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5/05/2009

西へ ・・・ マニラ

小野田さんが出てきた。マニラへ行け、というお告げだ・・・

戦後、日本と同様極東アジアにおけるアメリカ合衆国の重要な拠点であり米軍に基地を提供したが、米軍のアジア駐留軍縮小およびピナトゥボ火山の噴火にともなう基地機能の低下により、米軍は軍備を沖縄に集約しフィリピンから撤退した。


地震予知連盟へ

フォッサマグナ大地震起きるのでは?

予知してね? よろしく!


第一に、マニラへ潜入を考えよう。

ということは、最初の予定通り・・・ 情報処理ツールは必要だ・・・

トラぶったら、無人島で、サバイバルゲーム・・・



---Wikipedia

フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく)は、東南アジアに位置する共和制国家。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで中華民国(台湾)、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んでベトナムと国境を接する。フィリピンの東にはフィリピン海が、西には南シナ海が南にはセレベス海が広がる。首都はメトロ・マニラ。

国名

正式名称は、Republika ng Pilipinas (フィリピン語: レプブリカ ナン ピリピーナス)、Republic of the Philippines (英語: リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピン語)、Philippines(英語)。
日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピン、ヒリピンという表記もなされていた。漢字では、比律賓と表記され、比と略される。
国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ2世の名から、スペイン人の征服者によってラス・フィリピナス諸島と名づけられたことに由来する。

歴史

詳細はフィリピンの歴史を参照

先スペイン期とイスラームの流入


タガログ人の男女

フィリピンの歴史は多様な民族とカトリシズムによって織りなされてきた。

フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。そして紀元前500年~紀元13世紀の間に移住してきたマレー系民族である。

スペイン人来航直前の頃は中国や東南アジアとの交易で栄えイスラム教が広まったが、7,000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域では統一した国家は形成されていなかった。西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。

スペイン植民地時代

詳細はフィリピン総督領、es:Capitanía General de las Filipinasをそれぞれ参照


フィリピンの独立指導者ホセ・リサール

1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)がヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マゼランはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。しかし南部への侵攻は18世紀と遅く西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、イスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。

スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造されていた。

ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。

独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリ合衆国カがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされる(第一共和国)。

第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代

詳細はフィリピン革命、米比戦争をそれぞれ参照


米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』

米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1899年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカ合衆国に渡る。アメリカ合衆国による植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。アギナルドは米軍に逮捕され、第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカ合衆国の主権の下におかれた。

その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法でフィリピンに自治を認めた。1934年アメリカ合衆国議会はタイディングス・マクダフィー法で十年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾しフィリピン自治領に移行した。

第二次世界大戦中に日本軍が占領。1943年にラウレルを大統領として独立(第二共和国)。しかし、傀儡政権であったラウレル政権はフィリピン民衆の広範な支持をえることができなかった。この戦争によって、マニラに20棟あった16〜17世紀に作られたバロック様式の教会は2つを残して破壊された。

独立以降

1945年の日本敗戦に伴い米領に復帰。1946年、独立(第三共和国)。マルコス政権が長く続いたが、民衆の不満がありマルコス政権は崩壊した。

戦後、日本と同様極東アジアにおけるアメリカ合衆国の重要な拠点であり米軍に基地を提供したが、米軍のアジア駐留軍縮小およびピナトゥボ火山の噴火にともなう基地機能の低下により、米軍は軍備を沖縄に集約しフィリピンから撤退した。

地理



フィリピンの地方と州

ルソン島・ヴィサヤス諸島・ミンダナオ島などを中心に、大小合わせて7109の島々から構成されている。

スプラトリー諸島(南沙諸島)で領有権問題を抱えている。

地方と州

詳細はフィリピンの地方を参照
地方行政の最上位単位は、州と公認都市である。州と都市の数は、2006年12月時点で、州が81、公認都市が61。これらは、17の地方にグループ分けされる。
地方 称号(タガログ語) 中心都市
イロコス地方 Rehiyon I サン・フェルナンド、ラ・ウニョン
カガヤン・バレー地方 Rehiyon II トゥゲガラオ、 カガヤン
中部ルソン地方 Rehiyon III サン・フェルナンド、 パンパンガ
カラバルソン地方 Rehiyon IV-A カランバ、 ラグーナ
ミマロパ地方 Rehiyon IV-B カラパン市、 東ミンドロ
ビコール地方 Rehiyon V レガスピ市、 アルバイ
西ヴィサヤ地方 Rehiyon VI イロイロ市
中部ヴィサヤ地方 Rehiyon VII セブ市
東ヴィサヤ地方 Rehiyon VIII タクロバン市
サンボアンガ半島地方 Rehiyon IX パガディアン、 サンボアンガ・デル・スール
北ミンダナオ地方 Rehiyon X カガヤン・デ・オロ市
ダバオ地方 Rehiyon XI ダバオ市
ソクサージェン地方 Rehiyon XII コロンダル市、 南コタバト
カラガ地方 Rehiyon XIII ブトゥアン市
イスラム教徒ミンダナオ自治地域 NRMM コタバト市
コルディリェラ行政地域 CAR バギオ市
国家首都地方 PPR マニラ

