歴史の悲劇である・・・
東周りのマルキシズムと、西周りのケインジアンが衝突、南北が分断した・・・
大英帝国発の産業革命、矛盾がふたつのセクトを作った・・・
ケインジアンは、カジノ市場(投機)、資本主義市場(投資)、結局は金融危機で破たん
マルキシズムは、計画経済、自由が奪われて、市場の活気がなくなって破たん
このようにして、産業革命の大きなふたつのセクトが破たんした・・・
そして、今や、人類の経済活動が大きな気象変動をもたらしている・・・
もはや、北朝鮮、韓国という二国間の問題を大きく超えてしまった・・・
この大問題が、朝鮮民族の分断、なんとか解決しようと、六カ国協議を開いたが・・・
決裂して、空転状態が続いている・・・
Aoyagi YoSuKe
Creator
分断のキーとなる作家こそ、ヴァージニア・ウルフ・・・
彼女も、自殺した・・・
1904年、父親が72歳で死去。その後、兄弟と姉とブルームズベリー地区に移り住む。兄のケンブリッジでの友人たちを主な構成員とするいわゆるブルームズベリー・グループが自然発生的に成立し、後の経済学者ケインズや、ヴァージニアの将来の夫となったレナード・ウルフもまた、この友人の輪に属していた。このグループは1910年「偽エチオピア皇帝事件」に参加する。
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ヴァージニア・ウルフ(Virginia (Adeline) Woolf (nee Stephen)、1882年1月25日 - 1941年3月28日)はイギリスの女性小説家、評論家。
略歴 [編集]
1882年1月25日、父
レズリー・スティーヴンと、母ジュリアの間に生まれる。両親ともに再婚だったため、一家の七番目の子供であった。
父、レズリー・スティーヴンは文芸評論家、哲学者であり、『イギリス人名辞典』(
Dictionary of National Biography)の編集によって有名である。母ジュリアは
1895年、48歳で死去。当時13歳であったヴァージニアに大きな衝撃を与える。また少女時代に異父兄から何らかの
性的虐待を受けたことが明らかになっているが、その程度については論争がある。
1915年処女作『船出』(
The Voyage Out)を発表。小説家としての道を歩み始める。代表作としては『
ダロウェイ夫人』(
Mrs. Dalloway、1925)、『灯台へ』(
To the Lighthouse、1927)、『波』(
The Waves 、1931)などがあげられる。
モダニズムの旗手として実験的な手法を用い、特に
意識の流れ手法で登場人物たちの心理を深く掘り下げ高い評価を得た。
文芸・社会評論でも活躍。
1919年に発表された評論
Modern Fiction でモダニストとしての立場と視点を明らかにする。また、『自分自身の部屋』(
A Room of One's Own、1929)、『三ギニー』(
Three Guineas、1938)などで
フェミニストそして、
パシフィストとして女性と創作活動、女性と平和などの問題を取り扱った。
生涯、神経的発作に悩まされる。
第二次世界大戦中の
1941年3月28日、ウーズ川へ散歩に出かけ
入水自殺。書斎に夫レナードと、姉
ヴァネッサへの書き置きが残されていた。遺作『幕間』(
Between the Acts、1941)は死後出版された。
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偽エチオピア皇帝一行の記念写真。左からヴァージニア・ウルフ、ダンカン・グラント、エイドリアン・スティーブン、アンソニー・バクストン、ガイ・リドリー、ホレース・コール
事件の概略 [編集]
イギリス海軍
戦艦ドレッドノートは1910年
2月10日に、
イギリス海軍本部からの緊急の電報の指示により「アビシニアの王族」(エチオピアの古称)一行を迎える事になった。しかし、この一行は悪戯であり、この一件は後にドレッドノート・ホウクスとして知られるようになった。コールたちはまずロンドンの
パディントン駅に向かい、
外務省の要請だとしてウェイマスまでのお召し列車を仕立てるよう要求し、必要経費を支払った。駅長はそれに従った。海軍はイギリス南部にあるドーセット州のウェイマス港で偽お召し
列車から降り立った一行を出迎えたが、この一行はエチオピアでは使用されていないスワヒリ語のカードを渡していたり、エチオピア人に見えないようなお粗末な仮装であったにもかかわらず、大多数の海軍軍人は偽者とはおもっていなかった。海軍には一人だけエチオピアに通じた将校がいたが、彼は長期出張中で不在であることを一向は事前に調べ上げていた。彼らはラテン語やギリシア語をもとにしたでたらめな言葉で話し、特に戦艦に乗り込むとあらゆるものを指さして「ブンガ、ブンガ!(Bunga, bunga!)」と叫び、士官たちに偽の勲章を授与した。そのうえイギリス海軍も誤ってザンジバルの国歌演奏をしてしまうミスをしていたが、こちらも誰も間違いに気付いていなかった。また一行はチンプンカンプンな挨拶をしていたが、最後まで正体はばれなかった。彼らはロンドンに帰着するとデイリー・ミラーに真相と「王族」の写真を送りつけ、ネタ晴らしして真相が明らかになった。この事件を翌日の新聞各社は大きく取り上げ、面目を失った海軍はコールらの処罰を求めたが、彼らは法律を犯したわけではなかった。結局コールは笞刑を受けることになったが、コールは「こんなものに騙された者こそ刑を受けるべきだ」と主張した。
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