生い立ち [編集]
実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、
ピアノや
バイオリンを習っていたことから、決して貧しいものではなかった
[3]。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。
その後ニクソンは地元のウィッティア
高校を卒業し、
奨学金を受けて
ハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元の
ウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、
1934年に二番目の成績で卒業し、奨学金を受け
デューク大学法学大学院で法律を学んだ。
弁護士 [編集]
デューク大学法学大学院を三番目の成績で
1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。
ニューヨーク州の大手
弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。
1939年には自らの弁護士事務所を開業した
[4]。
海軍時代 [編集]
海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。 1944年7月には
ブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後
1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に
国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。
下院議員・上院議員 [編集]
1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後に
ペプシコ社の
弁護士になり、
ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板は
ヨーロッパや
日本で人脈を築くのにも役立ったが、
この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人の
バンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、
1946年に地元のカリフォルニア州の第12
下院選挙区から
共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、
民主党選出で、
労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出された
[5]。
同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなる
マサチューセッツ州の
ジョン・F・ケネディも初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。
1950年には上院への鞍替えを試み、
女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の
油田開発に反対するなどのダグラスの
リベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に
朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。ニクソンは、夫が
左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラス
[6]に対して「
国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自任する
ジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。
副大統領時代 [編集]
「チェッカーズ・スピーチ」 [編集]
副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補の
アドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であった
ニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月に
ニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[7]、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた
[8]。
これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党の
ハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な
毛皮の
コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「
ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。
併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが
犬を飼いたいと言っていることを耳にした
テキサス州の支援者から
コッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた
[9]。
この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから
「愚衆政治的」との批判を受けることとなった
[10]。
副大統領就任 [編集]
この様な逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンと
ジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは
1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。
その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、
キューバや
ベネズエラをはじめとする
南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都の
カラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の
警察でさえコントロールできなくなった
反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。
「キッチン討論」 [編集]
この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「
キッチン討論」として有名になった。
アイゼンハワーとの確執 [編集]
アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、
1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。
しかしながら、
1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、
1956年6月の回腸炎に伴う入院、また
1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。
さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった
[11]。
また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[12]。 1960年の大統領選挙 [編集]
予備選挙 [編集]
1951年の
アメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。
1952年と
1956年の2度選出されていた。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、健康問題とそれの影響を受けた引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。この様な状況を受けて副大統領であったニクソンは共和党予備選挙に出馬することとなった。
1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、
ニューヨーク州知事で大富豪の
ネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。
シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員の
バリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。
本選 [編集]
テレビ討論 [編集]
大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙不正が行われた事が明らかになっているにもかかわらず、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初の
テレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、
外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。
しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。
討論を
ラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、選挙不正もあり最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。
ケネディの選挙不正への対応 [編集]
さらに、
禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係からマフィアと関係の深いジョセフ・ケネディ・シニアも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い
労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている
[14][15]。
これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー元大統領から「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている
[16]。ただし、ニクソンはケネディ陣営がニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠をつかんでいた(現在ではこのような経歴が問題視されることはない)ものの、「切り札」として公開していなかったことをつかんでおり、「やぶへびになることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もあるが、いずれにしてもこの際のニクソンの潔い行動は、ニクソンに批判的な人々からも称賛を受けている。
