Scalawagons of Oz 1941年
36. Lucky Bucky in Oz 1942年
ジャック・スノウ(Jack Snow)作
37. The Magical Mimics in Oz 1946年
38. The Shaggy Man of Oz 1949年
レイチェル・R・コスグロース(Rachel R. Cosgrove)作
39. The Hidden Valley of Oz 1951年
エロイーズ・ジャーヴィス・マグロー、ローレン・マグロー・ワーグナー(Eloise Jarvis McGraw and Lauren McGraw Wagner)作
40. Merry-Go-Round in Oz 1963年
映像化作品
映画
The Wonderful Wizard of Oz
原作者のボーム自身が製作に携わった1910年製作のサイレント映画。劇と映画が一体化したフィルムショーとして企画されたが、予想以上に莫大な財産を注ぎ込むことになったボームは翌年破産し、しばらくは「オズ」の続編に専念する事を余儀なくされる。
The Magic Cloak of Oz
The Scarecrow of Oz
1914年、ボームは自前の映画会社オズ・フイルム・カンパニーを設立し、「オズ・シリーズ」を数作映画化した。しかしまだ子供向け映画というジャンルが確立していなかった時代でもあり、1年足らずで頓挫している。
笑国万歳(Wizard of Oz)
1925年のサイレント映画。内容は監督のラリー・シモンの脚色によるところも大きく、シモンらが演じる2人の農夫が、成り行きからかかしとブリキ男に変装し、ドロシーをオズの国の女王に仕立てていくという、原作離れしたものになっている。
The Wizard of Oz
1933年、テッド・エシュボーの作による短編アニメーション(当時のアニメーション作品はほとんどが短編である)。法的な問題がクリアにならず未公開作品となったが、白黒映画がカラーに転じるという1939年版オズの演出を先駆けて行ったことで、映画史に名を残している。オズの国に飛ばされたドロシーが住民の歓迎を受け、かかしとブリキ男と一緒にオズの大魔王の魔法ショウを楽しむという内容。
※ 以上までの5作品は、DVD『オズの魔法使』3枚組エディションの特典映像としてDVD化されている。
オズの魔法使(The Wizard of Oz)
ディズニーの『白雪姫』の大ヒットに触発され、1939年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社が製作したファンタジー・ミュージカル。カンザスの物語をモノクロで描き、オズの国の物語をテクニカラーで描く演出が話題を呼んだ。エドガー・イップ・ハーバーグ(作詞)とハロルド・アーレン(作曲)による挿入歌『虹の彼方に』がスタンダードナンバーとなるなど、現在も色あせない輝きを放っている。ヴィクター・フレミング監督。
主役は本命のシャーリー・テンプルが映画会社間の調整がつかずに見送られ、MGMの若手スターのジュディ・ガーランドが起用された。ガーランドは実年齢より下の少女を、得意の歌唱力を武器に魅力的に演じきった。ブリキ男役だったバディ・イブセンがアルミのメイクの為に体調を崩して降板したのをはじめ、監督の交代が度重なるなど、製作は困難をきわめた。撮影の長引きで製作費は膨れ上がり、最終的に277万ドルに及んだ。
その割に興行成績は芳しくなかったが、これは大人料金の半額で観られる子供が観客層であったためであり、その後の再上映やテレビ放映を通じて、ファミリー映画の定番として大いにもてはやされることになった。
AFI's 100 Years... 100 Moviesに6位10周年記念版に10位、AFI's 100 Years of Musicalsの3位を獲得している。更にOver the RainbowがAFI's 100 Years... 100 Songsの1位を獲得した。
ウィズ(The Wiz)
1974年にブロードウェイで上演され、トニー賞7部門を受賞したミュージカルの1978年の映画化。舞台は現実、オズともニューヨーク市のイメージで構成され、マイケル・ジャクソンやレナ・ホーンをはじめオール黒人キャストで構成されるなど、内容は他の映画とは一線を画する。ドロシーの設定は11歳の女の子から24歳の女性教師となったが、演じたダイアナ・ロスはさらに年長で当時34歳であった。サウンドトラックは評価されたものの、映画は批評、興行の両面で惨敗に終わった。ちなみに、マイケル・ジャクソンは音楽を担当していたクインシー・ジョーンズとこの時に出会い、マイケルのプロデューサーとして「スリラー」などの世界的な大ヒット作を共に製作していくこととなった。
オズ(Return to Oz)
1986年のディズニー製作映画。上記『オズの魔法使』の制作関係者の了解を取っていない非公式な続編(unofficial sequel)。「オズの虹の国」と「オズのオズマ姫」を原作にしている。ゲイリー・カーツ製作総指揮、ウォルター・マーチ監督、フェアルザ・バルク主演。 アニマトロニクスやモーション・コントロール・カメラ、ストップモーション・アニメーションなど当時最新鋭のSFX技術を駆使してオズの国の住人たちをリアルに再現したファンタジー大作。
