メイロマは下北沢をサブカルの聖地だと言っていた。
サブカルチャー(subculture)とは、主流文化に対し、一部の集団(一例として若者)だけを担い手とする独特の文化である。副次文化ないし下位文化とも訳される。
用語の起源は1950年に社会学者のデイヴィッド・リースマンが使用したのが最初である。意味は「主流文化に反する個人のグループ」というもの。「サブ」とは、社会的マジョリティの文化・価値観から逸脱した、エスニック・マイノリティやストリートチルドレン、ゲイといった「下位集団」のことであり、メディア文化以外の価値観、行動様式、話し言葉など、本来の「文化」に近い意味でサブ「カルチャー」といわれる。
日本では「ハイカルチャー対サブカルチャー」という文脈においてサブカルチャーという言説が用いられているが、欧米ではむしろ、社会の支配的な文化(メインカルチャー)に対する、マイノリティの文化事象を指す言葉として使われている(この用語としてはROSZAK,T,が1968年The Making of a Counter Cultureにおいて用いたのが早い用法である)。日本では特撮、アニメ、アイドルといった、いわゆるオタク的趣味を指す場合が多い。それらは80年代に一般化しており、サブカルチャーとして定義するのは当初、拡大解釈だった。欧米の研究ではこうした文脈での日本のサブカルチャーは、サブカルチャー研究の領域というよりも、むしろ「メディア文化」研究の領域に含まれる。
かつて文化と考えられたものは、ハイカルチャー(学問、文学、美術、音楽、演劇など)であり、ブルジョア階級や知識人、教養ある人々に支持されるものであった。文化を享受するには一定の教養が必要であり、少数者のものであった。
20世紀になって、大衆文化の時代になると、こうした文化観は次第に変化していった。大衆の一部はハイカルチャーを身に付けようと努力し、例えば文学全集を応接間に並べることが流行する、といった現象が見られた。第二次世界大戦後には知識人と呼ばれる人たちも次第に大衆文化(映画、マンガ)に注目するようになった。例えば映画のジャンルも分化し、大衆向けの娯楽に徹するものと、芸術性を主張し表現するものが並存するようになった。
1960年代には、アメリカのベトナム反戦運動を始め、各国で既成の体制や文化に対する「異議申立て」が行われた。文化の意味付けが変化してきた結果、メインカルチャーの位置が揺らぎ、サブカルチャーが注目されるようになった。
上述の様に日本におけるサブカルチャーと海外、特に英米におけるサブカルチャーはその意味する所が大きく異なる。これはカルチュラル・スタディーズが切実な問題であったアメリカやイギリスとは異なり、日本では社会学や民族学の一環として国内のマイノリティが研究対象となることがほとんど無かった為である。少なくとも、英米においてサブカルチャー研究が盛んであった1960年代、1970年代に、日本で同様の研究が日本国内に対して行われることはなかった。サブカルチャーという概念が日本に輸入されるのは1980年代になってから、しかも本来の社会学・民族学を離れてのことである。民俗学では柳田國男の「山の民」概念をきっかけとしたサンカ論が現代に至っているが、サブカルチャーの文脈に乗ることは無かった。
1980年代に入ると、ニュー・アカデミズムが流行し、専門家以外の人間が学問領域、特に社会学や哲学、精神分析などの言葉を用い学際的に物事を語る様になった。サブカルチャーという言葉もこの頃日本に輸入され、既存の体制、価値観、伝統にあい対するものとして使われた。これらの流れは多くの若い知識人や学生を魅了し、「80年代サブカルチャーブーム」と呼ばれる流行を作り出した。この頃のサブカルチャーは現在よりも多くの領域を包含し、漫画、アニメ以外にも、SF、オカルト、ディスコ、クラブミュージック、ストリートファッション、アダルトビデオ、アングラなどもサブカルチャーと見なされていた。しかし、80年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のサブカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い80年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊:dilettante、好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。
この頃のサブカルチャーは複数の要素を内包しつつも、ジャンル間に横の繋がりは未発達で、場合によっては複数の分野を掛け持ちすることはあったものの、基本的に愛好者たちは別々の集団を形成していた。しかし1990年代に入るとこの群雄割拠に転機が訪れる。メディアミックスの名の下に漫画、アニメといったジャンルの統合が進んだのである。漫画がアニメ化され、アニメが小説化されるという現象によってこれらのジャンルは急速に接近し、俗に「おたく文化」と呼ばれる、その他サブカルチャーから突出した同質性を持つ集団を形成する様になる[1]。現在では、この「おたく文化」が、過半数を占めるかはさておいて、サブカルチャーの最大与党であり、サブカルチャーそのものという見方すらされている[2]。[3]。
現在の日本におけるサブカルチャー論で最大の問題は言説の乖離である。本来のカルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャーは民族や階級に関連した政治的色彩を帯びたものであった。1980年代に一世を風靡した日本のサブカルチャーはそこから政治色を表面的に無視して、趣味の領域への限定を装ったものである。これは(実際はともかくとして)「一億総中流」「単一民族国家」という言説が大きな抵抗も無く通用したことを考えると致し方のないことにも思われる。その後、漫画、アニメ、フィギュアなどが統合されおたく文化=サブカルチャーという見方がされる様になる。
