人が横になっていると・・・
くんくん、ふんふん、べろべろ、ふん、ぷい、ごっくん、つばを飲み込む・・・
しつこく、耳をなめまくる・・・ 頼むから、耳の穴までなめるな~~~
ところが、立ちあがって、歩いていると、敏感に反応して、逃げまくる・・・
何を嗅ぎつけているのだろうか?
僕のことを、かなり敏感に気にしているようだ・・・
犬が考えていることは不可解だ?!?
注意)以下は、2005年時点での、企画書用の試訳です。よって、それ以上の品質保証はいたしません。なお、本書はすでに、NHK出版から、翻訳本が出版されています。
「訳本企画書」 2005/05/09
翻訳者 青柳 洋介
Animals in Translation
Temple Grandin and Catherine Johnson
アニマルズ・イン・トランスレーション
━━自閉症の神秘によって、動物の行動を解読する(仮題)
テンプル・グランディン キャサリン・ジョンソン
SCRIBNER刊(356P ISBN 0-7432-4769-8 Copyright 2005 Simon & Schuster Inc.)
テンプル・グランディン━動物学の博士号をイリノイ大学から取得している。コロラド州立大学の助教授になり、Thinking in Picturesなど、自閉症に関する本を二冊書いている。彼女自身が自閉症だ。
キャサリン・ジョンソン━神経精神医学と脳を専門とする作家だ。Shadow Syndromesなどの本を三冊書いている。三人の息子のうち二人は自閉症だ。
動物を外部から見る、内部から見る
私は大学に入るころまでに、動物について学びたいと思うようになった。
それは、一九六〇年代のことだった。心理学の分野ではB.F. スキナーと行動主義がすべてだった。スキナー博士はとても有名だったので、アメリカの大学生はだれでも「自由への挑戦」を本棚に入れていた。学習することのすべては行動だと、彼は教えた。人あるいは動物の頭の中に入っているものについて推測しようとしてもだめだ。なぜなら、知性、感情、動機などの頭というブラックボックスに入っている中身をすべて知ることはできない。そのブラックボックスに立ち入ることはできないし、語ることもできない。行動のみを調べることができる。そのため、行動だけしか研究できない。
行動主義者によれば、問題となる唯一のことは環境だったので、これは大きな損失ではなかった。
動物には感情も知性もないと教えて、この考えを極端に支持した行動主義者もいた。動物にあるのは行動だけだ。行動は、報酬、罰、環境からの正、負の強化によって決まる。
報酬と正の強化子は同一物だ。つまり行動が原因で起きる良い結果である。罰と負の強化は対極にある。罰は行動が原因で悪い結果になる場合に与えられる。一方、負の強化は行動が原因で悪い結果になるのを止める、あるいは、そもそも始めないようにする。罰は悪い、負の強化は良い。罰は行動を止めさせる。動物にさせたい行動をさせる場合に、悪い行動に罰を与えることは、良い行動に報酬を与えることよりも効果的でない、と大半の行動主義者は信じているが。
負の強化はもっとも理解するのが難しい。負の強化は罰ではなく報酬だ。しかし、その報酬は、望まない行動を止める、そもそも始めないようにするという意味において、負だ。たとえば、四歳の子供が泣き叫んで、いらいらする。最終的に、堪忍袋の緒が切れて子供を叱りつける。子供は驚いて黙り込む。これは負の強化だ。なぜなら、泣き止ませたからだ。それが望みだった。次回に子供がかんしゃくを起こすと、前回にかんしゃくを起こしたときに叱りつけて負の強化を行なったので、子供をもっと叱りつけがちになる。
行動主義者は、この基本概念に基づき動物のすべてを説明しようと思った。動物とは、基本的に刺激を与えれば反応する機械と考えた。この考えに支配された力を想像することはおそらく難しい。それは宗教に近かった。私や多くの人たちにとって、B.F.スキナーは神様だった。心理学の神様だった。
彼自体は神とは程遠いと分かった。私は、B.F.スキナーに一度会った。私自身のスクイーズ・マシンに関して彼に手紙を書いた。彼を印象付けたのは私の動機だ、という手紙を返してきた。考えれば滑稽という代物だ。私の行動ではなく内面の動機について語る行動主義の神だった。彼は時代に先駆けていたと私は推測する。今日では、動機は自閉症の研究において関心の的であるが。
私は手紙を受け取った後に、彼の事務所に電話して面会できるか尋ねた。行なった研究のいくつかを話したかった。
