http://reproduction.jp/info/symposium/sympo2001.html
発見、スクイーズ・シュート、上野動物園にあった、笑い
体形な どをスクイーズ・シュートに入れて測定したところ、腹の幅は交尾直後は126cmだっ たのですが、19ヶ月目に入ると160cmとなっていました。
アフリカゾウの繁殖
ワールドカップの威力だ~~~、笑い
2001年9月7日(金) 17:30-20:30
癌を告知されて、バリ島から戻ってきて、大学病院で、検査していたころ?
まるで、スクイーズ・シュート? MRI検査機、笑い
9月7日(金)診察、とノートに書いてあった、笑い
2001年度公開シンポジウム
2001年度公開シンポジウム
「21世紀の動物園と希少動物の繁 殖」
2001年9月7日(金) 17:30-20:30
東京農工大学農学部講堂
主催 日本繁殖生物学会大会
共催 上野動物園・多摩動物公園
(本公開シンポジウムは平成13年度科学 研究費補助金「研究成果公開促進費」
研究成果公開発表(B)1353006の援助により開催されました。)
第94回日本繁殖生物学会大会(2001年9月5~7日)の最終日、公開シン ポジウムが開催されました。
今回のシンポジウムのタイトルは「21世紀の動物園と希少動物の繁 殖」でした。会場はほぼ満席で参加者の年齢層も広く、動物園や希少動物に関心を持 っておられる方の多さを再認識しました。シンポジウムでは以下の5題のご講演をい ただきました。
● 希少動物と動物園 上野動物園;小宮 輝之先生
● アフリカゾウの繁殖 多摩動物公園;関井 照治先生
● ニホンコウノトリの現状と個体群繁殖 上野動物園;細田 孝久 先生
● ブリーディングローンによるニシローランドゴリラの繁殖 上野 動物園;吉原 正人先生
● ジャイアントパンダの繁殖作戦 上野動物園;成島 悦雄先生
小宮先生のご講演では、日本を含む世界各国の動物園や水族館で進 められている希少動物種の保存事業について解説されました。過去に動物園の働きに よって絶滅しかけた動物種が復活した例としては、ヨーロッパバイソンが野生ではい ったん絶滅してしまったのですが、動物園に残っていた個体を増殖させ野生にも復帰 させることに成功したそうです。日本でもニホンカモシカとタンチョウの飼育繁殖技 術などを検討するための会議から発展して、世界的な血統登録・種登録制度にも参加 して計画的な繁殖が行われているそうです。上野動物園と多摩動物公園はこのような 種の保存事業の中心となってこられたそうです。種の保存事業には長い時間がかかり 色々と困難な点も多いようですが、バイオテクノロジーの手法も用いて、野生復帰ま でを目指した計画が進められているというお話でした。
関井先生のご講演は、アフリカゾウの繁殖についてでした。飼育を 開始された当初はアフリカゾウの飼育例も少なく、繁殖に至るまでには大変なご苦労 があったことがわかりました。出産時に母親が子ゾウを蹴ったりする様子(胎膜や羊 水を取り除くための行動がちょっと強すぎたのではないかとのことですが)には驚き ました。その後の子育ての過程でも敵への警戒と思われる行動など、野生の状態での 習性が飼育されている動物でも見られるようでした。
細田先生はニホンコウノトリの保護増殖事業について講演されまし た。日本では野生のニホンコウノトリはいなくなってしまったので、動物園でロシア や中国から来たニホンコウノトリの繁殖が行われているそうです。順調に繁殖が行わ れた結果、1994年から2000年の6年間で飼育個体数が倍以上になっているということ です。このような個体群をうまく維持していくためには遺伝的な要素を考慮した繁殖 計画が必要ですが、その指標として近交係数だけではなく、繁殖している親の血縁占 有度という値を用いていらっしゃるそうです。このような個体群管理の手法は今後、 動物園が希少動物の保護の役割を果たしていく上で重要になるだろうというお話でし た。
吉原先生のご講演はニシローランドゴリラの繁殖についてでした が、ゴリラ移動繁殖計画による最初の成功例とのことでした。移動により繁殖が成功 した一方で、移動過程や移動先で具合が悪くなった個体や、残された方の個体にも負 担がかかることがあるそうで、色々難しい点があるようでした。出産時に静かすぎる より、音楽がかかっている方が落ち着くらしい(しかも好みがあるらしい)というよ うなお話もあり、他の動物種でもそうなのかもしれませんが、特に精神的な要素が飼 育繁殖に大きく影響するように感じられました。
成島先生のご講演では、ジャイアントパンダの保護と繁殖について 解説されました。パンダがどのような動物の仲間かといったこともまだはっきりして いないようですが、中国の研究施設を始めとして各国の動物園が協力して血統管理や 繁殖事業を進められているそうです。共同繁殖計画の中で上野動物園のリンリンをメ キシコまで連れて行くというようなことも試みられているそうです。妊娠したと思っ たら偽妊娠であったとか色々と難しいようですが、遠くない将来に成果が得られるだ ろうという気がしました。
質疑応答では講演の内容を越えて「動物園の経費はどこから出てい るのか」「動物園の飼育係になるにはどうしたらよいか」といった質問も出ました。 動物園は、まず、珍しい動物を見ることができるという点で価値があると思います が、現在では希少動物についての研究や保護活動を行う場所としての価値が増してき ているようです。もちろん動物園で維持さえされていれば野生状態ではいなくなって しまって良いというものではなく、様々な生物が生きていくことのできる環境を作る ことが必要だとは思いますが、現在の状態だけから考えてもそれには長い時間がかか ると考えられます。これからも人間が自分たちが住みやすいように環境を変えていく ならば、他の動物にとっては環境が一層悪くなっていくかもしれません。そのような 動物を保護し、可能ならば野生にも戻せるように増殖させ維持していくことは、環境 破壊のおそらくは大きな原因となってきた人間の仕事ではないかと思います。また、 その過程で得られる、様々な動物が獲得してきた能力・特性についての知識は、将来 的に重要な資源となるでしょう。実際に希少動物を飼育・繁殖させるのは技術も設備 もある動物園に勝る施設はなかなか無いと思いますが、現在障害となっている様々な 問題を克服するために、繁殖生物学の各分野での研究成果が役に立つだろうと思いま した。
最後になりましたが、平成13年度科学研究費補助金「研究成果公開 促進費」研究成果公開発表(B)の援助をいただきました文部科学省の関係各位とシン ポジウムにご参加いただきました皆様にお礼申し上げます。
当日の講演要旨を以下に掲載させていただきます。
種の保存と動物園
上野動物園飼育課長
小宮 輝之 先生
●動物園が野生動物を救えるか●
1921年2月9日にポーランドのビアロウィーザの 森で野生の最後のヨーロッパバイソンが射殺され、野生からは絶滅した。フランクフ ルト動物園園長のカート・プリーメル博士が中心となり1923年に、バイソン国際保護 協会が設立され、動物園に残っていた56頭の個体登録が開始された。1930年には最初 のヨーロッパバイソン血統登録書が完成し発行され、以後国際的な動物園間の協力に よる計画的な増殖が軌道に乗った。野生での絶滅から31年後の1952年にはビアロウィ ーザの森への野生復帰がはじまり、現在では野生の個体も増加し、ヨーロッパバイソ ンは絶滅の危機を脱した。 種の保存とは,地球上に存在する生物の「種」を絶滅か ら守り、これを絶やさないようにする活動のことであり、ヨーロッパバイソンは動物 園が種の保存に貢献できることを最初に示した例である。