政治

詳細はフィリピンの政治を参照

フィリピンの政党およびフィリピンの首相も参照


フィリピン大統領府 マラカニャン宮殿

大統領を元首とする共和制国家であり、フィリピンの大統領は、行政府の長である。大統領と副大統領は、同日に別枠で国民の直接選挙により選出される。任期は6年。

議会は、上院と下院の両院制(二院制)。上院は、24議席で任期6年。3年ごとに半数改選。下院は、憲法上は250議席以下と規定されているが、現在は214議席。20%を政党別の候補者リストから、残りを小選挙区制で選出され任期は3年である。選挙は、2007年など3で割り切れる年に行われる。アロヨ政権は現在の大統領制から議院内閣制へ、両院制議会から一院制へ移行する憲法改正を提案するが進展は見られない。

東南アジア諸国連合(ASEAN)では創設以来の加盟国である。

フィリピン紛争

詳細はフィリピン紛争を参照
フィリピンの共産主義勢力は、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東思想による革命と体制変革をめざす、フィリピンの共産主義・毛沢東主義勢力は、新人民軍(NPA New Peoples Army)を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。新人民軍(NPA)は、フィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍は新人民軍(NPA)の武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2007年10月現在、武力行使は継続中である。

ミンダナオ地区にイスラム教で統治する自治区を作ることを目的としたモロ国民解放戦線(MNLF Moro National Liberation Front)は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、モロ国民解放戦線(MNLF)と政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、モロ国民解放戦線(MNLF)はフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にモロ国民解放戦線(MNLF)のイスラム教による自治を受け入れ、現在はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。

モロ・イスラム解放戦線(MILF Moro Islamic Liberation Front)は、モロ国民解放戦線(MNLF)がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年モロ国民解放戦線(MNLF)から分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラダ政権により破棄された。2003年、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年モロ・イスラム解放戦線(MILF)は停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開し、2007年4月現在、武力行使は継続中である。

アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2007年4月現在、武力闘争を継続中である。

フィリピン政府は新人民軍(NPA)、モロ・イスラム解放戦線(MILF)、アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)の武力行使に対して、フィリピン軍とアメリカ軍による武力掃討とともに、武装勢力の指導者との対話・交渉による、和平協定の締結、武力紛争の終結、武装解除を目ざしているが、2007年8月現在武力紛争は継続中である。

経済

詳細はフィリピンの経済を参照


マニラ郊外 マカティ

アメリカ合衆国による植民地政策では農業政策が失敗し、スペイン時代のプランテーション農業に基づく地主と小作人の関係が現在も続いている。この地主は全国に数十人おり、彼らの家族が国土の半分以上の土地を所有している。農村部では半数以上が一日1ドル以下の生活をする最貧困層である。これが南部イスラム地域では75パーセント以上が最貧困層である。

食料の自給率は遅々として回復せず、国民の生活は昨今の穀物価格の高騰やベトナム政府の米輸出制限措置の影響を大きく受けている。

資源に乏しいが、農業、軽工業、サービス、セブ島やボラカイ島などリゾートを中心とした観光業が主要な産業であるため、原油価格の変動を受けにくいとも言える。90年代のアジア通貨危機でもフィリピンはIMFの管理下にならなかった。フィリピンの経常収支は800万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられている。主要な貿易相手国はアメリカと日本である。1998年のアジア通貨危機のあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、タイ、インドネシア、大韓民国に比べると回復は早かった。南部イスラム勢力との和解成立後、ミンダナオ島にもアメリカなどからの直接投資も入り始めている。

国民

住民は、マレー系が大部分(全体の90%程度)であるが、過去数百年で中国系(華人)やスペイン人との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。その他、山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオ、ミンダナオ島などの南部在住のモロ(イスラム教徒)などがいる。

外国へ出稼ぎに行く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人、アメリカ人とフィリピン人のハーフの人が多い。

華人

フィリピン華人の大部分は中国福建省南部の出身である。血統からいえば、約1千万人のフィリピン人は中国系であるが、明清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫である。現在でも中国語を話し、中国の習慣になれている者は60万人から80万人程度と推定される。

人口

2005年の人口は、87,857,473人。国連等の推計では、2020年には1億人を超え、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。

