国連へ、オランダ・ハーグ司法裁判所へ
JCBとAMEXのどちらに信用保証を与えますか?
以下のような野蛮人は信用しません - JCB
専務取締役・副社長)人事担当、総務担当、AMEX信用保証担当
VENUSの誕生は? イタリアにあるはず・・・ バチカン? ウフティ?
自由の女神? マドンナ?
ボディサトバとは? 菩薩の象徴です。民を救済するもの。たとえば、ダライラマやマザーテレサのことです
モネータとは、ローマのマネーの女神。忠告をする女神です・・・
【菩薩】ぼさつ (梵 bodhisattva 覚有情) 自利・他利を求める修行者
モネータ [Moneta]◇ローマ
「忠告女」の意であり、ユノーの呼称の一つ。
カピトリウム丘北頂にあった彼女の神殿で
「ユノ・モネータ・レギーナ」という名で祭られていた。
その神殿は後に貨幣鋳造所となり、
モネータはそこを意味するようになった。
英語のmoney、仏語のmonnaire等の語源である。
目的は? 世界の金融システムの安定稼働である・・・
なお、一般的な意味では、バーチャルマシンである・・・
マネーを紡ぐ月である・・・
空転金融原子炉のイメージは?
第二の月である
阿修羅ダンスこそ、モネータ&ボディサトバのイメージです・・・
すげ~~~
モノクロの阿修羅ダンス
さすが~~~、マドンナ~~~、ぶらぼ~~~
ばりばりのラテン系だ、笑い
父はイタリア系シルビオ・チッコーネ、母はフランス系マドンナ・ルイーズ・チッコーネ(母と同名)。
Vogue
8:04
Madonna
ポップ
1
84年か? シリコンバーレーに行った年・・・
Like A Virgin ライク・ア・ヴァージン (1984)
ついに、マドンナと縁ができた・・・
Hope For Haiti
Like a Prayer
3:30
Madonna
Hope for Haiti Now
ポップ
6
第9書 天王星 Barbra - Movie Album
第10章 海王星 Poseidon
ボイジャーとポセイドンのコミュニケーション
Can you see it, Voyager?
Where is you? Poseidon... Over
Voyager, I'm in the Sea of Cosmos...
I'm in the neighbor of you, Voyager...
社主(やしろのぬし)
社訓)
ソウルは魂、人である・・・
スピリッツは、開拓者の魂
ハートは、愛のサイン
マインドは、紳士の心得
ソウルは友愛、パートナーシップ
スピリッツは心の自立
ハートは絆
マインドは経済の自立
子供へ、原則として、自身のカネは、自身で稼げ - 独立精神
クリエイティブクラスとは? デザインができる人
デザインとは?
意匠、創意、工夫、設計・・・
デザイン=プラン(時系列)+モデル(ハード)+スタイル(ソフト)
モードとは? デザインのダイナミズムです・・・
ビジネスとは? デザインをもとに、政治経済力学をもって、トレードすること
オープン、フェア、オネストの心得で・・・
アシスタント)Angel Heart
エンジェルハート 略称はAH? アートハーバーの略称もAH、つまり、エンジェル・ハート
以下のような野蛮人は信用しません - AMEX
有色人種(黒、黄)、白色人種(白アルビノ)に分類して、アパルト体制を敷く
禁立ち入り、白色人種
有色人種の数 > 白色人種の数
白色人種用乗り物を用意する。有色人種用乗り物には乗るな!!!
アルビノは嫌いだ~~~、野蛮だから~~~、出ていけ~~~、追放だ~~~
消え失せろ~~~ - 有色人種連合
歩行者天国は、自由通りのはず・・・
暗闇で、警備員が監視カメラでチェック・・・
鬼畜ニッポンそのもの、笑い
餓鬼、車から出て、ホンネを言え・・・
隠れるな、毛唐は嫌いなんだろ?
正々堂々と言え!!!
