野生のイルカの里、オーストラリアの領土問題は?
最終的には、オーストラリア首相が先住民のアボリジニに謝罪した。。。
シャーク湾は、オーストラリア大陸の西端にあり、ヨーロッパの探検家が、初めてオーストラリア大陸に足を踏み入れた地点だ。長い間、ヨーロッパの探検家には、オーストラリアは幻の大陸だった。オーストラリアは、ほんとうに存在するのだろうか、広大な南の大海の中に、そんなものがあるはずはないなどと疑っていた。航海術や装備が未熟だったので、大陸を発見する試みは、ことごとく失敗した。大陸の近くまで航海して、大陸の音が聞こえる地点まで来た、頑健な探険家もいた。しかし、彼らは、不思議な大陸へ接近したことには気づかずに、ヨーロッパから数か月の厳しい航海をしてきて、疲労こんぱいしただけで帰っていった。
オランダ人のダーク・ハートグが、初めてオーストラリアへ上陸した。一六一六年、現在のインスクリプション岬に、エンドラヒト号を接岸した。だが、島は不毛の地で、風が強かった。この島はシャーク湾の列島の中にあって、現在では、ハートグ島と呼ばれている。ハートグは、上陸地点にシロメ(錫と鉛などの合金)の飾り版を置いたが、その飾り版は安置されてはいなかった。一六九七年に、別のオランダ人、ド・フラミン船長が、インスクリプション岬に立ち寄って、ハートグの飾り板を取り除き、自分の飾り板を据えつけた。だが、後年に、ハートグの飾り板に戻された。一七二二年、フランソワ・ド・サン・アルワーンが、インスクリプション岬に上陸し、正式にフランス領土だと宣言した。フランスのコイン二枚と羊皮紙一枚を、びんに入れて埋め、乗組員一名の遺骸も埋葬した。この不毛の地で、所有権を巡って争いが起きたとは想像しがたい。
一六九九年、イギリス人ウイリアム・ダンピアーが、シャーク湾と命名した。一八〇〇年代初期、ジェオグラフ号のボーダン船長と、ナチュラリスト号のハメラン船長、ふたりのフランス人探検家が、シャーク湾、および、海域の海図を、初めて作った。一八二七年、イギリス人が、西オーストラリアに、初めて入植地を作った。入植地は、シャーク湾からかなり南方の、キング・ジョージ・サウンド(現在のアルバニー)と、スワン・リバー(現在のパース)だった。オーストラリア全土は、最終的に、大英帝国の支配下に入った。
もちろん、オーストラリアの歴史は、ヨーロッパ人から始まったのではなく、四千年以上も前にオーストラリア先住民のアボリジニから始まった。シャーク湾には、ナンダ族とムルガナ族がいた。シャーク湾にある、最も古いアボリジニの居住地跡には、貝塚(貝、カニの爪、哺乳類の骨、石器などが堆積している)があるが、今から五千年も前のものだ。今のところ、歴史家や考古学者が、シャーク湾の綿密な調査をしていないので、古い居住地跡が、まだ他にもあるかもしれない。
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