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どうしても、ここで、ソロモン王が出てくる・・・
文明はエジプトよりいずる・・・ 出エジプト記 Exodus
エジプトは、王家である・・・
ラムセス2世、ツタンカーメン・・・
古代エジプトのファラオ・・・
カルメンとは?
ツタンカーメンの子孫?!?
最重要は、ヒエログリフ・・・
ツタンカーメンは、鳥男だった?!?
パピルスと、ヒエログリフが文明を創った・・・ ソフトウェアDNAのオリジンである・・・
---Wikipedia
ヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)は、古代エジプトで使われた文字の1種。広義には他の国の象形文字に対しても用いられることがある。
エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀ごろまでは読み手がいたと考えられているが、その後使われなくなり、読み方は忘れ去られてしまった。19世紀になって、フランスのシャンポリオンによるロゼッタ・ストーンの解読によって読めるようになった
ヒエログリフの呼称
ヒエログリフ、ハイエログリフは、ギリシア語ιερογλυφικά(hieroglyphiká)に由来し、ιερός(hierós, 「聖なる」)+ γλύφω(glýphō 彫る、グリフ)を意味する。古代エジプト遺跡で主に碑銘に用いられていためこう呼ばれた[1]。
一般には古代エジプトの象形文字あるいはその書体を指す[2]が、広義にはヒッタイト人、クレタ人、マヤ人などによる他の国の象形文字[3]に対しても用いられることがある[1]。
解読の歴史
中世を通じてもヒエログリフは多くの人々の関心をひきつけていた。近代に入ると多くの学者たちがヒエログリフの解読に挑んだ。特に有名なのは16世紀のヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス (Johannes Goropius Becanus) と17世紀のアタナシウス・キルヒャーである。しかし、彼らのあるものは解読に失敗し、ある者はまったく根拠のない自己流の読み方に走った。ヒエログリフの解読に成功するのは19世紀のフランス人学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンの登場を待つことになる。彼はキルヒャーの収拾した資料を研究し、ロゼッタ・ストーンの解読を行うことで読み方を解明した。これが突破口になり、その後も研究がすすんだため、現代ではヒエログリフは比較的簡単に読むことができる。
文字の歴史と特徴
基本的には象形文字である。表意文字として使われるが、その文字の持つ音を借りて他の意味や概念を表わすことの方が多い。漢字でいえば仮借の使用法に近い。
発音されない文字が表意的に単語に付け加えられて、その単語が何を意味するかを確実にする限定符という記号があり、限定符の違いによって同じ表記のヒエログリフでも意味が変わる。 例えば"pr"という言葉には「建物、家、王宮」等の意味がある。そこでヒエログリフでは建物を表す下記の象形文字でこれを表し、pr と読む。この場合は表意文字として使用していると言える。
(pr 『建物』)
このprには 「出る」という意味もある。そこで、出るの意味でprと書きたい場合には、音だけを借りて同様に表す事も出来る。しかしこれでは「建物」等の意味に誤読される恐れがあるので、普通は下記の様な歩みだしている足の象形文字を付け加える。これは、その単語が「歩行」に関する事を示す限定符である。
また、表意的に使われている事を示す為に"r"の音を表すヒエログリフを、以下のようにいわば送りがなとして添える事もある。これでprと発音し、送りがなのrや限定符は発音しない。
(pr 『出る』)
時代が進むと、特定の1音素を特定のヒエログリフで完全に表音文字として表わすアルファベットとしての使用法も生まれた。ロゼッタ・ストーンのファラオ名表記はその一例である。
メンフィスの博物館のヒエログリフ。後ろに見えるのはラムセス2世の像
右からでも左からでも書け、縦書き横書きも同様に行える。読む方向は、生物の形をしたヒエログリフの頭の向きで判断する。
中王国時代にヒエログリフの改革が行われ、使用する文字の数を750程度に抑え、単語の綴りも一定化された。
ヒエログリフは主に石碑に刻んだりするための正式な文字で、言わば漢字における楷書に相当する。一方パピルスへ手書きするときにはヒエラティック(神官文字)が使われた。これは行書にたとえられる。末期王朝時代の第26王朝頃にはヒエラティックの簡略化が進み、草書体とも言うべきデモティック(民衆文字)となった。
ヒエログリフで表わされる音は1子音から4子音だけで、母音は表記されない。実際にどう発音されていたかについては、ギリシャ語やコプト・エジプト語など、他の言語に借用された単語などから再建される場合もあるが、わからないことの方が多い。そのため、現代では以下のような仮の発音法が取り決められている。
子音一つの単語の場合、前に「エ」音を補って読む。
例: s → エス(男)