この様に、大別するとサブカルチャーという言葉には3つの用法を持っているが、これらの乖離があまり意識されることは無く、サブカルチャーという言説が一人歩きしている。無論、言説の回収と再統合がまったく試みられていない訳ではない。特にカルチュラル・スタディーズの専門家からは80年代サブカルチャーブームを、日本において独自進化を遂げたものとして、その意義を認めようとする動きが出ている[4]。しかし、それもストリート・カルチャーやテクノ、ヒップホップなど、カルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャー研究で既に経験済みであった要素までである。研究者サイドは未知の分野であるオタク文化の形成等に興味が無く、漫画、アニメをサブカルチャーから切り離しているようである[5]。
一方、80年代サブカルチャーの側はそもそもカルチュラル・スタディーズの概念などは眼中にないようである。もともと正規の学問の場を離れることを特徴の一つとしたニューアカデミズムの影響もあり、彼らのサブカルチャーは、起源を切り捨て独自進化を遂げたサブカルチャーの概念からメインカルチャーをも規定しており[6]、従来の社会学が持っていた用法とは異なる、別の意味をもった概念となっている。そこでは「サブカルチャーとメインカルチャー(≒ハイカルチャー)」という概念のみを利用し、政治的・民族的な要素を排除し、単純化した「少数者による趣味」として、積極的な意味を付与している。また彼らにとって、おたく文化とされる一群は「サブカルチャーの一部に過ぎない」か、「サブカルチャーですらない」か、である。
上記の2つの例とは異なり、おたく文化としてのサブカルチャーは単純である。おたく文化こそがサブカルチャーであり、そこには何の留保も存在しない。メインカルチャーという概念が持ち出されることもない。彼らにとってはカルチュラル・スタディーズなどはどうでもよいことであり、80年代サブカルチャーブームも眼中には無い。むしろクラブミュージックやストリートカルチャーなど一部の80年代サブカルチャーを敵視する場合すらある。
この様にサブカルチャーという語は大きく分けて三通りの用法を持っているが、厄介なのはいまだにそれぞれの用法が現役で使われているということである。そのため、同じサブカルチャーという言葉を用いているにもかかわらず、まったく別の事柄について論じている場合が多々見られる[7]。
サブカルチャー現象として注目されたのは、例えばレゲエである。ジャマイカの移民が広めた音楽であるが、欧米の白人文化に対する抵抗であり、対抗文化(カウンターカルチャー)として評価された。ただし、日本においてはレゲエも対抗文化として受け入れられるよりは目新しい音楽ジャンルの一つとして受容されている。また、スキンヘッドも一つのサブカルチャーといえるが、ネオナチなど反動的な政治主張と結びついている場合が多い。欧米のサブカルチャーがしばしば政治的あるいは人種的対立を背景にしており、一定の主張を持ったグループが担うものである点は、日本におけるサブカルチャーとは異なるようである。
近年では、教養そのものが揺らいでおり、従来ハイカルチャーを支えてきた知識人も大衆文化やオタク文化に注目しているのが現状である。趣味・嗜好の多様化・細分化や価値観の転倒により、従来サブカルチャーと見られていたものが一般に広く評価されるようになったり、ハイカルチャーの一部であったものがサブカルチャーとして台頭するという逆転現象も見られるようになっている。例えばかつては、歴史や古典文学について最低限の知識を持つことは当然で、そうした知識に精通することはハイカルチャーと考えられていた。しかし、近年では知らないことを恥じるどころか、歴史や古典文学についてある程度の知識を得ることさえもオタク趣味(サブカルチャー)の一つとみなす傾向が指摘されている(とくに日本文学や日本史にこの傾向が強い)。このように、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界、色分けは曖昧となってきている。
一般に、重厚長大主義の産業、マスカルチャーとは折り合いが悪い。つまり、個々の主観によって自立して成立する行動様式の理念として昇華した、「顔の見える文化」だといえる。とは言え匿名性との馴染みが良く「顔の見えない」側面も持っている。
産業社会が企業利益の効率化を優先させて大衆の均質化を潜在的に志向して、収益のため地球環境の強引な改変をも担ってきた史実を踏まえれば、サブカルチャーの原動力となっている「メインカルチャーへの不快感」は、個々の自立という第一義からさらに発展して、利潤追求の視点では隠蔽されてしまう環境問題の視点をも発露せしめる視点を持っている。1980年代の東京ロッカーズと呼ばれるライブハウス、自主制作をフィールドとした、音楽シーンにおいてはリザードの発表した『サカナ』という水俣病を題材とした楽曲が産業界より圧力を受けた。ロックの本来持っているメッセージ性や反権力の志向が、メジャーとはいえないムーブメントで生き続けていた構図である。チェルノブイリ事故の後に、パール兄弟は『タンポポの微笑』を発表、RCサクセションはLP『COVERS』の発売を東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)から拒否されるといったこともあった。環境問題とサブカルチャー性格との馴染みのよさを感じさせられる。
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