言語

国語はフィリピン語、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にもほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語にはスペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)、中国語(北京語や福建語)、イスラム教徒の間で使われるアラビア語がある。

アメリカの植民地であったこともあり英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。現行の1987年憲法は、フィリピン語を国語と定めるとともに、「フィリピンの公用語はフィリピン語と、法律による別の定めがあるまでは英語である。」と規定し、将来はフィリピン語だけを唯一の公用語とすることを宣言した。しかし、アロヨ大統領は2008年1月を目途にスペイン語の再公用語化を狙っていた[2]。

宗教

フィリピンはアジア唯一のキリスト教国である。キリスト教はスペインが植民地支配したときに広まった。スペインが伝えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者である。キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。そのうち、ローマ・カトリックが83%、プロテスタントが9%、他にはイスラム教が5%、仏教などが3%である。キリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始的な宗教(フィリピン神話)があった。(フィリピンの神話上の生き物も参照されたい)

文化

詳細はフィリピンの文化を参照

食文化

詳細はフィリピン料理を参照

フィリピンにはスペイン料理とアジア諸国の料理から影響を受けたバラエティー豊かな食文化がある。

フィリピン人は炊いたご飯かチャーハンのような炒めたご飯を主食とし、これにおかずを合わせる。西洋人がナイフとフォークを使うのに対して、フィリピン人は通常スプーンとフォークで食事を取る。主な料理には次のようなものがある:


カレカレ


シニガン
アドボ (adobo) - 豚肉や鶏肉の煮込み。酢でマリネしてから煮込む。
ルンピア(lumpia) - フィリピン風春巻き。
パンシット(pancit) - 麺類。
レチョン(lechón) - 仔豚の丸焼き。祝い事のあるときなどに食べる。
アフリターダ(afritada) - 豚肉や鶏肉のトマトソース煮。
アサード(asado) - 牛肉のグリル。
パン・デ・サル(pan de sal) - 塩味のパン。
ペスカード(pescado) - 魚のグリルかフライ。
ディヌグアン(dinuguan) - 豚のモツと血の煮込み。
カレカレ(kare-kare) - オックステールやハチノスのピーナッツソース煮。バゴオンと一緒に食べる。
シニガン(sinigang) - タマリンドで味付けした酸味の強いスープ。肉やエビのほかに野菜をたっぷり入れる。
バロット(balut) - 成長中のアヒルが入っているゆで卵。
スナックとしてはチチャロン(chicharon, 豚の皮を揚げたもの)が、デザートとしてはハロハロ(halo-halo, 色々なスウィーツの入ったかき氷)やプート(puto, ライスケーキ)、エンサイマーダ(ensaymada, チーズをかけた甘いロールパン)などが人気がある。
アルコールはサンミゲル・ビールが有名。トゥバ(tuba)という椰子酒も飲まれる。

文学

詳細はフィリピン文学を参照

フィリピンの著名な文学者としては、スペイン語で『我に触るな(ノリ・メ・タンヘレ)』などを著したホセ・リサールなどが挙げられる。

世界遺産

フィリピン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件ある。詳細は、フィリピンの世界遺産を参照。

フィリピンのバロック様式教会群 - (1993年)


トゥバタハ岩礁海中公園 - (1993年)


フィリピン・コルディリェーラの棚田群 - (1995年)


ビガン歴史都市 - (1999年)


プエルト・プリンセサ地底河川国立公園 - (1999年)

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Araw ng Bagong Taon
1月1日(旧暦) 旧正月 Araw ng Bagong Taon ng mga Tsino
2月25日 エドゥサ革命記念日 Araw ng EDSA Revolution コラソン・アキノが大統領に就任した日
復活祭直前の木曜日 聖木曜日 Huwebes Santo
復活祭直前の金曜日 聖金曜日 Biyernes Santo
4月第三日曜日 復活祭 Linggo ng Pagkabuhay
4月9日 バターンの日 Araw ng Kagitingan バターン死の行進の日
5月1日 メーデー Araw ng Manggagawa
6月12日 独立記念日 Araw ng Kalayaan 革命軍の最高指導者アギナルド将軍が独立を宣言した日
8月21日 ニノイ・アキノの日 Araw ni Ninoy Aquino ニノイ・アキノが暗殺された日
8月最終日曜日 英雄の日 Araw ng mga Bayani
11月1日 万聖節 Todos los Santos/Undas
ヒジュラ暦9月の最終日 ラマダンの末 End of Ramadan
11月30日 ボニファシオの日 Araw ni Andres Bonifacio アンドレ・ボニファシオの誕生日
12月25日 クリスマス Araw ng Pasko/Notsebuwena
12月30日 リサールの日 Araw ni Jose Rizal ホセ・リサールが処刑された日
12月31日 大晦日 Medyanotse

