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6/25/2009

狙い目はルバング島?

幽霊製造装置・・・

バーチャル・リアリティ、リアル・バーチャリティ、光速ワープ、どろろんぱっ





サバイバルの狙い目はルバング島なのかな?


ゲリラ戦での主な食料は、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾い食いしていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率よく補給していた。

地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。


『1Q84』 村上春樹

は世界の終り行きにしたが、こちらは、実用書?


たった一人の30年戦争 (単行本) 小野田 寛郎 (著)


まるで、横須賀基地と、横須賀リサーチパークのように見えるが・・・

どうなんでしょうね? 総務大臣?

---
1944年12月、遊撃戦の指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[1]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後もアメリカと戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された[2]。フィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入り口にあり、この付近ではマニラを母港とする米軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。



敗戦の影響、および、炭鉱の閉山で、疲弊していた筑豊・・・

中学時代に、熊本電波監理局に出向いて、アマチュア無線・電話級を取った。

そして、長い竹を立てて、ワイヤーのみで、アンテナを作る。逆V型アンテナ・・・

これは、共振の関係で、いくつかの周波数帯域に対応できる。

そして、初めて海外と交信した相手は?

モザンビーク

モザンビークって、どこだ~~~、アフリカだった・・・ 信じられねえ~~~、まるで、魔法みたいだ・・・

交信記録(ログ)を交換する。手刷りのはがきを送った。モザンビークからも送ってきた。

どこかに残っているのかな? オヤジが亡くなったから、今度、蔵の中を捜索してみるか?

出てきたら、びっくり、玉手箱なんだけどな~~~

無線機は、往年の名機、八重洲無線製でした・・・

ここいら辺りが、小野田さんと似ている?

///
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。


そして、五木さんの『青春の門』を片手に、早稲田大学・電気工学科へ入学した。だが、経緯があって、東京大学へ移った。そして、物理工学を専攻した。プライベートの方も、五木さんから、吉行淳之介や三島由紀夫に移転した。

そして、通信メーカーへ就職(TBSや、電通、博報堂に蹴飛ばされた)。つまり、NTTの下請けの貧乏サラリーマンになった・・・


9.11を境目にして、会社を辞めた。その間に、癌の治療・・・

そんで、仕方なしに、今のような状況になっている。何だろうな? 人生とは? こんなもんだろう、笑い

小野田さんと似ている? どうなっているのだろうか? 摩訶不思議としか言いようがない・・・


失ったふたりの部下とは?

山形県鶴岡出身の元漁師、陸に上がって、解体屋をやっていた。白幡

鳥取県出身のゴルフ会員権販売屋。彼は昨年末、オヤジが亡くなった後、すぐに車にはねられて死んだ・・・ 河村

ふたりとも、餓鬼が育った。良かったな~~~、南無阿弥陀仏


///小野田
地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。


ここいら辺りでは、野生の牛はいないが、焼き肉屋や寿司屋があるが・・・ スーパーもある・・・ 食料の入手には問題なし・・・

///小野田
ゲリラ戦での主な食料は、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾い食いしていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率よく補給していた。



小野田さんは、29年目に帰国した。

僕が入社したのが1981年。今は、2009年、ということは、28年目なのか・・・

面白いな~~~

地元に帰る気は毛頭なし・・・ やはり、フィリピンへ渡るか?



半導体メーカーとは?

日米経済戦争のひとつです・・・


小野田さんの最後の5年は?

1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。
1972年1月 - アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に日本兵が射殺される。
1972年10月22日~25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知しており、密林の中に兄の姿を見ており、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。


ということは、72年に日本兵が射殺された時に、つまり、2008年に、河村は車で引き殺された・・・


アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している

これは、僕が一貫して主張していることと同じ・・・ 小野田さん、似たようなものですよ・・・

他の国で、これだけ長い間、これだけ多くの進駐軍(米軍)がいる国など、どこにもない・・・



そして、マスメディアは、戦後、一貫して、GHQのメディア・コントロール下にある。いまだに、大差なし・・・ GHQの本部は日比谷にあった。そして、国道246沿いに展開している・・・