彼の事務所からは、ハーバードを訪れるように電話で言ってきた。まるでバチカンのローマ法王に会いに行くようなものだった。スキナー博士は、心理学全般でもっとも有名な教授だった。彼はタイム・マガジンのカバーにも載った。彼に会うために歩いているときに、私は極度に緊張していた。ウィリアム・ジェームズ・ホールへ歩いて行き、その建物を見上げ、「こここそ心理学の殿堂だ」と感じたのを思い出す。
しかし、彼の事務所へ入ると、とてもがっかりした。彼は普通の人に見えた。植物が事務所の周囲に絡みつき部屋の周りを覆っていたことを思い出す。私たちは腰をかけて話した。彼はまったく個人的な質問から切り出した。それが何であったかは思い出せない。なぜなら、私は会話した特定の言葉や文をほとんど覚えないからだ。自閉症の人はビジュアルなイメージで考えるからだ。言葉が頭を通過することはほとんどない。ビジュアルなイメージの流れがあるだけだ。そのため、質問の言葉の詳細を覚えていない。彼が質問した行為だけしか覚えていない。
彼は私の足を触ろうとした。私はショックを受けた。私はセクシーな服装でなく地味な服装をしていた。けっして予期していなかった。
「見てもいいですけど、触らないでください」
こう言ったことだけを覚えている。
それでも、私たちは動物と行動について話し始めた。最後に彼に言った。
「スキナー博士、私たちが脳の働き方を学ぶことができたら、、、」
次は、私が具体的に覚えているもうひとつの会話だ。
「我々は、脳について学ぶ必要はない。オペラント条件づけがあるだけだ」
と彼は言った。
これを心に留めて学校へ戻って、最後につぶやいた。
「あれは、私は信じないわ」
私はそれを信じない。というのも、私の事情には合わないと思える問題だったから。私は大学で動物比較行動学のクラスも取った。比較行動学者は自然環境の中で動物の研究をする。トーマス・エヴァンスが講師で、動物の本能について講義した。本能とは、動物が生まれつき持っている固有の行動パターンだ。本能は環境とは何ら関係がなく、動物が本来持っているものだ。
スキナー博士は、老年になって考えを変えた。私の友人のジョン・レーティはハーバードの精神科医で、「Shadow Syndromes」(本書の共著者のキャサリン・ジョンソンが共著した)と「A User’s Guide to the Brain」を書いた。ジョンはスキナー博士が死ぬ少し前に昼食を共にしたときの話をした。話の中でジョンは博士に尋ねた。
「ブラックボックスの中に入って行く時期だと思いませんか」
スキナー博士は答えた。
「脳梗塞を患ってからは、私もそう思っている」
脳はすごい力がある。人は脳がうまく働かなくなってから初めてその力を知る。スキナー博士は苦しみの中で学ばねばならなかった。脳梗塞により、すべては環境に支配されているのではないと知った。しかし、私が研究を始めた一九七〇年代は、行動主義が原則だった。
だが、私は行動主義の敵であるとは思われたくない。実際に敵ではない。動物の脳の中を見ないと言う点では、行動主義者も比較行動学者も異ならなかった。行動主義者は実験室の中で動物を観察した。一方、比較行動学者は自然環境の中で動物を観察した。しかし、両者とも外部から動物を見ていた。
行動主義者は過ちを犯して、脳は聖域だと宣言した。しかし、環境に焦点を当てたことは、大きな前進の一歩であり今日へ繋がっている。行動主義が認められて初めて、環境がいかに重要かが理解された。多くの人は未だにそう思っていない。食肉加工業界で私は三十年働き、動物に対し思いやりのある操作システムを設計した。多くの牧場主は牛の環境について二度は考えない。牛の群れにある問題が起きたら、何が起きているかを見るために牛の環境を見ることは思いつかない。私が設置した装置を欲しがるが、環境が悪いと装置がうまく働かないということには気づかない。
ある加工場では、環境とは物理的環境を意味する。従業員が牛を扱う方法も意味する。牛の扱いが悪いと優秀で十分に整備された装置でもうまく働かない。
私が設計したセンター・トラック抑制システムは、北アメリカにある加工場の半数に設置されている。牛をうまく扱った場合にだけうまく働く。私の抑制システムは牛の胸と腹の下を動く搬送ベルトだ。牛は木挽き台をまたぐのと同じようにベルトを縦方向にまたぐ。