子音が二つ以上続く単語の場合は、各子音間に「エ」音を補って読む。
例: nfr → ネフェル(美しい)
Ȝ、‘、ỉ、w は本来子音文字だが、それぞれ母音「ア」「アー」「イ」「ウ」として読む。ただし、語頭の ỉ は「ア」と読む場合もある。
例: sȜ → サ(息子)。 R‘ → ラー(太陽神ラー)、Wsỉr → ウシル(オシリス)、Ỉtn → アテン(太陽神アテン)、またはイテン。
しかし、この取り決めも絶対のものではなく、研究者によってさまざまな読み方がされている。例えばフランス式では「エ」の代わりに「オ」を補い、Ỉtn をアトンとする場合もある。
1子音文字
以下は、表音文字として多用される1子音文字の一覧。カナ転写の欄で2つあるものは、前者が語頭と語中にある場合、後者が語尾にある場合。
ヒエログリフ 文字の説明 エジプト学の表記法 カナ転写 ラテン文字転写 備考
エジプトハゲワシ Ȝ ア a ヘブライ語のא、アラビア語のاに相当する声門破裂音。外来語の音写では母音[a]を表す事もある。
葦の穂 ỉ イ i 外来語の音写では母音[e]を表す場合がある。語頭で「ア」になる場合もある。
葦の穂2つ y イ y 外来語の音写では母音[i]を表す場合がある。
斜線2本
前腕 ‘ アー a ヘブライ語のע、アラビア語のعに相当する有声咽頭摩擦音。
ウズラの雛 w ウ u 外来語の音写では母音[u]を表す事がある。
渦巻き
下腿(膝から下)と足 b ベ、ブ b
葦織りのマット
または腰掛け p ペ、プ p
角の生えた毒蛇(クサリヘビ?) f フェ、フ f
フクロウ m メ、ム m
獣の肋骨
さざ波 n ネ、ン n
ファラオの王冠 (下エジプトの赤冠)
口 r レ、ル r
葦簀囲いの小屋 h ヘ、フ h
よりあわせた亜麻糸 ḥ 舌を奥に引いて発音する強勢音のh。
不明。
胎盤、篩、紐の玉? ḫ ケ、ク kh kに近い位置で発音されるh音。無声口蓋垂摩擦音?
獣の腹と尾 ẖ 上に同じくkに近い位置で発音されるh音でしばしば混同される。無声軟口蓋摩擦音?
折り畳んだ布 s セ、ス s
閂 s セ、ス (ゼ、ズ) s (z) 古王国時代には[z]の様に発音されていたが、中王国時代以後は[s]の音になり、上記sと区別せずに用いられる。
池 š シェ、シュ sh
丘の斜面 ḳ ク k または q 舌を奥に引いて発音する強勢音のk
取っ手のついた籠 k ケ、ク k
壺置き台 g ゲ、グ g
ロールパン t テ、トゥ t
家畜をつなぐ縄 ṯ セ、ス
チェ、チュ tj 無声歯摩擦音[θ]または無声後部歯茎破擦音[tʃ]
手 d デ、ドゥ d
コブラ ḏ ジェ、ジュ dj 有声歯摩擦音[ð]または有声後部歯茎破擦音[dʒ]
脚注
^ a b Britanica Japan『ブリタニカ国際大百科事典』、2006、EX-word DATAPLUS 3搭載のもの
^ 大辞泉 ヒエログリフ
大辞林 ヒエログリフ
^ MSN エンカルタ百科事典ダイジェスト ヒエログリフ
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ヒエログリフに関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。
ヒエログリフ読み書き講座
古代エジプト文字の紹介
Egyptian Hieroglyphics
カテゴリ: 表語文字 | 古代エジプト | アフリカの文字
---Wikipedia
ソロモン(ヘブライ語: שלמה Šəlōmōh Shlomo, ギリシア語: Σολομών, ラテン語: Salomon, アラビア語: سليمان Sulaymān, トルコ語: Suleyman, 紀元前1035年頃 - 紀元前925年頃)は旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王(在位紀元前965年 - 紀元前925年頃)。父はダビデ。母はバト・シェバ。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降下されることで安全保障を確立し、イスラエルの最盛期を築いた。
概説
イスラエルの王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、夫ウリヤを死に追いやった。この二人の間に二人目の子として生まれたのがソロモンであり、彼は父の死後、アドニヤなど他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となった。
ソロモンはエジプトのファラオの娘をめとり、ギブオンで盛大なささげものをした。そこで神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵を求めた。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。ここからソロモンは知恵者のシンボルとなり、ソロモンが子供のことで争う二人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、後に江戸時代の大岡裁きの話にも取り込まれた。シバの女王もソロモンの知恵とエルサレムの繁栄を見て驚いたとされる。