●世界と日本の「種の保存」の動き●
1980年に国際自然保護連合(IUCN)は、地球上か ら急速に姿を消しつつある野生生物と生物多様性を守ることを目的に「世界環境保全 戦略」を発表した。その後1991年に刊行した「かけがえのない地球を大切に」で、動 物園は動物の生息地域外個体群の維持に重要な役割をもつとし、1992年の「世界生物 多様性戦略」では動物園の保全的役割の強化を要請している。ウらに1993年の「生物 多様性保全の手引」では野生動物種の生息地域外保全の主要な施設は動物園と水族館 であることを強調している。種の保存を国際的に推進するために、IUCNの種保存委員 会(SSC)に飼育繁殖専門家グループ(CBSG)がある。CBSGは1993年に国際動物園連 盟(WZO)とともにイニシアチブをとり「世界動物園保全戦略」を起草した。この趣 旨は「世界環境保全戦略」の重要な目的である種の保存を手助けする動物園としての 具体的な指針を示すことにあった。 日本でも「世界動物園保全戦略」の一翼を担う べく、日本動物園水族館協会では1988年に種保存委員会(SSCJ)を組織し、加盟して いる93の動物園と60の水族館が協力して種の保存事業を進めている。これ以前から日 本国内でも種の保存に対する動きがあった。1971年と1972年から日本が担当した国際 血統登録種のニホンカモシカとタンチョウの飼育繁殖技術、疾病、移動斡旋といった ことを検討するためにはじめられたカモシカ会議とタンチョウ会議である。この2つ の会議は、その後増加した種保存対象種も含む希少動物血統登録合同会議として発展 して1985、1986年に開かれ、さらに1987年には正式に「種の保存委員会」として発足 し、1988年の第1回種保存委員会開催につながったのである。
●東京都のズーストック計画●
種の保存が国際的な課題となり、日本の動物園で もとりあげられるようになったことに対応するため東京都では1982年以来、21世紀の 動物園のあり方を検討し、1986年に「ズー2001構想」を作成した。これは21世紀にお ける動物園・水族館の機能として「種の保存」と「環境教育」を2本の柱として都立 の動物園・水族館を整備していこうとする構想である。このなかで種の保存事業は 「ズーストック計画」の名のもとに具体的に取り組むことになった。ズーストック計 画は1989年から2000年の12年計画で、種管理システムの整備、血統登録の推進、飼育 技術の向上といったソフトと、繁殖しやすい条件を備えた施設の整備というハードの 両面で進められた。東京都の動物園水族館では運営する上野、多摩、井の頭、大島、 葛西の 5つの施設での役割分担を決め、担当する希少種50種も施設などへの投資 効果を高めるため原則として重複しないように決定した。 国立動物園のない日本で は、最も歴史が長く発足時は国立であった上野動物園、すなわち東京都の動物園が日 本の動物園界をリードしてきた。狭い上野だけではできない希少動物の増殖を目的に 43年も前に多摩動物公園を開園したのも東京都である。「ズー2001構想」の一つの柱 である「ズーストック計画」は日本中の動物園水族館に対して、新しい時代の動物園 のありかたの具体的な方向を示すことになった。1990年代に行なわれた各地の動物園 の改造や新設は、東京都の動物園がズーストック計画に基づいて訴え行なってきたも のと相通ずる形で、来園者に「種の保存」についてアピールするものになっている。
●種の保存事業と血統登録●
希少動物の飼育下繁殖では、もともとその種の元 親(創始個体)の数が限られているところから、累代繁殖を重ねていくと近親交配が 起こり、遺伝的な多様性が失われ繁殖力の低下を起こすことが多い。このため、飼育 の繁殖計画ではいかにして多様な遺伝子集団を維持するかが課題となる。近交劣化を 防ぐには近親交配を避けた繁殖を継続しなければならず、血統登録による個体の把握 と個体群管理が有効な手段となった。 動物園における種の保存事業は、ヨーロッパ バイソンの国際血統登録にはじまった。バイソンの登録はワルシャワ動物園に引き継 がれ、同じく野生から姿を消したシフゾウをホィップスネード動物公園、モウコノウ マをプラハ動物園が担当し、戦前の段階で3種の血統登録がはじめられていた。戦後 になって血統登録は国際動物園連盟 WZOの前身である国際動物園長連盟(IUDZG)のもとで組織化され、加盟動 物園が分担して推進してきた。登録種は年々増えて2000年現在、哺乳類104種、鳥類 28種、爬虫類4種、両生類1種、カタツムリ1種の合計138種の国際血統登録が行な われている。Captive を Conservation に変えて保全繁殖専門家グループと名称変更した CBSGは、IUCNの総会と同時に総会を開き野生と飼育下の個体群の調整を行なってい る。なお、ヨーロッパバイソンに関しては、現在は野生復帰の行なわれているビアロ ウィーザ国立公園が担当している。 日本でも、こうした国際的動向と同様に、種の 保存活動は飼育下の希少動物の血統登録との関連で進められてきた。まず1971年にニ ホンカモシカ、1972年にタンチョウの国際血統登録に名乗りをあげた。その後、国際 血統登録担当者との連絡調整を円滑化するため1984年から該当種の国内血統登録担当 者が決められ、国内での繁殖計画を調整し、推進する必要のある種についても国内血 統登録の作業が進められた。国内血統登録者合同会議は1988年に種保存委員会として 発展解消された。種保存委員会では主に血統登録担当者が繁殖検討調整者になり、種 別あるいは類別に繁殖検討委員を置き、種ごとの繁殖計画を立てている。2001年現在 ニホンコウノトリとマナヅルとナベヅルの国際血統登録も含め、哺乳類42種、鳥類 24種の国内血統登録が行なわれ、オオサンショウウオなど31種の両生類、爬虫類、魚 類繁殖検討が行なわれている。また、国際血統登録対象種を中心に42種の個体登録も 同時に行なっている。
●血統登録からISISへ●
多くの動物園が共同で繁殖計画を進めるために は、さらに世界規模の連携が不可欠となりデータを迅速に処理することが必要になっ た。このような状況のもとで、個々の動物園での飼育動物記録を世界一元的に集積す るしくみとして国際種登録システムISISが組織された。ISISは北米動物園水族館協会 AZAの支援のもと、1973年にミネソタ動物園に事務所が開設され、1974年からミネソ タ大学の大型コンピューターを使用して、共通の書式で哺乳類の飼育個体登録を開始 した。ISISは国際種情報システムと改名され、1999年現在、世界の550の動物園など の飼育施設が加盟している。データは1985年に開発された個体登録用ソフトARKSで処 理され、1999年現在 7,500種 1,413,000個体分が登録されている。 血統登録は希少種の遺伝 的管理により近交劣化を防ぐことを目的にはじめられた。現在はそれだけでなく、飼 育下の個体群全体について1頭ごとのファウンダーの血液占有度など、さらに細かい 分析を行ない、それに基づき収容可能頭数や年齢構成を考慮した計画的な増殖が必要 になってきている。ARKSと連動する種別調整者用の記録解析ソフトSPARKSでこうした 個体群統計学的管理のデータを引き出せ、臨床記録用ソフト MEDARKSからは獣医学的データも引き出せるようになっている。
