6月2日 4時40分 「舞踏」と呼ばれる現代舞踊の第一人者の大野一雄さんが1日午後、横浜市内の病院で呼吸不全のため亡くなりました。103歳でした。 大野さんは明治39年に北海道函館市に生まれ、今の日本体育大学在学中、スペインの舞踊に影響を受けて現代舞踊を学び始めました。昭和24年、43歳のときにデビューし、その後、現代舞踊の土方巽さんとともに心の動きに合わせて即興的に踊る「舞踏」というスタイルを確立しました。昭和52年に初めて上演された「ラ・アルヘンチーナ頌」は、土方さんの演出で大野さんがソロで踊り、代表作となりました。また、昭和55年にはフランスで初めての海外公演を行い、独創的な表現方法が海外にも大きな影響を与えました。大野さんは平成12年に腰を打ち、一時は歩くことができなくなりましたが、翌年車いすに乗って復帰し、現役として活動していました。 |
暗黒舞踏の土方を探していると、三島が出てきた・・・
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- 1928年 秋田県に生まれる
- 1946年 秋田市内で増村克子(江口隆哉門下)に師事しノイエタンツを学ぶ
- 1947年 19歳で初めて上京する
- 1949年 「第1回大野一雄舞踊公演」(神田共立講堂)を見る
- 1952年 25歳で安藤三子舞踊研究所に入所
- 1957年 土方ジュネを名乗る
- 1958年 この年より土方巽を名乗る
- 1959年 「禁色」を発表
- 1961年 「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」(第一生命ホール)。初めて「暗黒舞踏派」を名乗る
- 1968年 元藤燁子と結婚し、元藤姓になる
- 1973年 「陽物神譚」に賛助出演したのを最後に、振り付けと演出に専念。以後、ステージに立つことはなかった
- 1974年 目黒の自宅に「シアター・アスベスト館」を開設し、稽古場兼劇場とした(稽古場としては以前から使用)
- 1977年 大野一雄舞踏公演「ラ・アルヘンチーナ頌」を演出
- 1986年 東京女子医科大学病院にて肝臓ガンにより死去。享年57
- 1998年 慶應義塾大学アート・センターが「土方巽アーカイヴ」を設立
主な上演作品 [編集]
- 「禁色」(1959)
- 「土方巽と日本人—肉体の叛乱」(1968)
- 「四季のための二十七晩」(1972)
- 「静かな家」(1972)
- 「ひとがた」(1976)
- 「東北歌舞伎計画一〜四」(1985)
著書 [編集]
- 「犬の静脈に嫉妬することから」1976年
- 「病める舞姫」1983年、白水社(新版 白水Uブックス 1992年, ISBN 4560073171)
- 「美貌の青空」1987年、筑摩書房 ISBN 4480871004
- 「土方巽全集」1998年、普及版2005年、河出書房新社 ISBN 4-309-26333-X, ISBN 4-309-26844-7,ISBN 4-309-26845-5
映画出演 [編集]
- 紅閨夢(1964) 監督:武智鉄二
- 日本暗殺秘録(1969) 監督:中島貞夫
- 残酷・異常・虐待物語 元禄女系図(1969) 監督:石井輝男
- 臍閣下(1969) 監督尾:西江孝之
- 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間(1969) 監督:石井輝男
- 明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史(1969) 監督:石井輝男
- 怪談昇り竜(1970) 監督:石井輝男
- 温泉こんにゃく芸者(1970) 監督:中島貞夫
- 日本の悪霊(1970) 監督:黒木和雄
- 卑弥呼(1974) 監督:篠田正浩
- 陽物神譚(1975) 監督:鈴村靖爾
- 風の景色(1976) 監督:大内田圭弥
- 1000年刻みの日時計 牧野村物語(1987) 監督:小川紳介
- ちんなねえ(1997) 監督:林海象
- 土方巽 夏の嵐(2003) 監督:荒井美三雄
主要な弟子 [編集]
関連項目 [編集]
11/25/2009
驚いた・・・
変人だ・・・
体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。
父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ団藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、後にこの修得した論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる大蔵大臣のあいさつ原稿を書き、没にされたことがある(当時の大蔵大臣は北村徳太郎)。
三島が自衛隊に望んでいたことは、
自衛隊の名誉回復
日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。
天皇論
一方、三島の天皇への態度は複雑である。
三島は、最期の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[15]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
作風
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[44])。 傾向としてはロマン主義、耽美主義に分類されることもある。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。