加工場が私の設計を採用した理由は、従来のV字型抑制システムよりも、私のシステムのほうを牛が自ら進んで歩くからだ。私のシステムはずっと効率的だ。従来のシステムの悪い点は、牛がその上を歩きたがらないことだけだ。V字型抑止システムはうまく働いて牛を傷つけない。しかし、足が締め付けられ足のためのスペースが十分にないところには牛は行きたいとは思わない。私の設計の革新点は技術上のことでなく、行動上のものだった。牛の行動を重視しために、よりよく動作する。
しかし、加工場はそれに気づいているとは思えない。牛の扱いが悪いと、私の装置はうまく働かないということにも当然気づいていない。装置に目を向けているだけだ。
行動主義者について私が好ましいと思っていることに、多くの場合彼らが天性の楽天家だということもある。学習の法則は単純で普遍的であり、あらゆる生物はその法則に従う、と行動主義者は当初は考えていた。すべての動物と人間は同様の方法で学習するから、観察する必要があるのは実験室のラットだけで良い、とB.F.スキナーが考えた理由だ。
スキナー博士の学習に対する考え方は連合主義者のものだった。正の連合(あるいは報酬)が行動を促し、負の連合(罰)が行動を抑制するという意味だ。真に複雑なことを教えたいなら、部分に分割し小さなステップをそれぞれ教え、それに沿って報酬を与えるだけでよい。これは課題分析(Task Analysis)と呼ばれた。動物の訓練だけでなく(動物のトレーナーはある程度までは行なっていたが)、障害を持った人間の子供や大人にとっても、大きな助けになった。朝起きて服を着て朝食を取るなど一日の中でしなければならない行動を部分に分割した、親のための行動学に関する本を私は見てきた。朝、服を着るような簡単なことにも十二、三以上のステップがあり、課題分析はおのおのをリストにしてひとつずつ教える。
課題分析は簡単でないように思える。なぜなら、普通の人は靴をはいたりシャツにボタンを掛けたりする行動の中にある小さな個別の動作に、なかなか気づかないからだ。普通の子供は簡単にやってのける。そのため、服を着たり靴を履いたりすることを子供に教えるのに、親に特別な技術は必要ない。シャツのボタン掛けの手がかりも、分からない人に教えようとすると、その方法が本当には分かってはいなかったと、すぐに気づく。ボタン掛けの中の小さな個別の動作を理解しているという意味では、本当には分かっていない。でも、ボタン掛けをやっている。
報酬を正しく与えれば、動物や人は何でも学習できるという行動主義者の信念は、I.ロバース博士を自閉症の子供に関する研究へ導いた。最も有名な研究の中で低年齢の自閉症の子供をグループ分けした。半分は十分な行動療法をし、残り半分はほとんど何もしなかった。行動療法とは、古典的オペラント条件づけのことで、学ばせたい行動を子供に何度も繰り返しやらせて、うまく行なえた場合には必ず報酬を与える。十分に治療を受けた半分の子供は普通の子供と「区別できない」までに達したという結果を発表した。
ロバース博士が本当に子供を治療できたのか何年も物議をかもしたが、私にとっては子供をそこまで導いたという事実は重要な点だった。行動主義のおかげで、自閉症の人は思った以上に多くのことができると、親や教師が考えるようになった。これは良い点だった。
行動主義者は動物と人間をそうとう緊密に観察したし、今日でも観察していることも、行動主義者の大きな貢献である。動物の行動の小さな変化をすばやく見つけ、環境の何らかの変化と結びつける。これは動物に対する私の重要な才能のひとつだ。
行動主義に問題はあるが、多くののものを提示したし、いまなお提示している。さらに、比較行動学者は見えにくい点も見つけた。たとえば、比較行動学者と行動主義者は、だれもが犯す最も大きな誤りは動物の擬人化だ、という点で合意している。比較行動学者と行動主義者では、擬人化を良くないとする理由は異なっていたが、理由はともあれ両者は合意していた。擬人化は人間を動物とみなすのと同程度に悪いのだ、とスキナー博士は考えていた。動物の擬人化は悪いことだった。
これに重点を置くのはかなり正当だ。なぜなら、多くの場合に飼い主は、ペットを四本足の人間であるかのように扱うからだ。プロのトレーナーは、ペットが人と同じように考えたり感じたりすると考えるな、といつも飼い主に忠告しているが、飼い主はとにかくそう考えてしまう。犬のプロ・トレーナーであるジョン・ロスでさえ、「Dog Talk」という本の中で、最初は犬を擬人化した、と書いている。ジェイソンという名前のアイリッシュセッターを飼ったが、そうとうの「ごみ散らし犬」だった。ロス氏が不在のときには、たえずごみを散らかしていた。ロス氏が家に戻ったときに、ジェイソンは床を散らかしていた場合には逃げるので、ジェイソンは自分が悪いことをしたと知っている、とロス氏は思った。ジェイソンは散らかしていない日には逃げない。そのため、ジェイソンがキッチンにごみを散らかすのを悪いことだと知っていて、悪いと感じるから逃げるのだ、とロス氏は考えた。