だが、アメリカは戦いに勝った。オバマ大統領が、リセット、チェンジを宣言した。

その本質は? コミュニケーション・ネットワークを利用した若者のボランティアである・・・

ワンクリック、5ドル献金で、オバマ大統領は膨大な選挙資金を獲得した・・・


民主主義の原点、主権在民、ひとりひとりのボランティアの力が、オバマ大統領を勝利へ導いた。


リンカーン、J.F.K、キング牧師、ブラック・パンサーなどの魂が勝利した・・・


みなさん、

ブロードキャストとコミュニケーションはワンセットです。

卸売政治、小売政治もワンセット・・・

馬鹿な奴らが、狭い了見で、つまり、島国根性で、墓穴を掘っている・・・


それだけの話・・・ 内輪もめ・・・ 骨肉の争い・・・ 内部抗争・・・



東さん、橋下さん、討ち死にしないように、気を付けてね、笑い

このふたつが贈る言葉です・・・


"The time is always right to do what is right"
- Martin Luther King, Jr.

「正しいことをすれば、時代は必ず正しい方向へ進む」
- マーチン・ルーサー・キング・ジュニア


A business that makes nothing but money is a poor kind of business.
-Henry Ford

金しか作らないビジネスは不毛な類のビジネスだ

- ヘンリー・フォード


千葉の方面では?

森田さんと、若手市長が・・・

西の方面は? 関西と九州・・・ でけえな~~~



下の三人組を見ていると・・・

千葉、大阪、宮崎で、トリオを構成する?!?


改革トリオ+1

1は、若手、ブロガー・・・


千葉と宮崎の百姓+食い倒れの大阪・・・

なかなか、面白い・・・


渋谷の迷劇場、道頓堀劇場政治?!?

踊り子さんも、お笑い系も登場する、古き良き迷劇場・・・


道頓堀劇場へ、いらっしゃい、いらっしゃい、、、

僕は、昔、ホモのお友達、芸大生(うるし科)と道頓堀劇場へごいっしょした。

ところが、おホモだちは、30分で、気分が悪くなった・・・

そして、彼のお得意スペース、新宿二丁目へ・・・


丸金多摩霊園へと・・・ ホモキャバレー、若いお兄ちゃんが、はっぴ姿で、ちんちんブラブラ、若いお姉ちゃんから、はげオヤジまで。。。

お客はバラエティー・・・


僕は財布をなくして、翌日、大島(都営新宿線)辺りまで、財布を受け取りに行った・・・


これぞ、渋谷の迷劇場、道頓堀劇場です・・・

大阪の道頓堀川から、カーネルおじさんが出てきた、びっくり、お笑い劇場だった・・・

でわ、頑張ってください・・・


こういう戦略を「起爆剤戦略」と呼ぶ・・・

起爆剤がチェーンリアクションを起こして、巣篭もり列島が動く・・・

大きな山が動くときは、このようなトキでしょ?


戦国武将戦略研究家の方?

違いますか?

動かないと、始まらない・・・


注) Googleは、246沿い、東急セルリアンタワーにある・・・

そして、Googleの三人組は?


エリック・シュミット 公正なアメリカの経営者

セルゲイ・ブリン ロシアのエルミタージュの秘宝を見つけた天才

ラリー・ペイジ 20世紀のアメリカンドリームの教祖・ガルブレイスの逆手を取った天才


ですが・・・


面白いね~~~

センスが・・・

赤青黄、大小の組み合わせシグナル・・・

バランスがいいよね、笑い



エリック


セルゲイ


ラリー


---Wikipedia

小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たす。

略歴

1922年3月19日、和歌山県亀川村(のち海南市)に生まれる。父種次郎、母タマエ、長兄敏郎(軍医中佐)、次兄格郎(元主計曹長)、姉千恵、弟滋郎(元少尉)。旧制海南中学卒業後貿易会社に就職し中国大陸に渡り、中国語を習得。

軍歴

上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業ではなく退校命令を受領する。

1944年12月、遊撃戦の指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[1]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後もアメリカと戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された[2]。フィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入り口にあり、この付近ではマニラを母港とする米軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

日本敗戦後

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津勇一一等兵:1949年9月逃亡1950年6月投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1949年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