ソロモンのもとでイスラエル王国は繁栄をきわめ、ソロモンは初めてエルサレム神殿を築いた。晩年、臣民に重税を課し、享楽に耽ったため財政が悪化、ソロモンの死後、イスラエルは分裂、衰退していくことになる。その後は息子のレハブアムが継いだ。
長きに渡ってユダヤ教の伝承ではソロモンは知恵文学の著者とされていたが、歴史的な裏づけはない。
ソロモン(アラビア語ではスライマーン سليمان Sulaymān であり、その現代ペルシア語形はソレイマーン Soleymān、トルコ語形ではスレイマン Süleyman )はイスラム教においても預言者の一人とされる。スライマーンは知恵に満ちていたと同時に、アラブの民間伝承である精霊(ジン)を自由自在に操ったとされる。
一説には神から知恵(指輪)を授かった、もしくはユダヤ教の秘儀カバラが記された『ラジエルの書』を託されたとも言われ、多くの天使や悪魔を使役したとされる。
関連事項
ウィキメディア・コモンズには、ソロモンに関連するカテゴリがあります。
古代イスラエル
ソロモンの知恵
イスラエル王国
ソロモン72柱
ソロモンの大いなる鍵
ソロモンの指輪
古代イスラエル王国
先代
ダビデ
古代イスラエル国王
紀元前1035年頃 - 紀元前925年頃
次代 イスラエル王国
ヤロブアム1世
次代 ユダ王国
レハブアム
ソロモンの指輪(ソロモンのゆびわ)とは、旧約聖書の中で、ヤハウェの命を受けた大天使ミカエルよりソロモン王に授けられた指輪である。
ソロモンの指輪は真鍮と鉄でできており、様々な天使や悪魔を使役し、あらゆる動植物の声までをも聞く力を与えると伝えられている。
概要
エルサレムで建設中の神殿が思うように進まず、困り果てたソロモン王はモリヤ山の高く突き出た岩に登り、神であるヤハウェに祈った。すると突然、まばゆい光と共にエメラルドの翼を持つ大天使ミカエルが現れ、黄金に輝く指輪を差し出して言った。
“ 受け取るがよい、王にしてダビデの子なるソロモンよ。主なる神、いと高きゼバオトが汝にくだされた賜物を。これによって、汝は地上の悪霊を男女とともにことごとく封じるであろう。またこれの助けによって、汝はエルサレムを建てあげるであろう。だが、汝はこの神の印章を常に身に帯びねばならぬぞ ”
その後、ソロモン王は指輪の力により、多数の天使や悪魔を使役し神殿を建築した。 良き魔神(天使)を使役する場合は真鍮の部位を、悪き魔神(悪魔)を使役する場合は鉄の部位を投げ当て、呪文を唱えるといかなる魔神も強制的に従わせた。
しかし、後の時代の『レメゲトン』にあるような、ソロモン72柱を使役したとするような記載は旧約聖書には見られない。
その他
動物行動学者のコンラート・ローレンツはこの指輪を使えば動物の話がわかるとの伝説から、それがなくても、多少なら動物の気持ちがわかるのだ、として同名の本を書いた。
関連項目 [編集]
ソロモン王
参考文献
旧約聖書「ソロモンの指輪」デイビッド・デイ編/塩崎麻彩子訳
---Wikipedia
ラムセス2世(ラムセス2せい、Ramesses II、ラムセス大王(ラムセスだいおう)、紀元前1314頃 - 紀元前1224年、または紀元前1302頃 - 紀元前1212年)は、古代エジプト第19王朝のファラオ(在位:紀元前1290 - 紀元前1224年、または紀元前1279 - 紀元前1212年)。
その治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張し、繁栄した。
ラムセ2世、ラメセス2世とも表記される。ラムセスという名は、ラーによって生まれたという意味の「ラー・メス・シス」のギリシア語読みである。
生涯
年代には諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハをはじめ非常に多くの子(100人以上)をもうけたと伝えられる。もっとも、この大半は養子であり王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄であり専用の強弓は王その人以外誰も引くことができなかったと言われる優れた戦士であった王が多くの子を残さなかったとは考えにくく、やはり彼らは王の実子であると考える者もいる。即位名はウセルマアトラーである。
治世の前半期はヒッタイトとパレスチナで勢力を争った。紀元前1286年、カデシュの戦いに自ら親征し、ヒッタイト王ムワタリと戦った。エジプトはカデシュの戦いでは偽情報に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力をパレスチナから駆逐するには到らなかった。両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは平和条約を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。またカデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。
ラムセス2世はまた、ナイル第1滝を越えてヌビアに遠征した。ラムセス2世は戦勝の記念碑を多く築き、現在もっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。ヌビアは後にエジプトに同化され、本家エジプトの衰退を救う形で王朝を立てることになる。