経験が豊富なトレーナーがロス氏に実験をさせて、それは誤りだ、とロス氏に分かった。ジェイソンが見ていないときに、ロス氏自身が床中にごみを散らかすように、とトレーナーは言った。そして、ジェイソンをキッチンへ連れて行き、どのようにするかを見るように言った。
ジェイソンがいつもと同じようにすることが分かった。ごみが床に散らかっていれば、ジェイソンは逃げ出す。悪いと感じたから逃げたのではなく、怯えたから逃げたのだ。ジェイソンには床のごみが問題だった。ロス氏が行動主義者に原理に従って、ジェイソンの「心理学」の代わりにジェイソンの「環境」を考えれば、誤りを犯さなかっただろう。
二匹の犬を飼っている私の友人が同様の経験をした。一匹は一才のシェパード、もう一匹は三か月のゴールデン・リトリバーだ。ある日、子犬のほうがリビングルームで糞をした。しばらくして、年上の犬が糞を見て不安になりよだれを流し始めた。年上の犬のほうが自分で糞をしてよだれを流したのなら、年上の犬自身が悪いことをしたと分かった、と飼い主はおそらく考えただろう。だが、子犬のほうが糞をしたのでリビングルームの床の糞は単に悪い知らせの類のもの、と飼い主は理解した。
これらの話は、動物の擬人化が正しくないとする従来からの例だ。しかし、これがすべてではない。私の学生時代には、みなが動物の擬人化に反対していたが、私は動物の側からの見方が重要だと信じていた。ロン・キルガー(比較行動学者である)という名前のニュージーランド出身のすばらしい動物心理学者がいたのを覚えている。彼は擬人化の問題に関してたくさんのことを書いた。初期の論文でペットのライオンを飛行機で輸送する話について述べた。輸送に際して人と同じようにライオンが枕を欲しがると考えた者がいて、枕を与えたら枕を食べて死んだ。要は擬人化するなということだ。擬人化は動物にとって危険だ。
だが、私はこの話を読んだとき、つぶやいた。
「そうよ。ライオンが枕を欲しがるはずはないのよ。ライオンは、葉っぱや草のような寝るための柔らかい物を欲しがるのよ」
私はライオンを人としてではなく、ライオンとして見ていた。少なくともそれが私がしようとしていたことだった。
しかし、この種の考えは、行動主義者にとっては正当ではなかったし比較行動学者が支持するものでもなかった。正直言って、両方とも環境論者だった。大きな違いは、動物を研究する際に動物がどの環境にいるかだけだった。
結局のところ、私はアリゾナ州立大学の大学院に行く前は、大学で比較行動学の十分な基礎教育を受けた。アリゾナ州立大学は行動主義の中心地だったので、私が研究したことは良いものだった。すべてが行動主義だった。だが、マウスやラットやサルに対して行なっていた残酷な実験のいくつかは好きではなかった。ショックを与えるためにプレキシグラスが陰嚢に突っ込まれた可哀想な小さなサルを思い出す。私はひどいと思った。
私は残酷な実験には加わらなかった。よほど重要なことを研究するのでなければ、動物を実験材料にするのは支持しない。癌の治療法を見つけるために動物を使うのは別だ。なぜなら、動物も癌の治療が必要だからだ。しかし、アリゾナ州立大学で行なっていたのはそれとは違う。私は、一年間、心理学教室で実験心理学を学習した。「こういうのは、やりたくないわ」と思った。
たとえ、実験が動物にとって楽しいものであっても、私には要点がつかめなかった。疑問は「この実験から何を学ぼうとしているのか」ということだった。スキナー博士は強化スケジュールに関してたくさん書いていた。動物が特定の行動に対して受け取る報酬の頻度と一貫性に関して書いた。考えられ得る強化スケジュールを実験していた。名前を挙げると、変動強化、間歇強化、遅延強化などを実験していた。
それは、全体では人工的だった。実験室で動物が何をするかであって、自然の中で何をするかではない。これらの実験をして何が学べるのか。動物が実験室の中でどのように行動するかを学ぶ。最終的に、実験室のラットの群れを中庭に出して、どういう行動をするかを観察する。突然、ラットはそれまでに見たことがないような複雑な行動を始める。
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