●種の保存事業の今後●
血統登録には時間と経費がかかり、その種にある 程度熱意をいだいている者がいないと永続性が乏しくなる。繁殖検討調整者が計画立 て、繁殖を目的とした移動を勧告しても、オーナーシップの問題が障害になり、実現 にこぎつけないことも多かった。しかし、最近では種の保存事業の趣旨が少しずつ浸 透し、日本においてもゴリラなどかつては移動の困難であった希少動物の繁殖計画も 前進するようになった。 種の保存を支える手法として、従来から家畜には使われて きたバイオテクノロジーを用いた人工繁殖法の研究もはじめられている。ジャイアン トパンダやチンパンジー、ツル類やキジ類では人工授精による繁殖が成功している。 受精卵移植ではシマウマから家畜馬やボンゴからエランドへの種間移植も行なわれ、 成果をあげている。また希少種の精子や胚、培養細胞の凍結保存も行なわれるように なった。 上野と多摩では両園あわせて10種約200羽ものトキのなかまを飼育してい る。これらのトキ類は佐渡でのトキの保護増殖事業を支援するために研究されてきた トキの近縁種の子孫である。東京都の動物園のトキ類の研究は40年も前に開始され、 トキ繁殖のためのシミュレーションとして人工飼料、疾病、人工孵化などの分野で行 われてきた。1999年より佐渡でのトキの繁殖の成功は、長年に渡って積み上げられた 成果も活かされている。 種の保存事業の最終目的として野生復帰がある。ヨーロッ パバイソンのような成功例もあるが、まだ飼育下のストックの段階の種も多い。トキ と同様に、日本では野生で絶滅したコウノトリの動物園での増殖も順調に進み、最後 の棲息地に設けられた保護センターへ殖えた個体の移動が行なわれ、将来の野生復帰 に備えた研究が続けられている。野生復帰にはまだまだ長い時間と、綿密な調査が必 要である。種の保存事業の果実は、われわれの子孫の代になって得られるものであろ う。
アフリカゾウの繁殖
多摩動物公園飼育課
関井 照治 先生
●はじめに●
1998年4月25日、多摩動物公園で初めてアフリカ ゾウの子が誕生しました。31年間にわたる飼育史上夢のようなできごとでした。当園 では、1967年7月に繁殖を目的にメスのアコ、マコを導入しました。当時はアフリカ ゾウの飼育例も少なく、オスは非常に気性が荒いと予想され、まず飼育しやすいメス からと計画したのです。当時アジア園の一角の仮小屋で飼育が開始され、アフリカ園 にゾウ舎建設が予定されていました。この計画でゾウの引っ越し等を考慮し、馴致作 業が進む中で園内散歩が開始され、1970年ゾウ舎も完成し、私達を背中に乗せたまま 何事もなく終了しました。そして1971年8月に待望のオス、タマオが来園しスタート しました。推定3歳のタマオが来園した時、アコ、マコは6歳で体重も倍以上あり、 新入りのタマオはアコ、マコに追われることも多く弱い関係にあったのですが、タマ オが性成熟に達すると体重も逆にメス達より大きくなり、追尾、マウント行動があり ましたが、完全交尾にはいたりませんでした。以後アコ、マコが30歳になるまであま り追尾行動もなく、長年の夢である繁殖を実現するためには、すぐ繁殖可能な若い年 齢のメスを準備しなければなりません。当時タマオは27歳だったのですが、幸い姫路 セントラルパークの厚意により、14歳のアイが1996年2月に来園しました。
●アイとタマオの見合いと同居●
5月下旬より、馴致訓練として多摩で行なってい る柵越しのトレーニング、ターゲットを使ったトレーニングを開始し、同時にオスの タマオの部屋と室内通路を利用し、タマオとアイの柵越しの見合いを開始しました。 柵の間より鼻先を出し入れしていましたが、特に問題がないので仕切柵を少しずつ 上げ様子をみました。特に変わりないので1m50cmに上げた状態で2日間様子をみ て、小放飼場での見合いを行ないました。馬栓柵(仕切柵)越しに3日間行ない、6 月7日に同居させました。まず大放飼場にアイを、小放飼場にタマオを放飼し、両者 間の馬栓柵はアイが小放飼場に出入りできる高さにして、タマオが追っても大放飼場 には出られないようにしました。開始後15分で馬栓柵をくぐり小放飼場に入り、鼻を からませて挨拶をしているようで落ち着いているので、この日より大放飼場での同居 が始まりました。
●繁殖行動と経過●
その後、タマオが鼻をアイの腰まで伸ばし、保定 するような行動が多くみられ、同時にペニスの露出も多くみられるようになりまし た。6月25日に初めて追尾行動をとりましたが、アイはその都度プールの中に逃げ込 み、タマオもそれ以上追うこともありませんでした。このようなことは以後1週間続 きましたが、7月3日に初めて交尾を確認しました。今までと違い、アイからタマオ に近づいたのです。夕方入舎後、下に落ちた精液を調べると精子がみられました。以 後7月20日までに4日間、6回の交尾確認されましたが、その後は8月に1回だけ追 尾行動があっただけで、繁殖行動はみられませんでした。 成長期の体重(年増加) はメスでも多い時で200kg以上も増加します。アイは成長期ですので、体重増加から 妊娠の判断はできなかったのですが、アイの真後ろより見た腹の左右の具合、体形な どをスクイーズ・シュートに入れて測定したところ、腹の幅は交尾直後は126cmだっ たのですが、19ヶ月目に入ると160cmとなっていました。 さらに東京農工大学の田 谷先生に交尾のないアコ、マコとアイとの血中プロジェステロン濃度の比較をお願い したところ、
ア コ 813.0 pg/ml
マ コ 727.1 pg/ml
ア イ 2017.7 pg/ml
と測定され、妊娠の可能性は大と判断していただき、さらに強く確信しま した。1995年5月 (10ヶ月) 頃より、前肢付け根近くの乳頭1対がぽつっと左右あっ たのですが、乳房に変化がみられ、また7月に下腹部の浮腫(しこりのような腫れ) ができましたが、この年は大きな変化はみられませんでした。 1998年1月に再び浮 腫がみられました。胸やへそまで部分的に腫れ、右側より左側また中央と移動がみら れ、以後出産まで続きました。3月 (交尾後21ヶ月)、へそ周辺部に腫れが目立ち、胸の張りも大きくなりまし た。排便の1回量が少なくなり回数が増え、同時に排尿時の陰部の下垂が排尿後戻り が遅くなり、しばらく戻らなかったりしました。 この頃から夜間のビデオの観察を 開始しました。交尾後22ヶ月目になると、胸の張り、腹部へそ近くの下垂が目立ち、 4月7日には乳頭の周りが黒っぽく濡れていました。これは出産まで何度かみられま したが、おそらく乳汁ではないかと思われます。また、腹部や陰部を気にしているよ うで尾で叩くのがみられたり、胎動らしい腹部の動きも確認しました。 4月15日の ビデオでは後肢を上げてぼうっとしていることが多く、寝ようと腰を落としてもすぐ に起きて、横になるのが苦しいようでした。4月16日には下腹部左右の腫れがさらに 下垂してきました。4月20日より係員の泊まり観察がスタートしました。以後、排便 量も減り、夜間立ったまままどろむことが多くなってきましたが、乳汁の分泌なども なく、出産兆候はみられませんでした。
●出産●