三島は劇作家としても知られる(唯一翻訳出版したのも戯曲)が、実際に2つのものの対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海・暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[45]。 これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。
OLの日(日本)
1963年、初めて「OL」(Office Lady) という言葉が女性週刊誌「女性自身」11月25日号に載ったことに由来。
「OL」は、それまで用いられていた「BG」(Business Girl) に代わる言葉として「女性自身」が読者アンケートを行った結果1位となったもので、これをきっかけにOLという言葉が広く使われるようになった。
働く女性の異業種間交流サークル「OLネットワークシステム」が1994年に制定。
ハイビジョンの日(日本)
ハイビジョンの走査線の数が1125本であることにちなみ、1987年に郵政省(現総務省)とNHKが制定。
この日とは別に、9月16日が通商産業省(現経済産業省)の制定した「ハイビジョンの日」となっている。
憂国忌
三島由紀夫の忌日。監督・主演した映画「憂国」にちなむ。
こいつ、45歳没。僕は45歳の11月21日付で、会社を辞めました。
同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。
誕生 平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925年1月14日
日本・東京府東京市
死没 1970年11月25日(満45歳没)
日本・東京都新宿区
職業 作家
国籍 日本
活動期間 1938年 - 1970年
ジャンル 小説、戯曲
代表作 『仮面の告白』(1949年)
『禁色』(1951年)
『潮騒』(1953年)
『金閣寺』(1956年)
『鏡子の家』(1959年)
『近代能楽集』(1956年)
『豊饒の海』(1965年)
『サド侯爵夫人』(1965年)
『わが友ヒットラー』(1968年)
主な受賞歴 新潮社文学賞(1954年)
読売文学賞小説部門(1957年)
週刊読売新劇賞(1958年)
読売文学賞戯曲部門(1961年)
フォルメントール国際文学賞第2位(1963年)
毎日芸術賞文学部門(1964年)
文部省芸術祭賞演劇部門(1965年)
処女作 短編小説:『酸模』、『座禅物語』(1938年)
長編小説:『花ざかりの森』(1941年)
配偶者 平岡瑤子
親族 松平乗尹(五世祖父)
永井尚志(高祖父)
平岡定太郎(祖父)
平岡萬次郎(大伯父)
平岡梓(父)
平岡萬寿彦(父の従兄)
平岡千之(弟)
---Wiki
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風が特徴。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた(三島事件)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。[1]
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。
生涯
出自
家族 親族も参照のこと。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。[2]。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業。卒業後の明治26年(1893年)、武家の娘である永井なつと結婚[3]。内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼徳が側室との間にもうけた娘)の間に生まれた長女で、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
作家永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。つまり、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[4]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。
6/01/2010
憂国ではありません
人が死んで、国も死んだ・・・
国はバーチャルです、人はリアルです・・・
人が国を作っている・・・
急速なグローバリズムに伴い、
結果として、巨額の財政赤字を計上している・・・
そして、国の構造や制度、つまり、国体が破壊されている、
違憲状態を放置し続けた結果です・・・
国の根幹は日本国憲法です・・・
上層部が、日本国憲法を公正に運用できない・・・
その象徴こそ、靖国裁判です・・・
これを法治システムとは言わない、混乱を放置しているだけ・・・
国の根幹が腐っている、
当然です、根幹が死んだら、葉っぱも死ぬ・・・
葉っぱが光合成するのです・・・
根や幹はインフラ、水分や栄養分を葉に供給する・・・
つまり、貧血状態は、金欠状態・・・ そして、葉が死んで、木も死ぬ・・・
先進国はリーダーです、光合成を行える頭脳が必要です、
今の日本国の様相は?
根が腐って、幹が枯れて、大枝も枯れた・・・
そして、葉っぱである人も死んだ、
人はどうなったか?
この枯れ木の根元に溜まった・・・ 根元の土になった・・・
だが、その土も、腐葉土ではなくなった・・・ だだのがれきの山です・・・
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