枝の上には、豹がいる
枝の下には、牛飼いの女と牛が・・・
牛飼いと、牛と、豹の意味が判明した・・・
なるほど、そうなっているのか?
だれが何を食べるのだろうか?
AO
内容(「BOOK」データベースより)
むかし、グリスタンとよばれたみなみのくにに、ひとりの王さまがすんでいました。この王さまがよのなかでなによりもすきなのはきんでした。王さまのごてんでは、ぎょくざはもちろんのこと、つくえやねだいまでもきんでできていました。それでもまだたりないで、王さまはくにじゅうのきんをごてんのくらにあつめさせ、ほかのものたちはひとかけらのきんもつかってはならないというおふれをだしていました。―読んであげるなら4才から、自分で読むなら小学校中級むき。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ジャラール,アーメド
1940年、インドのカルカッタに生まれた。1950年から東パキスタンに移籍した。(1971年、独立してバングラデシュとなる。)1959年に交換留学生として来日、大阪外国語大学、東京教育大学、東京大学で学ぶ。著書には『日本童話集』インド・パキスタン語訳がある。元在日バングラデシュ大使館公使。2003年逝去
石井 桃子
1907年、埼玉県に生まれた。1951年、『ノンちゃん雲に乗る』で文部大臣賞受賞。1953年児童文学に貢献したことにより菊池寛賞受賞。東京都在住
秋野 不矩
1908年、静岡県に生まれた。1950年、女流日本画家に与えられる最高の賞、上村松園賞を受賞。創画会会員。2001年逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
アダムとイブ
りんごと、鹿と、ライオンと、へび
パンドラの箱
よって、今から、マクドナルドのハンバーガーを喰いに行く。
今日は、ケンタッキー・フライドチキンではない、
人が牛を喰うのである・・・
犯罪を立件できないが、鬼は人を喰らう・・・
鬼は人を喰らって、生活の糧にしている・・・
人食い鬼や、吸血鬼は実在している・・・
名前を上げることも、可能だが、あえて、名前はあげない・・・
白の人食い鬼、黄の人食い鬼、黒の人食い鬼・・・
人食いに、民族や目の色は関係ない。人を喰らって、生きている・
・・
このグラフを見よ、財政赤字である。日本のグラフだけが特異である・・・
鬼が人を喰らった証拠である・・・
土地ころがしはマネーゲーム、土地バブル崩壊、赤字が急進、そして、一時的に止まった・・・
鬼が人を喰らった証拠である・・・
赤は血の色、、、
赤字とは? マネーを浪費した結果である・・・
犯人はだれだ? 人食い鬼はだれだ?
キャッシュフローを追え - ハーバード・ビジネススクールMBA
中央銀行総裁は人形使いである - ゴダール
中央銀行総裁は王の僕(しもべ)である - 王
財政赤字は税金の無駄遣い、役人は公僕である。公共のしもべである - 憲法
民主主義においては、王とは、大統領や首相である - 社会契約論、法の精神
4/05/2010
現代の江戸の町に鬼や餓鬼や夜叉などが出没した・・・ よって、調べてみた・・・
それは皇居の大手に立つ朱雀門に始まり南下して京果てる所に聳える羅生門までを謂う。
【羅生門】らしょうもん
1.羅生門河岸に並んでいた河岸見世(かしみせ)
2.能の一曲。源頼光の臣渡辺綱が羅生門にすむ鬼神と戦って、その片腕を切り落とす
3.短編小説。芥川龍之介作。今昔物語に材をとり、王朝末期の荒廃した都を舞台に、生きるために悪を行う人間のエゴイズムを描く
4.黒沢明監督。ヴェネツィア映画祭でグランプリ
【朱雀門】すざくもん
平城京・平安京大内裏の外郭十二門のひとつ。
宮城南面にある正門。唐の都、長安の皇城門の名を踏襲。南門
---Wiki
大内裏(だいだいり)とは、
平安京における
宮城を指す。
12世紀以降、宮城内の
天皇在所である
内裏を「大内裏」
と表記することがあったが、
14世紀になると宮城全体を「
大内裏」と称するようになり、この用例が一般化した。
平安京の北
辺中央に位置する。
政変や失火のためたびたび焼失し、
平安末期頃から再建されておらず、
安貞元年(1227年)
にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、
これ以後再建されることはなく、
跡地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。
概要 [編集]
東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域であった。
大内裏の周囲は
築地の大垣が張り巡らされており、この築地を「
宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。 門は最も外側に宮城門(みやぎもん)が位置し、
内裏外郭の門を宮門(みやもん)、内郭の門を閤門(こうもん)
という。
大内裏の宮城門は
- 南面に朱雀門、皇嘉門、美福門
- 北面に安嘉門、偉鑒門、達智門
- 東面に上東門、陽明門、待賢門、郁芳門
- 西面に上西門、殷富門、藻壁門、談天門
が構えられていた(
平安京全体図参考)。
このうち上東門と上西門は大蔵通用門として「
屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=
「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」
であり、姓氏の
土御門家や
藤原氏邸宅
土御門殿はこの地名に由来し
ている。上東門と上西門を除く12門は「宮城十二門」
と総称される。
大内裏の主な施設 [編集]
関連項目 [編集]
平安の京と呼ばれた時代、京都御所(皇居)は現在の烏丸より西に位置していた(千本丸太町附近
)。朱雀大路は皇都のメインストリートであり、それは皇居の大手に立つ朱雀門に始まり南下して京
果てる所に聳える羅生門までを謂う。羅生門は現在形を留めず一基の石標に名残りを留めているが、
この物語の舞台となる朱雀門は名のみでその所在位置も明かでない。しかしかつては羅生門と共に京
では最大の華麗な楼門であったことは想像される。
この物語はその朱雀門にまつわる怪奇な“鬼”のお話である。伝説や民話では、鬼は怪物にされて
いるが“鬼人”とも“鬼神”とも呼ばれていた。いずれにしても“鬼の如き”と言う形容詞がある以
上、通常の人間には決して親しまれる存在ではなかったらしい。“鬼”“妖怪”ともに暗かったその
時代の夜が生んだ恐怖の産物であろう。
時代設定については、皇居の正門に怪物が住むという異常な状態から少なくとも皇居の移転以後と
考え、さらに絵巻に見る服装だから応仁の頃とした。尚この絵巻は鎌倉時代(13世紀)に作られたが
作者は不明である。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html
羅生門
芥川龍之介
ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代りまた鴉からすがどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾しびのまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻ごまをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限こくげんが遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞ふんが、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
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