4月25日朝のトレーニングは特に変わらず行ない、外に放飼しました。 前日までは外での餌をすぐ食べていたのですが、その日は少し青草をつまむだけであ まり食べませんでした。様子が違うので、部屋床一面に藁を敷き入舎させたところ、 1頭だけだったので落ち着かず、夕方全頭入舎すると、採食を始めました。いつもな ら横になるのはもっと遅いのですが、夕方6時頃より寝たり起きたりをくり返してい ました。 夜10時に破水が起こり、10時20分に子ゾウが産み落とされ、やったと思っ た瞬間、アイの子ゾウへのアタックが始まりました。前足で踏んだり蹴ったり、牙で ついたり、子ゾウが鳴いても止まりません。眼の前で起こる激しい行動をみて、親子 を分けて最悪の場合人工哺育でも、と仕切柵を開けたところ、アイが我を取り戻した ように落ち着き、逆に子ゾウから離れず、立とうとする子の足元に藁を集めたりする しぐさをみせたので安心しました。 出産、起立と心配でしたが、初乳も特に心配で した。関接飼育のため介添えはできません。すべて自力で哺乳してくれと願っている と、午前0時34分、乳頭を探し哺乳に成功し、一同ほっとしました。しかし、哺乳時 間も少なく次の哺乳もうまくいかず、まだ乳頭の場所も判らない様子でした。そこで 我々はモニターから離れ、初めてアイの柵前に立ち、子供が乳房近くに来る時に合わ せて、毎日行なっているトレーニングのようにターゲットが先についた棒を「足」と 出すと、アイはターゲットに向けて足を上げ、子ゾウは乳頭に近づき、しっかり哺乳 をしました。場所も判ったようで、その後哺乳をせがむと、アイは子の動きに合わせ て前足を上げ、飲みやすい姿勢をとりました。朝まで観察しましたが、哺乳回数も多 く、子の動きも良いので、朝別室に移動させ産室内を清掃しました。4月20日よりス タートした24時間観察も28日朝で終わり、5月2日まで夜間だけビデオ観察にし、哺 乳も1時間に1回のペースで飲んでいるのでアイに任せました。 出産時アイは蹴る 踏むと荒々しい行動をとり、私達は驚きましたが、後日みた外国の出産ビデオの中に 同じシーンがありました。もし事前に判っていても、眼の前で起こるシーンは迫力が あり、同じ行動をとっていたと思います。良く思うと、新生児の胎膜をはがし、羊水 を拭き取り、体を乾かす行動だったのではないでしょうか。私達は手で剥ぎ取ったり することもできますが、アイは同じ行動を足と鼻で起こし、その行動に興奮して我を 忘れたのかもしれません。その迫力は母親の行動だったのではないでしょうか。我に 返ったアイは哺乳させ、満腹になった子が疲れて横になり寝ようとするのを、前肢で 起こして寝かせないようにし、その行動は3日間続きました。アイは出産以後、立っ たまままどろむ(うとうとする)ことはあっても、横に寝ることはなく、18日目に横 になった時は本当に安心しました。 また出産後、後産がありましたが、胎盤はアイ が全部食べてしまいました。中に入ることもできず、アイまかせでしたので、取り除 くこともできなかったのですが、100kg近い子を包む胎盤を全部食すのは、出産時の 血のにおいなどを消し、我が子を守る母親の本能なのでしょうか。また、放飼場でヘ リコプターなどが上空を通過する時、子ゾウはアイの腹の下に逃げ込み、アイも子の 頭を鼻で押さえて守る姿が時々見られ、子の糞も下に落ちる前に鼻先で取って食べる など、細かいところまで気を配っていました。 アイは出産するまでは気性も荒く、 時々私達に柵越しにアタックしてくることもあったのですが、出産後は性格も一変 し、従順になりました。子に対して細かな気配りの中、7月には「パオ」と命名され た子は順調に成長し、2000年6月にアイと分かれて独り立ちをしています。 今まで アイ、パオに教わったことを活かし、第2の弟や妹が生まれることを目指してがんば っていきたいと思います。
ニホンコウノトリの現状と個体群管理
上野動物園飼育課
細田 孝久 先生
●野生のニホンコウノトリ●
ニホンコウノトリは、翼を伸ばすと2mにもなる 大型鳥類で、かつて中国、ロシア、韓国、日本等で広く繁殖していたが、現在野生個 体が確認されているのは、中国とロシアの一部地域だけである。生息数は、およそ 3000羽とみられている。日本においては、150年位前までは全国に広く分布していた が、1800年代後半に規制なく行なわれた乱獲により個体数が激減した。また、その後 の第二次世界大戦、開発による生息環境の破壊、農薬の使用により、1971年に最後の 1羽が飼育下へ移され、野生のニホンコウノトリは日本の空から消えた。(図1)
●日本におけるコウノトリの保護増殖●
野生個体が最後まで生息していた兵庫県豊岡市で は、兵庫県、豊岡市、文化庁による保護増殖事業が行なわれてきた。1965年に1ペア を豊岡市コウノトリ保護増殖センター(豊岡)に捕獲し飼育下繁殖を試みたが、産卵 はしたものの孵化せず、いずれも同年に死亡した(メスは卵詰、オスは事故)。 1967年~1971年にかけて捕獲、保護した最後の野生個体9羽も同様に収容されたが、 その時点ですでに農薬に含まれる水銀に汚染されており、繁殖には成功しなかった。 飼育下繁殖の試みは、動物園でも行なわれており、1966年には中国の北京動物園か ら神戸市立王子動物園(王子)へ6羽が搬入された。これらのうち4羽は豊岡へも貸 し出され、1羽のオスはペアになったものの繁殖は成功しなかった。また、1970年代 には再び中国から王子、大阪市天王寺動植物公園(大阪)、多摩動物公園(多摩)へ 輸入されている。これらのなかから、ペアとなる個体も現れたが、産卵しても無精卵 ばかりで孵化までは至らなかった。 1985年、ロシア、ハバロフスクから豊岡へ6羽 が寄贈され、多摩には中国、ハルビン動物園より6羽のコウノトリが動物交換により 来園した。これらによるペアリングの結果、豊岡、多摩それぞれでペアが形成され、 1988年に多摩、1989年には豊岡でと相次いで飼育下繁殖に成功した。その後、大阪で 孵化育成、豊橋総合動植物公園では孵化に成功している。その後は、順調に豊岡、多 摩で繁殖を続け、2000年末で135羽のコウノトリが日本では飼育されている(図2参照)。ちなみに、世 界では1999年末で61園館384羽飼育。飼育下繁殖は、64%となっている。 ヨーロッ パのシュバシコウは群れで行動することが多く、繁殖についても同じ場所に多くにペ アが巣をかけるのに対し、ニホンコウノトリは単独性が強いことやペアの相性が非常 に重要となる点で飼育下繁殖がむずかしい種になっている。
●飼育下個体群の分析●
図2からもわかるように、現在では飼育下で繁殖 した個体が年々増加し1994年から2000年の6年間で倍以上の109羽になっている。こ れは日本において飼育されている80.7%が飼育下で生まれた個体であることを示して いる。飼育下である程度の大きさとなった個体群をよりよく維持していくには、遺伝 的な要素について分析し、その結果を繁殖計画の中へ組み込んでいく必要がある。 ここでは ISIS (International Species Information System) から供せられるパソ コン用アプリケーションであるSparks (Single Population Analysis and Records Keeping System)、Demog (The Demographic Modeling Program)、Genes (Software package for genetic analysis of studbook data) を使用して、この日本の飼育下コ ウノトリに対して分析を行なった。
●繁殖率と死亡率●