ゲリラ戦での主な食料は、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾い食いしていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率よく補給していた。

持久戦法をたてて米軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダー基地への襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀などであり、そのほか放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を改造して使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせるなど、多くの『戦果』を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると信じて、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピック等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事を実感し、それがためにかえって日本が敗戦したなどとは全く信じられなかったという。士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権が在ると考えた。また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。

なお、末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者は直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄の上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。巳ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。実際終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。小野田は終戦を信じられず、戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。マルコス大統領も出席して投降式を行い、武装解除されたのである。

こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。なお、小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。

帰国以前

1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員省では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定な為救出活動は行えず。
1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
1954年5月、1958年、1959年5~12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。
1972年1月 - アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に日本兵が射殺される。
1972年10月22日~25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知しており、密林の中に兄の姿を見ており、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。

帰国後

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判も表れた。
小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓へ行っている。 1974年12月、インドネシアのモロタイ島で中村輝夫(漢名:李光輝)が捜索隊に発見される。台湾に帰国し4年後に病死している。

当時の田中角栄首相とは面談し、「よっ! ご苦労さん」と声を掛けられた。

ブラジル移住

2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変わった日本社会に馴染めなかった。帰国の半年後に次兄の居るブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。バブル景気の頃には日本での活動の拠点として購入した東京のマンションが暴騰し、ブラジルで築いた財産以上の資産価値になってしまい、日本経済の行く末についても危機感を持ったと伝えられる。2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章した。

妻・町枝は現在、日本女性の会会長である。また愛媛県議会議員・森高康行を始めとした政界とも交流をもつ。

保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している[3]。

その他エピソード

戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」 。命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという[4]。
また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている。
脚注 [編集]

^ p57 小野田寛郎の終わらない戦い
^ p56 小野田寛郎の終わらない戦い
^ 抗議書への賛同者一覧(PDF形式)
^ ブルーシー・アンド・グリーンランド財団ホームページ 『注目の人』No.030 連載期間:2008.01.09~2008.01.30

テレビ出演

終戦60年企画「おじいちゃん本当のこと聞かせて」石原さとみと小野田寛郎の戦争と平和を巡る旅(2005年12月28日、TBS)
ハイビジョン特集 生き抜く 小野田寛郎(2005年初放送・2007年8月15日再放送、NHK BSハイビジョン)
メッセージ.jp2008年1月29日初放送2008年2月3日再放送BSフジ
小野田寛郎を演じた俳優 [編集]

中村獅童 - 土曜プレミアム・小野田寛郎 実録・小野田少尉 遅すぎた帰還(2005年、フジテレビ系)

著書

『戦った、生きた、ルバン島30年』 (小野田寛郎[他], 講談社, 1974年)
『遥かに祖国を語る』 (小野田寛郎,酒巻和男, 時事通信社, 1977年)
『わがブラジル人生』 (講談社, 1982年) ISBN 4061459147
『子どもは野性だ』 (学習研究社, 1984年) ISBN 4051014649 (『鈴木健二のお父さん子どもに野性を贈ろう』と同じISBN)
『子どもは風の子、自然の子-『ジャングルおじさん』の自然流子育て』 (講談社, 1987年) ISBN 4062033828
『たった一人の30年戦争』 (東京新聞出版局, 1995年) ISBN 4808305356
『わが回想のルバング島』 (朝日新聞社, 1995年) ISBN 402261109X
『極限で私を支えたもの』 (山田村教育委員会, 1997年)
『小野田寛郎-わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109))』 (日本図書センター, 1999年) ISBN 4820557696
『講演・シンポジウム記録集-平成11年』 (靖國神社崇敬奉賛会, 1999年)
『生きる』 (小野田寛郎[他], 富山県民生涯学習カレッジ, 2001年)
『智慧の実を食べよう。』(糸井重里編著, ぴあ, 2004年) ISBN 4835609034
『君たち、どうする?』 (新潮社, 2004年) ISBN 4104713015
『だから日本人よ、靖国へ行こう』 (小野田寛郎,中條高徳, ワック, 2006年) ISBN 4898310915
『魚は水人は人の中-今だからこそ伝えたい師小野田寛郎のことば』 (原充男著,小野田寛郎述. 清流出版, 2007年) ISBN 9784860291617
『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い (まほろばシリーズ 2)』 (明成社, 2007年) ISBN 9784944219575