毛唐、追放~~~
左下側から大気圏に突入し、輝きを放ちながら地球に帰還した「はやぶさ」の最後の軌跡=2010年6月13日、和歌山大宇宙教育研究所提供
はやぶさのカプセルが着陸したオーストラリアの簡単な歴史です・・・
オーストラリアのラッド首相は、アボリジニに対して、公式に謝罪しました・・・
中国人に対する謝罪はされていない・・・
グローバルでは、日本人はチャイニーズと間違えられることもある・・・
よって、中国人に限らず、サルの家である、笑い
オーストラリアのれきしをしる
夕方になってキャンプへ戻って、夕日を見るためにがけを登った。半島のほうを見渡すと、広大な空の下に、陸地が水平線へとうずくまるように連なって、インド洋で消滅する。シャーク湾のほうを見渡すと、陸地が終わりになる地点や、空と海が交わる地点は、遠くでぼんやりとしていて、見分けるのが難しかった。風が絶え間なく吹いて、明るい色の赤土と、クリーム色の砂地を削っている。セージ・グリーンの茂みが、風にはむかうような格好で生えている。砂が舞い上がり、吹きだまりになって、浜の地形が変わる。赤土の煙が舞い上がって、地上に舞い戻る。ハヤブサや白い胸毛の海ワシが落とした糞が、青空に向かって突き出ている岩だらけのがけの上に白い斑点になって見える。ずんぐりしたアカシア類の植物は、二メーター以上には育たずに背が低い。アカシア類は、乾燥した厳しい気候に耐えるために、頑丈で不恰好で黒っぽくねじれている。
初めてシャーク湾を探索したとき、地の果てに来たように感じた。デナムの町には、建物が海岸に面した道の片側に沿って少しだけ並んでいる。水平線上にかすかに並ぶはるか彼方の列島が、エーデルランド半島とシャーク湾を区切っている。列島はシャーク湾とマダガスカル島の間にある唯一の陸地だ。どこもかしこも、不思議で見慣れない光で輝いていた。
シャーク湾はオーストラリア大陸の西端にあり、ヨーロッパの探検家が初めてオーストラリア大陸に足を踏み入れた地点だ。長い間、ヨーロッパの探検家にはオーストラリアは幻の大陸だった。オーストラリアはほんとうに存在するのだろうか、広大な南の大海の中にそんなものがあるはずはないなどと疑っていた。航海術や装備が未熟だったので、大陸を発見する試みはことごとく失敗した。大陸の近くまで航海して、大陸の音が聞こえる地点まで来た頑健な探険家もいた。しかし、彼らは不思議な大陸へ接近したことには気づかずに、ヨーロッパから数か月の厳しい航海をしてきて疲労こんぱいしただけで帰っていった。
オランダ人のダーク・ハートグが初めてオーストラリアへ上陸した。一六一六年、現在のインスクリプション岬にエンドラヒト号を接岸した。だが、島は不毛の地で、風が強かった。この島はシャーク湾の列島の中にあって、現在ではハートグ島と呼ばれている。ハートグは上陸地点にシロメ(錫と鉛などの合金)の飾り版を置いたが、その飾り版は安置されてはいなかった。一六九七年に別のオランダ人ド・フラミン船長がインスクリプション岬に立ち寄って、ハートグの飾り板を取り除き、自分の飾り板を据えつけた。だが、後年にハートグの飾り板に戻された。一七二二年、フランソワ・ド・サン・アルワーンがインスクリプション岬に上陸し、正式にフランス領土だと宣言した。フランスのコイン二枚と羊皮紙一枚をびんに入れて埋め、乗組員一名の遺骸も埋葬した。この不毛の地で所有権を巡って争いが起きたとは想像しがたい。
一六九九年、イギリス人ウイリアム・ダンピアーがシャーク湾と命名した。一八〇〇年代初期、ジェオグラフ号のボーダン船長と、ナチュラリスト号のハメラン船長のフランス人探検家がシャーク湾および海域の海図を初めて作った。一八二七年、イギリス人が西オーストラリアに初めて入植地を作った。入植地はシャーク湾からかなり南方のキング・ジョージ・サウンド(現在のアルバニー)と、スワン・リバー(現在のパース)だった。オーストラリア全土は最終的に大英帝国の支配下に入った。