図3 ・4は、繁殖率と死亡率のグラ フである。ニホンコウノトリは、およそ4歳で性成熟し、繁殖可能となるが、順調に 繁殖が軌道にのるのは、7、8歳になってからである。また、15歳を越えると繁殖率 が落ちることがわかる。 死亡に関しては、ひなの段階での死亡が多く、次いで亜成 鳥期に多くなっている。これは、まだ慣れない施設内での衝突事故などによる。孵化 後30日以内の死亡率は、1994年の25%から2000年の20%に改善されていた。
●子孫の数●
現在のこの個体群には、いわゆる外部、一般的に は野生から導入された個体(これをファウンダーと呼ぶ)のうち繁殖に関与している 鳥は16羽存在する。これらについて、その子孫の数を1994年と2000年で比較して示し たのが、図5である。ここ6年間で繁殖関与のファウンダ ー数(親の数)に変化はない。横軸の数字は、国際血統登録に記載された個体の番号 である。 これを見ると、一部を除いていずれの個体も子孫を増やしているが、親に よって残している子孫の数にかなり差があることがわかる。ニホンコウノトリは、ひ と腹で1卵から6卵の産卵があり、平均して4卵を産むのが普通である。このことか ら考えても、152番と153番のペアは、とても繁殖成績がよいことがわかる。
●ファウンダーの血縁占有度●
かつて動物園等で繁殖計画を立てるうえで、いわ ゆる近交係数が生じないようにすることが重要といわれてきた。すなわち、同じ血縁 関係の個体同士を繁殖に使わないようペアをつくり、血が濃くならないようにするこ とだけが考えられてきた。しかし、個体群を遺伝的に管理する場合、それだけでな く、繁殖に関与している個体の血縁がどれほど個体群全体に占めているかを示す値に ついても考慮されるようになってきた。これを、ファウンダーの血縁占有度 (Founder Representation)と呼んでいる。これは、メンデルの法則に則って算出さ れる数値であり(図6参照)、それぞれの両親から半分ずつ血縁が その子供に受け継がれることを前提としている。
図7 は、この個体群の血縁占有度を示したグラフである。図5において、各親の残し た子孫数は、1994年から2000年の6年間でかなり増加しているが、血縁占有度におい ては、2000年の値の方が低くなっているのがわかる。これは、個体群のなかでその親 個体の血縁を持つ子孫の割合が、小さくなっていることを表わしている。子孫数が6 年間で飛躍的に伸びた152番と153番のペアにおいても、血縁占有度が低くなってい る。これは、他のペアの繁殖も軌道に乗りだし、このペアの子孫の占める割合が突出 せずに他と近い値をとってきたという意味である。また、149番と150番では血縁占有 度が大きく下がっているが、これはこのペアが遺伝的によくないことがミトコンドリ アDNAの分析で判明し、強制的にペアを解消したことによる。 一般的に、個体群の 遺伝的多様性を保つには、各ファウンダーの血縁占有度がなるべく等しくなるように する必要がある。図7において、1994年より2000年の各ファウンダーの値が近似傾向 にあることから、この個体群は、この6年間で遺伝的に改善されたといえる。 個体 群の遺伝的な状況を知る手立てとしては、他にも「平均血縁係数」「創始個体の遺伝 度」などが指針として用いられることが多い。いずれにしろ、個体群をよりよく保っ ていくには、多くの血縁の異なるペアを持ち、さらにそのペアから均等な数の子孫が 生まれることが重要である。そのために、飼育下でどの個体同士をペアにすればよい か、悪影響が出るかをこれらの値から知り、飼育下の小さな個体群を管理するうえで 役立てようという意識が最近高まってきている。単に動物を飼うだけでなく、動物園 が希少動物の保護としての役割を担ううえで、このような手法を取り入れることが今 後重要になると思われる。
ブリーディングローンによるニシローランド ゴリラの繁殖
上野動物園飼育課
吉原 正人 先生
日本の動物園で、12年ぶりにニシローランドゴリラ Gorilla gorilla gorilla (以下「ゴリラ」と表記)が東京都恩賜上野動物園(以下「上野」と表 記)で誕生した。これは日本動物園水族館協会(以下「日動水協」と表記)種保存委 員会(SSCJ)ゴリラ繁殖移動計画による最初の繁殖成功例である。また東京都ズー 2001構想の推進に基づく整備計画・推進事業の成果でもある。このゴリラ誕生にむけ てのこれまでの取り組みの経過を報告する。
●材料および方法●
飼育施設 今回の繁殖に成功した飼育展示施設「ゴ リラの森」は、都の整備計画により1991年6月から工事が着手され1996年4月に完成 したものである。屋外放飼場は二箇所(第1放飼場703平方メートル、第2放飼場 490平方メートル)あり、内部は、起伏のある土の上に草や木が植えられている。さ らに大きなグロットと擬木、滝と流れとプール等があり飼育ゴリラの展示環境への配 慮もなされている。観覧通路下にゴリラの寝室と作業エリア並びに監視室がある。寝 室は大部屋と個室、産室等10室あり、他に人工哺育室と調理室および搬出・搬入用の リフト室が併設されている。監視室からは室内と屋外に設置されているビデオカメラ 50台により、ゴリラの居場所や行動を常時観察し記録できる。
ゴリラの移動と群れづくり 日動水協は、1972年か ら希少動物の登録事業を発足させ、ゴリラについても1980年から登録を開始してい る。そして1988年には日動水協・種保存委員会(以下「SSCJ」と表記)が設立され た。この中にゴリラ繁殖検討委員会があり、ここで国内ゴリラの繁殖移動計画を決め て推進するようになった。 さらに上野で集団飼育が可能なゴリラの森の完成が近づ くとブリーディングローンによる各地からのゴリラの移動は急に活発となった。当時 のゴリラの調整者を始めゴリラ担当者達は、国内はもとより海外のゴリラ飼育施設を 積極的に訪問、視察するとともに交流を深めた。 上野でヘ、各地から移動したゴリ ラと搬入以来、上野にいるブルブル(推定1953年生)とタイコ(1966年生)を含めて 群れづくりにとりかかり、1993年6月から雌雄ゴリラの同居の組み合わせを変えなが ら試行を行なった。群れ構成、同居の時期およびその方法については、園内に飼育課 長をチームリーダーとするゴリラ繁殖プロジェクトチームを発足させ、以後、派生す る諸問題点についても適宜会儀を開催し検討した。
ゴリラの精子の確認と性周期の把握 これまでに搬 入したオス3頭(サルタン、ドラム、ビンドンII)について、1997年から4回、麻酔 下で直腸にプローベを挿入し電気刺激をくわえ、漏出物を採取し精子の有無が確認さ れた。このうちビンドンII(1981年生)については、日本獣医畜産大学、筒井敏彦教授 (家畜臨床繁殖学)の協力を得てバイオプシーによる精巣の組織検査も実施された。 1998年からメスは毎朝、シュート上から床に排尿する新鮮尿を採取し、尿試験紙か ら潜血の確認を行なった。さらに尿中プレグナンジオールの濃度をラジオイムノアッ セイ(RIA)法で調べ、その変動値により排卵確認を行ないメスの性周期の状態把握 に努めた。
●結果●
