暗黒舞踏の土方巽の嫁も、燁子じゃなかったっけ?
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諦めていた恋の情熱にすべてを捨てて身を委ね再出発した歌人
実家に戻ったものの、『出戻り』であるが故に幽閉に等しい生活を余儀なくされたあきこ。その生活が終わったのは27歳の時の再婚でした。相手は九州一の炭坑王の伊藤伝右衛門。けれど、それは貴族院議員に出馬するあきこの兄の金欲しさと名門の家柄を必要とした伊藤家、そして幽閉生活からの脱出を願うあきことの利害が一致した末の政略結婚でもありました。伊藤は『あかがね御殿』と呼ばれる豪華な大邸宅を作ってあきこを迎えるのですが、25歳年上の彼には女中を兼ねた妾や誰が産んだのかもわからない子供が何人もあったと言います。そんな生活の中でもあきこの転機は、佐々木信綱の門下生となったことで訪れます。
歌人として注目されるようになったあきこ。彼女の戯曲『指蔓外道(しまんげどう)』の上演依頼のために訪れた東京帝大法学部に通う傍ら雑誌『解放』の編集をする宮崎龍介。それが運命の出会いでした。けれど、まだ人妻の恋愛が姦通罪として制裁されていた時代。さらに、あきこは30代半ばで、宮崎は彼女よりも6歳年下であり、社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバー。これは実るはずのない恋でした。 それでも二人の恋は燃え上がり、あきこは宮崎の子を宿します。それは二人の気持ちを確認し、固めたきっかけとなります。
あきこは伊藤と上京した際に姿を消し、二日後、『私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます』という公開絶縁状を朝日新聞に掲載しました。これは帝大新人会の画策とも言われていますが、あきこ自身の確固たる意志と覚悟が明らかに示されているものでもありました。伊藤は毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に非常に沸いたと言います。
この結末は、あきこの華族からの除籍と総ての財産没収により離婚の成立でした。あきこは再び実家の柳原家に一室に閉じこめられて、そこで男児を出産。そして、二年後の関東大震災のどさくさのおかげでようやく親子三人の生活が現実のものとなりました。
平民となったあきこは経済的には苦しい思いをしたかも知れませんが、宮崎と添い遂げた半生は、決して不幸ではなかったはずです。知らなかった「恋」という感情に燃え、それを貫くためにそれまでの生活や人生を投げ捨てて愛しい人との最終発に賭けた彼女の思いは、当時の情勢を考えれが並大抵のことではないでしょう。
日本史上では、激しい気性をそのままぶつけるような生き方をした女性が有名です。女性の生き方やそのプロフィールが詳しく残っているケースが少ない中、白連はその雅号の名の通りのような人ではないかと感じます。穏やかでありながら、自らを主張する強さを秘めている、静かな泥の中に存在を際だたせている白い蓮のような女性だったのではないでしょうか。(2000-10-04)
わが命惜まるるほどの幸を
初めて知らむ相許すとき
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