カイサリアのエウセビウスなどキリスト教教会史家の間には、ラムセス2世を『出エジプト記』に登場するユダヤ人を奴隷から解放するようにモーセが要求したファラオと同一視する者がある(次代のファラオのメルエンプタハとする説もある)。
ラムセス2世はアブ・シンベル神殿を造営した。これはアスワン・ハイ・ダムの建設に伴って移転され、これを機に世界遺産の制度が制定された。現在アブ・シンベル神殿は世界遺産に登録されている。他にも「カルナック神殿」や「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。
ミイラ
ラムセス2世のミイラ
ラムセス2世のミイラは1881年に発見され、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収められている。身長は183㎝もあり、当時はおろか現代に於いてもかなりの長身であることがわかる(古代エジプトの成人男性の平均身長は160~165㎝であった)。また、調査によって生前関節炎を患っていたものの、死亡推定年齢が88~92歳とかなりの長命でもあったことも突き止められている(古代エジプト人の平均寿命は35~40歳であった)。生前のラムセス2世の健康状態が高齢に達してなお、極めて優れていたかも理解できる。また、ミイラに残っている頭髪から髪の色は赤茶であると推定されている。
なお、ラムセス2世のミイラはテーベ大司祭パネジュウム2世の家族墓で見つかったが、過去2回埋め直されている。
今なお生けるファラオ
20世紀後半になって、ラムセス2世のミイラは劣化防止措置を受けるためフランスへ出国し、儀杖兵が捧げ銃を行う国王への礼をもって迎えられた(ミイラの皮膚組織にカビの1種が発生したため、調査を兼ねてカビの除去を行う必要があった)。この時には生きているエジプト人の扱いでパスポートも支給され、職業の欄には「ファラオ」と記入されていたというエピソード(すなわち、エジプト・フランス双方とも「現役のエジプトのファラオが病院に入院するために出国・来訪した」ということで行動した)も伝わっており、偉大なるファラオへに寄せるエジプト人の敬意の深さがうかがえる。
孫娘イシスネフェルトの墓
2009年3月4日、吉村作治率いる早稲田大学・サイバー大学合同古代エジプト調査隊は、エジプトの首都カイロ南方にあるアブ・シール南丘陵遺跡において、ラムセス2世の孫娘であるイシスネフェルトの墓を発見したと発表した。第4王子カエムワセトにはイシスネフェルトという名の一人娘がいたことは判明していたが、丘陵の地下で発見された埋葬室の中に石灰岩製の石棺があり、「イシスネフェルト」という名前が書かれていたことなどから、孫娘と判断した[1]。
だがエジプト考古最高評議会は墓の建築様式や、そもそも古代エジプトにはイシスネフェルトという名前の女性が多かったという理由などから否定的な見方を示していると伝えられており、石棺の中にあった3体のミイラの正体解明については今後の研究が待たれる[2]。
脚注
^ "<エジプト>ラムセス2世孫娘の墳墓発見 早大調査隊". 2009-03-05 閲覧。
^ "三千年前の「高貴な女性」の墓、早大チームがエジプトで発掘". 2009-03-05 閲覧。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ラムセス2世に関連するマルチメディアがあります。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ
先代:
セティ1世
古代エジプト王
138代
前1279年 - 前1212年
次代:
メルエンプタハ
---Wikipedia
ツタンカーメン(Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。
人物
生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤの間の子という説が有力である。アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アトンの生ける似姿」の意)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(「アモン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。
ツタンカーメンの墓
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。だが、死亡した発掘関係者の多くは高齢者で、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであった。呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたか、人々の好奇心をあおりたかったマスコミの喧伝に過ぎないとされている。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる二体の子供のミイラも一緒に葬られており、これはツタンカーメンの子供だと考えられている。