1.ゴリラの移動 飼育園館における繁殖のための ゴリラの移動は、購入した1例を除き、すべてブリーディングローンによるものであ る。2000年12月末までに国内におけるゴリラのブリーディングローンは21件ある。国 内での最初の移動は1972年、上野と京都市動物園(以下「京都」と表記)間でなされ たが、その後1991年までに1件、上野と多摩動物公園の間でトヨコ(推定1967年生) の移動があったにすぎない。当時、既にゴリラの繁殖の困難性が指摘されていたが、 まだ園館を中心に移動が計画され全国的な規模で移動が取り組める情勢ではなかっ た。このため、多摩では、成功には至らなかったが人工授精によるゴリラの繁殖をめ ざす取り組みも行なわれた。 ブリーディングローンによる移動が活発に行なわれる ようになったのはSSCJ発足後の1992年以降のことである。これまで行なわれたローン のうち上野と他園館との移動が14件で全体の7割を占めている。そして1997年末に は、上野のゴリラの森には10頭のゴリラが集められた。 さらに1998年以降、ビジュ とメス達の交尾が観察されると静岡市日本平動物園(以下「静岡」と表記)からトト (推定1978年生)と千葉市動物公園からモモコ(1983年生)が1999年7月に上野に、上 野からタイコが静岡に移動するなど、ゴリラの移動は一層活発になった。しかし、ロ ーンの移動先でサルタン(京都・1998年)、ドラム(上野・1998年)、タイコ(静岡 ・2000年)が死亡し、また移動に伴い構成が変わった名古屋市東山動物園(ゴンゴ・ 2000年)と静岡(ゴロン・2000年)ではオスゴリラを失った。
2.ゴリラの同居と群れづくり 1993年暮れからブ ルブル、ドラム(推定1977年生)、サルタン(推定1969年生)と3頭のオスを中心に 相性を探りながら、メスとの同居が約20通りの組み合わせで繰り返し行なわれた。そ して、1995年10月からはビンドンIIが加わった。しかし、どのオスも不活発でメスに 対しては消極的で、メスに物おじしてしまい自ら性行動すらとれないことが多かっ た。 この群れづくりの途上、ブルブルが1997年に、ドラムが1998年に相次いで死亡 した。またビンドンIIは造精器に異常があることが判明した(後述)。 このため、 集団で生まれ育った繁殖経験のある若い個体の導入を目指し、1997年の12月イギリス のハウレッツ野生動物園からビジュ(1987年生)を購入した。サルタン(推定1970年 生)は、ビジュの来日直前、繁殖オスのマック(1970年生)を失った京都へ移動され た。
3.ゴリラの交尾と群れの形成 ビジュとメス達と の同居は、1998年2月から開始された。この時ビジュは、まだ10歳のワカモノであっ たが、年上のメス達に臆する行動はしめさなかった。ビジュの行動は活発でメスに対 して積極的に振る舞った。さらに短期間に心身とも急激な成長を示した。同年6月か ら1999年10月までの間、ブリーディングローンで移動していたゲンキ(1986年生)、 リラコ(推定1967年生)、モモコおよびトトと同居後短期間の間に相次いで交尾を繰 り返した。特にモモコとは同居して2日目に交尾が観られた。しかしローラとビジュ の交尾は確認できなかった。 交尾関係が成立するとビジュとメス達の心理的並びに 物理的距離が縮小したようで、ビジュを中心にメス達が集まって休息し、ビジュの身 体に接触し安心感を得るようになった。 1999年9月に入ると、ビジュを中心に最大 5頭のメスからなる繁殖群が形成されたが、ビジュを巡るメス間の葛藤と緊張は強ま った。この群れ形成の過程のなかで、メス達の中で最年少のゲンキは心身に変イをき たすようになっていった。ゲンキは、群れ内のゴリラに嘔吐物をかけたり自分の体に 塗りつけた。さらに自傷行為も加わった。そのためゲンキを1999年10月、移動から2 年7ヵ月後に生まれ育った京都に戻すことにした。さらに、その前日ビジュが急死し た。死因は吐物による窒息死だった。このため、国内ゴリラの繁殖は再び遠のいてし まった。
4.オスの生殖器の状態 オス3頭のペニスと睾丸 の外部計測値と漏出物内の精子の有無および血中テストステロン濃度が調べられた。 漏出物の中にサルタンは、活性をしめす精子が観察されたが、ドラム(推定1977年 生)の精子は運動性が消失しており、ビンドンIIは精子が観察されなかった。そこで ビンドンIIは精巣の組織検査が行なわれ、無精子症と診断された。この結果からビン ドンIIを繁殖オスのリストからはずすこととなった。
5.メスの性周期の状態と交尾 タイコおよび上野 に移動されたメス7頭(トヨコ、ピーコ、リラコ、ローラ、ゲンキ、トト、モモコ) の尿中性ホルモン値と潜血反応、並びにゴリラ担当者やオスへの性的行動や交尾行動 との関連からメスの性周期の状態が検討された。その結果、タイコとゲンキは排卵が 確認できなった。ゲンキの性周期は、上野へ移動直後から不安定となり排卵がなくな ったまま再起しなかった。他のメス達は周期的な排卵が確認できたが、体調や怪我等 で排卵のない月もみられた。リラコは、排卵期に周期的な交尾が観られたが妊娠には 至らなかった。ローラは安定した性周期が観られたがビジュとの交尾はなかった。ト トはビジュ死亡後、性周期が不安定となり、性周期が停止し4ヵ月後に再起してい る。モモコは、移動1ヵ月後にビジュの群れに加えられたが、性周期の乱れはなく、 2周期以降の性周期の停止は妊娠によるものであった。 交尾は、その多くがメスの 性周期の排卵期に集中していたが、排卵とは結びつかない交尾も観察された。特にゲ ンキにおいては周期的な交尾は観察されたが排卵はなかった。この時期のエストロゲ ン値は測定されていないが、排卵は起きないものの弱い周期的発情があったかもしれ ない。
6.モモコの妊娠と出産 モモコとビジュは同居2 日目の1999年8月31日と9月1日に交尾し、その後10月21日にも交尾した。ビジュ は、この7日後に急死したため、この交尾が最終交尾となった。最終交尾後、生理時 にみられる尿中の潜血反応はなくなり、交尾後25日目に行なわれた尿検査でゴナドト ロピンが性周期中の上限をこえる通常よりも高値をしめした。このため、妊娠の疑い が強いと診断された。以後尿中のゴナドトロピン(GCG)が胎盤の発達状態を、エス トロゲンが子宮の発達状況を診るモニターとして定量され、これが、モモコと胎児の 妊娠時の状態把握に大いに役立った。また2週に1度測定する体重の推移は、妊娠時 の栄養管理と健康状態を知るうえで重要な指標となった。 妊娠は順調に推移しモモ コは2000年7月3日午前10時29分、元気なオスの子を分娩した。ちょうどこの日は、 大潮で、最終交尾から数えて256日目であった。
●考察●
ブリーディングローンによるゴリラの移動の件数 は1992年以降急激に増えた。この増加は、(1)1988年以降、日動水協を中心とした 全国規模のゴリラ繁殖・移動計画が始められた (2)上野にゴリラの生息環境を配 慮した集団飼育展示施設、「ゴリラの森」の整備が進んだ (3)日本の動物園では ゴリラの搬入と繁殖がなく、繁殖適齢期(オス11歳、メス10歳)を過ぎており、高齢 化が進み危機感が強まった (4)現地ゴリラの調査が進み、生息数の減少やゴリラ の社会構造が判明し、飼育ゴリラへの知見と理解がより深まったこと等が背景にある と考えられる。 集められたゴリラの繁殖へ向けた群れづくりは、1992年から開始さ れたが、ビジュが来園する1997年まで困難をきわめた。この原因として、(1)大半 のゴリラが幼児期からペアーないしは孤児として育ったために社会化する機会が乏し く、集団生活に必要な良好な関係を得にくかった (2)オスはサルタンを除き、造 精機能に異常がみられ、繁殖オスとしての機能も低いことなどが考えられる。 ビジ ュは今までのオスとは異なり、短期間のうちにメスと親密な関係を築いた。