スポーツ

フィリピン武術(エスクリマまたはカリと呼ばれる)がフィリピンの国技である。バスケットボール、ボクシング、ビリヤード、バドミントンなどが人気を集めている。
特にバスケットボールはアジアで初めてのプロリーグでありNBAに次ぐ歴史を持つフィリピンプロバスケットボールリーグ(PBA)を立ち上げ、国民的人気を誇る。また、世界選手権でのフィリピン代表は1954年にアジア最高位の3位の記録がある。

ボクシングやビリヤードは世界チャンピオンを多く輩出している。「アジアの怪物」と呼ばれているボクサーマニー・パッキャオや、ビリヤードのエフレン・レイズなどはその世界では伝説的である。パッキャオの世界的活躍は彼を祖国の英雄へと押し上げ、後に続くフィリピン人ボクサーの米国での成功や世界的評価の急上昇という好循環を齎している。

その他、チアリーディング、ボウリング、バレーボール、ソフトボール、ゴルフ、テニスなども人気がある。空手、柔道なども行われており、ボクシングを含めて格闘技が盛んである。気候的理由から、屋外スポーツはあまり人気がない。

脚注

^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ [2]

参考文献


鈴木静夫『物語フィリピンの歴史-盗まれた楽園と抵抗の500年』中央公論社
大野拓司『現代フィリピンを知るための60章』明石書店
五十嵐誠一『フィリピンの民主化と市民社会-移行・定着・発展の政治力学』成文堂
貝沼恵美など『変動するフィリピン-経済開発と国土空間形成』二宮書店
作本直行『アジアの民主化過程と法-フィリピン・タイ・インドネシアの比較』日本貿易振興会アジア経済研究所
小野行雄『NGO主義でいこう-インド・フィリピン・インドネシアで開発を考える』藤原書店
津田守『自然災害と国際協力-フィリピン・ピナトゥボ大噴火と日本』新評論
早瀬晋三『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』法政大学出版局
早瀬晋三『海域イスラーム社会の歴史-ミンダナオ・エスノヒストリー』岩波書店
関恒樹『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』世界思想社
野村進『フィリピン新人民軍従軍記-ナショナリズムとテロリズム』講談社
アンドリュー・ボイド『世界紛争地図』創元社
ダン・スミス『世界紛争軍事地図』ゆまに書房
松井茂『世界紛争地図』新潮社
フランソワ・ジェレ『地図で読む現代戦争事典』河出書房新社
日本経済新聞社『ベーシック-世界の紛争地図』日本経済新聞社
古藤晃『世界の紛争ハンドブック』研究社
毎日新聞社外信部『世界の紛争がよくわかる本』東京書籍

関連項目

フィリピン関係記事の一覧
フィリピンのスペイン語(en:Spanish language in the Philippines)
ラテンアジア(pt:Ásia Latina)

外部リンク



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The Definition Of Art Harbour Blog



The Definition Of Art Harbour


Virtual International Trade Harbours Of Art


Opening Anniversary Date: December 1, 2006

Language: Multi Language


Each harbour can export the works toward the virtual world.

People and organization can import the works from all over the world.


Now,Item: Works on Art Activities that are expressed with Photos and Explanations etc.

Export Method: Each Harbour put the Works onto this blog

Import Method: People and Organizations accsess this blog

Order Method: People and Organizations put some comments about the Works onto this blog.


In the future, we will need transportation including trains,airplanes,ships, cars, buses etc.

in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー

Multi Language

現時点では?


ブログは日本語ベース


Google Translatorで、各国語へ、変換




そして、現場で、リアルなコミュニケーションは?


英語ベースで、現地語がお愛想・・・


こんな感じかな?


Aoyagi YoSuKe

Art HarbOur


The Gaiaと各ハブは?


英語がベースで、Google Translatorで、各国語へ・・・

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As a general rule, the details such as map, price should be in the Official Sites related to the ad.

Each ad may contain the Official Sites' URL related to the ad.


Restriction: The Number of Photos is within 6(basically 3). about 640x480 pixel


Ad Size: Within about 2 standard printing papers.


Example: Spot ad. , Flyer, Live Report, Poem, Short Story, Illustraltion, Photo, Paintings etc.


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アート・ハーバーに関連した人、作品、店などをスポット広告として紹介する。


原則として、地図や価格などの詳細は広告に関連したオフィシャル・サイトに掲載する。


各広告には関連オフィシャル・サイトのURLを掲載しても良い。


制限:写真など6枚以内(基本は3枚) 1枚に付き640×480ピクセル程度


サイズ:標準プリント用紙(A4)約2枚以内


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