文化・文明の伝播 [編集]
愛馬・
ブケパロスに騎乗したマケドニア王アレクサンドロス
人類出現以来、隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。
文化交流は人類に限られたことではなく、
道具の使用をも文化と認めるなら、
チンパンジーや一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を介して文化交流が行われている
[3]。人類は
言葉や
文字を使用するので、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や
科学技術の進歩が必要であった。
古代の国際交流 [編集]
強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは
四大文明の発祥地をはじめ
インカ帝国や
アステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。
中東・インド・中国でも強力な世界帝国
[6]が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。
アフリカ地域でも
古代エジプトのほか、大陸奥部にも
王国が成立し、
塩や
金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易
ネットワークが徐々に構築されていった。
ヨーロッパの停滞と復興 [編集]
十字軍 [編集]
多くの者が
殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は
東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪
[8]、さらに交易が盛んな文化国家ビザンツ帝国への影響力行使を望んだ。
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、
1096年、
聖戦の名の下に東方へ進軍した。内部抗争によって一枚岩とは言えなかったイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍は主導権争いに明け暮れ、ローマ法王やビザンツ帝国との対立も深めたことから、分裂の様相を呈し始める。
さらに
イスラム教徒や
ユダヤ教徒など
異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気が低下し堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達に苦しむヨーロッパ各国民衆の熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。
イスラム勢力を結集した
サラディーンによる反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であった
アッコンを失い、聖地から
地中海に追い落とされてしまった。
国際交流の発展 [編集]
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した
[9]。ヨーロッパから
鉱物資源や
毛織物等が、イスラムから
香辛料や
絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国や
イタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは、ビザンツ帝国や、当時、世界最高水準にあったイスラムの文化や科学技術が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中から
ルネッサンス運動が開始されて
近代への扉が開けられた。
モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒
プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。
中でも
マルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し
東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、
ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の
世界への好奇心を掻き立てた。
海外進出 [編集]
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもった
オスマン朝トルコが
1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の
制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い
関税をかけた。旧来の経済秩序
[10]が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、
ポルトガルと
スペイン両国では
国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(
レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは
民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした
中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして
航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では
遭難や
難破、敵からの襲撃、
壊血病や
疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした
早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
またローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から
宗教改革の嵐に晒されていた
カトリック教会は相次いで成立した
プロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる
宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への
布教活動を開始した。
アフリカ・アジア大陸進出 [編集]
1488年、
バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を
喜望峰と改名させた。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらに
モルッカ諸島などと盛んに交易していたし、
アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していた
マリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の
鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカの
ジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように
14世紀から15世紀までに
旧世界における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。
アメリカ大陸進出 [編集]
しかしコロンブスの航海は期待された成果をあげることができなかった。コロンブスが発見したのはインドから遠く離れた群島と考えられていたうえ、交易に値するものもほとんどなかったからである。コロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、
植民地で発生した反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスを牢獄に繋いだこともあった。
1501年、
アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかとすると、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ失意のどん底で死去することになる
[11]。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、
1500年、
カブラルが
ブラジル[12]に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。
世界周航 [編集]
スペインはこの後も
メキシコ(ノビスパン)から
太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは
1571年メキシコを出発した
ミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は
1542年、当時スペイン王子であったフェリペ(のちの
フェリペ2世)にちなみ、フィリピナス諸島と呼んだことに由来する。
ポルトガル・スペイン間の条約締結 [編集]
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介を
ローマ教皇に依頼して
1494年に
トルデシリャス条約、
1529年に
サラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
ヨーロッパ北部諸国による探検 [編集]
1502年の世界地図
カンティーノ図(Cantino planisphere)。トルデシリャス条約による分割線が図中左側に描かれている
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させようやく航海や探検の後押しをする用意が整った
イギリスや
フランス、スペインからの独立を果たした
オランダといった後発諸国も盛んに海外進出し次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。
後発海運国の最初の探検は、イタリア人
ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(
1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。
1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人
ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人
ジャック・カルティエは
1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る航路(
北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る
北東航路の探検も行い、ロシアと交易を行いクジラ漁の拠点となる北極海の島を多く発見したが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1468年にシベリア東部への探検隊を率い、アジアの最東端となる岬(デジニョフ岬)を発見した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。また新興諸国が残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)を先に探検した。
1606年には
ウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、
1642年には
アベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家が
オーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く
近代化を達成し世界に覇を唱えた。
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