参考文献

小野田種次郎 『ルバングの譜(ウタ)―寛郎を捜しつづけて30年』 潮出版社、1974。(父親の手記)
―― (「小野田凡二」名義) 『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 浪曼、1974。(同上。「凡二」は俳号)
小野田町枝 『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』 (夫人の手記) ISBN 4860290135
鈴木紀夫 『大放浪―小野田少尉発見の旅』 (発見者の手記) ISBN 4022611162
1974年、文藝春秋刊の文庫化。
―― 「小野田少尉発見の旅」(『「文芸春秋」にみる昭和史 第3巻』ISBN 4163626506 に収録)
津田信 『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社、1977。
戸井十月著 『小野田寛郎の終わらない戦い』(新潮社,2005年)ISBN 9784104031047

関連項目


関連項目

横井庄一
石田東四郎
DC-8
残留日本兵
南京の真実
ルバング島
水戸光子

外部リンク

財団法人 小野田自然塾
実録・小野田少尉 遅すぎた帰還
このドラマ撮影に当たり小野田少尉を演ずる2代目中村獅童が小野田と対面し演技指導を受けた。
衆議院会議録情報 第070回国会 社会労働委員会 第1号

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The Definition Of Art Harbour Blog



The Definition Of Art Harbour


Virtual International Trade Harbours Of Art


Opening Anniversary Date: December 1, 2006

Language: Multi Language


Each harbour can export the works toward the virtual world.

People and organization can import the works from all over the world.


Now,Item: Works on Art Activities that are expressed with Photos and Explanations etc.

Export Method: Each Harbour put the Works onto this blog

Import Method: People and Organizations accsess this blog

Order Method: People and Organizations put some comments about the Works onto this blog.


In the future, we will need transportation including trains,airplanes,ships, cars, buses etc.

in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー

Multi Language

現時点では?


ブログは日本語ベース


Google Translatorで、各国語へ、変換




そして、現場で、リアルなコミュニケーションは?


英語ベースで、現地語がお愛想・・・


こんな感じかな?


Aoyagi YoSuKe

Art HarbOur


The Gaiaと各ハブは?


英語がベースで、Google Translatorで、各国語へ・・・

Copyright and Responsibility of AH Shimokitazawa blog



Copyright:


Each manager or each member of Each AH Local must independently handle Copyright.


Each may insist on Copyright or discard Copyright independently.


Copyright depends on each manager or each member.


Responsibility:


Each manager or each member of Each AH Local

must independently have the resposibility on the posted works.

Art Harbour Shimokitazawa


コピーライト:

各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々でコピーライトの取り扱いをしなければならない。

コピーライトを主張するか破棄するかは各々に任される。


責任:


各アート・ハーバーのマネージャーまたはメンバーは

各々が投稿した作品に関して責任を持たなければならない。


アート・ハーバー 下北沢


Posting Rule - 掲載ルール




Introducing People, Works, Shops etc. related to Art Harbour as a spot ad.


As a general rule, the details such as map, price should be in the Official Sites related to the ad.

Each ad may contain the Official Sites' URL related to the ad.


Restriction: The Number of Photos is within 6(basically 3). about 640x480 pixel


Ad Size: Within about 2 standard printing papers.


Example: Spot ad. , Flyer, Live Report, Poem, Short Story, Illustraltion, Photo, Paintings etc.


Art Harbour Shimokitazawa



アート・ハーバーに関連した人、作品、店などをスポット広告として紹介する。


原則として、地図や価格などの詳細は広告に関連したオフィシャル・サイトに掲載する。


各広告には関連オフィシャル・サイトのURLを掲載しても良い。


制限:写真など6枚以内(基本は3枚) 1枚に付き640×480ピクセル程度


サイズ:標準プリント用紙(A4)約2枚以内


例:スポット広告、フライヤー、ライブの報告、詩、イラスト、絵など



アート・ハーバー 下北沢