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7/05/2010

ケープタウン ー 喜望峰

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大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインドアジア大陸アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。「大航海時代」の名称は岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた1963年、これまでの「地理上の発見」、「大発見時代」といったヨーロッパ人の立場による見方に対し新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。厳密な定義は、後述の1415年エンリケ王子らポルトガル人によるセウタ攻略から、1648年のロシア人デジニョフによるチュクチ半島デジニョフ岬への到達までとする[1]。それまでは海域ごとに孤立していた地球上のすべての海洋をひとつに結び付けたことから”大”航海時代と称した[2]

文化・文明の伝播 [編集]

愛馬・ブケパロスに騎乗したマケドニア王アレクサンドロス
人類出現以来、隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。文化交流は人類に限られたことではなく、道具の使用をも文化と認めるなら、チンパンジーや一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を介して文化交流が行われている[3]。人類は言葉文字を使用するので、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や科学技術の進歩が必要であった。

古代の国際交流 [編集]

強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは四大文明の発祥地をはじめインカ帝国アステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。
古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を世界として認識していた。アレキサンダー大王の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンダーがペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンダーの帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。
パックス・ロマーナの下、整備された航路道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[4]。多様な人種民族奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った[5]
中東・インド・中国でも強力な世界帝国[6]が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。

ヨーロッパの停滞と復興 [編集]

ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人ノルマン人が相次いでヨーロッパを犯し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリアフランスドイツでは、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代[7]を経験した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練され、徐々に力をつけていった。

十字軍 [編集]

11世紀後半セルジューク朝トルコパレスチナ占領する。セルジューク朝トルコの脅威を受けてビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノス聖地回復を大義名分に、ローマ教皇ウルバヌス2世に支援を求めた。ヨーロッパ各地に十字軍の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。
多くの者が殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪[8]、さらに交易が盛んな文化国家ビザンツ帝国への影響力行使を望んだ。
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、1096年聖戦の名の下に東方へ進軍した。内部抗争によって一枚岩とは言えなかったイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍は主導権争いに明け暮れ、ローマ法王やビザンツ帝国との対立も深めたことから、分裂の様相を呈し始める。
さらにイスラム教徒ユダヤ教徒など異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気が低下し堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達に苦しむヨーロッパ各国民衆の熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。
イスラム勢力を結集したサラディーンによる反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であったアッコンを失い、聖地から地中海に追い落とされてしまった。

国際交流の発展 [編集]

マルコ・ポーロ
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した[9]。ヨーロッパから鉱物資源毛織物等が、イスラムから香辛料等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは、ビザンツ帝国や、当時、世界最高水準にあったイスラムの文化や科学技術が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。
モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。
そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年グユクハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。
中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の世界への好奇心を掻き立てた。

海外進出 [編集]

キャラック船サンタ・マリア号の復元
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコ1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の経済秩序[10]が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船キャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難難破、敵からの襲撃、壊血病疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
またローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。

アフリカ・アジア大陸進出 [編集]

エンリケ航海王子
ヴァスコ・ダ・ガマ
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの進出を確固とし1415年ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸黄金海岸を経て1482年ガーナの地に城塞を築いて奴隷の交易を行った。1485年ディオゴ・カンジョアン2世に命じられてナミビアクロス岬に到達した。
1488年バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日ヴァスコ・ダ・ガママヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。
1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島セイロン島にも進出、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年ジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
 このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易していたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。

アメリカ大陸進出 [編集]

コロンブス
アメリゴ・ヴェスプッチ
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年カスティーリャ女王・イサベルとその夫・フェルナンド5世アラゴン王としてはフェルナンド2世)がコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
しかしコロンブスの航海は期待された成果をあげることができなかった。コロンブスが発見したのはインドから遠く離れた群島と考えられていたうえ、交易に値するものもほとんどなかったからである。コロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、植民地で発生した反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスを牢獄に繋いだこともあった。1501年アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかとすると、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ失意のどん底で死去することになる[11]
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500年カブラルブラジル[12]に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。

世界周航 [編集]

マゼラン(マガリャンイス)
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年フィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピンのマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、フィリピナス諸島と呼んだことに由来する。

ポルトガル・スペイン間の条約締結 [編集]

ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年トルデシリャス条約1529年サラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

ヨーロッパ北部諸国による探検 [編集]