もちろん、オーストラリアの歴史はヨーロッパ人から始まったのではなく、四千年以上も前にオーストラリア先住民のアボリジニから始まった。シャーク湾にはナンダ族とムルガナ族がいた。シャーク湾にある最も古いアボリジニの居住地跡には、貝塚(貝、カニの爪、哺乳類の骨、石器などが堆積している)があるが、今から五千年も前のものだ。今のところ、歴史家や考古学者がシャーク湾の綿密な調査をしていないので、古い居住地跡がまだ他にもあるかもしれない。
シャーク湾は乾燥地帯なので物の保存状態が良く、過去の断片が湾内に散らばっている。私は切り株のような茂みを何とはなしにぶらつくことがあった。一方をトゲのあるアカシアがさえぎると、別の方向に向かった。大きくて丸い金色のクモの巣が行く手を遮ったときには、別の道を探した。クモの巣を払うために棒切れを振り回すのだが、クモの巣が頑丈な場合には、それなりの力で払わなければならない(驚くほどの音を立てる)。右往左往して進むと、過去の残骸に出くわすことが多かった。
中国人やマレー人の真珠捕りが使った土製の古いパイプがよく見つかった。茂みの中に座っているときに、パイプはよく見つかる。茂みの中で息を殺して気持ちを静めて耳を傾けると、自分と異世界との波長が合って、アカシアの節くれだった幹のそばから発する白い輝きが目にとまる。それは間違いなくパイプだ。私にとっては不慣れな場所のど真ん中だが、かつては誰かが腰をかけて、タバコを吸って、くつろいでいたのだろう。彼らはカンムリヅルとスズドリの鳴き声を聞きながら、クモの巣だらでけで、トゲだらけの迷路に押し入って、赤土の上をうろつくアリをながめていたと思われる。
白く輝く緻密な石のかけらを見つけると、私には不思議な感覚が芽生えた。この種の石をこの地域で見かけたことがなく、何か不思議な石だなと感じた。かけらは種類が違う岩や砂に囲まれていて、私には鑑識眼がないので、何の石かを断定できなかった。石は人の手で切り出されて加工されたように見えた。かけらをポケットに突っ込んでキャンプへ持ち帰り、宝物のコレクションにくわえた。後に、シャーク湾にはヤリンガ・チャート(珪質堆積岩の一種)を採取する石切り場があることを知った。アボリジニは主に石器を作っていた。石切り場から採石し、加工した石のかけらが、シャーク湾のいたるところで見つかる。石切り場から数百キロ離れた場所で見つかることさえある。
風景をながめれば、アボリジニの姿を思い浮かべるのは簡単だ。アボリジニはこの地域の独特な豊かさを利用する知識と習慣を身につけて繁栄した。彼らは魚、貝、ジュゴン(マナティーに似ている海牛)、亀、トカゲ、鳥などを捕った。アボリジニからすれば、シャーク湾はかなり住みやすかったはずだが、ヨーロッパ人にとって、ここは厳しく容赦のない不毛の地にしか見えなかった。草花に満ちたなだらかな牧草地もないし、放牧する鹿もいない。日陰になる木もなければ、水が泡立って流れる小川もない。
「ホープレス・リーチ(希望のない到達点)」
や、
「ユースレス・インレット(使えない入江)」
などの地名に、
初期のヨーロッパの探検家の失望と失意が反映されている。
当時は、船乗りが壊血病や栄養不良になることは、すなわち死を意味した。シャーク湾には船に積み込む新鮮な水もなかったし、馴染み深い動植物もいなかったので、ヨーロッパ人は絶望した。だが、この地の厳しさのおかげで、アボリジニに特有の習慣が生まれて、独特の発想もわいた。
シャーク湾の水位は驚くほど低い。初期の探検家は海図を持っていなかったので、湾内に入ろうとしたときには、迷路のような水路や浅瀬を右往左往したに違いない。水深は平均で約十メーターだ。しかも、海域の約四分の一は水深が九十センチ未満しかなく、海岸線のほとんどは砂地で、海草におおわれていて、沖まで浅瀬だ。浅瀬が岸から百八十メーターくらいは続くので、ボートを浜へ入れようといろいろ案を練っても、海岸に到達するのはまず不可能だった。