この要因 として、(1)ビジュは両親を始め多彩なゴリラからなる群れの中で成長し、性格も 温厚で他個体とも短期間のうちに友好的な関係を結ぶことができた (2)すでに繁 殖経験があり、ひときわメスへの誘いは強くかつ細やかでメスの扱いがうまかったこ と等があげられる。 ゴリラの移動によって、今回の繁殖をはじめゴリラの飼育管理 や群れづくり、繁殖生理など数多くの知見が蓄積された。しかし、この移動の過程で ゲンキのように心身の異常をきたしたものや、移動先でまもなく体調を壊し病死した タイコの事例などゴリラ達にも大きな負担と犠牲を強いる結果となった。また名古屋 市東山動植物公園のコンゴ(推定1972年生)のように、長年一緒に連れ添ったリッキ ー(推定1972年生)の移動後、急死している事例も報告されている。このように、ゴ リラの移動は、リスクも相当大きいものである。従って移動されるゴリラはむろんの こと、後に残るゴリラや迎えるゴリラへの万全な飼育体制と細心のゴリラへの心のケ アーが必要とされる。 今回繁殖に成功した事例では、メスが移動後1年以内に交 尾、妊娠、出産と全てが順調に推移した。このことは、良いオスに恵まれ、移動先で のメスの心身の状態が良好に維持できれば、ブリーディングローンによるゴリラ移動 の成否の判定は、早ければ1年以内に充分にできるものと考えられる。逆に1年たっ ても交尾がなく、また交尾があっても妊娠しないケースでは速やかに解消し、新たな ローンを組み直すことでローンの効率を上げることも必要である。このことは、移動 によるゴリラの負担を除去するよりよい方法の一つとも考えられる。
●要約●
日本でのブリーディングローンによるゴリラの繁殖への取り組みは、 1972年から開始された。2000年12月末までにゴリラの移動が21件行なわれたが、本格 化したのは1992年以降のことである。2000年末までのこの9年間に19件の事例があ る。このうち14件は上野と他園館との移動である。 1996年、上野で「ゴリラの森」 が完成し、1997年末には最高10頭のゴリラが集められた。そこで約20通りの組み合わ せによる群れ形成が試みられた。あわせて3頭のオスの生殖器と7頭のメスの性周期 の機能検査が進められた。 このうち活性のある精子形成はサルタンのみに観られ た。メスではリラコ、ピーコ、ローラの性周期は安定していたが、タイコとゲンキは 不安定で排卵の確認はできなかった。雌雄間の性行動は不活発で、繁殖群形成という 面からは進展しなかった。 そこで1997年12月、群れで育ち繁殖経験のあるワカオ ス、ビジュを導入した。ビジュは1998年6月から1999年10月までの間に4頭のメスと 交尾した。 交尾はメスの排卵期に多く、周期的にみられたが排卵とは関連しない交 尾もあった。このうち、メスの一人モモコが妊娠したがビジュは、この交尾後7日目 に急死した。 モモコの妊娠中の状態把握は、体重と尿中ホルモン(性腺刺激ホルモ ン、発情ホルモン、黄体ホルモンの代謝産物)値の推移をモニターすることで行なっ た。 モモコの妊娠中の経過は良好で、最終交尾後256日目にあたる2000年7月3日 午前10時、無事オスの子を分娩した。今回の繁殖は、国内ゴリラ繁殖・移動計画によ る初めての成功例であった。
ジャイアントパンダの繁殖作戦
上野動物園飼育課
成島 悦雄 先生
●ジャイアントパンダは何の仲間●
ジャイアントパンダは中国の四川省、甘粛省、陜 西省の2600~3500mの高山に単独で生息する、体重100kgほどの肉食獣である。野生で の寿命は15年、飼育下では20年を越えるが30年を越えるのはまれである。 1869年、 陜西省を旅行していたフランス人のダヴィッド神父により発見され、1870年ヨーロッ パに紹介された。肉食獣であるが1日に竹の茎や根、葉などの植物を10~20kg、10~ 16時間かけて採食する。時に魚、ナキウサギ、小型齧歯類といった動物質も食べる が、えさのほとんどを竹が占める。アライグマ科、あるいは独立してパンダ科に分類 されることもある。現在はDNA分析などによりクマ科に分類されることが多い。ク マの染色体は74個、パンダは42個で、一見、別の仲間のように見える。しかし、染色 体をバンド染色したところ、クマの染色体をペアーで合体させるとパンダの染色体と 同一になる結果が得られ、クマ科説を補強することになった。
●ジャイアントパンダの生息数●
野生個体は1000頭前後と推定されており、生息地 の開発や分断、密猟等により個体数を減少させている。愛くるしい顔と動作により動 物園の人気者である。この人気のため野生動物保護のシンボルとされることが多い。 飼育個体は約140頭で、そのほとんどは成都や臥龍にある繁殖研究センターなど中 国の繁殖研究施設で飼育されている。中国以外のパンダ飼育個体は、日本(上野♂ 1、神戸王子♂1♀1、南紀白浜♂1♀2 )、香港(♂1♀1)、ドイツ(ベルリン♂1♀1)、米国(ワシントン ♂1♀1、アトランタ♂1♀1、サンディエゴ♂1♀2、メキシコ(チャプルテペク ♀3)の、合計20頭である。
恟纐�ョ物園のジャイアントパンダ飼育史●
上野動物園では、1972年から2001年までの29年 間、計8頭のパンダを飼育してきた。最初のペアーは1972年10月29日に来日したカン カン♂とランラン♀である。日中国交回復を記念して中国人民から日本国民にプレゼ ントされたもので、この2頭を見るために長い行列ができるほどの大きな人気を呼ん だ。 カンカンとランランの仲はむつまじく、1979年5月25日から26日にかけて自然 交配が確認されたが、8月末にランランが突然倒れ、9月4日に死亡した。ランラン の子宮には胎児が発育しており、死因は妊娠中毒症と考えられた。1980年1月にホア ンホアン♀がカンカンのお嫁さんとして中国政府から贈られたが、残念なことにカン カンもランランの後を追うように1980年6月、心不全で急死した。 日中国交回復 10周年を記念して1982年11月、ホアンホアンのつれあいとしてフェイフェイ♂が中国 政府から贈られた。人工授精によりこのペアーから1985年にチュチュ♂、1986年にト ントン♀、1987年ユウユウ♂の計3頭の子供が生まれた。チュチュは出産に疲れた母 親の下敷きとなり生後2日目に死亡したが、トントンとユウユウは順調に成育した。 1990年になると、フェイフェイとホアンホアンが高齢になったため、トントンのお 婿さん探しが始まった。この結果、1992年にユウユウが北京動物園に婿入りし、かわ りにリンリン♂が上野動物園に来園した。トントンとリンリンのあいだで自然繁殖が 試みられたが、トントンは発情期のピークに達してもリンリンの接近を嫌うため、や むを得ず1994年~1999年の6年間、人工授精に取り組んだ。人工授精後、トントンは 毎年巣作りをし、妊娠が期待されたが、すべて偽妊娠に終わった。2000年7月、トン トンは消化管の腫瘍で死亡した。現在、上野動物園ではリンリン♂1頭が飼育されて いる。(図1:上野のパンダ飼育個 体)
●ジャイアントパンダの繁殖生理●
1.パンダの繁殖生理 パンダは3月~5月にかけ て発情する。妊娠期間は3ヶ月~半年と一定しない。これは、受精卵がすぐに子宮壁 に着床せず、輸卵管の中で一定期間浮遊する「着床遅延」という現象のためである。 上野動物園で経験した3例の出産では、第一子のチュチュの場合、妊娠期間は 110日、第二子トントは121日、第三子ユウユウは100日と、最短と最長で21日の差が みられた。産子数は1頭~2頭で、2頭生まれる方が多い。生まれたばかりの子供は 体重は100gほどで、母親の体重を100kgとすれば、その1000分の1しかない未熟な状 態で生まれる。生まれたての赤ちゃんは全身白色の毛でおおわれ、地肌が透けてピン クがかって見える。生後1ヶ月たつと耳や目のまわりの黒い模様がはっきりしてく る。