敗北 [編集]
アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2パーセント(ケネディ49.7パーセント/34,220,984票、ニクソン49.5パーセント/34,108,157票)という、歴史上に残るほどの僅差で敗れた。なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。
大統領選挙落選後 [編集]
大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作とを交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった[17]。 大統領選挙落選の2年後の
1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州
知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。
選挙後に
ビバリーヒルズのビバリー・
ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けた
マスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。
しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で
学者の
エドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた
[18]。
1968年の大統領選挙 [編集]
その後アメリカは、ケネディ政権下で軍事介入が拡大され、その後を継いだ
リンドン・B・ジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が参戦するなど、軍事介入が本格化した
ベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、反戦運動が暴徒化するなど混乱状態に陥った。
ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、親共和党の保守派を含む多くのマスコミから「再起不可能」とまで言われていたものの、そのような状況を打開すべく、再び第一線の政治家への復帰を目指し
1968年の大統領選挙に出馬する。
予備選 [編集]
なお民主党は、1968年
8月26日から29日にかけてシカゴで行われた党大会に、同党選出の
リンドン・B・ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員した
シカゴ市警と衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。最終的に民主党はジョンソン政権の副大統領の
ヒューバート・H・ハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され反感を買うこととなった。
選挙戦 [編集]
選挙戦でニクソンは、
公民権運動やベトナム反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めたベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。
対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前
アラバマ州知事で、
人種隔離政策を支持する綱領を掲げる
ジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは
北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴える
カーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。
ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、一時は支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でのニクソン、ハンフリー両候補者の得票率の差が1.2%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代合衆国大統領に就任する。
第37代合衆国大統領 [編集]
1969年1月20日に大統領に就任した。大統領就任当時は、ケネディ政権によって始ったベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、過激な運動を嫌う保守層がニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、その後のジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得した。
就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける
国務省を遠ざけ、
官僚排除、
現実主義・秘密主義外交を主とする
ホワイトハウス主導の融和
外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官の
ヘンリー・キッシンジャーとともに、
ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「
封じ込め政策」に代えて、融和的な「
デタント政策」を推進する。これらの外交における大きな功績のみならず、下記のような内政における様々な功績も高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。
内政的にも
アメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の
高速道路における最高速度制限の設定、
麻薬取締局(DEA) の設置など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。
内閣 [編集]
大統領任期中の主な施策 [編集]
昭和天皇(左から2人目)、
香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット
最後には辞任という不名誉な形で自ら政権の幕を下ろしたものの、2期に渡り大統領職を務めた中で、デタントの推進やベトナム戦争からのアメリカ軍の撤収、アメリカ環境保護局や麻薬取締局の設置など、その政治力を生かして内外で多くの実績を残したことは高い評価を受けている。
- 1969年には日本の佐藤栄作首相と会談、安保延長・在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意している。
- 1970年のアメリカ環境保護局 (EPA) の設置。
- 繊維業者の多い南部の支持を取り付けるために、繊維製品の輸入制限を公約に掲げていた。1970年から「日米繊維交渉」が取り持たれ、1972年1月に政府間で規制することで交渉妥結した。
- 初の訪米(ヨーロッパ訪問のためにアンカレッジに寄港)を行った昭和天皇と会談した。
- ドルと金との交換停止(ニクソン・ショック)。
- 1972年1月5日に、スペースシャトル計画を命じた。ニクソンの名前は月の表面に置かれた特別の飾り額の上で前国連事務総長、ウ・タントの名前に並んでいる。
- 1972年2月に、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。
- 1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。
- 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。
- 1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。
デタント推進 [編集]
この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するためのソ連を含めた東側諸国の関係改善と、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費を押さえる目的もあったと推測されている。
なお、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の
4月には、
北朝鮮近海で
アメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した。この事件の報復のために、ニクソン政権内では戦術核兵器で北朝鮮の基地を攻撃することも検討されたが、当時デタント推進を最優先していたニクソンは、北東アジアにおける新たな戦争を招くことを避けるために、北朝鮮の
金日成政権に対する報復を行わなかった
[19]。
ベトナム(インドシナ)戦争の終結 [編集]
リンドン・B・ジョンソンと話すニクソン(1968年)
カンボジア戦線の状況について説明を行うニクソン(1970年)
ニクソンは、フランスに代わってアイゼンハワー時代の軍事援助から始まり、ケネディ大統領により本格的に軍事介入が開始され、その後ジョンソン大統領によって拡大・泥沼化され、10年以上続いていたものの国民からの支持、支援も失っていた
ベトナム戦争を終了し「栄誉ある平和」を実現することを約束し、併せて当時アメリカの若者を中心に増加してきた「
ヒッピー」文化の信奉者やベトナム反戦論者、そして保守主義者らなどの強い主張を持つ少数派を嫌っていたアメリカ人の大多数を占める「
サイレント・マジョリティ」に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。
しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、
ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に
北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させた。ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った
1973年1月23日に北ベトナムの
レ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。
そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府
外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年
3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。
中華人民共和国の承認 [編集]
ニクソンと握手をする
エルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)
電撃訪問 [編集]
1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった
中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、
冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていた
ソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける
覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡に
パキスタンの
イスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。
また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。
この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の
周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の
北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。
国交樹立へ [編集]
その後、
1972年2月21日に
エアフォース・ワンで北京を訪問、
毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより長年友好関係にあった中華民国と断交した為、多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。
なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、
ジミー・カーター政権下の
1979年1月になってようやく実現することとなる。
環境対策の推進 [編集]
工場などからの排出物による大気汚染や水質汚染、土壌汚染に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるアメリカ環境保護局 (EPA) を1970年12月2日に設立した。設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景に、持ち前の政治力でこれを推進した。 さらに1974年2月には、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響によるガソリン節約、そして交通事故による死亡者の増加を押しとどめることを目的に、自動車の最高速度を全国で時速55マイルに制限する法案に署名した。その後全国の最高速度規制は州により設定する形に戻ったものの、カリフォルニア州をはじめとする多くの州では時速55マイルの制限は続けられており、自動車による石油消費の削減に貢献していると評価されている。 麻薬取締局の設置 [編集]
ニクソンは、ベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した規制物質法の策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査及び追跡に関する単独責任を有している「麻薬取締局(DEA)」の設置を行った。 大統領選挙の大勝利 [編集]
しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディの遠縁に当たるサージェント・シュライバーが変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶や麻薬合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり劣勢に置かれることとなった。
投票は1972年
11月7日に行われ、ニクソン/アグニュー陣営は一般投票の60%以上を得て、得票率で23.2%という大差を付け、マクガヴァン/シュライバー陣営を破り、かつアメリカ政治史で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうち
マサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れた)。
しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていた
大統領再選委員会のスタッフが(恐らくニクソン本人の指示の元に)、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。
ウォーターゲート事件と辞任 [編集]
外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受け、中間選挙で大勝利し大統領再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任に追い込んだのが、中間選挙の予備選真っ只中の
1972年6月に起きた
民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・
盗聴事件、いわゆる「
ウォーターゲート事件」である。
1972年6月17日に、
ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうちの1人である
ジェームズ・W・マッコード・ジュニアの所持品から、ニクソン大統領再選委員会のスタッフである
エドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかった。このために、ニクソン政権に近いものがこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」との立場を取り続けた。
しかし、事件調査の過程でニクソン本人がこの盗聴に関わっていたことが明らかになったため、ニクソンは
1974年8月8日夜に行われたテレビ演説で辞意を表明し、事件の責任をとる形で
8月9日に正式に辞任した。なお、任期中の大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も任期中に辞任した大統領は現れていない。
後任の
ジェラルド・R・フォード大統領はウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年
9月8日にニクソンに対する特別
恩赦を行った。ニクソンが何のために不法侵入と盗聴を指示したかは未だに定かではないが、結局、自ら辞職したことでニクソンは現実に
弾劾されなかったし有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。
なお事件後に、ニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。資料は
ワシントンD.C.地域外への持ち出しが禁止されたので、
カリフォルニア州ヨーバリンダの「ニクソン生誕地図書館」ではなく
アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた。なお、ニクソンの死後から10年以上が経過した
2005年3月に、合衆国
アーキビスト (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、
2007年7月11日にこれまでは私営として運営されてきた「ニクソン生誕地図書館」は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の
大統領図書館に変わった
[21]。
支持基盤 [編集]
「
サイレント・マジョリティ」に代表されるような、幅広い中道保守派層が支持者の多くを占めていた。また、ベトナム戦争の終結を公約に当選したことや、デタントを進めたことから、共和党選出であったもののリベラル層にもその支持層を広げていた。
なお、前任者のジョンソンやケネディ、さらにアイゼンハワーなどの冷戦期の大統領と同様、ニクソンの支援基盤の1つが
軍産複合体であり、特に地元の南カリフォルニアに工場を所有していた
ヒューズ・エアクラフトや
マクドネル・ダグラス、
ロッキードなどと関係が深かったといわれているが、ジョンソンやケネディ、アイゼンハワーなど、軍産複合体の利益になるような政策を進めた前任者らとは異なり、ベトナムからの全面撤退という、軍産複合体の利益にそぐわない政策も果敢に遂行した。
また経済界では、自らが顧問弁護士を務めていた
ペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣の
アナハイムで大規模遊園地の「
ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家の
ウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。
大統領辞任後 [編集]
ウォーターゲート事件の後遺症 [編集]
ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であった
ジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、
1976年から
1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の
2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。
イメージの修復 [編集]
しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「
外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、
1980年に大統領に就任した
ロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。
これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からの高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。
死去 [編集]
ニクソンは、1993年に死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。 評価 [編集]
ウォーターゲート事件の後遺症や、一部の反共和党のマスコミからの執拗な攻撃もあり完全な名誉回復はついになされなかったこともあり、アメリカの一般大衆からの人気は現在も決して高いとはいえないものの、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたのみならず、内政面においても様々な環境保護政策を実現させたことなどで、アメリカの有識者の間では「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価を受けている。
プライベート [編集]
弁護士時代の1940年6月に、ネバダ州出身の高等学校教師であるセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。なお、娘のジュリーは、ニクソンが大統領に就任した1968年にアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚した。
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