長さ十二メーターのボートで、モンキー・マイアから約十五キロ離れた小さなフォーレ島に行って、グリーン・タートル・フラッツの外側の海岸から七百メーター離れた地点で錨を下ろした。引き潮になって、水深がひざ下になるのを待って、海岸まで歩いた。島を探索しているうちに、潮が急に満ちてきた。太陽が沈むころに、ボートへ戻ろうとすると、海面が胸の高さになっていて、鮫に囲まれた。
イルカにとっても、シャーク湾の浅瀬は問題だ。シックルフィンをボートで追っていると、水深が足りなくなり、それでも追い続け、砂と海草の迷宮に入った。ほとんどの迷宮は浅くて、潮位が低いときには渡れない。そこで、シックルフィンが方向を変えて深みへ行くのを待った。だが、シックルフィンはまっすぐ進んでいって、背中と背ビレが水上に出てじたばたして、水がほとんどない砂地へ打ち上げられてしまった。しかし、シックルフィンは方向も変えず、後戻りもせずに砂地を進んでいって、胸ビレと腹を使って、アザラシのように反対側へ飛び越えた。
シャーク湾は浅いので、イルカの観察に適している。水も澄んでいるので、イルカが海底へ潜っていても見える。水が澄んでいる日にボートをゆっくりと進めると、水面下で驚くべき世界が繰り広げられることもある。海底で休んでいる亀が上方を見ている。そこに一条の光が差し込んでくる。ボートで近寄ると、亀が砂地を蹴って、砂煙が舞い上がり、幾何学模様の貝殻が砂地に残る。さまざまな海草の群落が熱帯林の縮図のように見えて過ぎ去っていく。このような日には、ボートに近寄ってくるイルカの肌についている、すり傷や引っかき傷までもが見える。体の場所によって、傷には微妙な違いがあり、尾の切り傷や、胸ビレのねじれ傷や、目の周りの傷などが見える。イルカは砂と、海草と、灰色に輝く他のイルカを背景にして、何気なしに浮かんでいる。
十九世紀半ば、シャーク湾は鳥糞石産業(海鳥の糞からできる肥料)が栄えた。ウ科の水鳥やその他の海鳥が大きな繁殖地を作っていた。まもなくして、真珠産業がそれに続き、真珠の一大産地となった。中国人とマレー人の真珠捕りが湾の周囲に住み着いた結果、現在のシャーク湾の住民には、アボリジニ、ヨーロッパ人、マレー人、中国人の血が混じっている。モンキー・マイアの名前の由来について、一説がある。
ヨーロッパ人は中国人を
「モンキー」
と呼び、
アボリジニの言葉でマイアは
「家」
を意味する。
モンキー・マイアとは
「中国人の家」
を意味するという説だ。
一日でアコヤガイの大きな山を積み上げて、貝殻をひとつずつ開けて真珠を取り出す。アコヤガイは大樽の中で放りっぱなしにされていて、残った真珠を取るために、さらにアコヤガイをゆでる。当時は腐ったアコヤガイ(ポギー)をゆでる匂いが湾全体に充満していたに違いない。
ある日、茂み「ブラ」をして小屋を見つけた。かつて、中国人かマレー人の真珠捕りが残した小屋だろう。茂みの中を歩き回っていて、茂みが密集し通れなくなり、砂地に腹ばいになって茂みの下をくぐり抜けた。茂みの真ん中辺りの少し開けた場所にたどり着くと、古めかしいさびついた金属製の鉢と皿がころがっていた。かまどの跡もあった。何気なく辺りを見回すと、砂の上に土製の白いパイプと飾りボタンがあった。それにはアジア風のデザインがあしらってあった。
最終的には、漁業がシャーク湾の主要産業になった。タイとハタ(熱帯から温帯の浅い海に広く分布する魚)が釣れて、ボラとタラが網にかかった。魚の質は上等だった。エビとホタテを海底から採取していたが、海草の林が破壊されるため、後に、採取漁は禁止された。
十九世紀の初期には、シャーク湾に
「隔離病棟」
が建てられた。
男用と女用がそれぞれバーニア島とドーレ島にあった。性病かハンセン病を患った北西オーストラリアのアボリジニが、舟で病棟に送り込まれた。アボリジニは家族や親戚から隔離されて、衰弱するだけで病棟から逃げ出る望みはなかった。
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