2.♀の発情兆候と人工授精の方法 通常は♂と♀ を別々の部屋で飼育しているが、♀が発情すると、肛門腺を壁や突起物にこすりつけ る臭いつけ行動(マーキング)が増加し、続いてプールに入る「体冷やし行動」が増 加する。発情のピークに達するとメーメーと羊の鳴き声に似た「恋い鳴き」と呼ばれ る特有な鳴き声を発するようになる。併せて尾を挙上する。♀がこのような状態にな ると♂と♀を屋外運動場に出して自然交配を試みる。しかし、常に♀が♂の接近をい やがり攻撃をしかけるので、やむなく♂と♀を分離し、麻酔下で人工授精を行なっ た。 上野動物園で実施している人工授精の方法は北京動物園で行なわれている方法 を基本としている。♂♀をパンダ舎から動物病院に運び、まず、♂を麻酔して電気刺 激により精液を採取する。直腸内に挿入する電極棒は、長さ14cm、直径2cmで6個の リング状電極が付いている。電圧1Vから開始し、5秒間通電、5秒間休止を繰り返 し徐々に電圧を上げていった。通常5~7V、30~70mAで射精が発現した。採取され た精液は精子の数、形、活力などを検査した後、直ちに麻酔されている♀に人工授精 をおこなった。今までの経験で注入する精液量が3mlを越えると膣内から精液の逆流 が起きるため、精子濃度の低い精液は遠心分離により濃縮して用いた。
3.精液性状 精液の性状検査や凍結作業は、筒井 敏彦教授をはじめとする日本獣医畜産大学獣医臨床繁殖学教室の皆様の協力を得てい る。人工授精に用いた精液性状は平均2ml、精子数およそ5億5千万ほどである。
4.♀の尿中性ホルモン値の変化 性ホルモンは発 情の程度や妊娠を知るよい指標となる。尿中の総エストロジェンと黄体ホルモンの代 謝産物であるプレグナンディオールを測定して排卵の有無や妊娠の可能性を判断し た。尿や糞といった排泄物は動物にいやな思いをさせず容易に採取できるスめ、野生 動物を扱ううえですぐれた検査材料となる。 尿を採取するためパンダ舎の寝室の床 は一部がほかの部分より低くなっている。そこに底面が20cm四方、深さ10cmの尿を貯 める箱が設置されている。箱の上面にフィルターとして細かいメッシュが置かれ、残 餌や糞が混じらないように工夫されている。尿検査は通常5日おき、発情期は毎日行 なった。 トントンに最初の発情が訪れたのは1991年9月で、5歳3ヶ月の時であ る。この時の総エストロジェンのピーク値は13.8ng/mlであった。その4ヶ月後の 1992年1月に再び発情兆候が現れた。通常1年1回発情するので、短期間で発情を繰 り返したことに驚いたが、その後は10~13ヶ月の間隔で、1月~6月に発情がみられ るようになった。この間の総エストロジェン・ピーク値は年により異なるが、 28.3ng/ml (1992)~85.6ng/ml (1999) の範囲にあった。
5.偽妊娠について パンダの繁殖を検討する場 合、偽妊娠という現象も興味深い。妊娠していないのにまるで妊娠したかのように行 動は緩慢となり、食欲減退、乳頭の腫脹、巣作り行動の発現など妊娠特有な状況がみ られる。妊娠したのではないかと期待をもたせる行動であるが、出産してよい時期を 過ぎても出産せず、食欲が回復して発情期前の状態に戻り、妊娠しなかったことが判 明する。排卵後、黄体が発達し、妊娠していないにもかかわらず黄体機能が長時間持 続するために発現する現象と考えられる。 1994年から1999年の6年間、トントンに 人工授精を実施したが、すべて偽妊娠に終わった。総エストロジェン値がピークを迎 えた後、一過性にプレグナンディオール値が上昇し、排卵したものと推測された。総 エストロジェン・ピークから3~11週後になるとプレグナンディオールが上昇しはじ め、78~111日後(平均92.6日)にピークに達した。ピーク値は0.72~1.79mcg/mlであ った。プレグナンディオール値が高値を示している時、前述のような妊娠を思わせる 行動がみられた。
●ジャイアントパンダの保護と繁殖作戦●
1.中国で行なわれていること
中国でのパンダ飼育繁殖は1955年、北京動物園で 始められ、8年後の1963年9月9日、最初のパンダ、ミンミン♂が生まれた。その 後、人工授精技術が開発され、個体数増加に寄与している。新聞報道によるとクロー ン・パンダの研究にも着手しているようである。現在、中国政府はWWFと協力してパ ンダの保護策を実施している。パンダ保護の必要性を人々に訴える教育活動、生息地 の分断に対しては、分断された生息地をつなぐ緑の回廊作り、繁殖研究施設における パンダの繁殖行動や繁殖生理の研究推進などがそのプログラムである。 世界の動物 園もパンダの飼育繁殖に協力し、国際血統登録書の作成による個体の血統管理や国際 的な共同繁殖事業を行なってきた。
2.上野動物園のジャイアントパンダ繁殖計画
ジャイアントパンダは東京都が進める希少動物の 飼育繁殖計画(ズーストック計画)で重点的に繁殖させる種として位置づけられてい る。しかし、昨年、トントンが亡くなり、上野動物園単独で繁殖計画を進めることが 不可能になった。 一方、メキシコ市のチャプルテペク動物園にはシーホア(1985年 生)、シュアンシュアン(1987年生)、シンシン(1990年生)の♀3頭が飼育されて いる。♂がいないためサンディエゴ動物園(正式にはサンディエゴ動物学協会)の協 力により保存してある凍結精液を用いて人工授精が行なわれていた。上野動物園にも 凍結精液提供してほしいとの申し入れがあり、2000年はじめにリンリンの精液を送付 した。 このように、上野もチャプルテペクも単独ではパンダの繁殖に取り組むこと ができない状況にあることから、共同して繁殖に取り組む話し合いがもたれた。数回 のやりとりを通して2000年12月に2001年から2005年の5年間、協力して繁殖に取り組 むことで同意がなされた。チャプルテペクと縁の深いサンディエゴ動物学協会も技術 的・財政的サポートを提供することでこの共同繁殖計画の仲間に加わった。 この契 約に基づいて、今年1月29日、リンリンはメキシコに旅立った。その結果、リンリン の精液を用いて3月9日と10日にシュアンシュアンとシンシン、15日と16日にシーホ アに人工授精が行われた。人工授精後、シュアンシュアンとシンシンは妊娠したよう な行動をみせたが、7月末までに通常の行動に戻り、今年の繁殖作戦は出産に結びつ かなかったと結論された。 今年、我々が繁殖のためにとった努力は残念ながら実を 結ばなかったが、メキシコとアメリカの動物園人との間で培われた相互信頼という得 難い財産を手に入れることができた。希少動物を飼育繁殖させて野生動物の保全に寄 与するニいう共通目的のため、現在、今年の共同作業を総括し、来年の繁殖計画をど う進めるか検討しているところである。
参考文献
東京都恩賜上野動物園編(1995):ジャイアントパ ンダの飼育上野動物園における20年の記録 245pp/東京動物園協会
小宮輝之・ 成島悦雄・佐川義明(2001):ジャイア ントパンダの国際繁殖作戦──上野のリンリン、メキシコに行くどうぶつと動物園 53(7):4-9./東京動物園協会
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