1502年の世界地図カンティーノ図(Cantino planisphere)。トルデシリャス条約による分割線が図中左側に描かれている
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったイギリスフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。
後発海運国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエ1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシアと交易を行いクジラ漁の拠点となる北極海の島を多く発見したが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1468年にシベリア東部への探検隊を率い、アジアの最東端となる岬(デジニョフ岬)を発見した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。また新興諸国が残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)を先に探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。



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ヴァスコ・ダ・ガマ
Vasco da Gama (without background).jpg
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)
生誕1469年
ポルトガルシーネス
死没1524年12月24日
インドゴア
職業探検家、航海者



ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524年12月24日)は、ポルトガル航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。



第1次航海 [編集]

1497年7月8日、リスボンを出航した4隻
  • サン・ガブリエル, São Gabriel:ヴァスコ・ダ・ガマ 指揮、キャラック船、178トン、全長27m、幅8.5m、ドラフト2.3m、372、船員数:150名
  • サン・ラファエル, São Rafaelパウロ・ダ・ガマ 指揮、サン・ガブリエルとほぼ同型
  • Berrio (キャラベル船):ニコラウ・コエリョ Nicolau Coelho 指揮、上記2船よりやや小さい、後に "サン・ミゲル" と命名される
  • 貨物船(船名不明):Gonçalo Nunes 指揮、アフリカ東岸, Bay of São Brás 近くで失う
ポルトガル王マヌエル1世によるインド航路開拓の命を受け、ダ・ガマ率いる4隻の船団は1497年7月8日リスボンを出航した。1497年11月22日、アフリカ南端の喜望峰を通過し、当時はアラブ人支配下にあった現在のモザンビークに到達する。当時はアラブ人がインド洋のアフリカ東岸の貿易を支配しており、ダ・ガマはここで水先案内人イブン・マージドを雇い入れて、1498年5月20日、インド南西のカリカットに到達した。
当時のカリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人商人とは対立関係にあったが、カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか不明瞭ながら貿易許可状を与えた。
3ヶ月現地に滞在した後、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく。帰路は生鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180人の船員の内30~100人がこの病気に罹って死亡した。ダ・ガマの兄パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船一隻を放棄するなど苦しい航海が続いたが、1499年ザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航した後、9月にポルトガルに帰還した。

第2次航海 [編集]

「インド洋提督」の称号を得たダ・ガマは1502年2月12日に20隻の船団を率いて再びインドへ航海した。アラブ商人に対してカリカットでのポルトガルの貿易権を獲た功績をもって、帰国後伯爵に序せられた。インド洋航路の開拓はをもたらし、ヨーロッパ諸国の通商圏を大幅に拡大させた。なお彼は、モガディシオにて、伝説王国プレスター・ジョンを発見したと伝えられている。
2度目にカリカットを訪れた際には、要求を通すためにカリカット近くを通りかかった船を拿捕し、乗組員を処刑してマストにぶら下げた。また砲撃で大型船を拿捕し人が乗ったまま火をつけたとの記録もあり、実質ただの海賊であった。

第3次航海 [編集]

1524年、インド総督として赴任のため3度目の航海を行ったが、ゴアに到着して間もなくマラリアに感染し、クリスマス・イヴの12月24日に死亡した。

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喜望峰

喜望峰とアガラス岬の位置

喜望峰に生息するダチョウ
喜望峰きぼうほうアフリカーンス語Kaap die Goeie Hoop英語Cape of Good Hopeポルトガル語Cabo da Boa Esperançaオランダ語Kaap de Goede Hoop)は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンにある
更なるアフリカ大陸の最南端は、東南東へ約150km離れているアガラス岬である。

名称 [編集]

英語名は「Cape of Good Hope」であるので「希望岬」と言うこともできそうであり、中国語では「好望角」と表記する。実のところ「喜望峰」が一般呼称として定着したのは誤植によるものと考えられている。(ホープを音で峰と訳したと思われる。)

歴史 [編集]

関連項目 [編集]

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The Definition Of Art Harbour Blog



The Definition Of Art Harbour


Virtual International Trade Harbours Of Art


Opening Anniversary Date: December 1, 2006

Language: Multi Language


Each harbour can export the works toward the virtual world.

People and organization can import the works from all over the world.


Now,Item: Works on Art Activities that are expressed with Photos and Explanations etc.

Export Method: Each Harbour put the Works onto this blog

Import Method: People and Organizations accsess this blog

Order Method: People and Organizations put some comments about the Works onto this blog.


In the future, we will need transportation including trains,airplanes,ships, cars, buses etc.

in order to export and import people, goods etc. ?


Art Harbour


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

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各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


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The Gaiaと各ハブは?


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