TVドラマ [編集]
オズの虹の国(The Land of Oz)
1960年にアメリカのテレビで放映された「シャーリー・テンプル・シアター」シリーズの1回目のエピソードとして放映。アメリカで放映された最初期のカラー放送の一つである。日本でも1961年(昭和36年)にNHKで放映された。日本では黒白の画面で放映された。シャーリー・テンプルがオズマ姫と少年チップを演じていた。
オズの魔法使い
1974年10月5日から1975年3月29日(午後7時30分~8時)にかけて日本テレビ系で放映していたテレビドラマ。全26話。シェリー主演。11月より番組中数分間、赤と緑の色眼鏡を使う立体映像を取り入れていた。なお、エンディング曲は『虹の彼方に』を採用。主演のシェリーが歌っていたが、オリジナルとは違い、アップテンポで現代風な歌詞と編曲(山本直純による)になっていた。キャストは佐藤博(ライオン)、高見映(かかし)、常田富士男(ブリキマン)、山崎唯(トト(ドロシーのペットの犬)の声)。監修は寺山修司。HONDA一社提供。
TV人形劇 [編集]
マペットのオズの魔法使い(The Muppets' Wizard of Oz)
TVアニメ [編集]
本作を原作としたテレビアニメ作品が1986年10月6日から1987年9月28日にかけて、テレビ東京系で放映された。全52話。
ゲーム [編集]
RIZ-ZOAWD(リゾード)
メディア・ビジョンエンタテインメント開発、D3パブリッシャー販売のニンテンドーDS用ロールプレイングゲーム。オズの魔法使いを原作としており、物語の大筋は原作同様であるが、オズと敵対する魔女の数が4人になったり、「方角」ではなく「季節」で魔女を分類したりと、一部に独自の解釈が加えられている。
作品の政治的解釈
この作品は児童文学であると同時に、19世紀末のアメリカ経済に関する寓話とも解釈されることがあり、歴史学者、経済学者や文学者等が政治的解釈を述べているが、読者および批評家の多くは物語をそのまま楽しんできている。ボームは1890年代に政治的に活動はしたが、本作品の政治的解釈については、否定も肯定もしていない。
1880年から1886年にかけて、アメリカ経済は23%ものデフレーションを経験したが、これは金本位制を採っていたアメリカ経済の拡大に対して、金貨の供給量が追いつかなかったためである。 当時の西部の農民達のほとんどが、東部の銀行からの借金で開拓を行っていたが、デフレーションの発生は借金の実質的価値を増大させ、西部の農民は苦しみ、東部の銀行が何もせずに潤うという事態が発生した。 当時の人民主義派はこの問題について、不足する貨幣供給量を銀貨の自由鋳造で賄うことで解決するべきだと主張した。
銀と金、金本位体制を巡っての論争は1896年の大統領選挙において最も重要な論点となったが、民主党は銀貨の採用を主張し、共和党はあくまでも金本位制にとどまることを主張した。
経済史家ヒュー・ロッコフ(Hugh Rockoff)の記述[2]では、
ドロシー:アメリカの伝統的価値観
トト:禁酒党(Teetotalers)
かかし:農民
ブリキの木こり:工場労働者
マンチキン:東部市民
臆病なライオン:1896年民主党大統領候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
東の悪い魔女:第24代大統領グローヴァー・クリーヴランド
西の悪い魔女:第25代大統領ウィリアム・マッキンリー
魔法使い:共和党議長マーク・ハナ
オズ:金の単位オンスの略号(OZ)
黄色いレンガ道:金本位体制
ドロシーは最後に、家に帰る道を見つけるが、黄色いレンガ道をたどるだけでは見つからなかった。ドロシーは魔法使いオズが役に立たない代わりに、自分の『銀の靴』[3]に魔力があることを知る。
結局、民主党は大統領選挙に敗れ、金本位制は維持されることになったが、1898年にアラスカのクロンダイク川で金が発見され、また、カナダや南アフリカの金の採掘量も増え、結果的に貨幣供給量は増大し、デフレは解消されてインフレ傾向となり、農民は借金を容易に返せるようになった。
としている。
もっとも、ボームに関する伝記作家や研究者は、そうした政治的解釈には否定的である。この作品の出来た背景についての詳細がボーム自身の日記に残されている上、ボームは時に政治的ではあっても、そうした比喩による現代風刺には無関心だったからである(もっとも高い知名度ゆえに、ドロシーたちは新聞の風刺漫画のネタに度々使われてはいたが)。時に皮肉と解釈されることもあるが、本作の序文でも「ただ今日の子供を喜ばせる為に書いた」と明言している。
先のヒュー・ロッコフの説については、ボームがその政治活動においてシルバリズム(silverism)に反対するメンバーの一員であり、アメリカ経済に関して共和党の考えに賛同していたという反論が、歴史家デビット・B・パーカーになされている。[4]ちなみに黄色いレンガの道に関しては、由来となった建物がボームの別荘があるミシガン州内の公園に実在する。
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