その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されている。三千年の年を経て発芽させる事が出来たとされるが、豆の種子がそれほどの長期間、生存することは植物学上考えにくく、また、豆自体もエジプトで自生している野生種であり、「直系の種」と言われても判別はつかない。現在多く出回り、販売もされている”ツタンカーメン”のエンドウ豆については、半ば宣伝文句と思ったほうがよい。なお、ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に「エンドウ豆」という項目は存在しない。死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていた。
ツタンカーメンのミイラ
ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまった事も保存状態の悪化に拍車をかける事となった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。
2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目された。調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165cmで体格もかなりの華奢であることがわかった(ツタンカーメンの身長は古代エジプトの成人男性の平均身長とほぼ同じであった)。しかし、死因については死につながる傷が発見及び特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつける事まではできなかった。なお、この調査の際に前述の消失していた性器が、無事に再発見されている。
この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられた。その結果、2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている。
ツタンカーメン他殺説
ツタンカーメンの死因は特定されていないが、大腿骨の骨折から数日で死亡したことが確認されている。戦争中の戦死、軍事訓練の際の事故に伴うものである可能性もあるが、政治的に不安定な時期であったため、骨折の原因となった出来事が「事故」だったと推測することも可能である。その場合の容疑者として挙げられることが多いのは以下の三名である。ただし全ては推測の範囲に過ぎない。
容疑者
アンケセナーメン(ツタンカーメンの王妃。アクエンアテンとネフェルティティとの間の娘。後、アイの即位のときにその妻となる。)
アイ(ツタンカーメンの死後、即位。)
ホルエムヘブ(アイの死後、即位。古代エジプト第18王朝最後のファラオ。)
頭部打撃説
かつては後頭部に強い打撃を受けて命を落としたとされていたが、根拠となっていたのは1962年のX線写真のみであった。頭蓋骨の中に骨片が写っていたことからこの説が生まれたのである。ファラオの呪いの噂の流布、また政治的な問題などから長らくミイラを再検査する機会が来なかったが、2005年にCTスキャンによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられた。頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。
骨折からの感染症説
頭部打撃による死亡を否定したのと同じCTスキャンによって浮上した新たな説が、左足の大腿骨骨折による敗血症である。ミイラ作りの際に出来たとは考えにくい、骨を縦に割る骨折跡があり、わずかな治癒痕から骨折後数日は生存していたと分かるため、死ぬ数日前に皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をしていたと推測される。またCTスキャンから、左足の足首にはギプスを思わせる硬い物質がはめ込まれたままミイラにされており、何らかの事故に巻き込まれたとする可能性が考えられている。太い大腿骨を縦に割るには強い力が必要であり、同様の骨折痕は現代ではバイク事故などで多く見られるため、戦車から落ちたのではないかとする説が有力視されている。
政略的暗殺説 [編集]
毒殺説も唱えられていた。ワインは当時、王や貴族といった地位のある層しか飲むことの出来ない貴重なものであり、実際にツタンカーメンの墓にもワイン壷が収められていた。ただしこの説は一般的なものではなく、明確な根拠も無い。
文献
ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ツタンカーメンに関連するマルチメディアがあります。
ファラオの呪い(ツタンカーメンの王墓発掘に関する呪い伝説の真相)
先代:
スメンクカーラー
古代エジプト王
133代
前1333年 - 前1324年
次代:
ケプルケプルゥラー (アイ)
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